それ自体が傑作とはいえなくても一連の傑作の冒頭に位置する芸術作品には、常にある程度の敬意を払いながら接するものである。ベートーヴェンの最初の弦楽四重奏曲、ワグナーの最初のオペラ、シェイクスピアの初期の悲劇は、それ自体の価値に関わらず、偉大な作品が連なる道の入り口にあるということだけで十分尊いものと映るのだ。同様に、モーツァルトの最初期の協奏曲の論考も敬意の念を持って行おう。それらは後に続く協奏曲に比べれば取るに足らないものだが、にもかかわらずそれらは後に続くものの先駆けであり、この理由のみであっても十分尊敬に値するのである。

 しかしモーツァルトの最初期の協奏曲、中でもその最初のもの〔No.5 K.175 ニ長調〕に関しては、先行作品であることが我々の関心をひく理由ではない。これらには各々独自の魅力があり、その清らかな泉に憩い、愛情のこもった熱心な眼差しでその美しさを見つめようと思う者は、来るべき偉大な協奏曲群の遠い姿に力をもらわなくても、これらの作品の楽しさによって十分に報われることだろう。

 一方で、現代の聴き手がこのとても小さな宝石を楽しむためには、一種の善意、あえて言えばある種の訓練を必要とするということも否定できない。過去1世紀半にわたり次から次へと現れた諸楽派が生み出した作品はますますその複雑さを増していき、それによってわれわれの感性がひどく鈍ってしまったので、それらの美点を心に留めることもなく見過ごしてしまいがちである。このことは、ロマン派より古い音楽すべてについてではなくとも、モーツァルトについてはまさにその通りなのである。今日、モーツァルトは、偉大な巨匠たちの中でも最も控え目な存在のように見える(原注1)。モーツァルトがわれわれの中に強引に押し入ってくることは絶対にない。音も立てず、派手なふるまいもなくやって来るのだ。彼を受け入れれば結構なことだが、無視したとしても、モーツァルトはテーブルを叩くこともなく、声を荒げることもない。彼は控え目そのものである。われわれはモーツァルトの心の奥底からの意味をいとも簡単に見逃してしまう。モーツァルトは、ベートーヴェンほど容易には中に入り込むことを許さないのだ。シューマンがト短調交響曲〔No.40 K.550〕に、“ギリシャの気品が漂う”(diese schwebende griechische Grazie)としか感じなかったことが思い浮かぶが、つまり、シューマンはこの多情多感な作品に単なる形式的特徴しか感じ取っていないのである。モーツァルトが単に優雅なだけの作曲家、単なるスタイリストに落としめられるのを耳にし、あまりにも多くの人がその音楽に脈打つ生命に目をつぶっている時に、われわれは彼の繊細かつ柔軟な美しさが残念なものとさえ思えてしまうのである。

(原注1)ここで「今日」というのは、モーツァルトの生前に与えられた“激しくも愛らしく”という形容が、彼の同時代人には異なった意見を持っていた者もいることを示しているからである。

 実際のところ、モーツァルトの完璧な形式によって与えられる喜びがあまりにも大きいため、それ以上を彼に求める気にならないのである。宝石箱があまりにも美しいので、見るだけで満足してしまい、それを開けることがない。彼の中に賞賛すべき金細工職人を見ても、思索者としての姿(この言葉が作曲家に適用可能な範囲の意味で)を見逃しているのである。さらに彼に対して、魂を欠いている、その音楽は頭で作ったものだ、表面的だとの非難もある。それらの言葉は批評家によって異なっているが、いずれにせよ、その非難は、モーツァルトには温かみと情緒が欠けていると言うことなのである。

 このような言説を聞くと、まず思うのは、そのように言う人々が、モーツァルトの全作品の中で知っているのは、あまりにもよく知られているソナタのみではないかということである。そして今、子供のころのお稽古の苦痛の種であったソナタの繊細な味わいと情感に最大の敬意を払うとしても、また、それらのうちの数曲は最良の作品との比較にも耐えることを躊躇なく認めるとしても、モーツァルトのソナタの平均的なレベルはトリオと歌曲を除いた他の作品を下回っていることも認めるべきなのである。アーベルトは賢明にも、モーツァルトの作品を3つに分類している。一般聴衆を対象に書いたもの、一般聴衆対象でありながら自らのためにも書いたもの、全て自らのために書いたもの、の3つである。ソナタの6分の5は第1のカテゴリーに属する。それらはモーツァルトの最もモーツァルト的ではない姿を示すものなのだ。彼の作品の中で最も劣ったものが最も良く知られているということがモーツァルトの評価を貶めているのだ。これは、シェイクスピアを『タイタス・アンドロニカス』や『アテネのタイモン』によって判断し、これらの劇から出発して彼に総合評価を下すようなものである。

