『方丈記』漱石訳とキーン訳の比較 Part Ⅱ
【第6~16段】

 

第6段

 

【原文】
ここに、六十の露消えがたに及びて、さらに、末葉の宿りを結べる事あり。

【漱石訳】
Now when the dew of sixty years was on the point of vanishing, once again did it condense upon a tiny leaf.

【キーン訳】
Now that I have reached the age of sixty, and my life seems about to evaporate like the dew, I have fashioned a lodging for the last leaves of my years.

GSQ
「末葉の宿りを結べる事あり」を両者ともに苦労しているように感じますが、ともにうまいな、と感じます。どうでしょうか。

SUA
キーン氏のfor the last leaves of my yearsのleaveはページとの意味がありますから、欧米人が読めば、「末葉」とは連想しないでしょう。文字通り、「人生最後のページ」で、これはこれで工夫ですが、 it condense upon a tiny leafとして、文字通り凝縮した漱石がいいですな。

 

【原文】
所を思ひ定めざるがゆゑに、地を占めて、造らず。

【漱石訳】
It occupied no permanent site, because I had no mind to settle in a definite place.

【キーン訳】
I did not choose this particular spot rather than another, and I built my house without consulting any diviners.

GSQ
漱石訳は納得できますが、キーン訳の「without consulting any diviners.」はよくわかりません。Anthologyにはこれに註がついています。「Normally the site of a house was selected after consulting yui-yang diviners, but for a Buddhist priest one place was as good as another」という考証です。原文の訳からはみ出しているように感じますが。

SUA
キーン氏は、「地を占めて」を「地を占う」の意もあると解釈しているのでは。つまり、ダブルミーニング。これは解釈の一つとして良いのでは。

GSQ
「字統」で「占」を調べてみました。確かにこの字義自体に、二重の意味があるようですね。divinerが神主とすると、現代でも地鎮祭などにこの伝統が残っているのでしょうね。キーン訳の方がいいように思えてきました。それにしてもキーンさんも良く調べているのですね。

SUA
当時は、というより、ついこの前までは「占う」ことが日常的だったはずですが、忘れているのですよ。漱石だって思い至ってないわけですから。

 

【原文】
その、改め造る事、いくばくの煩ひかある。積むところ、わづかに二輌、車の力を報ふ他には、さらに、他の用途いらず。

【漱石訳】
What expense was I liable to in changing my home?  Two carts were enough to carry the house itself. Only the little hire for them, nothing more.

【キーン訳】
What difficulty would there be in changing my dwelling? A bare two carts would suffice to carry off the whole house, and except for the carter’s fee there would be no expenses at all.

GSQ
漱石訳は最初から最後まで金、費用として訳していますが、キーンさんは最初の「煩い」を漱石より広く困難、difficluty、後ろを金の問題として訳しています。私はキーンさんの解釈が正しいように思いますが。

SUA
まあ、煩いはdifficultyで適切でしょう。道のところでも、漱石は「悪路」と解釈していましたが、漱石が限定的すぎるかな。

 

第7段

 

【原文】
そばに普賢をかけ、

【漱石訳】
On each of the door leaves, I have hung a picture of Hugen and Hudo.

【キーン訳】
On the doors of the reliquary I have hung pictures of Fugen and Fudo.

GSQ
漱石とキーンさんが使った原本にはおそらく「普賢と不動をかけ」とあったのでしょうね。漱石訳は普賢も不動も同じ1枚の絵、キーン訳では両者は別の軸の絵です。普賢と不動は仏教においては別領域のもの、普通は両者を同じ1枚の絵としては描かないように思いますが。その一方、阿弥陀仏の両脇に普賢像と不動象をかけたのか、とも思います。

SUA
日本語はこの点曖昧ですが、英語はそういうわけにはいかない。1枚なのか2枚なのかはっきり決着をつける必要がありますが、解釈としては、普賢と不動は別々と考えてよいのでしょう。

 

第8段

 

【原文】
林、軒近かれば、爪木を拾ふに乏しからず。名を外山といふ。まさきのかづら、跡を埋めり。

【漱石訳】
Woods being near in the vine-clad Toyama, there is plenty of fruit and of logs.

【キーン訳】
The woods come close to my house, and it is thus a simple matter for me to gather brush-wood. The mountain is named Toyama. Creeping vines block the trails.

GSQ
漱石の訳は工夫されているように感じます。

SUA
いやあ、これは省略しすぎでしょう。まあ、どうでもいい箇所だと判断したのかもしれない。

GSQ
些細なことですが、漱石はどこからfruitsを持ってきたのでしょうね。キーンさんと同じ原文を使っていると思うのですが。

SUA
爪木の「爪」を「瓜」と誤読した可能性があるのでは
 

GSQ
きっとそうですね。

 

第8段

【原文】
夏は、郭公を聞く。語らふごとに、死出の山路を契る。

【漱石訳】
In summer, the cuckoo with its doleful note puts me in mind of 'the mountain path of Death'.

