協奏曲第6(No.10 2台のピアノのための) 変ホ長調(K.365

1779年または1780(注1)

アレグロ:4分の4拍子(C
アンダンティーノ:4分の3拍子(変ロ長調)
ロンドー:アレグロ:4分の2拍子

オーケストラ:弦;オーボエ2、ホルン2、バスーン2

(原注1)全集版番号で第10番

 

 第6番の協奏曲〔No.10 K.365 変ホ長調 2台のピアノのための〕とその前の作品との間には18か月あるいは2年の歳月が経過しており、その期間は重要な出来事に満ちていた。すなわち、モーツァルトはこの期間に生涯最後の外国旅行を行ったのである。

 第5番の協奏曲〔No.9 K.271 変ホ長調 ジュノーム〕を作曲した数か月後、モーツァルトは成功を求め、母親の同行と父親の助言に守られて、ザルツブルグを後にした。旅立ちは悲しいものであった。特に若い姉、ナンネルは彼らの出発に強い精神的苦痛を感じ、レオポルドによれば、一日中泣き暮らし、涙が乾くのは夕方の食事の時だけであった。モーツァルトと母親は途中バヴァリアに1か月ほど滞在した。ミュンヘンでは、勤め口を求めたが叶わなかった。アウグスブルグでは従妹たち、特にあの有名な従妹のベーズレと知己を得た。モーツァルトは彼女と文通を続け、その尻軽な調子は幾人かの批評家の眉をしかめさせることになった。彼らはアウグスブルグからマンハイムへ赴き、一冬をそこで過ごした。選帝侯チャールズ・セオドールの好意ある歓待は若干の希望を抱かせ、その地でモーツァルトは数曲のフルートのための作品、ピアノ・ソナタ、ヴァイオリン・ソナタを作曲した。さらに、初めての恋人、アロイジア・ウェーバーと知り合い、その妹コンスタンツェと後に結婚することになる。しかし、マンハイムでは何ら収穫がなかったために、母親と息子はパリへと旅立つのである。ヴォルフガングはパリに1778年の春と夏の間滞在した。彼らがパリに到着して3か月後にモーツァルト夫人が亡くなり、その息子はグリム男爵家へ身を寄せることになった。モーツァルトの手紙からは、パリで足場を得ようと必死に努力をしていたことが窺える。失敗すれば厭うべき生まれ故郷の都市へ帰られねばならないことが分かっており、それだけ必死だったのである。パリで、モーツァルトはある程度の名声を得た。貴族の中に生徒を見つけ、中でもギネス伯爵の娘のためにはフルートとハープのための協奏曲〔K.299 ハ長調〕を作曲し(父親がフルートを娘がハープを演奏した。のみならずうんざりしたモーツァルトの指導の下で彼らは“作曲”を行った)、またコンセール・スピリチュエルは、モーツァルトが“パリの人々の嗜好”に答えることのできる機会のために作曲した交響曲(原注1)〔No.31 K.279 ニ長調〕と4つの管楽器のための協奏交響曲(原注2)〔K.279b 変ホ長調〕を上演した。オペラ座のバレー監督のノベロは、バレー曲をモーツァルトに依頼したが、最後の方になって中断され、一時失われていたが、1874年ヴィクター・ワイルダーによって再発見されたのである(原注3)。モーツァルトの手紙の中のこれらの出来事の記述には、その国や国民への非難と愛国心に満ちた文句が併せてつづられ、それはフランス人の耳には不快だが、ドイツの国民感情を研究する歴史家には興味深いものである(原注4)

(原注1)K.297 ニ長調、「パリ」交響曲と呼ばれるものである。
(原注2)ケッヘル=アインシュタイン番号のK5.279b;おそらくは今は失われた別の作品であろう。
(原注3)レ・プチ・リアン(Les Petites Riens)
(原注4)“私の体はまるで火がついたようで、ドイツ人を知り、認め、恐れることをフランス人に徹底的に教え込みたい気持ちで頭から足の先まで震えました” 

 グリム男爵は荷物をまとめて故国へ帰るようにモーツァルトに忠告した。これがこの懸命な努力すべての結果であった。なんの収穫もなく手ぶらで、しかし世界を経験したことでより賢くなって、1778年9月26日にパリを離れた1パリ滞在の間に、同行した母親が死去している。ガードルストーンは、通常非常に大きな出来事として扱われるこのことについて一言も語っていない。なお後の父親の死についても同様、ほとんど触れていない。。マンハイムを通過した時、友人たちは彼をさらに2か月留めてくれたが、ミュンヘンではアロイジアの不実を知ってしまい、1779年1月の15日ないしは16日に元の家に帰還したのである。

 この18か月は、モーツァルトの協奏曲の研究家にとっては大して興味深いものではないが、モーツァルト自身にとっては最も重要なものなのである。彼の芸術家としての存在はそれから得たものが大きく、マンハイムにおいては、それまではモーツァルトには伝聞でしか伝わっていなかった新たな管弦楽スタイルをその発生源で見ることができ、パリではイタリア以外の歌劇芸術に接する機会を得たのである。これらの新しい音楽的経験はその後も影響を与え続けた。それだけではなく、モーツァルトは人として多くのものを得た。パラティン領のバヴァリアとフランスに滞在中に、ひとりで人生に相対することを学び、恋愛的にも職業的にも大いなる幻滅を味わうことになった。この18か月の間に、モーツァルトは少年期から完全に抜け出したのである。非常に似通った1777年の協奏曲〔No.9 K.271 変ホ長調〕のアンダンティーノと1780年の協奏交響曲〔K.364 変ホ長調〕のアンダンテ間の違いは、前者が青年期の作品であるのに対し、後者は成人男性の作品だということである。この旅の最も重要な成果はここにあるのだ。

