モーツァルトのザルツブルグへの帰還と1780年10月の最後の出発との間には2年の隔たりがある。この2年はモーツァルトの人生にとってとは言わないまでも、彼の作品の歴史おいては非常に重要なものであり、第6協奏曲〔No.10 K.365 変ホ長調 2台のピアノのための〕の考察を終えたとはいえ、この期間を無視してしまうわけにはいかない。この2年間はマンハイムとパリへの旅の期間以上に決定的なものなのである。なぜなら、この期間に、彼の旅行の果実が、特にその最たるものである彼の個性が豊かに実り、その作品に現れるからである。

 何をおいても、この2年間はモーツァルトの楽想の成長にとって重要なのである。彼のスタイルの成長に関しては、パラティンおよびフランスで書かれた作品がより意義深いが、1777~8年のスタイルの変化(Stilwandlung)は帰郷の時までには終わっており、ザルツブルグにおける最後の時期とウィーンでの最初の数か月で示されているのは、モーツァルトのインスピレーションが一新されたことなのである。

 1779~1781年にわたる6曲の交響的作品は何か新しいものを語っており、今までに耳にしたことのない旋律がその中にはある。これらの作品の中にモーツァルトの成熟期のものとして味わう音楽的個性のいくつかの基本的要素が初めて形成されていることがはっきりと見出されるのだ。これらの作品は、ハ長調交響曲K.338〔No.34〕、セレナーデとディベルティメントではニ長調K.320〔No.9 ポストホルン〕とK.334〔No.17 ニ長調〕、変ロ長調、変ホ長調、ハ短調の木管のセレナーデ、すなわちK.361〔No.10 13管楽器のための〕、K.375〔No.11〕、K.388〔No.12 ナハトムジーク〕、そして協奏交響曲K.364〔変ホ長調 ヴァイオリンとビオラのための〕だが、これらにもうひとつニ短調のキリエK.341を付け加えるべきだろう。モーツァルトの全盛期はこれらの作品で始まるのだ。そのスケールおよび楽想の力ともにこれらはすべて彼がそれまでに書いたものを凌駕しており、ウィーン時代の最良の作品群と肩を並べるに相応しいものである。1779年以前にモーツァルトが書いた最も野心的な作品と、ハ長調交響曲〔K.338〕や協奏交響曲〔K.364〕、変ホ長調のセレナーデ〔K.375〕との間には雲泥の差がある。ト長調のヴァイオリン協奏曲〔No.5 K.219〕のアンダンテや変ホ長調ピアノ協奏曲K.271〔No.9 ジュノーム〕のアンダンティーノのように、時折、ひとつの楽章のみが一跳びで高みに到達することもあるが、1778年1例示されているK.320、K.334、K.364は1779年、K.361は1781年、K.375とK.388は1781~83年の作曲である。文脈からもこれは1779年の間違いであると思われる。以降は、モーツァルトが“己のために”書こうとする時にはほぼ常にその高みに到達することになる。それら以前のものは疑いなく美しい。しかし、それは約束された美であって、実現された美ではない。それ以降のものは、以前の作品がただ半分しか見ていなかったものを全てわが物としているのだ。1779年以前モーツァルトは興味深い作品を書いた。しかし、彼が天才的な作品を生み出したのはそれ以降なのである。

 さらに進んで、管弦楽作品の領域において、われわれが現在考察している時期の最良のものに匹敵するものに出会うには、1784年の協奏曲〔No.14 K.449 変ホ長調~No.19 K.459 ヘ長調までの6曲〕まで待たねばならない。ウィーンに定住した後、モーツァルトの管弦楽書法にはほとんど臆病さと言えるほどの確信のなさが認められ、彼の天才は、室内楽やハ短調ミサ〔K.427〕などで花開くが、1782年の3つの協奏曲〔No.11 K.413 ヘ長調、No.12 K.414 イ長調、No.13 K.415 ハ長調〕や1783年の交響曲(「リンツ」〔No.36 K.425 ハ長調〕)は、斬新さにおいて11779年から1781年の協奏曲、交響曲やセレナーデなどに一歩譲っている。

