私は怒りで煮えくり返っています。そして親愛なる、最愛のお父さん、あなたもまたきっと同じ状態だと思います。私の忍耐力はあまりに長い間試され続け、とうとう尽き果ててしまいました。もはや私はザルツブルグで仕えていた時のように不幸ではありません。今日という日は私にとって幸福な一日でした……。どうか元気を出してください。私の幸運は始まったばかりで、また、私の幸運はお父さんのものでもあると信じています。(原注1)

(原注1)E.アンダーソン訳『モーツァルトおよび家族の手紙』、Ⅲ、1081-3

 

 1781年3月9日、モーツァルトはこのように父親宛てに書いている。この日から彼は自由であった。それは自らの運命を作り出す自由、あるいは、運命を作り出しつつあると思う自由であり、金持ちたちのお世辞を味わう自由、窮乏のうちに生涯を終え、貧民墓地に葬られる自由でもあった。

 彼の手紙は大司教との決裂の前とその後の状況を物語っている。それらは事態のひとつの面を示しているのみであり、もうひとつの面に関するものは長い間明らかにされてはいなかった。しかし、近年、芳しくないことのすべてが教会のプリンス(大司教)に由来するものではないことをつまびらかにしようとする試みが行われている。かねてから、モーツァルトはより大きな自立の望みを口にしており、また、その立場に課せられた義務から自らを解放しようという企てをしばしば行って、ご主人に不快感を与えていた。おそらくしぶしぶだろうが、この聖職者は、モーツァルトに、ミュンヘンの宮廷が1781の謝肉祭のために注文した歌劇『イドメネオ』を作曲、演出するための6週間の休暇を認めたのである。6週間は4ヶ月に延びたが、大司教は何も行動しなかった。しかし、そのあと、大司教は、モーツァルトを拘束して、その義務を守らせようと決意したのである。大司教は、皇帝のご機嫌伺いのために訪れていたウイーンにモーツァルトを召喚した。音楽家は首都に滞在することをありがたいと思ったかもしれない。しかし、大司教はそのような魅力の大半を奪い去ってしまう条件を定め、彼はモーツァルトを自分の邸宅に閉じ込め、司教管轄の随行員の一員として扱った。モーツァルトは召使いたちと一緒に扱われ、食事も、

2人の従者、つまり、身も心もご主人様にお仕えする者たち、会計のゼッティ氏、菓子作り職人、2人の料理人、チェッカレリ、ブルネッティ……。2人の従者がテーブルの上座に座ります。しかし、少なくとも私は料理人たちよりも上座につく名誉を得ました。(原注2)

(原注2)同書、Ⅲ、1060)

 これは特に例外的な扱いではなかった。というのもその時代の慣例では、音楽家を使用人と一緒に扱うことが許されていたのである。しかし、ミュンヘンで自由な生活を送ったモーツァルトにとってこのような暮らしが耐え難かったことは容易に理解できる。実際には、報酬に関しては他より出し惜しみをしたものの、大司教の彼に仕える音楽家たちの扱いは他の領主達と比べ特に異なっていたわけではない。しかし、モーツァルトは自由を熱望した。いくつかの方面からの仕事の話もあり、ウイーンに残ることによってより多くの収入と名誉を同時に得ることができると確信していたのである。とりわけ、モーツァルトが大司教の邸宅で催される演奏会で報酬もなく演奏しなければならないある日に、サン伯爵夫人からの招待を断ることを余儀なくされたのだが、夫人の邸宅にはちょうどその夕べに皇帝が訪れることになっていたのである。モーツァルトはそのことで“心が散り散りになるほど”落胆した。そして、大司教が準備期間を1日たりとも与えずにザルツブルグに出発するように命じ、モーツァルトの記録によれば、謁見中に大司教が侮辱的な言葉を交えて命令した際に破局が訪れた。この出来事の結果、若者は大司教に使える仕事を離れ、父親に長い手紙を書くことになった。この章の冒頭の一節はこの手紙から引用したものである。

 この反逆は歴史的に重要な意味がある。モーツァルト個人としては、彼の音楽が公なパトロンの金色の束縛から脱したことになるのだが、1781年4月9日のモーツァルトの行動は音楽家にとってこの日を1789年1フランス革命の年である。としたのである。作曲家の世界に吹いた“革命の風”を起こしたのは、ベートーヴェンではなくモーツァルトであった。優れた宮廷音楽家の典型と見なされがちな、若干25歳のこの若者が初めて自らの芸術の尊厳を保証された地位に勝るものと見なし、“己の生を生きる”ために自分の才能のみに仕えることを求めて、バッハやハイドン、その他多くの作曲家たちに尊重されてきた伝統を破壊したのである。