 そして、モーツァルトはザルツブルグに戻り、再び大司教のくびきに繋がれ、服従することになるのである。彼の故郷である都市で行われるモーツァルト音楽祭に臨む旅行者にとっては、“気品と微笑みに満ちた”モーツァルトの音楽にこれ以上好ましい舞台はあり得ないだろう。その都市の立地、丘の上にそびえる城郭、バロック様式の教会、その植生、その山脈の連なり、これらが、自分が耳を傾ける音楽としっくりと調和し、このような天国以外の地で、モーツァルトの天才が生まれ、養われることはあり得なかったであろうと感じるのである。ザルツブルグの魅力と、そこで(バヴァリア人の父親のもと)生まれた偉大な音楽家との表層的な関係を見出す可能性を否定はしないが、モーツァルトが産声を上げ、旅行の期間を除く人生の最初の25年を過ごしたこの都市を世界中のどこよりも憎んでいたということを心に留めておいた方が良いだろう。モーツァルトが今日戻ってきて自らの作品の音楽祭に参加するならば、それはミュンヘンかマンハイムかプラハ、特にプラハであろう。プラハのみがモーツァルトにふさわしい歓迎をしたのだから。

 1779年1月のザルツブルグへの帰還は苦々しい対比に満ちたものであった。それはコロレード大司教の教会音楽監督としての義務がわずらわしかったからではなく、外の世界で失望を味わったにもかかわらずそれを見たことによって幻惑され酔わされながらも、彼の野心に共感し、その才能がどれほど高く飛翔できるかを理解する者がおそらく父親以外に誰ひとりとしていない狭量な都市に、未来もなく、自らを埋没させるためにいやおうなく戻らざるを得なかったからである。この都市でモーツァルトは、芸術家に侍従ほどの価値も認めず、芸術は心地良いが必ずしも必要ではない娯楽以上のものでなく、その好みから自らの音楽が大きく隔たりつつある主人の使用人として生き、そして死ぬ運命を見たのである。この都市のバロックの丸屋根を再び目にした時に、自らを解放しようとしたが果たせなかった試みを思い、モーツァルトはどれほど焦りを感じ、またどれほど絶望を感じたことであろうか!

 彼の当時の精神状態がどのようなものであったかを描くには、ミュンヘン、マンハイム、パリからの手紙の中でザルツブルグについて語るその口調が手掛かりとなる。父親との手紙のやり取りは、当然ながらザルツブルグへの帰還とともに止んでしまったからである。モーツァルトの唯一の慰みは音楽であった。とはいえ、それは聴衆を楽しませるものであるべきだが、彼らの音楽に対する考え方は急速にモーツァルトのものと同じではなくなりつつあった。モーツァルトが作曲できるものと、作曲しなければならなかったものとの違いは、この時期に作曲された2つのミサK.317〔ハ長調 戴冠式ミサ〕およびK.337〔ハ長調〕と、その数か月後に、ミュンヘンで大司教の嗜好の制約から離れて作曲した、暗い美しさに満ちたニ短調のキリエK.341によって知ることができる。

 とはいえ、モーツァルトが、ザルツブルグの最後の滞在期間(1779年1月から1780年11月)に作曲したものすべてが束縛を示しているということではない。これらの年のいくつかの優れた作品は、束縛されることのない才能が生み出した紛れもない彼の子供であり、その中のひとつが2台のピアノのための協奏曲〔No.10 K.365 変ホ長調〕なのである。これはモーツァルトが支配的であった嗜好を完全に無視できたとしても、これ以外の形に構想し作り上げることはできなかっただろうと思われる、喜びにあふれた作品なのである。

 作曲の正確な日付はわかっていない。分かってとはいえ、モーツァルトが、ザルツブルグの最後の滞在期間(1779年1月から1780年11月)に作曲したものすべてが束縛を示しているということではない。これらの年のいくつかの優れた作品は、束縛されることのない才能が生み出した紛れもない彼の子供であり、その中のひとつが2台のピアノのための協奏曲〔No.10 K.365 変ホ長調〕なのである。これはモーツァルトが支配的であった嗜好を完全に無視できたとしても、これ以外の形に構想し作り上げることはできなかっただろうと思われる、喜びにあふれた作品なのである。のは、それがザルツブルグで、彼の帰還の日である1779年の1月15日か16日と、ミュンヘンへの出発の日である1780年11月の4日か5日の間だということだけである。また、それが作曲された状況についても知られていないが、演奏に要する技巧の練られ方からすると、モーツァルトはそれを姉と一緒に演奏する意図を持っていたと思われる。2台のピアノの息はぴったりと合っているし、そのひたむきな協働ぶりから、そうであっただろうと思いたくなるのである。

 この作品のトーンは気品に満ち、王侯の前で演奏するにふさわしいものである。第5協奏曲〔No.9 K.271 ジュノーム〕の衝動的な主題にあたるものはロンド以外にはない。そこには、“ボタンをはずした”と ベートーヴェンならば表現するかも知れない陽気さがあるが、それは常に許容できるものである。作曲家の個性の主張はより控え目であり、ひとつ前の作品〔No.9〕の純粋に肉体的な進行はこの第1楽章にはない。全面的な楽しさには欠けるかもしれないが、しかし、これはより優美であり、その容貌はより整っている。野心あふれる飛翔はないかも知れないが、その代わり、幅広くゆったりとした主題に加え、1777年のせわしない協奏曲にはない均整がある。1776年の変ホ長調の協奏曲〔No.6 K.238〕の理念に立ち戻るのだが、それに個性の成熟と沈着さが加わっている。今日においても、それ以前の協奏曲よりその魅力は深く、より真摯に受け止めうるものである。