 特にザルツブルグ後期の作品においては、2つの要素が存在することで、モーツァルトの音楽的個性が成熟に近づいていることがわかる。2つの主要な要素、そのかすかな存在は早い時期に認めることができるが、これ以降は常に存在し続けるものである。ひとつは所謂オリンピア的と称する広がりと荘厳さであり、もうひとつは、ホイス〔Heuss〕が以前“デモーニッシュ”と呼びそれ以来モーツァルティアンの常套句のひとつになったが、時に悲劇的ともなる悲しみに彩られた不安な情緒である。この2つのムード、活力あふれた喜び、荘厳さ、甘美さと、悲しみが交互に現れることがモーツァルトの特徴だが、1782年以降それは彼の作品に一貫して存在するのであり、今考察している作品のいくつかのパッセージの中に幾分未熟な荒っぽさを伴ってそれが初めて姿を現すのである

 K.365〔No.10 変ホ長調 2台のピアノのための〕の冒頭は、オリンピア的な響きの良き例であり、開始部の主題はモーツァルトの作品としては最も長く最も豊かな主題のひとつである。しかし、この荘厳な入口を過ぎると、その威厳は和らぎ、優雅さと微笑みに道を譲る。荘厳さは、ハ長調の交響曲〔No.34 K.338〕ではより持続的なものとなっている。この作品は周知のイタリア序曲のモチーフ(譜例302譜例30そのままの形で開始されるのはジュピター交響曲ハ長調K.551 の冒頭で、K.388は1回出現するだけである。)で始まるが、これはモーツァルトではよくあることで、常に荘厳なムードの表現となる。しかし、この特徴がもっとも印象的に示されているのは、協奏交響曲〔K.364 変ホ長調 ヴァイオリンとビオラのための〕と変ホ長調のセレナーデ〔No.11 K.375〕のアレグロである。双方の楽章ともに最初は主和音の持続音で始まり、次いで付点つきの4分音符のリズムで反復される。これも、特に変ホ長調におけるモーツァルトお気に入りの開始の形であり、1785年の協奏曲、K.482〔No.22 変ホ長調〕において凝縮され、よりしなやかな形で再びその姿を現す。それはしばしばヨハン・クリスティアン・バッハや他のギャラントな作曲家にも見受けられ、また皇帝協奏曲〔ベートーヴェン、ピアノ協奏曲No.5 変ホ長調〕の総奏の最初の和音3原著ではinitial chordsで冒頭だが、皇帝協奏曲はピアノ独奏と総奏の和音から入る。しかしガードルストーンの言う音型の特徴は、それが終わってからの総奏開始部である。「総奏の最初の和音」とした。にも現れるのである。

 変ホ長調のセレナーデ〔No.11 K.375〕では、荘厳さは他の情緒と交互に現れるが、一方、協奏交響曲〔K.364 変ホ長調 ヴァイオリンとビオラのための〕では独奏者たちが入ってくるまで荘重さが保たれる。実際、モーツァルトがオリンピア的な調べをこれほど長く保持している作品はほとんどない。気品と晴朗さのある楽想が一貫して保持される導入部を見出すには、1785年と1786年の協奏曲4「荘厳さが楽章を一貫する」1985年のものはNo.21 ハ長調K.467、1986年ではNo.25 ハ長調K.503である。後述されるが、このオリンピアンな曲想ははじめは変ホ長調で表出されていたが、後期にはハ長調に委ねられることになる。まで待たねばならない。この曲の荘厳な開始部は単なる見かけではない。時にその晴朗さは哀愁に彩られるものの、楽章全体が同じ性格を有しているのである。変ロ長調のセレナーデ〔No.10 13管楽器のための〕のゆっくりとした導入部は同じ崇高さによって導かれるのだが、そのアレグロの残りの部分は荘重というよりは、遊び心にあふれたものである。