 自らそうであることを知らない革命児の若き天才は、父親をひどく怯えさせても、自らを抑圧してきた封建制から己を強引に解き放つまでは真に幸福ではありえなかったのである。(原注1)

(原注1)ウォルド・ファウラー:『モーツァルトと彼の音楽についての随想的覚書』

 モーツァルトの生涯におけるウイーンの時期は1781年4月9日に始まる。それは10年と7か月続くことになり、ピアノ・ソナタを除いて今日我々が知る作品のほとんどはこの時期のものなのである。この年月の最初の3年間、すなわちウイーンで身を立て結婚に至る3年間は、モーツァルトの芸術にとって幾分か混乱の時期でもあった。旺盛な活動にもかかわらず、彼はまだ手探りの状態で、多くのジャンルに心惹かれていた。それらの中には、まだいくらか過去の残滓を聴き取ることができ、例えば変ホ長調〔No.11 K.375〕とハ短調〔No.12 K.388〕のセレナーデであり、後年モーツァルトがほぼ完全に放棄してしまうジャンルを如実に示すものであった。彼の新たな生活の中で生まれたものは、9年の後に再び戻ることになる室内楽、ハ短調のミサ〔K.427〕、雑多なフーガ作品群、最初のドイツ語歌劇『後宮からの逃走』〔K.384〕などである。モーツァルトの愛情はこれらの作品に注がれ、その中にこそ彼の魂の表現を探し求めなければならない。交響曲と協奏曲はモーツァルトのこの時期仕事の言わば副産物を提供するに過ぎないのだ。モーツァルトは独奏者としてウイーンの聴衆を征服しようと試み、ピアノを自分の“特技”と称し、「実際、ここはピアノの国なのです。」と言い足している。この3年間では、幻想曲、フーガ、組曲やソナタなどのピアノ独奏の作品や2台のピアノのための作品に比べて、協奏曲の重要性は低いものであった。

 モーツァルトのウイーンでの最初の年はさほど生産的ではなかった。最も注目に値するのは、4曲のヴァイオリン・ソナタ、ヘ長調のK.376〔No.32〕とK.377〔No.33〕、K.379ニ長調〔No.35〕、K.380変ホ長調〔No.36〕である。このうち3曲2K.377、K.379、K.380の3曲である。この3曲は本書の中でガードルストーンがしばしば触れており、高く評価されているものである。は最もすばらしいものに数えられる。また、3曲の木管セレナーデ〔No.10 変ロ長調K.361 13管楽器のための、No.11 変ホ長調 K.375、No.12 ハ短調 K.388〕、このうち変ロ長調はおそらくミュンヘンで作曲されたでものあろう。さらに2 台のピアノのためのソナタ〔K.448ニ長調〕などである。変ロ長調〔K.361〕と変ホ長調〔K.375〕のセレナーデについてはすでに述べた通りだが、それらはその形式ばかりではなく、そのインスピレーションにおいてもザルツブルグでの生活に繋がるものであり、その都市での最後の日々の他の作品に近いものである。しかし1782年の中ごろに作られた3番目のハ短調〔K388〕は新たな道を切り開く。この作品にセレナードの精神は皆無ではあるが、他の2曲と関連しているのは確かである。変ホ長調〔K.375〕の移り気な気分、夜から昼へ急変するパッセージ、主和音に基づいたリズミカルな主題などを有している。とは言え、それは1778年のホ短調のヴァイオリン・ソナタ〔No.28 K.304〕以降、過去のものとなったすべてのものとは異なるのである。ギャラントリーの虚飾から完全に脱した、ありのままの作曲家の魂がここにある。これは1783年から1788年にかけての偉大なる短調を含む一連の作品の先駆けなのである。

 

ロンド(変奏曲)ニ短調(K.382

  1782年3(原注1)

  アレグロ・グラチオーソ:4分の2拍子

  オーケストラ: 弦;フルート、オーボエ2、ホルン2、トランペット2、ティンパニ2

(原注1)全集版番号で第28番

 