 

 

 この曲はモーツァルトの最も堂々とした主題のひとつで始まる。それは主和音2原文common chord。現在では、転調によく使われる異名同音の和音のことを指すことが多いが、ガードルストーンの時代には「主和音」の意味でも使われており、本書ではすべて「主和音」の意味で使われている。に基づいたユニゾンの主題である。ほとんどのモーツァルトの変ホ長調の作品と同様であるが、それらの多くは、例えばK.271〔No.9 ジュノーム〕のように角張ったリズミカルなものであるのに対し、この曲の主題は、ゆったりと大きなうねりの上に生まれた波のように流れていく。それは主音で始まり、すぐに1オクターブ下がり、また主和音の音程にそって上昇し、またさらに下がり、属音で停止する。この時点で協和的なもの3冒頭からここまでがユニゾン、これ以降ユニゾンではなく和声的(harmonized)なものになる。になり、フォルテからピアノ(p)に移り、少しずつ波打ちながら上昇し、分裂した後、優雅に主和音へと戻る(譜例20)

 ここでオーケストラ全体が入り、さらに陽気な旋律が続き、開始部とは全く異なった16分音符と連続音の主題で戯れる。ハ短調から変イ長調、ヘ短調と転調し、変ホ長調に戻り、最後に属7の和音に落ち着き、休止する。そしてホルンの呼びかけによって補強されたヴァイオリンのピアニッシモの連続音のもとで、ビオラとチェロがリズミカルなモチーフを呟くのが聞こえる。これは最初、遠くにいる軍隊の足踏みのようにかすかにしか聞こえない。弦がそれをクレッセンドで繰り返し、オーボエがそれを補強する4このリズミカルなモチーフは最初第2ヴァイオリンとビオラで2回反復された後、最後の3回目の反復でオーボエが補強として加わるが、それと同時にバスーンおよび低弦(チェロとコントラバス)も加わる。。それは次第に近づいてきて、自らを主張するので、それが第2主題だと感じる。最終的にそれは管弦楽全体に広がり、そして意気揚々と結尾へと導いていく(30~42小節)。

 2台のピアノが楽しげに、ユニゾンのトリルで入ってきて、この曲全体を通しての彼らの相互連携のあり方を示す。彼らは開始部の重々しい第1主題を繰り返し、その開始部は彼らの手で幾分装飾されて現れるが、2番目の旋律は飾り気のない全体の形を保持する。第1ピアノがそれを提示し、第2ピアノが1オクターブ下でもう一度それを読み上げる。開始から彼らの協働の性質は明快である。3台のピアノのための作品〔No.7 K.242 ヘ長調〕で見られた対位法はここにはすでにない。独奏者たちは繰り返し、エコーし、そしてお互いを伴奏する。しかし決して同じように仕事をするのではなく、それぞれが交替して主人を務めるのだ。この構想からは、バッハのものほどの結果は生まれないが、モーツァルトは得られる限りのものを引き出している。

 第1主題による短い独奏の後に、総奏が導入部を締めくくった音型で、また入ってくる。これはアリアから借りてきたやり方で、モーツァルトは他の3つの協奏曲でこれを使っている(原注1)。このやり方は、過ぎ去ったものは完全に終わりを告げ、曲はその舳先を新たな海岸に向けたと感じさせ、それによって協奏曲に一種の弾みが生まれ、再び今までよりもさらに楽しげに出発するのである。

(原注1)K.238〔No.6 変ロ長調〕、K.414〔No.12 イ長調〕、K.537〔No.26 ニ長調 戴冠式〕

 過去から解放されて、2台のピアノは第2音で10度も飛び跳ねる大胆な主題で楽しい冒険を追い求め、その出発点に戻る。一旦両方の独奏者がそれを提示し終わると、2人の間で魅惑的な小波となって、分かれては寄せるうちに、2番目の旋律が現れてくる(84~95小節)。ここからが独奏主題の後半部で変ロ長調となる。これは第2ピアノに委ねられ、その間、第1ピアノによる小波が連続し、この魅力ある旋律を伴奏する(譜例21)。1小節の総奏(この間ずっとオーケストラは沈黙を守るか保持音のみに自らを止めている)に続いて、第1ピアノが真の第2主題に飛び込んでいく。これは提示部で見定めたものとは全く異なるもので、譜例21の姉妹のような主題である。それはまた同様に2つの旋律に分かれ、最初の部分は第1ピアノのみに属し、右手の(図1)のリズムと、左手の(図2)によって足を引きずるように進んでいく。もうひとつは第1ピアノのトリルのもと第2ピアノに任せられる。それが終わると、第1ピアノが再び前進をはじめ、第3の旋律をコーダとして付け加える(104~120小節)5第104小節は真の第2主題が開始される小節で、コーダとしての第3の旋律が開始されるのは第116小節からである。。モーツ ァルトの協奏曲でこれほど主題に富んでいるものは少ない。独奏の入りからそれらの主題が休みなく互いに連続し、華やかなパッセージの必要性を失わせる。第2ピアノが再び入り、両者はアルペジオで羽根を突きあいながら、また音階とトリルはさざ波を立てて下り、互いに火花を散らし合い、きらきらと生命感に溢れ、そしてモチーフをほのめかし、ほのめかされたモチーフは表現力を失 うことなく走句に徐々に移り変わっていく。そしてついに、第1ピアノ、第2ピアノが3度を保って進む半音階6分解されたオクターブで半音階下降する第1ピアノと第2ピアノの間が3度の関係である。によって、提示部を閉じる属和音でのトリル7原文はthe dominant trill。第141小節のトリルである。第1ピアノは変ロ長調のレ音、第2ピアノは3度下のシ音で属和音を成している。第142小節は主和音による終止である。へと急降下する。

