『方丈記』漱石訳とキーン訳の比較 Part Ⅰ
【第1~5段】
第1段
【原文】
ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。
【漱石訳】
Incessant is the change of water where the stream glides on calmly: the spray appears over a cataract, yet vanishes without a moment's delay.
【キーン訳】
The flow of the river is ceaseless and its water is never the same. The bubbles that float in the pools, now vanishing, now foaming, are not of long duration:
GSQ
冒頭ですが、特に不明点などがあるわけではありません。この部分の漱石訳とキーン訳については、すでに「本文訳」で詳しく説明してもらいましたが、漱石訳の漢詩的なところや、日本古文のリズムとの違いについて、もう一度簡単に説明してもらえますか。
SUA
キーン氏のものはまさに逐語訳の典型ですが、散文スタイルで、説明的ですね。漱石は「よどみに浮かぶうたかた」以降大胆に変えてしまっています。漱石の翻訳スタイルがどうであれ、ここは冒頭で、作者の無常観を示す大事な場所ですから、それなりに注意したはずですが、ここは川が流れるイメージを大切にしているのでは。よどみに浮かぶ「うたかた」は前段の文章とうまく繋がらないと思ったのかもしれず、「よどみに浮かぶ」は無視して、cataractすなわち急流あるいは滝にしており、泡でなく飛沫でまったくイメージが違いますが、イメージ喚起力があります。これは詩的です。また、冒頭にincessantを持ってきていますが、この言葉は否定的なニュアンスがあるので、changeが良くない方向に向かっていると感じさせます。Calmlyの後がコロンになっているので、後の部分の方がメインかな。
GSQ
なるほど、incessantが否定的ニュアンスだとは知りませんでした。ただ何事かが引き続くと思っていたのですが、それはあまりよくないことが引き続くのですね。よく理解できました。この語だけで方丈記の内容をシンボリックに示している感じですね。
【原文】
玉敷の都のうちに、棟を並べ、甍を争へる、高き、賤しき、人の住ひは、世々を経て、尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家は稀なり。
【漱石訳】
Walls standing side by side, tilings vying with one another in loftiness, these are from generations past the abodes of high and low in a mighty town. But none of them has resisted the destructive work of time.
【キーン訳】
It might be imagined that the houses, great and small, which vie roof against proud roof in the capital remain unchanged from one generation to the next, but when we examine whether this is true, how few are the houses that were there of old.
GSQ
キーン訳は「なれども」をIt might be imagined thatと類推か婉曲風に訳しています。漱石訳のように、ここはストレートでいいのではないでしょうか。単に逆接ではないだけに感じます。
SUA
キーン訳は散文訳で、漱石はイメージ喚起を重視し、大胆な省略を行いますから、違いが出ます。
GSQ
キーンさんは「なれども」の「なり」は伝聞、それを but「ども」で受けているわけですね。
【原文】
朝に死に、夕に生まるるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける。
【漱石訳】
We see our first light in the morning and return to our long home next evening. Our destiny is like bubbles of water.
【キーン訳】
They die in the morning, they are born in the evening, like foam on the river.
GSQ
「本文訳」の時見落としましたが、漱石訳は「朝に生まれ、夕に死す」になっていますね。これは単にうっかりの間違いでしょうか?
SUA
漱石のものは「朝生暮死」すなわち、「あしたにうまれてくれにしす」を採り、キーン氏は原文に忠実に、ということで、両者の翻訳姿勢の違いが表れています。
【原文】
また、知らず、仮の宿り、誰が為にか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。
【漱石訳】
What ails us, what delights us in this unreal world? It is impossible to say.
【キーン訳】
For whose benefit does he torment in building houses that last but a moment, for what reason is his eye delighted by them? This too we do not know.