 もうひとつの対極は、モーツァルトの最も喜びに満ちた作品の中にしばしば不吉な底流のように感じ取る苦悩である。これは新しい特徴ではないが、これまではただ断続的に現れるだけであった。1778以降は常時その姿を現し、それが常に自己主張するようになるのを見るのはこれら3年間のいくつかの楽章においてなのである。

 それは他の情緒と交互することもあり、青空からの突然の稲妻のように静かなパッセージの只中に落ちるのである。協奏交響曲〔K.364 変ホ長調 ヴァイオリンとビオラのための〕の第1楽章で独奏者たちが入ってくるやいなや、オーケストラの嘆くような伴奏の下で、心を乱すような主題を提示する。そのムードが支配しつづけて苦悩は高まるが、しかし、その始まりと同様に突如として消え去ってしまう。これは実にモーツァルトらしい魅力的な情緒転換のひとつである。

 このおどろおどろしいデーモンの侵入、突然現れ深淵を露わにする大地の裂け目は、変ホ長調のセレナーデ〔No.11 K.375〕ではさらに顕著である。第1楽章は協奏交響曲〔K.364 変ホ長調 ヴァイオリンとビオラのための〕と同様に荘厳な和音で始まる。しかしその荘厳さはすぐに甘美さに道を譲る。和音が分裂し、木管の色彩を強める光り輝く2度でぶつかり合いながら、官能的で愛撫するような主題がそれに続く。しばらく曲は静かに楽しげに、活力さえも感じさせるムードの中で進行する。その時突然、第2主題がトリルの羽ばたきの中に消え入ってしまう。それに続く沈黙から、悲劇の独白を語る侘しいオーボエの声が立ち上がってくる。この悲歌は始まりと同じように突然に終わる(譜例31)。これは同じく思いがけず、短い展開部で再び耳にする。しかし、この楽章を開始した荘厳な和音が回帰する中で埋没してしまい、再現部で再び現れることはない。その代わりに、希望に満ちたホルンのメロディが展開され、幾分反語的に悲歌と同じカデンツで終了する。この部分での新たな主題の出現は効果的な手際であり、ハ短調のセレナーデでもう一度現れるだけで、その他のモーツァルトの作品のどれにも出てこないのである。

 苦悩が注ぎ込まれるのは、しばしばメヌエットのトリオのような短いパッセージであり、すべてのモーツァルトの作品の中で最も苦痛に満ちたハーモニーに出会うのは往々にしてこのようなところなのである。ニ長調のディベルティメントK.334〔No.17〕の第2 メヌエット5ガードルストーンの誤り。原文は第1メヌエットになっているがニ短調のトリオを持つのは第2メヌエットである。譜例32 も第2メヌエットのニ短調のトリオである。明らかな誤りであるため、本文を修正した。のニ短調のトリオ(譜例32)や、変ロ長調セレナーデ〔No.10 K.361 13管楽器のための〕の第2メヌエットの変ロ短調トリオは、呵責ない悲痛さを16から20小節の中に凝縮する。それらの荒涼とした寂寥感は、かなり後期の、「フリーメーソンのための葬送行進曲」〔K.477 ハ短調〕や「魔笛」〔K.620〕を思わせる。