 ここでのオーケストラの役割は極めて残念なものである。それは自らの主題を持っていない。海岸線からほんのしばらく離れた今は、総奏ができるすべてのことは、過ぎ去ったものの記憶をかき集めて、提示部での“軍隊の足踏み”の主題に続いたコデッタに戻ることだけである。しかしながら、これは不幸なひと漕ぎであり、なぜならこれがたちどころに独奏者たちの他の記憶を呼び起こしてしまうからだ。提示部の結尾8ガードルストーンは展開部の開始を上記の「属和音のトリル」の後の第147小節からとしているが、そこからの“軍隊の足踏み”の後のモチーフのコデッタは実質的に第1提示部を閉じたもので、ここでは第2提示部を閉じるコデッタであり、展開部は第153小節のト短調に転じたところからと考えるべきだろう。から6小節進んだかと思う間もなく、第1ピアノがト短調に転調された最初の総奏の主題とともに戻ってくる。もう1台のピアノが続き、ゲームが再開される。K.271〔No.9 変ホ長調〕のように、この主題が展開されていくことを予期するのだが、モーツァルトはぐずぐずと展開に拘泥することなく、恐ろしく気前よく散財するのである。6小節後、第1ピアノがハ短調で入り、第2ピアノが新たな主題を提示する。この主題は連続して打たれる小太鼓の響きのような高音でのトレモロ音型を伴い、低音は不吉な様相の16分音符の3連符で“ぴかぴかの鎧”をまとい威嚇的に現れてくる(譜例22 160~69小節9原著で譜例22は第1ピアノとなっているが本文通りこれは第2ピアノである。譜例を修正した。また、第160~169小節の指示は、第2ピアノの新しい主題の開始が第159小節であり、第159~169小節が正しい。)。しかしながらこれはただのボール紙で作られただけの兵士で、楽しみを妨げはしない。それを深刻に受け止めないことにしよう。そして、それは陽気な変ロ長調へと進むが、現れた時と同じように突然消えてしまう。そこでもうひとつの主題が形作られる。これが9番目で、最後なのだ! それは前に出てきたものと同様に優美で、切実な思いに満ちているために、ピアノだけでは完全に表現しきれず、オーボエに呼びかけるのである。これはおそらくこの楽章全体の中で最も魅惑的な瞬間であろう(原注1)。この完全にモーツァルト的な3小節で、木管が独奏にエコーを返し、主題を引き伸ばしつつ締めくくる(譜例23)。この楽しい主題の精神は、続く数小節の静かな、交頌のようにひとつのピアノから他のピアノと受け渡される音階にもその姿を留め10「モーツァルト的な3小節」とされた第171~173小節は右手がオクターブで下降、次いで左手が16分音符で上昇するが、第177小節からは、一聴すると全く別のものと感じられるものの、右手が16分音符の上昇、次いで左手が3度の和音で下降するという、若干の変形が加えられただけものである。、独奏達が属7の和音で停止する時、聴衆は再び見知った土地の中にいるのである。ヴァイオリンのつぶやきとともに、最初の総奏以来戻ってくることがなかった“軍隊の足踏み”の主題が遠くに聴こえてくる。ピアノがそれを取り上げ、それはすぐにオーケストラ全体に広がっていく。展開部は終わりに到達し、美しいピアノのメリスマ11メリスマ(melisma)とは、聖歌から発生した、歌詞の1音節に対して、いくつかの音符を当てはめるような曲付けの仕方である。展開部を締めくくるのは、ピアノの16分音符による下降音階であるが、下降旋律に対し16分音符がメリスマ的に機能していることをこう表現したものと思われる。ガードルストーンのよく使う用語では、分解された音階(broken scale)と同じである。によって出発点へと連れ戻される。

(原注1)協奏交響曲〔K.364 変ホ長調〕の第1楽章で、ヴァイオリンとビオラが入るのは、この主題によってである。

 先に、ピアノ協奏曲ほどモーツァルトが再現部を変形させたものはないと述べたが、最初の5曲〔No.5 K.175二長調 ~ No.9 K.271変ホ長調〕については、このことがほぼ当てはまらない。つまり、それらの再現部はほぼ第1部を再現しているだけだからである。しかし、この曲ではもはやそうではない。堂々とした開始部の主題が再現され、一瞬重々しい空気が曲のおもてを通り過ぎる。1台のピアノが第1主題の前半の断片を短調で取り上げると、重々しさから暗く陰鬱なものになり、もう1台のピアノは後半の断片を短調のままで続ける。これまでは平穏で心軽やかだった楽章が突如、ほとんど憂鬱と言ってもよい雰囲気に支配されてしまう。そして、その雰囲気が薄れるよりもより強まると感じさせるときに、モーツァルトが好み、常に緊張の高まりを感じさせる羽ばたく2度が現れる(譜例24;212~223小節12「羽ばたく2度(fluttering second)」が現れるのは、212~224小節である。)。この音型は第1ピアノから第2ピアノへ受け渡され、中音部で、そして高音部で、次いでより弱々しく低音部へと移っていき、その後突然それは暗い影とともに消え去ってしまう。