 この嵐のようなセレナーデの作曲とほぼ時を同じくして、モーツァルトがザルツブルグを出発して以来書かれた初めてのピアノとオーケストラのための作品に出会う。彼はウイーンで1773年の協奏曲〔No.5 ニ長調 K.175〕を再演し、成功を収めた。しかしソナタ形式のフィナーレは古臭く響いたに違いない。作品の再活性化を意図して、モーツァルトはそれを“ロンドー変奏曲3「ロンドー(rondeau)」は「輪」の意味で、変奏曲の最後にまた主題が回帰する形のものである。この曲では、第1変奏と第3変奏の後に主題がリフレインとして回帰することで、ロンド、あるいはロンドー的な要素を残しているだけである。”、別な言葉で言うならば、一連の変奏曲に置き換えたが、今日の耳には元のフィナーレに比べ非常につまらないものに聴こえる。

 これらの変奏曲やハ短調のセレナーデは、すばらしいハ長調の幻想曲とフーガ〔前奏曲とフーガ ハ長調 K.394〕と同時期のものである。それについてモーツァルトは姉に、フーガを楽譜に書きおろしながら、プレリュードの作曲も企てていると伝えている。このようにモーツァルトは白馬の騎士を気取り、自らは肉料理のコースを食しつつ、新たなプディングを創作していることを覚えておいていいだろう。このように異なった3つの作品が、その2つは天才の作品、3つ目は凡庸でたわいのないものだが、ほとんど同時に出現していることは、ベートーヴェンやシューベルトをも含めた巨匠たちもそうであったように 、モーツァルトが、 “自分自身”、あるいは“選ばれた聴衆”、また“一般聴衆”のために、いくつかの次元で同時に作曲することが可能であったことを示している。しかしながら、このピアノとオーケストラのための変奏曲の痛ましいほどの平凡さは、意図通りに第1協奏曲〔No.5 ニ長調K.175〕のフィナーレとして演奏されれば、他の2つの楽章のしっかりした個性と恐ろしいほどの対照をなしたに違いないのだが、それは、そのロンド変奏曲が受けを狙った聴衆のせいだとして説明し切れるものではない。結局のところ、K.330―333の4曲のパリ・ソナタ4パリ・ソナタといわれたK.330―333のピアノ・ソナタは、現在、パリからの帰りに立ち寄ったマンハイムで作曲されたとも、移住後のウィーンで作曲されたとも言われている。もまた同じような聴衆のために作曲され、幻想曲とフーガ〔ハ長調 K.394〕の域には達していないが、それらはこの変奏曲よりもはるかに価値あるものであり、その作者の存在をはっきりと印象付けるものなのである。同じことが1781年の2台のピアノのためのソナタ〔K.448 ニ長調〕についても言える。

 間違いなく、そこでの個性の欠如は、その地に到着したばかりで、己の地位をなんとかして切り開こうと願っていた首都の好みを測りかねていたことの結果であると見なされるべきである。モーツァルトは、最初は用心深く事を運び、聴衆をあまりに独創的な作品でしり込みさせないことが必要だと感じた。まず首都を征服し、味の濃い肉料理はその後にしよう! まず生きることが大事であり、ウイーンの聴衆に認められるためには、わずかな大胆さでもあえて犠牲にしなければならなかったのだ。この変奏曲は、見知らぬ、その好みを推し測ることもできない聴衆の前で演奏されることを意図して書かれたのである。優れたフィナーレを新しい楽章に換えなければならなかったという事実は、一時は支配的だがすぐ消え去ってしまう好みに追従したことを示している。

 モーツァルトがこの強制的な追従に心を痛めていたと考えてはならない。彼の好みも聴衆の好みと一致していたように思われる。彼はこのロンドを気に入っていたのである。
 “これを宝石のように大切にしてください……”と父親と姉に書き送っている。
 “私はこれを特に自分自身のために作曲しました。他の誰でもなくお姉さんにこれを演奏していただかなければいけません”(原注1)