GSQ
漱石とキーンさんでは「仮の宿り」の捉え方が違うのではないでしょうか。漱石のthis unreal worldは、「仮の宿り」をこの世、現世と捉えているように思えますが、キーン訳はhouses that last but a momentで、建物としての家です。長明が現実の建物としての家に随分こだわっているので、キーン訳の方が正しいのでしょうが、漱石訳も捨てがたい気がします。
SUA
原文の「仮の宿り」は漱石のthis unreal world(仮の世)とキーンのhouses(現実の建物)のダブルミーニングでしょう。漱石は、エッセンスは「仮の世」にあると判断して、このようにしたのでは。
GSQ
そうですね。原文自体が二重の意味を持っているのですね。長明が財産の家だけにこだわっているという断定も、少々不公平な言い方ですね。
【原文】
その主と栖と、無常を争うさま、いはば朝顔の露に異らず、或は露落ちて、花残れり。
【漱石訳】
A house with its master, which passes away in a state of perpetual change, may well be compared to a morning-glory with a dew drop upon it. Sometimes the dew falls and the flower remains
【キーン訳】
Which will be first to go, the master or his dwelling? One might just as well ask this of the dew on the morning-glory. The dew may fall and the flower remain
GSQ
「主と栖と、無常を争う」の捉え方が両者で異なっているようです。漱石は主も栖もともに無常を争う、となりますが、キーン訳では主と栖が互いに競っていることになります。果たしてどちらがいいでしょうか。私は必ずしも相互に争っているようには感じないのですが。
SUA
漱石は、「栖もその主も共に」としています。まあ、原文からすれば、キーン訳が妥当でしょう。そうでないと、露と花を並べることがあまり意味をなさなくなるので。
第2段
【原文】
予、ものの心を知れりしより、四十あまりの春秋をおくれる間に、世の不思議を見る事、ややたびたびになりぬ。
【漱石訳】
More than forty years of existence have rewarded me with the sight of several wonderful spectacles in this world.
【キーン訳】
In the forty and more years that have passed since first I became aware of the meaning of things, I have witnessed many terrible sights.
GSQ
「世の不思議」を漱石はwonderful spectacles in this worldとしています。たしかにwonderとfulなので、驚くようなことに満ちたという意味になりますが、ここは長明の本書の趣旨にそって、キーンさんのようにterrible sightsと否定的に訳した方がいいのではないでしょうか。
SUA
「不思議」は仏教用語で、「思いはかることもことばで言い表わすこともできないこと。また、そのさま」とありますから、wonderfulが間違っているとは言えませんね。Wonderのコノテーションには怪しいものも含まれます。むしろ、「世の不思議」の訳としては、terrible sightsの方が限定的すぎませんか。
GSQ
確かにそうですね。
第3段
【原文】
辻風はつねに吹くものなれど、かゝる事やある。ただ事にあらず。さるべきもののさとしかなどぞ、疑ひ侍りし。
【漱石訳】
Though a whirlwind usually springs up, such a violent one is indeed an exception. I could not help thinking then that it was meant for a warning from the Unseen.
【キーン訳】
People said in wonder, “We have whirlwinds all the time, but never one like this. It is no common case——it must be a presage of terrible to come.”
GSQ
原文があいまいなところがあるからだと思いますが、漱石訳は地の文、すなわち長明が考えたこととして、一方キーンさんはこの文すべて人々が考えたこととして訳しています。どちらも間違いではないとは思うのですが、どちらがいいと思われますか。
SUA
イメージ喚起力がある漱石の方が印象に残りますが、長明のみならず多くの人々がそう思ったの意でよく、この点、キーン氏訳が適訳ですね。漱石はこの部分を長明自身の考えの表明と捉えたのでしょうかね。
第4段
【原文】
すべて、世の中のありにくく、わが身と栖との、はかなく、あだなるさま、また、かくのごとし。
【漱石訳】
Such are the evils of the world, the instability of life and of human habitations.
【キーン訳】
All is as I described it——the things in the world which make life difficult to endure, our own helplessness and the undependability of our dwellings.