 このように再現の直後に短調に転じてしまうことはモーツァルトでは珍しい(原注1)。これはウィーン楽派に特徴的なものであったと思われ、再現部だけではなく他のところでも主題を短調で繰り返すことを好んだワーゲンザイルにまで遡る。モーツァルトがこれを取り入れたのはショーベルトからだったかも知れない。というのもショーベルトでもこれが頻繁に行われ(原注2)、若きザルツブルグ人に与えた彼の影響力が1779年にはまだ残っていたからである。モーツァルトは彼の音楽を賞賛していたし、フランスの首都に滞在していた時には自分の生徒にショーベルトのソナタを教授していた。ほぼ間違いなくパリで作曲されたと思われるイ短調の見事なソナタK.310には、ショーベルトの作品ⅩⅦ,1からほとんどそのままの引用が含まれている(原注3)。多様な、また幅広い影響を吸収したモーツァルトは、それらの中から彼の性分に合うもののみを選び取った。そして、たとえこの突然の短調の出現が当時広く行われていたやり方であったとしても、これは推移部もなしに笑いから涙へと移り、とても愉快な時にも悲しみと境を接しているモーツァルトの不安定な気質と一致しているのである。悲しみの天使が常に内側から見つめており、すぐにそのベールを脱ぎ、顔を現す準備をしているのだ。

(原注1)この協奏曲と同じ年代のハ長調交響曲K.338〔No.34〕、マンハイムでのハ長調のソナタK.309〔ピアノ・ソナタNo.7〕 もこの例である。
(原注2)彼のソナタ作品Ⅴ, 1(第1、第3楽章)、作品Ⅵ,1、作品Ⅶ,1(第1、第3楽章)、作品ⅩⅦ,1(同上)、それにハ長調の協奏曲作品ⅩⅤで見られる。
(原注3)モーツァルトのイ短調のソナタ〔No.8 K.310〕のアンダンテにおける二重終止線の後の13~16小節は、ショーベルトのソナタのアンダンテにおける二重終止線の後の17~21小節とほぼ同一である。ショーベルトの楽章は、モーツァルトが1767年、11歳の時に協奏曲に編曲したもののひとつである。

 この楽章の残りの部分では、再現部までを支配していた情熱を取り戻す。ここでは独奏の主題の2番目のものだけが出現する。真の第2主題全体が提示され、適切にも開始部主題の後半の断片が巧みに回想される。その末尾は変形されており、その重々しさはきらめくコデッタにより軽減され、コデッタは小さな波となって四散する。この楽章でただひとつの華麗なパッセージでピアノの演奏は結ばれ、カデンツァへ(原注1)と橋渡しされる。その後で総奏が導入時に行った形で締めくくる。

(原注1)ザルツブルグの聖ペテロ教会の図書館に、第1楽章と第3楽章のカデンツァが存在している。一部は自筆、一部はレオポルド〔父〕の手になるものである。それらはマンディチェフスキーにより1921年にファクシミリ版として出版された。両者ともややおざなりなものである。アレグロのためのものは譜例20、22、そして23を使っている。ロンドのためのものはリフレインの主題を扱っており、大よそ2台のピアノの間での模倣的パッセージからなっている。補遺Ⅰを参照されたい。

 K.271〔No.9 変ホ長調 ジュノーム〕のアレグロとアンダンティーノ間の鋭い対立はここでは生じない。それどころか、この変ロ長調のアンダンテは、第1楽章と同様の幸福な思いと愛の喜びをより瞑想的なトーンで歌い上げている。幸福な流れを一瞬せき止めた暗い旋律が、ここで憂愁の束の間の表現として再び現れる。激しさを装っていたハ短調の展開部の主題にも、同じく対応するものがある。主題の特性が似ており、同じように数が多い。モーツァルトは今まで同様に蓄えを惜しみなく使い、ここでは主題的展開は全く行われていない。

 楽章は途切れるようなリズムのフレーズで始まる。それは3重のこだま13ヴァイオリンで2回提示され、それをオーボエが引き継ぐ、この3回のことと思われるが、連携的な協働のエコーとは異なるので「木霊」の意味に訳した。の中に消えていくため息である。この曲想の表出は断片的であるが、その上を高く舞うオーボエの保持音がそれにまとまりを与えている。2台のピアノはほぼ同時に、総奏と同じモチーフで入ってくる。“ため息”は第2ピアノに、トリルの形をとった保持音は第1ピアノで奏される。第2ピアノは独り憂愁に満ちた、揺れ動く半音階的な主題を続ける。第1ピアノが3度下で第2ピアノの後に続くと感情が熱を帯びるが、しかしそれはすぐにアラベスクの中へと消え入り、独奏者たちは活気ある主題を勢いよく奏し、7の和音にたどり着き、それは2台の鍵盤がともに打ち鳴らす。ここで雰囲気が一変する。ピアノは沈黙し、よりテヌートのかかったオーボエのもとで、弦がトリルと保持音の音形でささやく。ピアノがその終わりの2小節で入ってくるが、今度は、オーケストラが引き下がることなく、この協奏曲の中でも少ない対話がそれに続く。オーボエのテヌートが主題に変り、ピアノは分解された和音でそれに伴奏をつける。そのパッセージは伴奏が交代して反復される14第35小節から第37小節のパッセージが推移のフレーズの後、第39小節から第42小節で第1ピアノの伴奏音型が第2ピアノのものと交代することを指している。あるいは第35小節と第36小節間、第39小節と第40小節間での各ピアノの伴奏音型の交代があるが、これを指しているのかも知れない。。そしてオーケストラ全体による短い介入があり、それは楽章の終わりで重要な役割を果たす短いモチーフであるが(譜例25)、これにより第1部が閉じられる。