(原注1)1782年4月23日

 この楽章は、録音はされているものの5本書が書かれた時代(1945年ころ)に録音されていたのは、エドウィン・フィッシャーのHMV録音と思われる。フィッシャーはこの曲を好み、さらにもう1回録音している。、今日ではめったに演奏されることはなく、また演奏されるべき理由もない。現代の聴衆の耳を喜ばせるものは何もなく、モーツァルトの栄光に何ひとつ加えるものもない。この楽章は、主題と7つの変奏、それに短いコーダで構成されている。主題は4分の2拍子で、平凡なものであり、そのほぼ全体は5つの音の範囲内を動くのみで、16小節のうち10小節はトリルが弱い拍動をつけていく。最初の6つの変奏曲は完全にピアノのみに委ねられ、長い間隔を置いて総奏が主題の前半とともに入ってくる。変奏曲そのものは極めて没個性的なギャラント型のものであり、第1は旋律的、第2は3連符を使い、第3は右手で主題を繰り返し、左手は3連8分音符、第4は、この中では最もありふれたものではないが、右手のオクターブのパッセージによる短調、第5は、片手はトリルでもう一方は主題の反復、第6は決まりの、腹立たしいアダージョの変奏である。第7は、これが最後だが、オーケストラで開始され、8分の3拍子であり、通例のあまり適切でないやり方に従っている。そこでピアノは16分音符で、両手は逆の動きで展開する。それにコーダが続き、最初の速さ(テンポ・プリモ)に戻り、短縮された主題で楽章を締めくくる。

 聴衆の好みへの追随は同じ年の3曲の協奏曲にも幾分か引き継がれている。しかし、それらは心地よいひとつのグループを形成しており、モーツァルトは1782年12月28日に父親への手紙でそれらの特徴について的確に述べている。それらは、

 あまり易しくもなく、あまり難しくもなく、その中間のちょうど良いものとなっています。非常に輝かしく、耳に心地よく、そして自然であり、退屈なところはありません。あちこちに、通の人たちだけが満足を得るようなパッセージがあります。しかし、これらのパッセージは、そこまでの人でなくても、なぜかはわからなくても、楽しんでもらえるように書かれているのです。(原注2)

(原注2)同書、Ⅲ、1242

 この評言ほど当を得たものはない。“あまり易しくもなく、あまり難しくもない、ちょうど良い中くらい”。実際に技術は適度に易しく、パッセージの運びも単純である。“輝かしく、耳に心地よい”に関しては、ヘ長調〔No.11 K.413〕とイ長調〔No.12 K.414〕のものに対してこれらの最初の形容辞を認めるにはいささか躊躇する。しかし、モーツァルトの時代のピアノの質がどのようなものであったかを心に留めておく必要がある。“自然で、退屈なところがない”。確かに強い情感には欠けているが、次の文で言及する例外もあって、この曲が形式に堕してしまうことは決してない。通の人々向けの“満足”について言えば、詳細に見ていくことで、デリケートな人々および必ずしも常にそれらの美しさが際立つことを求めない人々を喜ばせる構造上の優れた特徴が現れてくるのである。

 モーツァルトは自身で端的に3曲すべてに共通する特徴を要約した。ただ一点付け加えるべきは、それらの2曲6No.11 K.413およびNo.13 K.415のロンドであるにおけるロンドの相対的な重要性である。K.449〔No.14 変ホ長調〕を除けば、以後の協奏曲でロンドが第1楽章とほぼ同等の重要性を持つことはない。一方、アンダンテはさほど興味深いところがなく、そのうち2つ7No.11K.413のラルゲットおよびNo.13K.415のアンダンテである。はモーツァルトの緩徐楽章としてはほとんど取るに足らないものである。

 

協奏曲第7(No.11) ヘ長調(K.413

1782年の夏あるいは秋(原注1)

アレグロ:4分の3拍子
ラルゲット:4分の4拍子(C)(変ロ長調)
テンポ・ディ・メヌエット:4分の3拍子

オーケストラ:弦;オーボエ2、ホルン2、(バスーン2が後でラルゲットに加えられた)

(原注1)全集版番号で第11番。3曲の協奏曲のうち最初のものは、11月末までには出来上がっていた(1782年12月28日付のモーツァルトの父親宛ての手紙)。3曲はすべて1783年の前半にアルタリア社によって出版された。イ長調〔No.12 K.414〕が最初に作曲されたのかも知れない。というのもその出版シリーズの順序は、K.414、413、415だからである。

 