【キーン訳】
In the summer I hear the cuckoo call, promising to guide me on the road of death.

GSQ
「語らふ」というニュアンスが漱石訳にはありますが、キーン訳にはないのではないでしょうか。

SUA
promisingで郭公が詩での山路を案内することを約したわけで、コミュニケーションは成立していますよ。むしろ、郭公が約束したわけですから、漱石訳よりも郭公先生は積極的です。

 

【原文】
もし、念仏ものうく、読経まめならぬ時は、みづから休み、みずから怠る。さまたぐる人もなく、また、恥づべき人もなし。

【漱石訳】
If indisposed, I freely neglect to say prayers or to read sacred books (Kyo), without being admonished by any one for the omission. Nor have I any friend before whom I might feel ashamed for this negligence of duty.

【キーン訳】
When I do not feel like reciting the nembutsu and cannot put my heart into reading the Sutras, no one will keep me from reciting or being lazy, and there is no friend who will feel ashamed of me.

GSQ
「恥づべき人」の解釈が両者で異なっています。漱石訳では恥じるのは自分が人に対してですが、キーンさんの訳では友人が自分のことを恥ずかしく思うという意味になるかと思いますが。

SUA
これは「恥ずかしいと思う相手がいない」との解釈でしょう。もちろん、漱石の解釈です。

 

第9段

 

【原文】
かしこに、小童あり。時時来りて、あひ訪ふ。もし、つれづれなる時は、これを友として、遊行す。

【漱石訳】
His boy visits me now and then and is my companion in leisurely strolls.

【キーン訳】
He has a son who sometimes comes to visit me. When I am bored with whatever I am doing, I often go for a walk with him as my companion.

GSQ
漱石訳は随分簡略ですが、不足はないように思います。キーンさんの訳とくらべてどうしてここまで違うのでしょうか。こんなところが漱石訳の特徴なのですか。

SUA
漱石は、「つれづれなる時は」と「遊行」を一緒にしているわけですよ。つれづれなる時だから遊行できるわけで、くどくど訳す必要がないと思ったのでしょう。こういう部分はいくつもありますね。これが逐語訳を心がけるキーンとの違いでしょう。

 

【原文】
勝地は主なければ、心を慰むるに障りなし。

【漱石訳】
and enjoy the surrounding scenery to my heart's content. I can do that, because nature is not the private property of particular individuals.

【キーン訳】
The view has no owner and nothing can interfere with my enjoyment.

GSQ
ここは逆にキーンさんの訳が簡明ですね。

SUA
その通りですね。漱石の訳はわかりにくいというより、I can do thatが余計で、くどくどしく、非英語国民が書いたと思わせます。こういうところもあるのですな。

 

第10段

 

【原文】
帰るさきには、をりにつけつつ、桜を狩り、紅葉をもとめ、蕨を折り、木の実を拾いて、かつは仏に奉り、かつは家土産とす。

【漱石訳】
On my way home, I am often rewarded for my walk with a bough of cherry, a branch of maple, a bunch of ferns or a basket of fruit, which I offer to Buddha or keep for my own use.

【キーン訳】
On the way back, according to the season, I admire the cherry blossoms or the autumn leaves, pick fern-shoots or fruit, both to offer to the Buddha and to use in my house.

GSQ
ここは逆にキーンさんの訳が簡明ですね。

SUA
両方ともfruitですが、ここはnuts and berriesにするとより正確じゃないかと思います。

 

【原文】
もし、夜しづかなれば、窓の月に故人をしのび、猿の声に袖をうるほす。草むらの蛍は、遠く槙の島篝火にまがひ、暁の雨は、おのづから、木の葉吹く嵐に似たり。

【漱石訳】
The bright moon in the calm night recalls to me the men of old; the cries of monkeys moisten my sleeves with tears; fire-flies in the sward gleam as if they were torchlights of Magijima; a morning shower is an exact counterpart of the wind rustling through the leaves;

【キーン訳】
If the evening is still, in the moonlight that fills the window I long for old friends or wet my sleeve with tears at the cries of the monkeys. Fireflies in the grass thickets might be mistaken for fishing-lights off the island of Maki; the dawn rains sound like autumn storm blowing through the leaves.

