The Narrow Road to Oku
Translated by Dnald Keene
Part Ⅲ 「象潟」まで

 

二八 立石寺

 

殊に清閑の地也。(英訳 121ページ)

 殊に清閑の地也
a place noted for its tranquility

GSQ
原文の方ですが、「殊に清閑」ってどういうことでしょうね。清閑さに程度の差があるわけないです。英訳はnoted forに変えてありますが。この清閑さは、デシベルで測れる物理的な静かさとは違って全感覚で感じ取るものですかね。そうでなければ、日本中人気のないところほど清閑になりますから。

SUA
立石寺は行けばわかりますが、結構山の上にあり、上るのが一苦労です。街中の寺ではありません。つまり物理的に静かなのです。まあ、これほど静かだからあの有名な句が生まれたのでしょう。

 

日いまだ暮れず(英訳 121ページ)

日いまだ暮れず
It was still daylight

GSQ
daylightってこういう使い方あるのですか。daytimeだったらありそうな感じですが。lightを強調したかったのですかね。

SUA
時間的な意味だけではなく、陽がまだ残っている、明るいということを強調したかったのでしょう。

 

麓の坊に宿かり置きて、山上の堂にのぼる。(英訳 121ページ)

山上の堂にのぼる
we climbed to the temple itself

GSQ
itselfは何ですか。必要ですか

SUA
堂にものぼった、つまり、お堂にも行ったのだという強調です。

GSQ
なるほど、本当にてっぺんまで行ったんだ、ということの強調ですか。

 

岩に巌を重ねて山とし(英訳 121ページ)

岩に巌を重ねて山とし
Boulders piled on boulders had created this mountain.

GSQ
塩竃での「石の階九仞に重なり」の英訳に通じるものがあるように思えます。うまい訳ですね。

SUA
巨石が重なり合って、ということですから、まあ、そのまんまの訳であるとも言えます。それより、原文の「岩」と「巌」の使い分けが気になりますね。「巌」は禅宗で情念や煩悩を捨て去った悟りの境地を言うそうですから(立石寺は天台宗ですが)。自然の岩と人間の境地が積み重なってこの山(つまり寺)が出来ているということかもしれません。

 

岩上の院ゝ扉を閉ぢて、物の音きこえず。(英訳 121ページ)

物の音きこえず
not a sound could be heard

GSQ
蝉の声は聞こえているはずので、やはりこれは全感覚での「きこえず」なのですね。

SUA
蝉の声によって静寂さがさらに引き立つわけですから、物理的な音云々ではないでしょうね。芭蕉には静寂を詠んだ句が多いらしいですが、西行のアプローチとはまったく違いますね。

 

閑かさや岩にしみ入る蝉の声(英訳 120ページ)

静かさや岩にしみ入る蝉の声
How still it is here――
Stinging into the stones.
The locust’s trill

GSQ
trill というのはいいですね。

SUA
西洋人で蝉の声を聴いた経験のある人は案外少ないので、GSさんのようにトリルという言葉に音楽的に反応できれば、より分かりやすくなりますね。実際とはイメージが異なるでしょうが。
ここで注目すべきなのは、最初の行の「閑かさstill」でしょう。最後のtrillと韻と言っていいかわかりませんが、音が響きあうのです。地の文に出てくる最初のtranquilityにも-quil‐と同じ響きの音がありますが、ここまではちょっと考えすぎでしょうね。「閑かさ」「蝉の声」が音で響きあっている、実に巧妙な翻訳にあたっての言葉選びをしています。

GSQ
この章の根幹になる言葉、というより概念ですね。よく考えられた名訳ですね。驚きます。

 

二九 最上川

 

蘆角一声の心をやはらげ。(英訳 120ページ)

 蘆角一声の心をやはらげ
the rustic notes of a reed pipe brought music to their hearts

GSQ
胡角一声の間違いとか、いろいろ注釈されていましたが、難しいので無視、キーンさんの解釈通りに読みますが、古い俳諧、蘆角の鄙びた響きがこの辺土の人々の心に音楽をもたらした、ということですね。「やわらげ」は難しそうですが、うまく訳していますね。