 時には楽章全体がこの悲劇的なムードに捉われてしまうこともある。モーツァルトの短調の楽章については既に述べたが、もう一度そこに立ち戻ってみよう。ザルツブルグの最後の作品には4つの短調の楽章があるが、その中にはすばらしい断片6fragment(断片)という語がつかわれているが、ミサ曲全体は未完成だが、このキリエは完成していると思われるのでfragmentとは言えない。なおこのキリエに関しては、モーツァルトの自筆譜も不明で作曲年代等わからないことも多い。、ニ短調のキリエ〔K.341〕も入る。4曲はすべて、モーツァルトの短調のアンダンテに頻出する様式的なひとつの特徴を備えており、それはアンダンテの主題の最初の小節で、主音と属音が続いて入れ替わることである。これはその時代の音楽に共通する特徴であり、すでに言及したアーベルの交響曲にもそれを見出すことができる。モーツァルトにおいては、ひとつのムードと旋律あるいは伴奏音型の間の関連は非常に密接である。変ホ長調の協奏曲K.271〔No.9 ジュノーム〕、ニ長調のセレナーデK.320〔No.9 ポストホルン〕、協奏交響曲〔K.364 変ホ長調 ヴァイオリンとビオラのための〕のアンダンテの形式上の類似性は特に目立つものであり、またこの3つの間のインスピレーションの親近性も同様である。これらは楽想が次々と深まり豊かに成長していく同じ仕事の3つの段階なのである。その最終型が協奏交響曲〔K.364 変ホ長調 ヴァイオリンとビオラのための〕のアンダンテであり、これはモーツァルトの最も感動的な作品のひとつである(譜例337原著にはこの指示がないため、ここに補足した。)。ニ短調のキリエ〔K.341〕は全般的な特性やいくつかの旋律音型によってそれを思い起こさせる。これら両者は、同じ意識の次元においてだけではなく、作曲家の人生の同じ時間に生じたものと感じられるのである。キリエはそれ以前に作られた宗教曲のはるか先を行き、協奏交響曲およびハ長調の交響曲もまた同じくそれ以前に作られた交響曲や協奏曲を後ろに引き離している。その規模でミサが書かれていたならば、それはハ短調ミサ〔K.427〕やレクイエム〔K.626〕に匹敵する重要な作品となったであろう。

 ディベルティメントK.334〔No.17〕のニ短調の変奏曲も同じく悲劇的な特徴を持っているが、それはより荒々しいものである。それらはまたその赤裸々な切実感においても、さらに装いをこらし、さらに好まれやすく、登場するたびにより完成されていく、ヘ長調のヴァイオリン・ソナタK.377〔No.33〕のアンダンテとニ短調の四重奏曲K.421〔No.15 ハイドン・セット第2番〕のフィナーレで、2度にわたって現われる楽想の最初の表現なのである。

 ゆえに、激しい感情の動きを示す主題はモーツァルトのこの時期の音楽に共通のものであり、彼のすべての作品の中でも、協奏交響曲〔K.364 変ホ長調 ヴァイオリンとビオラのための〕や変ホ長調セレナーデ〔No.11 K.375〕ほど晴朗さと苦悩が交互に現れる楽章は数少ないのである。このことに、ザルツブルグの息詰まる環境に対する若き作曲家の高まりつつある不満の反映を見ることはできないであろうか? その小さな都市から逃れて、どこか他のところへ落ち着こうとしたモーツァルトの幾度もの企ては失敗し、大司教に奉仕する運命はますます避けられないものに思われ、そしてモーツァルトの翼が伸びるにつれて、狭小な単調さと大司教の調理人であるブルネッティやチェッカレリ8「2. 1782年の協奏曲」冒頭で2番目に引用されているモーツァルトの手紙に登場する、大司教の使用人。のような人間といっしょくたに扱われることがますます耐え切れないと感じたのである。ウィーンに定住してからの最初の時期まで続いた(原注1)理想と現実の乖離が呼び覚ました苦悩が悲壮な協奏交響曲のアンダンテと、痛切なメヌエットのトリオを生み出したのである。この同じ苦悩に新たな苦しみが加わってモーツァルトの経験をさらに豊かなものとし、旅立ちと救済が実に重要なテーマである『イドメネオ』の主題にモーツァルトを身も心も打ち込ませることになるのである。それによってモーツァルトは『ルチオ・シッラ』や『ミトリダーテ』以上に進んだ技術のみならず、彼の初期のオペラに欠けていた悲劇への感性も示すことになった。最初の劇的な傑作である『イドメネオ』は、ザルツブルグからの最後の旅立ちと時を共にし、荘厳さと情動不安に満ちた2年間の作品群を見事に締めくくるものとなったのだ。そこでは、序曲において、イリアとエレクトラのいくつかのアリアで、また、寺院の場面の威厳に満ちた告別の四重奏と合唱で、故郷の都市における最後の日々の交響的作品を特徴づけるオリンピア的なものと悲劇的なもの、晴朗なものと苦悩のインスピレーションが最高のレベルで見いだされるのである。

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