 アレグロ同様、中間部は展開の意図なく何気なく現れては消える主題が連続する。最初は第1ピアノに委ねられた変ロ長調の2小節が来、さらに2小節、第2ピアノが変ホ長調でそれを繰り返す。そして突然、ハ短調の新たな主題が告げられる。それは悲劇を装うが、ほとんどうまくいかない。それは、第1ピアノがそれを変ロ長調で取り上げ、この楽章の基調の線へと戻ってしまうからである。対話が独奏者たちの間で進み、やがてうねるような音型が、さらに分裂して、冒頭の途切れるようなリズムで主題を連れ戻す。再現部は特に重要な変更もなく進行し、第1部を閉じたモチーフ(譜例25)に至る。総奏がそれを終えた時、第2ピアノに伴奏されて第1ピアノが魅力あふれる4小節15譜例25を第1ピアノの両手で四重和音、第2ピアノがアルペジオをつける第99~101小節の3小節と見るべきである。でそれを取り上げる。オーケストラは、真にモーツァルト的な振る舞いで、控えめなコデッタを付け加える。

 

 最初の2つの楽章ではほとんどなかったオーケストラが演奏するパートは、ロンドではより広範囲にわたっている。また、いくつかの主題的展開もあり、主題の間である種の類似性も認められる。第1と第2のリフレインでの再帰や、第3クプレの冒頭のパッセージなどは、2台のピアノが様々に展開したもの、またリフレインの主題を基にしたものである。形式としては、この楽章は3つの中で最も興味深いものである。展開という手法に頼っているが、第1楽章同様に旋律が美しい。

 オーケストラが楽章を開始する。リフレインはフランスのアリエッタを基にしたと思われる2段重ねの主題であり、これは1776年の変ホ長調のディベルティメントK.252 のフィナーレと幾分類似しており、またモーツァルトによって拍子を変えられて、狩の四重奏曲〔No.17 K.458 変ロ長調 ハイドン・セット第4番〕の最終楽章で再び使われるものである。それは生命力に満ち溢れ、休止の初拍を伴っており、小気味よさも欠いてはいない(譜例26)

 総奏が主導権を握り、リフレインが終わるまで、独奏者を入らせない。それ故に、ピアノは何か新しいものを見つけざるを得なくなり、第1ピアノがそれに似てはいるが、リズムと音型の細部の異なる主題で前に跳び出る。第2ピアノは、最初は沈黙しているが続けて入り、第1ピアノが語ったばかりのことを1オクターブ下で繰り返す。いくつかのオーケストラの楽器が声を添える。主題の最初の断片の後で、オーボエの機知あふれるエコーが聞こえる(64小節と68小節)。そしてオーケストラ全体が攻めに出てリフレインの最終小節を閉じる。ピアノがそれを直ちにユニゾンでつかみ取り、冒険に出発する。一台は反復される16音符で武装し、もう一台は3連符に跨って、しばらくの間第1ピアノの速足と第2ピアノのギャロップの間で必死の闘いが繰り広げられる(87~98小節)。ギャロップの3連符が勝利をおさめ、特徴のある旋律的な伴奏を形作り、その一方で第2ピアノに硬直したリズミックな主題が現れる(99小節)。そして主役は交替し、オーケストラはより豊かでこれまでで最も独創的な伴奏を加え、ハーモニーを満たし、ピアノの動きとは逆の動きで進んで いく(譜例27、113~127小節)16第2ピアノの3連符の下降に対してヴァイオリンの上昇、第2ピアノの上昇対してはビオラが下降音型を奏することを言っている。。再帰の時は目前である。そして、これまでの協奏曲の中で初めてモーツァルトの魅力のひとつである再現の技の例に出会うのだ。第1ピアノが、その気分はリフレインを思い起こさせるがそれに基づくものではない旋律を断片的にスケッチする。主音の半音下で始まるその主題は、今まで耳にしたいくつかの主題を締めくくるものと感じさせる。第2ピアノがそれを繰り返し、第1ピアノがその最後の数音をエコーする。第2ピアノも同じくエコーを返す。そしておかしなほど単純な2つの要素―5つの音符の音階の断片と、2つの3度の変ロ長調の和音(原注1)によって、モーツァルトは我々を妖精の国へ誘い込み、リフレインの主題が再び楽しげに現れてきても、聴衆は目の前で繰り広げられていることに驚嘆し続けるのである(譜例28、142~170小節)。

(原注1)同じような、しかしより簡潔なパッセージで、この先行例となるのは、ハ長調のマンハイム・ソナタK.309〔ピアノ・ソナタNo.7〕のフィナーレである。リフレインの最後の回帰の後の最後までの43小節である。

