翻訳の目的

 A・アインシュタインはその古典的名著『モーツァルト‐その人間と作品』の「まえがき」で、「モーツァルトのピアノ・コンチェルトについての章を書くには、C・M・ガードルストーンの詳細な研究『モーツァルトとそのピアノ・コンチェルト』にはげまされた(浅井真男訳)」と謝辞を述べています。これは一例をあげたに過ぎませんが、ガードルストーンのこの著作は欧米においては尊重され高い評価を受けているにもかかわらず、日本では数回翻訳の試みが行われたものの、完全な形で世に出ることはありませんでした。
 我々訳者は、本書が日本のモーツァルト愛好者たちにとって無くてはならないものと考えています。ピアノ協奏曲はモーツァルトの作曲家としての生涯にわたって書かれており、モーツァルトを知るうえで欠かせないものである上に、日本では多くのモーツァルト愛好者の人気ジャンルになっています。しかしながら、モーツァルト愛好家、特にアマチュアのピアノ協奏曲の理解や鑑賞を深めることに役立つものはほとんどありません。
 本書が今まで日本で日の目を見ることがなかったのには、いくつかの理由があると思います。執筆されたのが1930~40年代であり、その後の音楽学や音楽評論の進展の中で、すでに過去のものと思われた可能性もあります。また、ガードルストーンの英語および文体が翻訳しにくい上に、かなりの速度で書かれた気配があり、最終改訂の英語版でも多くの間違いが残されたままになっていることもその一因だろうと思います。
 しかしながら著者も述べているように、本書はモーツァルトの音楽、ピアノ協奏曲におけるインスピレーションの深化の分析に重きを置いたものであり、多くの新事実が明らかになってきている今日でも、新鮮な感動と驚きをもって読むに足るものです。ブーム的なモーツァルト熱が一段落した今、改めてこの古典を翻訳することの意義は非常に大きいと考えております。
 翻訳作業は、原文とスコアの厳密な照合を行い、原著にある誤りを正し、基本的には逐語訳を行うという方針を取りました。日本語としての読みやすさ等、さらなる工夫が必要な部分も残されているかとは思います。今後さらに改定を進めていきます。

 

    原著について

       著者   CUTHBERT GIRDOLESTONE
   書名   MOZART & HIS PIANO CONCEROS
   発行   フランス語初版 1939年
        著者による改訂英語版 1948年
   使用元本 DOVER版(改訂英語版) 2011年
   著作権について
     ガードルストーンの没年は1975年です。当時の英国著作権法では没後50年保護であり、1925年末まで著作権は保護されます。
     日本では、いわゆるベルヌ条約により、原著出版後10年内に邦訳出版されなかった著作物は、自由に翻訳が可能であるという規約は、
     新著作権法が施行された現在でも有効とされています。ただインターネットでの掲出についてはいろいろな見解があります。禁止され
     ていないこと、掲出の目的が出版と異なるものではないため、掲出が可能であると判断しました。
        参考:いわゆる「翻訳権10年留保」と電子書籍 https://rclip.jp/2019/04/30/201905column/   等

 

    楽譜について

 本書には多くの譜例が掲載されています。あまり厳密に考えず、曲を聴きながら、それが出現する箇所を探すといった楽しみ方で十分だと思います。可能ならば、小型スコアなどで譜面を追いながら聴くことで、モーツァルトを聴く喜びは倍加することでしょう。

 ガードルストーンが使用した楽譜はいわゆる旧全集(ブライトコップ版)ですが、翻訳にあたっては、新全集によるベーレンライター版小型スコア(音楽の友社刊)を使用し、新旧版による違い等については訳注に付記いたしました。現在この小型スコアは品切れが多く、入手しにくいため、

    新モーツァルト全集デジタル版ホームページ

で個人使用に限り、閲覧し、PDFファイルをダウンロードすることができます。
 なおピアノ協奏曲以外の作品については適宜訳者の所有するブライトコップ版、オイレンブルグ版、DOVER発行のもの等のスコアを使用しました。

 

   翻訳にあたって

(1)不適切な表現について
 本書には盲人や足の不自由な人を比喩に使った表現が数か所あります。現代では不適切な表現と言わざるを得ませんが、歴史的な著書であること、削除することが文脈上困難なこともあり、現時点ではそのまま翻訳しております。

