The Narrow Road to Oku
Translated by Dnald Keene
Part Ⅰ 「白川の関」まで

 

一 百代の過客

 

月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口をとらえて老いをむかふる 物は、日々旅にして、旅を栖とす(英訳 159ページ)

百代の過客
the traveler of eternity

又旅人也 
also voyagers

日々旅にして、旅を栖とす
are forever journeying, and their homes are wherever their travels take them

GS’s Question(以下GSQ)
旅や旅人の訳語が、そのニュアンスによって使い分けられているようですね。「舟の上に」だからvoyageだけど「馬の口とらえ」ての「旅」もvoyage。日々はjourney。全体でいろいろと使い分けられていますが、きっと使い分けた意味が込められているのだと思いますが、どうでしょうか?

SU‘Answer(以下SUA)
Voyagersには探求するという意味を含めているのではないでしょうか。原文はともかくKeeneさんにはその意図があると思います。永遠の旅人は何かを探し求めて旅をする、ということでしょうか。説明的にならなくても英語には同意義語が豊富なので、こうした感じを的確に伝達できるわけです。後半は説明的ですが、Journeyという言葉を使って感じを出そうとしています。彷徨するわけですね。

 

‥‥三里に灸すゆるより……(英訳 159ページ)

三里に灸すゆるより
To strengthen my legs for the journey, I had moxa burned on my shins

GSQ
三里のつぼは単にshinという語では特定できないですが、これは仕方ないでしょうね。またもぐさ(moxa)だけでは
難しいのでしょうね?

SUA
もぐさだけでは何のことかわかりませんが、旅に備えて何々をすると付け加えているので、わかりますね。

 

日々旅にして、旅を栖とす(英訳 159ページ)

                       旅を栖とす
                       their homes are wherever their travels take them

GSQ
原文と英語訳では意味上の主語を変えていますね。「旅が連れていくところが栖だ」という形にして翻訳しています。原文通りTheyを主語とした直訳は英語では難しいのでしょうか。

SUA
旅が人を連れて行くのですよ。旅に自分を任せる、その感じが伝わってきます。

 

片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず(英訳 159ページ)

                       片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず
                       have been stirred by the sight of a solitary cloud drifting with the wind to ceaseless thoughts of roaming.

GSQ
前半は「片雲が風にさそわれるように、私もさそわれて」と「さそわれ」は二重の掛詞の述語になっていますが、キーンさんの訳はそれをほとんど意味を変えずに、非常にうまく英文化しているように思えます。「片雲が風にさそわれている情景に、私の心はやむこことのない漂泊の思いへと動かされてきた」と理解しました。意味はほぼ変わらないと思いますが、どうでしょうか。

SUA
 Stirは結構強い言葉で、さそわれては軽い感じなのに、「掻き立てられる」となっています。強い憧れを感じさせます。漂泊の思ひやまずという後の言葉にそれほど強い情念があるのでしょう。

 

草の戸も住み替わる代ぞひなの家(英訳 159ページ)

住み替はる代ぞひなの家
May change with the dweller
Into a doll’s house

GSQ
「雛人形のある家」に替わるとだけ理解していましたが、訳は「お雛様の家」で、「雛人形がある」と同時に「幼い女の子がいる家」これを「お雛さんがいる」家と二重に見ている感じを受けます。また家自体が主役であることがより明確になり、こちらの方がずっと面白い感じがします。住人とともに草の戸だった自分の芭蕉庵が「お雛様の家」に変わってしまうだろうと読めるのですが、英語を正確に訳すとどうなるのですか?この理解でいいでしょうか?

SUA
A doll’s houseは文字通り「人形の家」ですね。英語だと幼い女の子がいる家とは読めませんな。茅葺のぼろ家も住む人が代わると人形の家になるわけで、その対比が面白いのでしょう。

 

二 旅立ち

 

むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗りて送る。(英訳 158ページ)

舟に乗りて送る
Accompany me on the boat part of the way

GSQ
「見送る」なんて単語には訳さないのですね。途中までのニュアンスですか? 舟で行けるところだけのニュアンスですか? 今の北千十あたりまで見送ったはずですが? 旅の最初の部分ですが、それもpart ofでいいのですか?