  最後のザルツブルグでの協奏曲を一方に、もう一方に1784年から1786年の偉大な協奏曲を据え、モーツァルトがウイーンで作曲した最初のピアノ協奏曲をその間に置いて見ると、それは非常におどおどしたものだと感じる。彼の最初の一連の試みに対して推奨した近視眼的に思いやりをもって考察しなければ、それはありきたりかつ没個性的に見えるだろう。少なからぬ熱心なモーツァルティアンがその点で欺かれてきたし、著者自身もこの作品に対して常にふさわしい評価をしてきたわけではないことを認めよう。その小心さはおそらく慎み深さに過ぎないのである。それは聴衆の平均的な感性に近いところに留まろうとしており、上品な社交界で表すことが許される以上の感情の喚起を望んでいない。それが目指すものは、一言で言うならば、客間において紳士が心がけるものと同じなのである。K.238〔No.6 変ロ長調〕、K.242〔No.7 ヘ長調 3台のピアノのための〕、K.246〔No.8 ハ長調〕と同じく、それはアンシャン・レジュームの産物であり、モーツァルトの全盛期のものでそのように称することができる数少ない作品のひとつである。すべてが計算され整然と秩序づけられている。アベ・グソー(Abbe Goussault)が17世紀末に次のように書いた時に考えていたのは、小異はあるものの、このような音楽のことではなかっただろうか?

 音楽というものは紳士のマナーと非常に対応した関係を有しており、それが紳士に心地よいもので、また彼がそれを好んだとしても驚くことではない。愉快に心地よく彼の耳を魅了する人声と楽器の調和は、彼の人生で起こる出来事の変わることのないイメージである。そこにあるすべてのものは調和し、何ひとつとして他を欺くものはない。そして彼の言葉、彼の思考、彼の意向、彼の行為、これらはすべて、すべての人々が聴き、すべての人々を喜ばせ、教化する、もうひとつの音楽なのである。

 一方、放蕩者たちはこの清らかな喜びを往々にして味わうことがない。音楽は彼らの生き方の中に、物差しも洗練さもないことを非難するように思われるし、またそれは彼らの気質に合わないし、それゆえに、彼らがいつも非難されるような快楽に引き付けられて、自分の好みと不品行にかなった他のものを探し求めるのである。(原注1)

(原注1)「人々の日常的欠点と長所に関する考察」1692年

 放蕩者についてはこのくらいにしておこう。彼らにそれ以上求めさせる必要はない。モーツァルトの第7協奏曲〔No.11 K.413〕は彼らが足を踏み入れるところではないのである。

 しかし、ヨハン・クリスティアンが目指したものへの見かけ上の回帰はモーツァルトの個性の放棄ではない。たとえ作品の心が彼個人のもの以上に聴衆の集合的な魂を表すものであっても、形式上の独創性を欠いてはいないのだ。この作品には独自の繊細さと巧妙な特性があり、分析によって初めて気づくことではあるが、このような特性が、スコアを学ぶことのない聴衆を“何故だかわからないながら”も心地よくさせるのである。最も独創的な特徴のひとつは、非常に滑らかなフレーズが断片に分裂し、交互に、離れて、ばらばらに回帰し、楽章の様々な部分を接続する役目を果たすというやり方である。モーツァルトはこの協奏曲のロンド以上に“主題連結”の試みを先に進めることはなかった。ここでは、主題が独立したアイデアであるだけではなく、それらは、思慮深く使われる反復手法によって全体の各部分をつなぎ合わせ統一する、主要主題という詩の断片(disjecta membra)と言えるものなのである。これは最も興味深い特徴のひとつである。

 ただし、特徴はこれがすべてではない。主題それ自体は、他の時のモーツァルトの極意と言えるような類まれなメロディーに数えられるようなものではないが、ありきたりのものでもなく、それらのややいたずらっぽくリズミカルな上品さはまさしくモーツァルトのものである。このことをよく知るためには、K.238〔No.6 変ロ長調〕とこの曲の第1楽章を交互に弾いてみるのが一番だろう。前の曲は20歳の時点のものであり、この曲は26歳のモーツァルトのものなのである。目指したものは同じだが、その具現化は異なっている。そしてこの違いは、ザルツブルグでロドロン伯爵夫人の前で演奏8ロドロン伯爵夫人の名が残されているのはNo.7 K.242、3台のピアノのための協奏曲であるが、モーツァルトが彼女の前で演奏したことは確認できない。文脈からNo.6 K.238のことだとすれば、リュッツォウ伯爵夫人の間違いではないかと思われる。して以来のモーツァルトの精神の十分な成長を示すものなのである。

 