GSQ
ここでの漱石訳はすばらしいですね。薄井さんの言う原文の漢文調、というより漢詩調を漱石はうまく英語に移しているように思えます。キーン訳はやや説明調ですか。

SUA
The bright moon、the cries of monkey、fire-flies、a morning showerと名詞で始めて、繰り返し、調子を整えています。キーン訳も工夫していますが、漱石の詩には及びません。

 

【原文】
山鳥のほろほろと鳴くを聞きても、父か母かと疑ひ、峰の鹿〔かせぎ〕の近く馴れたるにつけても、世に遠ざかるほどを知る。

【漱石訳】
the notes of a wild bird make me curious to know whether it is male or female; the bold appearance of a hart reminds me of the wide gap existing between the world and me;

【キーン訳】
And when I hear the pheasant’s cries, I wonder if they call their father or their mother; when the wild deer of the mountain approach me unafraid, I realize how far I am from the world.

GSQ
「父か母か」を漱石は性別に訳していることはすでに触れましたが、キーンさんは、ほろほろ鳥が彼等の父母を呼んでいると解しています。私は今までほろほろ鳥の声を聞いてそれが長明の父か母の化身かと疑っているというふうに理解していました。この理解が一般的なのではないでしょうか。

SUA
これは元々行基の歌ですよね。長明が実際にそう感じたかどうかはわかりませんが。いずれにせよ、メスかオスかと思うことではないでしょう。

              

第11段

 

【原文】
まして、その数ならぬ類、尽くしこれを知るべからず。

【漱石訳】
And I can easily calculate the number of the humble people who have also been similarly overtaken.

【キーン訳】
And how to reckon the numbers of lesser folk?

GSQ
「数ならざる人々の死を」漱石は「多い」という意味で簡単に数えられるとしたのだと思いますが、キーンさんは数えることができようか、という感じで否定的に訳しています。数えることはできないというのが正しいでしょうね。

SUA
これは漱石の読み誤りです。数えられないとするのが正しいでしょう。

 

【原文】
われまた、かくのごとし。事を知り、世を知れゝば、願わず、走らず、ただ、静かなるを望みとし、愁へ無きを楽しみとす。

【漱石訳】
Like them I think of myself alone in this world. I cherish no objects, seek no friendship. Tranquility is my sole desire, to have no trouble is my happiness.

【キーン訳】
I am like them. Knowing myself and the world I have no ambition and do not mix in the world. I seek only tranquility; I rejoice in the absence of grief.

GSQ
キーン訳は正確な逐語訳ですが、漱石のものは原文を正確には反映していないように感じるのですが。特にI cherish no objects, seek no friendship、これで十分ですか?

SUA
漱石の方も具体的ですね。丁寧だとも言えますよ。後半の部分など漱石のほうがいいです。「走らず」とありますが、「わしらず」で、あくせくするの意ですね。この点、漱石もキーン氏も「世の中に交らない」と解釈しているのですが、どうでしょうかね。共通の原本に何か問題があるのかな。

 

【原文】
われ今、身の為に結べり。人の為に造らず。故いかんとなれば、今の世の習ひ、この身の有様、ともなふべき人もなく、頼むべき奴もなし。たとひ、広く造れりとも、誰を宿し、誰をかすゑん。

【漱石訳】
But I have built mine for my own sake, because I have no companion, no friend to live with me.

【キーン訳】
This is because in times like these, being in the position I am, I have no companion and no servant to help me. Supposing that I had built a spacious house, whom should I have lodged? Whom should I have had live there?

GSQ
漱石訳は「故いかんとなれば~誰をかすゑん」を大胆に簡略化しています。意味は十分ですが。

SUA
確かに、くどくど繰り返さなくても、これで分かるではないかと漱石は思ったに違いないが、「今の世の習ひ…頼むべき奴もなし」はやはり訳さないといけません。

 

第12段

 

【原文】
それ、人の友とあるものは、冨める尊み、懇なるを先とす。必ずしも、情あると、すなほなるとをば愛せず。

【漱石訳】
What is friendship but respect for the rich and open-handed and contempt for the just and kind?

【キーン訳】
A man’s friends esteem him for his wealth and show the greatest affection for those who do them favors. They do not necessarily have love for persons who bear them warm friendship or who are of an honest disposition.

GSQ
ここあたりは、サイトの方で非常に詳しく説明してもらっています。追加の質問ですが、漱石訳の「What is friendship but respect for」のところの構文はどうなっているのですか。

SUA
この文は、What is friendship if there is nothing but respect for the rich and open-handed and contempt for the just and kind?とイタリックの部分を補って読むべきだと思います。

 

【原文】
さらに、はぐくみあはれむと、安く静かなるとをば願はず。

【漱石】
We throw away kindness upon them who never require it.

【キーン訳】
But however great the care and affection bestowed on them, they do not care the slightest for their master’s peace and happiness.