 第2クプレは近親短調で始めるというフランスのロンドの伝統に従っている。新しい主題は前と同じ順序で展開される。第2ピアノによって提示された主題は第1ピアノによって伴奏(分解されたオクターブ)され、次いでパートは入れ替わり、弦が入り独奏者を独自のリズムで伴奏する。いくつかのアルペジオがひとつのピアノから他のピアノへと織り交ざり、オーケストラがリフレインを思わせる断片でそれに答える。ト短調からヘ短調、変ホ長調、ト短調そしてハ短調と転調していく。主題の初めの部分が再帰し(255小節)、オーケストラは第2ピアノを伴奏し、一方、第1ピアノは分解されたオクターブでそれを支援する。そして、再びモーツァルトは我々に魔法の再帰を用意している。ハ短調の主題が終わると、第1ピアノが単独でト短調のモチーフを提示するが、それはあたかも既に耳にしたものから引きちぎってきたもののように感じさせる。そしてそれはモーツァルトがか くも愛した“羽ばたく2度”音型で特徴づけられている(270小節)(原注1)。第2ピアノがそれを反復し、第1ピアノは対位のトリルを付け加える。モチーフと対位音型は、1台のピアノから他へと受け渡され、ト長調へと転調し、そこから音階の2つの音に基づいてもう一度半音階的に転調し、見事なくらい無駄なく変ホ長調とリフレインを連れ戻す。モーツァルトは後の協奏曲において、壮大なロンドを書くことになる。しかし彼の全作品の中でも、これほどシンプルなやり方を用いて、これらの2つの再帰17譜例28の第2リフレインへの再帰の仕方と譜例29の第3リフレインへの再帰の仕方の2つを指している。以上の表現力を持つパッセージを数多く見出すことはない(譜例29、270~296小節)。

(原注1)それは『魔笛』でのパパゲーノのパートの中のパッセージに類似している。
“O wär ich eine Maus!  Wie wollt ich mich verstecken,Wär ich so klein wie Schnecken,  So kröch ich in mein Haus.”
 “おお、ぼくがネズミだったら! どこかに隠れられるのに。なめくじみたいにちっちゃけりゃ 家まで、這って帰るのに。” (第1幕のフィナーレ)
                           〔オペラ対訳プロジェクト http://www31.atwiki.jp/oper/pages/53.html より〕

 リフレイン全体が第2ピアノによって提示され、総奏によって反復されるが、突然休止へ導かれ、手短に変イ長調で結ばれる。再現部クプレに入ったところなのだが、モーツァルト創造力は未だ尽くされてはいない。第1ピアノが取り上げるのは、独奏者たちが最初に入ってきた時の主題18第1クプレの主題のことである。ではなく、リフレインそのものである。そしてそれに続いて多少の主題的展開が行われる。それはリフレインの最初の4小節に基づいたもので、各々のピアノは一方が止めた時点で片方がそれを引き受けながら連続して上昇していく。変イ長調、変ロ短調、ハ短調そしてヘ短調と通過していき、そしてそれから派生した音型に乗って下降し19第3クプレの冒頭から4小節のモチーフが上昇を開始するが、1回おきに1度ずつ上昇する。20小節で4度の上昇である。一方、第357小節から下降が始まるが、3小節のモチーフが半小節はかさなりつつ、毎回1度下降する。9小節で4度の下降である。すなわち、ゆっくり上昇して急下降する形になっている。脱線を早々にひきあげる“おどけ”的なものである。、変ロ長調へと至り、その調で総奏がもう一度リフレインの断片で入ってくる。この脱線の後で、お馴染みのロンドに立ち戻り、第1クプレの主要主題が若干異なった装飾と伴奏とともに再び現れる。それは主和音で結ばれ、このロンドを通常そうであるよりも明らかに支配してきたリフレインに基づいた短い総奏のブリッジがカデンツァへと導く(原注1)。続くやや長めの結尾部はほぼすべて独奏者たちのものである。それはリフレインの最後の登場であり、オーケストラはただ通常の主和音に基づくお決まりの支持を付け加えるのみである(原注2)

(原注1)111ページの注2(原著)および補遺Ⅰを参照されたい。
(原注2)ウィーンでのアウレンハマー嬢との演奏で、モーツァルトは第1楽章と最後の楽章に2本のクラリネット、2本のトランペット、二台のティンパニを付け加えた。

 これら最後の2つの協奏曲は非常に類似しているので、比較が許されるだろう。これ以前、これ以後のどれに対してよりも、この2つの作品は互いによく似ているのである。両者はモーツァルトがウィーンに定住する直前の年のものであり、その時期に彼の才能はザルツブルグよりも広い世界との接触によってより豊かなものになり始めていたのである。

 両者の第1楽章については、それぞれがあるムードを表していると言って間違いない。1776年の協奏曲〔No.6 変ロ長調K.238 、No.7 ヘ長調K.242、No.8 ハ長調K.246〕についてはそうだとはあまり言えないのである。両者はともに個性的であるが、それぞれの個性は異なっている。第5番〔No.9 K.271 変ホ長調 ジュノーム〕は自己主張が強く意欲的で、ギャラントの伝統を無視している。その時代の協奏曲のほとんどが反映していた“社交音楽”の理念はかすかに見出されるのみで、これは若く、経験の浅い、不安定な、やや独善的な精神の表現なのである。きわめて当然なことだが、深さと言うよりも独創性がその主な特性なのであり、熱意溢れるが、硬さも免れない。これは活発で、感傷的ではない。また、“外向的”であり、この点で、小品のニ長調の協奏曲K.175〔No.5〕を思い起こさせる。

 一方で、第6番の協奏曲〔No.10 K.365 変ホ長調 2台のピアノのための〕は、同様に非常に個性的であるが、よりそつがないものである。パラティンおよびフランスへの旅行以前に、モーツァルトは自らを聴衆のレベルに置くことはできたが、当時の彼の作品はその分だけ個性を失った。彼は時に自己主張を試みたが、その結果、自らを聴衆から遠ざけてしまい、彼らの機嫌を損ねる危険を冒すことになった。しかし、旅から戻って、モーツァルトはすでに己が望むものを満たすと同時に聴衆を懐柔する技をかなり高いレベルで獲得していたことを示した。それが今日まで彼の音楽が好まれる理由のひとつなのである。自らを落としめることなく聴衆の手の届くところに置くこと、これこそモーツァルトが1777~8年の間に学んだことであり、そう強く感じていたからこそ2台のピアノのための協奏曲〔No.10 K.365 変ホ長調〕でそれを行ったのである。その第1楽章はK.271〔No.9 変ホ長調〕に比べても個性的であり、ザルツブルグの聴衆の集合的個性に非常に近い作曲家自身の個性の部分を最も強調したものである。2年前に比べモーツァルト自身の個性はより豊かでより成熟しており、より多く生きてきたために、人生をそれほど簡単なものとは見なくなったのである。