 アレグロはモーツァルトの数少ない3拍子の第1楽章のひとつである。(他のものはK.459〔No.19 ヘ長調〕とK.491〔No.24 ハ短調〕である。) それは4小節のリズミカルな主題で始まり、対照的なメロディックな主題がそれに続き、これは7小節で、この全体が第1主題を構成する(譜例34)。そして2つの副次的な主題が現れるが、両者ともにリズミカルでよく似ており、より長い2番目ものが属和音へと導く。これは至極普通のことである。しかし、それからは、慣例に従い再び主調から出発するのではなく、モーツァルトは第2主題をハ長調で導入し、8小節の間ヘ長調には戻らないのである。これはK.449〔No.14 変ホ長調〕で再度現れる“不規則性”である。第2主題は譜例34と極めてよく似ており、同様に、リズムとメロディーが交替する(譜例35)。弦がそれを提示し、そしてひとたび伝統的なやり方に戻る時、すなわち主調へ戻る時に、管楽器がそれに加わる9ガードルストーンがハ長調は8小節と記しているように、木管が入る前1小節のブリッジを経て、第32小節からの2小節の弦の提示ですでにヘ長調に戻っている。。コデッタがそれを締締めくくるが、これは再び現れることのない経過句である。そして、主に音階でできているさらに2つのモチーフが続き、結末に至る。いつもの劇的な終わり方であるff(フォルテッシモ)で総奏を終わらせ、独奏の前に身を引くことをオーケストラが盛大に宣言するだろうと聴衆は期待する。ここで新たな驚きが生じるのである。フォルテはピアノ(p)へと弱まり、第3主題10これは第1提示部を閉じる結尾の主題である。第2提示部では出現せず、展開部ではその結尾に、また楽章の閉じるものである。いずれも4小節のもので、第3主題というよりも結尾主題とする方が適切と思われる。を耳にするのだが、それは他の2つの主題に類似したものである。その優しさは人を励まし、見本を示し模倣を誘うものである。それに誘われピアノは模倣的になり、自らの歩みを始めることなく、恥ずかしげにその進行の後を追うのだが、それが終わり切る前に、別の新しいよく似た主題で舞台に登場する(譜例36)。モーツァルトにおける独奏の入り方の独創性についてはすでに述べたが、これは確かに最も優雅で、最も個性的な入り方のひとつである。

 第2提示部は、1776年の協奏曲〔No.6 K.238~No.8 K.246〕と同様の通常の進行に従う。先ほど冒頭を引用した導入的なフレーズの後、オーケストラが第1主題のリズミカルな半分を提示し、ピアノはメロディックな部分を繰り返し、それに、非常に簡潔な上昇するアルペジオと下降する分解された音階からなる短いバーチュオーソ・パッセージが続き、ヘ長調からハ長調へと転調する。次に、独奏の主題に取りかかるが、それはすでに前に聴いたような印象を与えるが、それは主要主題よりも補完的な主題11第1提示部第1主題提示後に出現する第16小節からの補完的な主題の2番目のものである。に類似しているものである。最初のものより長くはない、もうひとつのバーチュオーソ・パッセージがとりあえずピアノの望みを満足させ、次いでオーケストラは第2主題を導き入れる。それは主題全体で提示され、第1提示部で総奏に管楽器が加わった、その同じところでピアノが再び入り自らの終わりを補足する。第3のパッセージは前のもの同様簡潔でややためらうような半音階の音形で、通常のトリルへと導くのである。

 ここまでのセクションすべてを通して、最初の総奏に登場した数多くの副次的な主題のどれもが現れていない。そして、オーケストラはその最後の主題12第45小節からの補完的主題である。で入り、それが提示されるやいなやピアノは新しい主題によって展開部を開始する。それは何と8番目あるいは9番目の主題なのである! この主題はそれまでのものとは違っている。それは短調、ハ短調であり、短調らしく振舞おうとし、熱情的な雰囲気を気取るのだが、聴き手そして総奏もそれに納得せず、オーケストラはからかうような調子でそれに答える。ピアノは、調の変更が聴き手により強い印象を与えることを望むかのように今度はト短調で始める。遮る者がないために、それは次第に大胆になってニ短調に転調し、アルペジオを基底に率直な両手の交差がもたらす効果で、魅力的で華麗なパッセージに転じていく。このパッセージは、楽章の中で最も活力に満ち、これまでのものよりも長い。しかし、ついにピアノがそれに飽いてしまい、気まぐれな子供のように、聴衆にそれと気づかせず、長調から短調へ、アレグロからアダージョへと推移し、吐息を漏らした後、独創的な独奏の入りを演じた譜例36の主題を導き入れる総奏に一瞬だけ道を譲るのだ。