GSQ
キーンさんは「安く静かなる」を「their master’s peace and happiness」と主人のものと考えています。どうでしょうか。

SUA
前の文章に「奴」つまり、家長に隷属する者が出てきて、これが主語でしょうから、主人でいいのです。漱石の訳は一般論になっています。

 

【原文】
身、心の苦しみを知れれば、苦しむ時や休めつ、まめなれば、使ふ。

【漱石訳】
The mind which knows how it goes with the body, may use the latter if fresh, allow it to rest if tired.

【キーン訳】
When my mind or body is tired, I know it at once and I rest. I employ my servants when they are strong.

GSQ
これも既に説明してもらっていますが、キーンさんは「心身」と並列で解釈しているようですね。

SUA
キーン氏の「心身が「まめならば」従者を雇う」、はおかしいでしょう。漱石は敢えて心を主語にして、心と身を別物としていますが、これも文脈としては奇妙。長明が心と体を別物としてとらえていたかは分かりませんが、心身と一つのモノとして考えるほうが適切かと。つまり、「心身がきついときは休み、そうでなければ使う」ですね。

GSQ
キーンさんは、『おくのほそ道』については4回ほどその英訳を改訂しています。もう少し時間があれば、関心がもどれば、『方丈記』についても改訂したかも知れませんね。ここあたり、そう感じるところがあります。

SUA
キーン氏に改訳の機会があれば、完全逐語訳ではなく、原文のリズムを意識した、漱石調の訳になっていたかもしれません。

 

第13段

 

【原文】
糧ともしければ、おろそかなる報をあまくす。

【漱石訳】
Meals so scanty have still a relish for me.

【キーン訳】
and the very scantiness of food gives it additional savor, simple though it is.

GSQ
漱石訳は「少ない食いものだが、それだけにご馳走である」だと説明してもらっていますが、キーンさんの訳は、ニュアンスは同じですか。

SUA
漱石は「食いものが少ないが、それでも私には馳走なのだ」と訳しているのです。「食いものがすくないだけに、粗食であっても味わいが増す」とするキーン訳がよろしいようで。

 

第16段

 

【原文】
静かなる暁、このことわりを思ひつづけて、みづから心に問ひて曰く、

【漱石訳】
One still morning after those reflections, I began to ask myself:

【キーン訳】
One calm dawning, as I thought over the reasons for this weakness of mine, I told myself

GSQ
「このことわり」をキーン訳はthe reasons for this weakness of mineとしています。「この」はひとつ前の第15段「そもそも、一期の月影傾きて、余算の山の端に近し。たちまちに三途の闇に向はんとす。何の業をかかこたんとする。仏の教へ給ふおもむきは、事に触れて、執心なかれとなり。今、草庵を愛するも、とがとす。閑寂に着するも、障りなるべし。いかが、要なき楽しみを述べて、あたら時を過ぐさん」の何かでしょうが、何がweakness of mineなんでしょうね。

SUA
これは「何の業をかかこたんとする。…いかが、要なき楽しみを述べて、あたら時を過ぐさん」に集約されているのでは。この期に及んでいろいろと言い募っている私は何であるかと。

GSQ
原文の読みが甘かったですね。漱石はさっさと略してしまっていますが、キーンさんは、この思い続ける行為自体を自分の弱さだと解釈しているわけですね。理解できました。

SUA
もちろん、漱石はこんなことはわかっているのですよ。わざわざ訳さなくても言外を読めということです。

 

【原文】
もしこれ、貧賤の報のみづから悩ますか。はたまた、妄心のいたりて、狂せるか。

【漱石訳】
Is it the effect of poverty or is it the influence of some impure thought?"

【キーン訳】
If your low estate is a retribution for the sins of a previous existence, is it right that you afflict yourself over it? Or should you permit delusion to come and disturb you?”

GSQ
「これ」は前の「周利槃特が行ひにだに及ばざること」ですが、その原因となる「貧賤」を漱石は現世的に、キーンさんは前世からの報いとして解釈しています。どう考えるべきでしょうか。

SUA
「報い」すなわち「前世の善悪の行為の結果が、現世で現れること。因縁によって果報を受けること」ですから、前世に関係しています。報いは前世、妄心が現在の事と考えれば、過去現在にわたっているわけです。キーン氏はこの点苦労して訳していますね。

 

【最後に】

GSQ
漱石訳とキーン訳のそれぞれの特徴や相互の違いを個々に教えてもらいまいしたが、俯瞰的にUS’s blogで書いてもらいたいですね。また、それらを通して「翻訳」ということに関してもいろいろ教えてもらえますか。

SUA
できる範囲でやってみます。

 

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