SUA
「鄙びた俳諧だが人々の心を慰める」の意であれば、Keene氏の訳は直訳で「笛の音が心を慰める」のであって、私には違和感がありますね。

 

このたびの風流、爰に至れり。(英訳 120ページ)

このたびの風流、爰に至れり
The poetry-making of this journey had reached to even such a place

GSQ
恥ずかしながら、「爰」とは場所とは思いませんでした。climaxの意と思っていました。しかしこの地でそうであるわけがないですね。

SUA
こんなところでも風流がと感嘆しているわけですが、大石田は最上川最大の船着き場で、栄えていたそうですから「こんなところ」とは言われたくないでしょう。  

 

是に稲つみたるをや、いな船といふならし。(英訳 119ページ)

茂みの中に船をくだす。是に稲つみたるをや、いな船といふならし
Probably what the poets called “rice boats” were boats like mine, except loaded with rice

GSQ
是は芭蕉の乗る船なので、それに稲をつんだら、と原文は言っています。キーンさんの訳は、いな船は稲をつんでいなければ自分の船と同じ、と逆方向から訳しています。何かそうした訳があるのでしょうか。if loaded with riceと続けたらだめですか

SUA
「歌人がいな舟と呼んだものは私の乗った船のようなものを言うらしい。稲を載せているかいないかの違いだ。」が直訳で、いずれにしても、前半の部分が大事なので、後半はなくても良い付け足しです。

 

五月雨を集めて早し最上川(英訳 119ページ)

五月雨を集めて
Gathering seawards

GSQ
seawards は余計なような気がするのですが、意味上ではなく俳句翻訳上の配慮なのですか。

SUA
英語は方向性が明確であることを要求する言語なのです。これがはっきりしないと落ち着かないのです。

 

三十 羽黒

 

別当代会覚阿闍梨に謁す。(英訳 119ページ)

謁す
had an audience with

 

GSQ
辞書で調べましたら、謁見するという意味がありました。audienceという語、どうしても誰かが自分に会いに来ているように感じてしまいます。間違いなんでしょうが。

SUA
お目通りする」ということで、今はあまり使わないでしょうが、英語圏でも階級が厳然として存在していた近代以前の文ではよく出てくる言葉ですね。

GSQ
キーンさん、意図的にそういう古い表現を使ったのでしょうね。

 

権現に詣ず。(英訳 119ページ)

権現
the incarnation of the Buddha

GSQ
確かに権現は仏陀が顕現したものでしょうが、shrineくらいの言葉がないと、外国人には権現様そのものに会っているように理解されてしまいませんかね。

SUA
直接拝むのは権現様ですから。それでいいのです。Shrineはあってもなくても構わない。

 

書写、「黒」の字を「里山」となせるにや。(英訳 119ページ)

書写、「黒」の字を「里山」となせるにや
I wonder if, when the work was copied, the scribe did not break up the character kuro into sato and yama.

GSQ
キーンさんはThe character kuro contains sato and four doots that might be construed as yama. と注をつけています。黒を里とれんが(四つの点)に読み間違える可能性があるのは、草書の時だけです。せめて草書という注を入れてほしいですね。
下手ながら草書で、黒、里、山を草書で書いてみますと、

             

となります。山は左から順に書く崩し方の場合にだけが読み違えが起こります。書写の人は黒山を里山山とみなして山を一つ見落としたのでしょう。キーンさんの訳では、書写の人が、黒を分解して里と山にdid notとあるのですが、wonder if だからnotがあるのでしょうか。notはいらないように思えるのですが。意味が逆になるように感じます。それとも、婉曲か何かの表現なのですか。

SUA
これは、if notで「もしかすると」と訳すべきで、「もしかすると黒の文字を里と山に(間違って)別けて書いてしまったのではないか」ということです。私の持っている芭蕉自筆『奥の細道』では、「黒の字を」の次に、「誤て」と入っています。

 

風土記に侍るとやらん。(英訳 119ページ)

 風土記
the gazetteer

GSQ
これって地名辞典ですよね。Fudokiとして注をつけた方がいいのでしょうね。

USA
注をつけるべきでしょうね。常陸国風土記でしょうか。

 