SUA
Accompanyで同行するという意で、part of wayは途中まで、途中まで船で見送ったわけです。

 

幻のちまたに離別の泪をそそぐ。(英語訳 157ページ)

幻のちまたに離別の
I stood at the crossway of parting in this dreamlike existence

GSQ
苦労していますが、本当にうまいですね。

SUA
英語ではexistenceという言葉を補わなければならないとこが、面倒なところです。芭蕉は「存在」という言葉を知らないでしょうし。状態ということでしょうね。勿論日本語にするには、existenceを訳してしまうと少し問題です。

 

三 草加

 

只かりそめに思ひたちて、呉天に白髪の恨みを重ぬといへ共(英訳 157156ページ)

呉天に白髪の恨みを重ぬといへ共
It did not matter if I should be unlucky enough to grow gray on my travel….instead

GSQ
軽い感じで訳しているように感じます。

SUA
呉天という言葉を表わすものを無理に探してもあまり意味はなく、芭蕉ももとになった詩句をそのまま使っているので、これは言葉の飾りですね。

GSQ
注釈書では「呉天」は漢詩からの引用、旅の空のもと、程度の意味ですね。当然ながらキーンさんは意味だけで訳しているようです。

 

若し生きて帰らばと、定めなき頼みの末をかけ(英訳 157156ページ)

定めなき頼みの末をかけ
Leaving this uncertainty for the future to decide

GSQ
意味がよくわからないのですが? this uncertaintyってこの先生きて帰れるかどうか、ということで、「未来がそれを確定させる」ということでしょうか? 「頼みの末をかけ」るかどうか、よくわからないのです。Leave 〇〇to decideという構文は正確にはどういう意味なんですか? 頼みの末を「かける」か「かけない」のかよくわかりません。

SUA
意味は比較的はっきりしていますが、はっきりし過ぎているという感じです。どうしようもないので成り行きに任せるしかないという意になります。leaveは、そのままの状態にして去るという意味で、成り行きにお任せしてしまうわけです。頼みの末をかけるわけです。

 

四 室の八島

 

室の八(英訳 156ページ)

室の八島
The Doorless Shrine of the Cauldron

GSQ
前半は「室」の訳でしょうが、Cauldronは何でしょうね。辞書では「大釡」となっていますが。

SUA
その通り大釜ですよ。マクベスで魔女がなんか煮るのに使っていたやつ。しかし、八島は竈を意味するらしく、竈と釜は違いますね。竈なら単純にovenあるいはfurnaceとなるはずなのですが。いずれにせよ、八島には大釜とのアソシエーションはなく、謎です。「かまど」と「かま」のKeene氏の読み違えでしょうか。

 

此の神は木の花さくや姫……火ゝ出見のみこと生まれ給ひしより(英訳 155ページ)

木の花さくや姫
Princess Flowering Blossoms

火々出見のみこと
Prince Fire Bright

GSQ
質問ではありませんが、こんなものを英語にするのも大変ですね。というよりこの位は簡単な方ですね。

 

五 仏五左衛門

 

一夜の草の枕も打ち解けて休み給へ(英訳 155ページ)

一夜の草の枕も
even if you are staying just one night

GSQ
「一夜」の意味をただ「一泊だけ」と理解していました。連泊で金を落とす客でないと、日光に近い街道筋では軽くあしらわれたということなのでしょうね、理解不足でした。英語はそう読んでもかまいませんか? 手元にある何冊かの注釈書ではほとんど、ただの一泊以上の解釈はされていませんでしたが、キーンさんの読みの方がいいようにも感じますが、どうでしょう? 

SUA
一夜のみの客であっても、という意味ですな。

 

剛毅木訥の仁に近きたぐひ(英訳 154ページ)

剛毅朴訥の仁に近きたぐひ
one of those described by Confucius as being “strong, simple, and slow to speak ― such a one is near to Goodness”

GSQ
論語の「剛毅朴訥、仁に近し」の直訳ですね。「仁」も訳は難しいでしょうね。ところで「a one」というのは正しいのですか?

SUA
これは説明的にならざるを得ないでしょう。Such a oneで、「このような人」の意味です。Goodnessは善ですが、大文字なのがポイント。仁は大きな善です。

 

六 日光

 

今此の御光一天にかゝやき(英訳 154ページ)

一天にかゝやき
shines throughout the realm

GSQ
東照宮、すなわち神様になった家康の威光を「大空の光」に例えてレトリカルに言った表現かと思っていましたが、「一天」を広辞苑で調べたら「一天下」と同義もありました。だからthe realmなのですね。

SUA
Realmは元来土地に関わる言葉であり、領土を意味し、定冠詞が付いて天下でしょう。

 

あらたうと青葉若葉の日の光(英訳 154ページ)

あらたうと
How awe-inspiring!