 緩徐楽章では、2つの作品の間の関係は第1楽章の場合と異なっている。K.271〔No.9 変ホ長調〕のハ短調のアンダンティーノは個性的であるだけではなく、深みがあり、それは心の奥に秘めた悲しみを表現している。アレグロとそれとを区別しているのは、個性的であるという特徴ではない。つまり、表面上人は皆似たようなものであるが、その下のさらに深い部分では、それぞれに違いがあり、さらに下に進んでいくと、それぞれの個性の内に人間の魂に共通した礎を再び見出すことができる。そこでは、芸術家がたとえ自己の悲しみを歌ったとしても、それはまたすべての人間の声となるのである。それでもこのアンダンティーノには第1楽章の単純さと未成熟さがまだ残っており、この点で、その他の面では非常に近いと言える協奏交響曲〔K.365 変ホ長調〕のアンダンテとこのアンダンテは明確に異なるのである。

 2台のピアノのための協奏曲〔No.10 変ホ長調 K.365〕のアンダンテは、中間に位置するものであり、その個性はありふれたものである。いくつかの箇所では深い領域を照らし出す期待を抱かせるが、それは一瞬にすぎないのだ。

 ロンドでは、両者の関係は明らかに最初のアレグロの場合と同じである。K.271〔No.9 変ホ長調〕のロンドは、愛らしいメヌエットのような部分を含んでいるが、それは基本的にはロココなのである。K.365〔No.10 変ホ長調〕のロンドは初めから終わりまで作曲家の魂を歌いあげている。それゆえ後者はより一貫している。それに対し、K.271〔No.9 変ホ長調〕の場合は、豊饒な喜びにあふれた個性的な楽章から深い悲しみの楽章に移り、モーツァルトの魂以上にその時代の嗜好がよりはっきり表れたロンドで終わってしまうが、一方〔K.365〕は3つの楽章を通して、冒頭に感じさせた聴衆と作曲家間の融和の響きを保ち続けるのである。

 とうとう最初の6つの協奏曲のグループの終わりに到達した。厳密に言えばこれらはひとつのグループであるとは言えないが、分類すべき協奏曲の数が多過ぎるためにまとめざるを得ない例外のグループなのである。この6つは、1782年の協奏曲、1784年のもの、1785~6年の協奏曲のようにはグループを成していない。第1〔No.5 ニ長調K.175〕と第2〔No.6 K.238 変ロ長調〕の間には3年の隔たりがあるが、青年期の3年というのは長い時間である。第4〔No.7 K.242 ヘ長調 3台のピアノのための〕と第5〔No.8  ハ長調K.246〕の間は1年以上の間があり、第6〔No.9 変ホ長調 ジュノーム K.271〕と第7〔No.10 変ホ長調2台のピアノのためのK.365〕の間にはあの大旅行が来る。モーツァルトは、時折このジャンルのことを考えるのみであり、1773年以降は、いくつかの交響曲(パリ以前の最後のもの)、特にセレナーデやディベルティメントに時間が費やされた。そして1775年には5曲のヴァイオリン協奏曲がある。1776年には、たまたまの機会でさらに3曲のピアノ協奏曲が、そして1777年のジュノーム嬢の来訪がK.271〔No.9 変ホ長調〕を生み出した。その間、セレナーデやディベルティメントが山を成した。マンハイムとパリでは、何物もモーツァルトをこのジャンルに引き戻すことはなく(原注1)、そこで、彼が他の楽器のために書いた協奏曲は、アマチュア音楽家あるいはコンセール・スピリチュアルが彼に注文したものであった。

(原注1)しかしマンハイムでは、ピアノとヴァイオリンのためのニ長調の協奏交響曲の冒頭のスケッチを残している。ケッヘル‐アインシュタイン番号315f。

 それゆえ、これらの作曲には連続性がなく、当然ながら成長の関連性も認められない。これらの中の最初の作品〔No.5ニ長調 K.175〕がピアノ協奏曲の形式へのモーツァルトの多大な貢献である劇的な構想を最も明瞭に示しているだが、この構想は1776年の協奏曲のどれからも消え去ってしまい、それぞれに魅力的ではあるが、これらは純粋に“専門家と愛好家のための”協奏曲であり、そこにおけるオーケストラは、独奏を導き、それが沈黙した時に生まれる隙間を埋めるだけのものなのである。劇的な構想は、K.271〔No.9 変ホ長調 ジュノーム〕の最初の2楽章ではより明らかだが、K.175〔No.5 ニ長調K.175〕ほどではなく、K.365〔No.10 変ホ長調2台のピアノのための〕については、対話のアイデアと無縁ではないものの、この曲が提供する対話は独奏者間のものであって独奏と総奏の間の対話ではない。モーツァルトがザルツブルグを離れた後にこれ以上ピアノ協奏曲を作曲しなかったとすれば、モーツァルトはこのジャンルのいくつかの概念を半ば把握していたが、そのどれも発展させることはなかったと我々は述べたかもしれない。

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