GSQ
問題があるところではないのですが、漱石とキーンさんの翻訳の姿勢が非常にはっきりと見えるところかと思いますが。
SUA
しかし、漱石訳のほうが文意を簡潔にまとめていますね。キーン氏の訳はどうしても少し理屈っぽくなる。
GSQ
逐語訳だから理屈っぽくなるということはないはずなので、キーンさんの場合、その訳に英語圏の読者に対する補足説明を加えているからなのでしょうか。ここは厭世、遁世の思想ですので、ストレートではむりなのですかね。
SUA
漱石のように、Such are the evils of the world,と入ったほうが、「世の中のありにくく」と「かくのごとし」を繋げて簡潔に表現し、また原文の詠嘆調をよく表すということです。
【原文】
もし、貧しくて、冨める家の隣にをるものは、朝夕、すぼき姿を恥じて、へつらひつつ出で入る。
【漱石訳】
Poor folks, on the other hand, are vexed with their wretched condition,
【キーン訳】
The poor man who is the neighbor of a wealthy family is always ashamed of his wretched appearance, and makes his entrances and exits in bursts of flattery.
GSQ
特に質問ではないのですが、漱石は後ろの方をカットして訳してますね。キーンさんは律儀に訳しています。
SUA
これは訳さないといけません。貧者は富者に対して自らを恥じ、そしてへつらう、ここまで訳さないと、作者の思想が伝わらない。
【原文】
もし辺地にあれば、往反わづらひ多く、盗賊の難はなはだし。
【漱石訳】
Let them reside in the country; they are then subject to no small disadvantage of bad roads, not to speak of an occasional attack from burglars.
【キーン訳】
If it stands in a remote situation, he must put up with the nuisance of going back and forth to the city, and there is always a danger of robbers.
GSQ
漱石のdisadvantage of bad roadsは、ぬかるみなどの悪い道という感じにはなりませんか。キーン訳はいろいろな面倒という感じですが。
SUA
今回は漱石の方が限定的すぎで、キーン訳が適切ですね。ただ、キーン訳だと行きつ戻りつが面倒だということになりますが、道中はいろいろとトラブルが多いもので、中でも盗賊が難儀だと訳したほうが良いとは思います。
【原文】
財あれば、おそれ多く、貧しければ、うらみ切なり。人を頼めば、身、他の有なり。人をはぐくめば、心、恩愛につかはる。世にしたがへば、身、くるし。したがはねば、狂せるに似たり。いづれの所を占めて、いかなる業をしてか、しばしもこの身を宿し、たまゆらも心を休むべき。
【漱石訳】
wealth brings with it an equal amount of care; poverty always goes hand in hand with distress; reliance makes one another's slave; charity fetters the mind with affection; to act exactly like others is intolerable; not to act as they do seem to be madness. Wherever one may live, whatever work one may do, is it possible even for a moment to find a haven for the body or peace for the mind?
【キーン訳】
Possession bring many worries; in poverty there is sorrow He who asks another’s help becomes his slave; he who nurtures others is fettered by affection. He who compiles with the ways of the world may be impoverished thereby; he who does not, appears deranged. In what place shall we settle and with what occupation shall we amuse ourselves?
GSQ
本文のこの部分はまさに『草枕』の冒頭部分のリズムですね。漱石はきっとこれから影響を受けたのでしょうね。〈財〉〈人〉〈世〉という3つの困惑は、草枕の〈知〉〈情〉〈意〉に対応するし、最後の〈いずれの~〉は、草枕の〈住みにくさが高じると~〉に対応しています。
SUA
ここは作者の思想の表明ですから、漱石も丁寧に訳しています。この箇所は漱石、キーン共にじっくり訳していて、やはり長明の思想だからでしょう。
GSQ
語調的には漱石訳とキーン訳を比べてどうですか?
SUA
漱石は、wealth、poverty、reliance、charityと名詞で始めていて、リズム感があります。次も、to actをnot to actで受け、その次も、whereverからwhateverと続けています。こうやって、キーン氏もhe who asks に続けてhe who nurturesとするなど工夫していますが、漱石のほうが長明と言うか日本の古語のスタイルを意識したものだと感じます。
第5段
【原文】
その後、縁かけて、身衰へ、しのぶかたがたしげかりしかど、つひに、あととむる事も得ず。三十余りにして、さらに、わが心と、一つの庵を結ぶ。
【漱石訳】
Bereft of my family, however, and having lost vigour through a series of misfortunes, I was at last compelled to forsake the paternal estate, when I was thirty years of age and to inhabit a hut with no other companion than my own mind.