GSQ
尊い思い以上には感じていませんでした。aweは恐れ多い思い、inspiringはそれを吹き込むわけですね。つまり畏敬の念ですね。ここまで言葉が選んであるのはすごいですね。

SUA
とうとしにあらと感嘆詞がついてますから、適訳でしょう。

 

髪を剃りて黒染にさまをかえ、惣五を改めて宗悟とす(英訳 153ページ)

惣五を改めて宗悟とす
He also changed the characters used in writing his name to others with Buddhist overtones

GSQ
髪を剃り服装を黒染めに変えて、名前も仏教者風に、両方ともということ。「宗悟」に気づきませんでした。overtoneは仏教的な響きがあるということでしょうか?

SUA
仏教的ニュアンスのある文字に変えたということですね。Buddhist overtoneを入れないと、こればかりは英語国民には何のことかわかりませんから。

 

七 那須

 

直道をゆかんとす。(英訳 151ページ)

是より野越えにかかりて。直道をゆかんとす
I would take a short cut there through the field from Nikko.

GSQ
「是より」は「日光より」ということですね。「これから」の意で誤解していました。

SUA
From hereで、ここから先はという意味になりますが、曖昧さを嫌う英語としてはNikkoと入れるべきだったのでしょう。

 

野夫といへども、さすがに情しらぬには非ず、「いかにすべきや……」(英訳 151ページ)

いかゞすべきや
Let me see—what would be your best plan?

GSQ
疑問の「や」だけをこんなに長く訳していますが?

SUA
「いかがすべきや」の意を補っているわけで、野夫の自問自答です。確かに、これをlet me seeだけにすると、野夫の親切さが十分伝わりません。

 

八 黒羽

 

  桃翠など云ふが、朝夕勤めとぶらひ、(英訳 150ページ)

朝夕勤めとぶらひ
called on us assiduously at all hours

GSQ
朝と夕ではなく四六時中世話したんですかね? 原文の方もそうなんでしょうかね?

SUA
At all hoursで昼となく夜となくとなりますから、それこそ時間をおかずにassiduouslyせっせとお世話されたわけです。

     

九 雲巌寺

 

竪横の五尺にたらぬ草の庵
むすぶもくやし雨なかりせば
(英訳 148ページ)

草の庵 むすぶもくやし
It was a nuisance
Even to tie together
This little grass hut.

GSQ
「むすぶ」は「庵をむすぶ」の「むすぶ」で、英訳のto tie togetherは実際に何かを「結ぶ」という意味に感じてしまいます。「庵をむすぶ」も語源的には蔦などを「結ぶ」からきているのだろうとは思いますが。また、後に出てくる「小庵岩窟にむすびかけたり」は「庵をむすぶ」の使い方だと思うのですが。

SUA
Tie togetherで、束ねる、結び合わせるですから、草の庵、grass hutを作り上げるにはぴったりの言葉だと思います。もちろん比喩ですが。

 

雲岸寺に杖を曳けば、人々すゝんで共にいざなひ(英訳 148ページ)

人々すゝんで共にいざなひ
Some men offered to show me the way

GSQ
これは案内役を買って出ることですか?

SUA
そうです。宮本常一の紀行文の本に、江戸時代にはこういう奇特な案内者がいたことが書かれています。 

GSQ
原文で感じたのは「行こうよ、行こうよ、一緒に」なんて言って誘い合っているような情景かなと思ったのですが。原文と英訳がちょっとニュアンスが違うように感じるのですが。

SUA
「一緒に行きましょうと誘った」の意だと思いますが、Keene氏は道案内を買って出たと理解したわけです。

 

石上の小庵岩窟にむすびかけたり(英訳 147ページ)

石上の小庵岩窟にむすびかけたり
on top of a rock, a small lean-to built onto a cave

GSQ
小庵、どうなっているのでしょうか?

SUA
岩窟に接した状態で建てられていると読めます。

GSQ
「むすぶ」は冒頭に質問したように「庵をむすぶ」の「むすぶ」ですね。builtだけでその意味ですね。ところで、このa small lean-to built onto a cave、どれが名詞でどういう風な語の関係になっているのですか?