天台止観の月明らかに、円頓融通の法かゝげそひて(英訳 119ページ)

天台止観
Tendai “concentration and insight” discipline

円頓融通の法
the teaching of immediate perfection through identity

GSQ
大変なものですね。後者はほとんど理解不能です。

SUA
Identityと言う言葉ですね。「自己認識を経て」、これがやはり悟りなんでしょうね。

GSQ
このidenntityは、いわゆる「一」のことを言っているのでしょうかね。

 

雲霧山気の中に、氷雪を踏みてのぼること八里(英訳 117ページ)

氷雪
snows that never melt

GSQ
万年雪だとは原文にはありませんが‥‥。6月ころなので、残雪はまだありますが、根雪、万年雪は月山にはないと思います。

SUA
氷雪は固まって氷状になったものでしょうね。万年雪ではないのでは。しかし、Snow that never meltはなかなか。

 

谷の傍らに鍛冶小屋と云ふ有り。(英訳 117ページ)

鍛冶小屋と云う有り
there formerly were swordsmiths’ huts

GSQ
芭蕉たちが登った時鍛冶小屋は実際にあったのではないでしょうか。原文では「云う有り」だけですが、英文はかつてあったということになっています。

SUA
鍛冶小屋なる(鍛冶小屋かは定かではないが)ものがあったとの意では。Keene氏は鍛冶小屋があったものとしたのでしょう。今はない。その方が余韻が残ります。

 

「月山」と銘を切って世に賞せらる。(英訳 117ページ)

世に賞せらる
were prized everywhere

GSQ
prizedはpraisedの間違いではないかと思い、辞書をひいてみたところ「評価を受ける」という意味がありましたので、おそらくキーンさんは「賞」にかけてprizedを使ったのでしょうね。しかし外国人がこれを読んだら、刀の品評会か何かがあり、いつも賞をもらったと誤解するのではないでしょうか。

SUA
Prizeは動詞で、「重んじる」「尊ぶ」の意で、「世に賞せらる」はこの意味でしょう。もちろん、その結果、賞をもらうこともあるでしょうが、いわゆる「賞」を意識した訳ではないです。

 

三尺ばかりなる桜のつぼみ半ばひらけてあり。(英訳 1176ページ)

三尺ばかりなる桜のつぼみ半ばひらけるあり
 I noticed a cheery tree, barely three feet high, with buds just opened.

GSQ
これは翻訳のことではないので余談です。前に芭蕉には桜のいい句がないと書きました。桜のことを考えると、芭蕉が江戸を立ったころは桜の時期で、少なくとも白川くらいまでは途中桜が咲き誇っていたのではないかと思います。咲いてなくても、その気があれば桜のないのを嘆くということもあるはずですが、そういうことも一切ありません。そしてやっと出てきた桜が、山の中の一本の低木の桜のつぼみですよ。桜と言えば、芭蕉の敬愛する西行のトレードマークであることを十分知っているはずです。それも満開の吉野の山のような桜です。芭蕉はあえて、このような桜の扱い方をすることで、自らの美意識を、西行のものにたいするアンチテーゼとして出しているような気がします。利休の朝顔ですよ。西行、宗祇、利休、そして芭蕉。その意識があったと思います。考えすぎですかね。

SUA
俳諧と和歌の違いではないですか。両者はモチーフは同じでも扱いは違うはずですし。また、寂、細み、軽みを重んじた蕉風に由来するのでしょう。西行の作と自らの句の違いは意識したかもしれませんが、アンチテーゼとまではいかないと思いますね。

 

行尊僧正の歌の哀れも爰に思ひ出でて、猶まさりて覚ゆ。(英訳 116ページ)

行尊僧正の歌の哀れも爰に思い出でて、猶まさりて覚ゆ
the pathos evoked in the poem by the Abbot Gyoson, but I thought that this tree was even more affecting

GSQ
よくわかりまんが、ちょっと変なような気もします。

USA
僧正の歌によって感じられる哀れですから、問題はないと思います。直訳すると長くなりますが、「行尊僧正の詩において喚起された哀れ」で、もちろん、哀れを感じるのは読み手ですが。