【キーン訳】
Afterward I lost my position and fell on hard times. Many things led me to live in seclusion, and finally, unable longer to remain in my ancestral home, in my thirties I built after my own plan a little cottage.
GSQ
「わが心と」の解釈が両者で異なっています。漱石は「自分の心を友として」としていますが、キーンさんは「自分の心にしたがって」という意味に解しています。原文の解釈の問題にもなりますが、どちらがいいのでしょうね。
SUA
漱石は、「わが心と一つ」と続けて読んだのでしょう。もともと原文に句読点はありませんからね。キーン氏は当然、「一つの庵を結ぶ」と読んだわけで、解釈としては漱石の方に余韻があり、いいですな。そうでしょうね。
【原文】
ただ、屋根ばかりをかまへて、はかばかしく屋を造るに及ばず。
【漱石訳】
A room there was indeed, but a house it was not in the proper sense of term.
【キーン訳】
and being intended just as a place where I might stay it had no pretension about it.
GSQ
漱石もキーンさんも、随分苦心しているように感じますが、原文はそんなに難しいことを言っているようには思えませんが。何を苦労しているのでしょうか?
SUA
原文は形だけで家としての実体はないと言っているので、漱石の方がストレートに表現していると思います。キーン訳ははっきり言ってよろしくない。
GSQ
キーン訳がよく理解できなかったのですが、どう解釈から「よろしくない」訳になったのでしょうね。
SUA
キーン訳は曖昧さがあります。it had no pretension about it は、特に際立つものはない、あるいは仰々しいものはない、の意で、漱石のようにとても家と言えるしろものではないとはっきり言った方が良いと思うわけです。
【原文】
所、河原近ければ、水の難も深く、白波のおそれもさわがし。
【漱石訳】
Moreover, being situated near the river bank, a flood could easily wash it away.
【キーン訳】
and since the house was near the Kamo River, there was considerable danger of flooding as well as the threat of bandits.
GSQ
漱石は家が流されるだけのこととして「さわがし」のニュアンスが訳せていないように感じます。それに対し、キーンさんの「there was considerable danger of flooding」は心理的なものをうまく訳しているように思いますが。
SUA
「白波」とは、「後漢書」霊帝紀から。黄巾の乱の残党で、略奪をはたらいた白波賊 (はくはぞく) を訓読みしたもの 盗賊。どろぼう」のことなんですな。白波五人男です。漱石は、ニュアンスどころかこの部分を完全にオミットしています。河原と盗賊の関係がよくわからなかったのかも。しかし、漢籍に詳しい漱石がわからなかったとは思えません。水の難と盗賊は並置で、互いに関係がないのかもしれない。キーン氏の訳は文字通りです。
【原文】
その間、をりをりのたがひめに、おのづから、短き運をさとりぬ。
【漱石訳】
In the meantime, however, changes in physical surroundings and the vicissitudes of fortunes, reminded me of the ephemeral character of human destiny.
【キーン訳】
During this time each stroke of misfortune had naturally made me realize the fragility of my life.
GSQ
「をりをりのたがひめ」の訳ですが、漱石の「changes in physical surroundings and the vicissitudes of fortunes」は説明過剰ではないですか。キーンさんのようにすっきりしていませんが。
SUA
キーン氏の訳が簡潔でよろしいようですが、漱石の訳は説明過剰と言うより、丁寧で、煩わしくはない。
【原文】
もとより妻子なければ、捨てがたきよすがもなし
【漱石訳】
Bound by no family ties, I left no yearning toward what I had left;
【キーン訳】
Not having any family, I had no ties that would make abandoning the world difficult.
GSQ
「捨てがたきよすがもなし」の漱石訳は随分な意訳ですが、うまいようにも、まずいようにも感じます。どうですか?
SUA
ここは、bound by no family tiesの漱石の方が簡潔で原文の意を的確に表現していると思いますね。