 再現部を特徴づけているのはいくつかの細部の変更点のみである。しかし、まさにカデンツァの直前で、モーツァルトは最初の総奏にちりばめた主題の豊富さを思い出し、すぐにそれらを忘却から救い出そうと試みる。彼は独奏のトリルとカデンツァの間に2つ、カデンツァ(原注1)の後にもうひとつの主題13ここで再現する3つの補完的主題は次の通りである。・第351小節~ → 第12小節からの副次的主題・第357小節~ → 第16小節からの副次的主題・第365小節~ → 第45小節からの副次的主題を据え、そしてついにff14新全集版ではこのffの指示はない。でヘ長調の主和音へと到達する。ここで聴衆は拍手をする気になるのだが、モーツァルトは再び初めから始めるそぶりを見せる。弦はピアノ(p)で譜例36を呟くのだが、これはモーツァルトのしかけた悪戯に過ぎず、聴衆は独奏が入るのを待ち構えるのだが、3つの和音がフォルテでゲームを終えるのである。

(原注1)この曲以上にK.459の協奏曲〔No.19 ヘ長調〕のものではないかと思わせる、低音の保持音で始まる非常にすばらしいカデンツァである。それはザルツブルグの聖ペテロ教会の図書館に保存されており、1921年にマンデュチェフスキーによってファクシミリで出版された。私はこれを補遺Ⅱに掲載したが、ピアニストたちにこれを熱心に薦めたいと思う。草稿はレオポルドの手になるものである。

 この心地よいアレグロに続くラルゲットはモーツァルトがウイーン期に書いたものの中で最も平凡なもののひとつである。この点でほぼ唯一匹敵するのは、同じ年のハ長調の協奏曲〔No.13 K.415〕のアンダンテである。これは第1主題が総奏で提示されピアノによって反復される2部構成の楽章である。その6拍のフレーズのリズムが、低音の4拍のリズム15原著はsix-beat phrases overlaps agreeably the four-beat of bars。第1ヴァイオリンの奏する第1主題は第1小節および第2小節の第1拍目までを6拍構造で、それに対して第2ヴァイオリンは各小節4拍のアルベルティ・バスで伴奏していることを言っており、ポリリズム的なものを言っているのではない。に心地よく重なるが、しかし、これがこの楽章で唯一独創的なものなのである。楽章全体が右手の平凡な甘ったるい旋律的展開と左手の絶え間ないアルベルティ・バスによって何らの音調の変化もなしに展開していく。第1主題へと導き戻す役として働く美しい調べの中でより個性的なトーンが鳴り響く(譜例37)。その中にはモーツァルトに特有の、洗練され、心地良い、夢見るような何かがあることを認める。しかし、カデンツァ(原注1)の直前に再帰するこのパッセージが、作曲家がその仮面をはずす唯一の場所なのである。

(原注1)このフレーズを基にしたレオポルドの手になる愛らしいカデンツァは、マンデュチェフスキーによって出版された。前頁の原注と補遺Ⅱを参照。

 

 ロンドには第1楽章にある特質すべてがあり、それ以上のものも備えている。この協奏曲の中で最もすばらしい部分であるのみならず、その旋律的な展開に関してモーツァルトの最も心地よいフィナーレのひとつであり、また形式においても最も独創的なもののひとつである。その中ではアレグロと同様に主題の分裂が見られるのだが、それでも旋律の流れは途切れることなく、これ以上ぎくしゃくとすることなく繋ぎあわされた旋律は考えられない。リフレインの主題はあたかも全て一体として作られたようだと思わせるが、それでも考えられうる限り最上の優雅さで分かたれ、その断片は分裂した後、それらに割り当てられた役割を誠実に引き受ける。リフレインそれ自体が回帰する時、それは同一であることに甘んじることなく、回帰するたびに、旋律の順序あるいは和声づけに変化があるのだ。

 総奏が始まり、リフレインを提示する。それはメヌエットの32小節の主題であり、それぞれ4小節のフレーズに分かれる。この規則性はこの楽章の持つ舞曲の特性に適ったもので、楽章全体を通じて最後まで保持される。それはリフレイン全体が提示される唯一の時であり、その後の2回の再帰のそれぞれで短縮され、また異なった低音を付けることによって、あるいは新たなモチーフを付け加えることによって変形されるのである。そのゆったりとした高音と非常に活発な低音を聴くと、ヴァイオリン・ソナタ変ホ長調K.302のロンドを思い起こさせるが、これはモーツァルトの最も愛すべきリフレイン主題のひとつなのである(譜例38)