GSQ
わからないのをよく考えてみると、in the poemがどうかかっているかですが、pathos in the poemならpathosは歌自体が持っているもの、pathos evokedと続くのなら自分の心に引き起こされるのですが、そこあたりがわからないのです。

 

三一 酒田

 

あつみ山や吹浦かけて夕すゝみ(英訳 114ページ)

あつみ山や吹浦かけて夕すゝみ
From Hot Spring Mountains
All the way to Blowing Bay―
The cool of evening

GSQ
あつみ山は温熱山というのだそうですが、Hot Springになっています。熱海のような温泉だったのですかね。

SUA
温熱嶽は温泉で有名らしいです。昔からでしょう。

GSQ
From~toであつみ山から吹浦までずっとthe cool of eveningだというのですから、具体的な夕涼みとちょっとニュアンスが違うように感じますが。

SUA
あつみ山から吹浦をざっと眺めて夕涼みの気分を味わうわけです。本当に夕涼みしたかはわかりません。気分ですね。

 

暑き日を海にいれたり最上川(英訳 114ページ)

暑き日を海にいれたり最上川
The burning sun
It has washed into the sea―
Mogami River

GSQ
うまいもんですね。驚きます。

USA
washという言葉の使い方ですね。中学生なら洗濯と訳すかもしれないが。押し流されるということですね。正直言って、なるほどこういうことだったのかと気が付きました。太陽も押し流してしまう最上川の雄大な流れをイメージさせます。

GSQ
贅沢ですが、「暑い一日」というニュアンスも欲しい気がしますが、それもwashでにじませているのですね。いや、the burning sunで十分暑いです。

 

三二 象潟

 

日影やゝかたぶく比(英訳 113ページ)

日影やゝかたぶく比
As the sun was sinking in the sky

GSQ
こんな言い方あるのですか? ちょっと変な感じもあります。

SUA
Sunは朝にrise(昇り)、で、夕方にsink(沈む)。Sinkingですから沈みつつあるのです。

 

むかふの岸に舟をあがれば、「花の上こぐ」とよまれし桜の老木、西行法師の記念をのこす。(英訳 113ページ)

「花の上こぐ」とよまれし桜の老木、西行法師の記念を残す
we saw the old cherry tree that stands as a memento of Saigyo, who wrote of it : “Fisherman must row their boats above the cherry blossoms”

GSQ
西行とされる歌ですが、桜が水の上に散り敷き、そこを舟がこぎ行くのかと思っていましたが、キーンさんはaboveを使っています。そうだと 、水に映った逆さの桜の木と舟の位置関係を「上」と言ったと取っているように思えますが。

SUA
「花の上をこぐ」の直訳ですね。水の上に映った桜の上をではないです。水の上に散った桜の花の上を行く舟の方がはるかに絵になります。

GSQ
ついでに西行さんについて一言。西行と桜のことですが、ここで初めて西行と桜がセットで出てきました。しかし桜は古木で花の時期ではない、さらに歌に出てくるのは散った花です。西行さんもさんざんな扱いですね。やはり花の西行を芭蕉は嫌いなんですね。

SUA
芭蕉は、奥の細道では終始歌枕を尋ねていますが、古のイメージを追いかけているわけで、感傷的なトーンが目立ちます。今の姿を見ながら、昔の姿を思い浮かべる。散った花。桜の古木のイメージはぴったりじゃないですか。

 

松島は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはえて、地勢魂をなやますに似たり。(英訳 113ページ)

寂しさに悲しみをくはえて
There is a sadness mingled with the silent calm

 

GSQ
原文では寂しさ、悲しみともに人間の感情ですが、英訳ではthe silent calmすなわち自然と感情であるa sadnessが並べられています。寂しさが主体だと思います。そのまま自然にあるthe silent calm に人間の感情である sadness がmingled されるとすべきではないでしょうか。

SUA
Silent calmは諦念じゃないでしょうか。悲しみの底に穏やかな諦念があるのです。Keene氏はそのように解釈したのでは

 

ドナルド・キーン訳『おくのほそ道』を読む Part Ⅳ「大垣」まで へ

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です