SUA
Lean-toで片流れの屋根の差しかけの小屋を意味します。ですから、岩窟に接した状態で建てられた差し掛け小屋です。

 

とりあへぬ一句を柱に残し侍りし(英訳 147ページ)

とりあへぬ一句
impromptu verse

GSQ
知っている単語が出るとうれしいです。即興曲のimpromptuですね。『奥の細道』の発句は、表向きすべて即興の句だと思いますが、ここだけどうしてわざわざ「とりあえぬ」一句と言っているのでしょうか。

SUA
芭蕉の原意には「即興」と同時に「推敲をしていない」という意味があるのでしょう。そのニュアンス、意味はImpromptuで十分に伝わります。

GSQ
草庵の「柱に残し」てきたのですから推敲はしていない、という含意なんでしょうね。この句がその場で作られたそのままのものかどうか、本当のことはわかりませんが。

 

十 殺生石・遊行柳

 

この口付のおのこ「短冊得させよ」と乞ふ。やさしき事を望み侍ることかな(英訳 147ページ)

やさしき事
elegant thing for him

GSQ
elegantという語を使っているので、この「やさしき」が短冊を求めるような優雅さをも持っているという意味があるのに気づきました。For himで馬子であるにもかかわらず、というニュアンスですかね。

SUA
この場合のforは何々としてはの意ですから for himは馬子にしてはとなりますが、差別ではないが、確かにそういうニュアンスもありますね。

 

殺生石は温泉〔いでゆ〕の出づる山陰にあり。(英訳 146ページ)

山陰
on high ground

GSQ
山陰は山の陰、北側だとばかり思っていましたが、実際の使われ方は、谷に対して高いところを漠然と言っているような気もしますが。

SUA
山陰は「山に包まれた場所」という意もあるようです。

GSQ
つまり、今芭蕉たちのいる場所から見て山に包まれた高いところ、という意味としてキーンさんは訳しているわけですね。

 

清水流るゝの柳は(英訳 146ページ)

清水
crystal stream

GSQ
crystal、いいですね。

SUA
Crystal は清く透明なですから、そのままの訳です。

 

田一枚植ゑて立ち去る柳かな (英訳 146ページ)

植ゑて立ち去る
They sowed……then did I leave        

GSQ
農夫(They)が田植え、芭蕉(I)が立ち去る解釈ですね。

SUA
英語では、SowとReapがよく対で使われます。Reapは小麦、稲などを刈ることで、植えて刈るわけです。LとRの音は日本人が考えるほどの違いはなく、LeaveとReapは音が似ていますね。これはKeeneさんの洒落だと思いますね。PとVも音は似通っていますから。

GSQ
「植ゑて」と「立ち去る」のが誰か、いろいろ説があるようですが、私は能「遊行柳」での柳の精を芭蕉が幻視しているという解釈が面白いと思っています。Keeneさんは付録についている『芭蕉における即興と改作』ではこの解釈について全く無視していますが。

SUA
私は、「西行の柳の下で物思いに耽り」というKeene氏の解釈で良いと思いますがね。柳の精ではなく西行を思う方が自然ですから。

 

十一 白河の関

 

白川の関にかゝりて旅心定まりぬ。(英訳 145ページ)

旅心定まりぬ
I felt myself settling into the spirit of travel

GSQ
I settledなんて訳にはしていません、うまいものですね。それにしても、ここまで歩いてきてやっと旅心が定まるのですね。大昔からそう感じさせるものが白川の関にはあったのでしょうね。

 

中にも此の関は三関の一にして、風騒の人心をとゝむ(英訳 145ページ)

三関の一にして
one of the three famous barriers of the north

GSQ
奥羽の三関なんですね。原文の問題ですが、「一」は普通ひとつの意にとられていますし、キーンさんもそう訳していますが、「中にも……風騒の人心をとゝむ」という続き方を見ると、白川の関が三関の中でも一番のもの、という意味にはとれませんでしょうか。英語の問題ではないですが。

SUA
ここは「ひとつ」と読むべきでしょう。三つの関はそれぞれユニークな魅力があるはずで、勿来の関も歌枕で有名ですし。

 

秋風を耳に残し、紅葉を俤にして、青葉の梢猶あはれ也。(英訳 145ページ)

俤にして青葉の梢猶あはれ也
……mentioned in their poems, and this gave even greater beauty

GSQ
古歌の秋風、紅葉の残像が、初夏のこの青葉をますます心ひかれるものにするということでしょうが、キーンさんの訳は見事にすっきり表現していますね。欲を言えば、うまい訳ではありますが『奥の細道』全体にちりばめられている幻視的なニュアンスがあった方がいいような気がします。

SUA
「あはれ」は他言語にするのはなかなか難しいですよ。古歌に詠われた秋風、紅葉が風情を添える(美しさをさらに引き立てる)ということで、ストレートですが、良いのではないかと思います。

 

ドナルド・キーン訳『おくのほそ道』を読む Part Ⅱ「松島」まで へ

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