 独奏が新たなモチーフによって入ってくるが、それはリフレインの変奏以上のものではない。まさにこの楽章の中の異なった楽想の間にも、第1楽章の楽想の間と同じような類似性がある。このモチーフは、オクターブの和音のパッセージで繰り返され、再び現れることはない。それに続いてオーケストラが短く中断させるが、これはすでに述べた断片化の最初の例である。総奏が中断させる断片はリフレインの後半の部分から引用されたものである(譜例39)。ピアノがそれをもう一度取り上げ16「もう一度取り上げ(The piano takes it up again)」となっているが、譜例39は第17~20小節の再現、ピアノが取り上げるのはもう一つ前の第13~16小節の再現である。ガードルストーンの主旨は「リフレイン主題からそのもうひとつ前の断片を」ということであろう。、第2クプレでさらに手が加えられることになる華麗な音型へと突き進む。オーケストラはリフレインの後半からもうひとつ別の断片(譜例40)を借りてリフレインの再帰の準備をする。そこでピアノがそれを繰り返し、変形させる。そして、ホルンの小さなファンファーレの模倣(まだピアノで)とともに、リフレインの最初のパートが視界の中に戻ってくる。     

 18世紀の、特にロンドが勝利を見た当時の作曲家たちが彼らのリフレインを頻繁に変形させなかったことは残念だが、モーツァルト自身の作品においてもこの残念さが思い起こされることがある。しかし、ここではそれを感じることはない。そして最初の再帰でピアノが繊細な3連符の低音をつけてリフレインを繰り返すが、これは元の下降音階の豊かな変奏である(譜例41)。リフレインの後半の部分は反復されず、その代わりに、やがて譜例40の場所を占めることになる、新しい“断片”17第106小節からの上昇および下降音階による副次的主題である。が登場し、譜例40は永遠に消え去ってしまうのだ。リフレインの最後の4小節が締めくくり、第2クプレがたった今耳にした新たな旋律で開始され、ピアノによって再度提示される。

 第2クプレはこれが最後のものである18原文はThe second couplet is also the lastであるが、also示す他の最後のものが本文では特定できない。そのため本文は「第2クプレはこれが」と訳した。。というのもモーツァルトはこれと次の協奏曲では、2部構成のロンドを好み、3部構成のソナタ・ロンドを放棄しているからである。2部構成のロンドはその構造上3部構成のものよりも同質性が低くなりがちだが、ここではそうはではない。ほぼすべての主題の密接な類縁性と、絶え間ないリフレインの断片の再帰が全体をうまく融合させている。そこではよほど子細に吟味しないと“セクション”を見出すことができない。一聴すると、明らかなフレーズの対称性があるにも関わらず、同時代のロンドによく見受けられる明確な区切りがなく、それらは相互に溶け込み合っているのである。

 原則としては、この第2クプレは第1クプレを繰り返すのだが、違いもかなりある。第1クプレが開始された音型は新しくリフレインの断片に置き換えられている。技巧的なパッセージの音形が今度はヘ短調で開始され、しばらくして、静謐なメヌエットに火がつき、急ぎ足に短調を転調し続け、すでに耳にしたホルンのファンファーレ音型19ホルンのファンファーレを模した音型のことで、第1クプレの最後での初出の時と同様ここでも奏するのはピアノである。の中に消え去り、それが再度、リフレインの回帰を告げるのである。譜例39の断片について言えば、これは変形されることなく再帰する唯一の要素である。

 第3の、そして最後のリフレインの出現は、コーダのような長さを持っている。ここでの変形は、主題を弦に委ね、一方でピアノは3オクターブもの幅で上下する幅広い音階で伴奏する。最後に出現した断片20訳注18で触れた第106小節からの最後に出現した副次的主題である。が最後の短い華麗なパッセージに導き、その後に最初は低音部で次いで高音部で奏される、元の低音音階を縮減させた一種のデスカントを伴って第1主題が回帰する(譜例42)21譜例42は、5小節目から7小節目まで省略されている。。やはり前に出てきたものと類縁性のある新たな音型がコーダとして働くのだが、独奏はそれに右手で対位的に音階をつけ、最後のフォルテ22新全集版では、このフォルテの指示はない。また最後のピアノ〔p〕はppである。のものの後で、この曲はピアノ(p)に弱まっていく。これはロンドの構想そのものと同様に独創的な結尾であり、作品全体の穏やかな性格によく合致したものである。

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