(2)曲名の呼称等について
 モーツァルトのピアノ協奏曲は最初の4曲は当時の初作曲家のピアノ曲を協奏曲に編曲したもので、現在はこれらを含めて番号付けがなされており、第1番から第27番の番号が与えられています。ガードルストーンは最初の4曲を除き、現在の第5番を第1番とし、第23番までの番号を付けています。現在の番号付とした方が読者にとっては便利であるとは思われますが、著者の方針を尊重し、その番号で訳をおこなっています。ただし次に述べるように現在の番号がわかるように注を挿入しました。
 ガードルストーンは同じ作品を、例えば「14番の協奏曲」「1984年の変ロ長調の協奏曲」「3番目の変ロ長調」あるいは単に「K.456」といった呼び方を行っていますが、かなり精通した読者以外には混乱以外のなにものでもありません。読者の便宜のため、
       〔No.18 変ロ長調 K.456〕
という注を本文に小文字で挿入しました。煩雑にはなりますが、同一段落での場合を除き、すべての出現箇所にこの注を入れました。なおピアノ協奏曲以外の作品や、他の作曲家の作品についても同様の注を挿入しています。

(3)本文の間違いについて 
 残念ながらガードルトーンの原著には、かなり多くの誤りが残されています。英語版での改訂を自ら行ったことが、校訂の機会を失うことになったものと思われます。この誤りについては、次の方針をとりました。
・譜例番号の間違いなどの、明確に誤りであるとわかるもの、および読者の理解に混乱を起こす可能性のあるものは、本文を訂正して訳し、その旨を訳注に記しました。
・ガードルストーンの理解やスコアの読みに関するもの、手書き自筆譜例の誤りの訂正などは、本来厳密な校訂作業を経た上で行うべきものであるため、本文はそのまま訳し、訳注に訳者の疑問と見解を記しました。なお一部の手書き譜例で楽器表記など明確な間違いであるものは、譜例画像に修正を加え、その旨を訳注に記しました。

(4)譜例・原注・訳注について
・手書き譜例図
 本翻訳には400を超える手書き譜例が掲載されていますが、ガードルストーンの自筆のものではないかと思います。原著よりキャプチャー画像として採録いたしました。原著では5~10譜例ほどを纏めて1ページに掲載されていますが、読者の便のために、本文での指示箇所に個別に配置しました。また、前出や後出の譜例がある場合は、重複を恐れず、その指示箇所にもその譜例を添付いたしました。
 譜例は(譜例367)の形で表示し、それをクリックすれば譜例画像がポップアップされます。
・原注について
 原著には、各ページ脚注の形で原注が掲載されていますが、これも読者の便を考え、各段落末に移し、それぞれ原注1からの番号を付けてあります。
・訳注について
 本翻訳では、ガードルストーンの誤り、疑義を感じるもの、説明不足と思われるところなどに、訳注を付しました。本文の右上付きの小数字をクリックすれば、訳注がポップアップされます。

(5)ガードルストーン独自の用語について  
 本書にはガードルストーン独自の言葉使いも見られます。一般的でないものを含め、翻訳で留意した主要なものは次のようなものです。

 relative major (minor)
 ガードルストーンのこの用語をすべて平行調の意味で使っています。訳は近親長(短)調とし、必要に応じて調名を訳注記しました。
 broken scale, broken arpeggio, broken octave
 単純な音階、アルペジオ、オクターブなどを分散音化したものですが、「分解された音階」等の訳語を宛ててあります。
 virtuosity
 通常「名人芸」と訳されますが、ネガティブな響きが強くなります。ガードルストーンはそれを独奏が総奏に対して埋没しないための「武器」と位置付けてもいます。訳では肯定的なニュアンスで使用されている場合はそのまま「ヴァーチュオーシティ」、否定的なニュアンスでの使用の場合に限って「名人芸的」という訳語を宛てました。
 bravura passage
 日本の音楽用語に適訳がなく、ブラヴューラとそのまま使っている例も散見されますが、本書では「華麗なパッセージ」の訳を宛てましたが、実際には「華麗」ではないパッセージもあり、悩ましいところです。
 working out
 通常は労作あるいは主題労作などと訳される語ですが、ベートーヴェン的な響きが強くなります。本書では一部を除き「主題展開」という訳語を宛てました。

(6)その他
 楽器のピアノは「ピアノ」、強弱のピアノは「ピアノ(p)」としました。