 その偉大な作品にあってさえもモーツァルトは決して強く主張することがない。 彼は決してひとつの考えに留まることなく、その曲の中を素早く揺らめきながら連続する情緒は、聴衆の心に刷り込まれず、上滑りしてしまう危険を常にはらんでいる。モーツァルトをよく知れば、素早く飛び去る小さな美しさを捕まえて、それらを楽しむことができる。しかしあまりにロマン主義のみに慣らされた耳は、モーツァルトに注意を引き賞賛を喚起するに値するものをほとんど感じることができないのだ。この理由ゆえに、モーツァルトは最も理解困難な作曲家の一人であると言えるのである。

 

 1773年、ヴォルフガング青年はザルツブルグに戻っていた。イタリアを去るのはこれが3度目で最後となったが、イタリアでは、ボローニャの劇場のために『ルチオ・シッラ』を作曲し、これがイタリアの聴衆のために書いた最後の作品となる。モーツァルトは思春期の入り口を越え、人生で18年目の年を迎え、彼の幼少時代のオペラ、『ミトリダーテ』、『ラ・フィンタ・センプリチェ』、『アルバのアスカオーニ』の中で、聞きかじりか模倣によって頻繁に表現されていた情熱が彼の若い魂をかすかに刺激しつつあった。音楽的知性では早熟であっても、その他のすべての面では子供のままであったが、モーツァルトほどの異常な才能に恵まれていない者より遅れて、彼も情熱の生活に目覚めるのである。17歳の時、この四重奏曲、交響曲、オペラの作曲家は少年と言っても良い年齢であったが、その彼を初めてロマン主義の息吹が吹き抜けるのである。

 感性の目覚めはそれまでになく強い個人的な緊張を引き起こし、それは彼の作品にこだました。モーツァルトがモーツァルトらしくなっていくのは最後のイタリア滞在の後なのである。その旅の前でも、個性の芽生えとそれが約束するものを認めることが可能であるが、それ以降は彼の作品すべてが彼独自のものとなった。ある意味モーツァルトはここに至るまでの長い期間にわたって模倣的なままであったが、それ以後はその模倣は異なったものとなり、コピーではなく吸収融合という形をとるようになる。1772年以前の彼の作品は記録としては関心を惹かれるものだが、この年の四重奏曲(原注1)は、それ自身の生命を宿した初めての作品たちであり、その美しさゆえに長い命に値する。モーツァルトの最初のピアノ協奏曲の試みがまさにこの時期であったことが、彼の生涯においてピアノ協奏曲が占める重要性に大きな意味を持つのである。

(原注1)K.155〔弦楽四重奏曲 第2番 ニ長調〕からK..160〔弦楽四重奏曲 第7番 変ホ長調。そしておそらくケッヘル‐アインシュタイン補遺番号No.210~213.1補遺番号No.210~213のものは、いわゆるミラノ四重奏曲と呼ばれるものだが、ケッヘル第7版ではKV Anh.C20.30の番号がふられ、偽作に分類されている。

 外の大きな世界に暮らした後で小さな都市に戻ることは誰もが知る憂鬱な経験であり、野心と願望の強さに応じて、また、どれだけ容易に環境の支配を受け入れることができるかによって、多かれ少なかれそれに苦しむものだが、それとともに、1772年および1773年初頭のこれらの作品が持つすばらしい若さに満ちた情熱は、ザルツブルグの日々の約束事に縛られた環境の中で次第に消えかかっていた。イリュージョンに熱狂した後に、さえない現実が続くことでとらわれる虚脱感を、モーツァルトがザルツブルグに帰ってから経験したかどうかは断言できないが、しかし1778年に再びザルツブルグに戻った時に感じることになるものをこの時すでに感じていたことは十分ありうる。

 生活上なにかと束縛が多く、音楽的にはコロレード大司教の狭い嗜好に支配されていたザルツブルグは、モーツァルトにとって牢獄であった。彼はできる限りそれに耐えたのだが、おそらく自分でも気づかないうちにすでに17歳の時点で彼の天分はその中で押し縮められ、イタリアからの帰還とパリへの出発の間に挟まれた5年間はモーツァルトの音楽の質の低下を示しているのである。

 何よりもよく知られしぶとく生き残っている伝説があるとすれば、それは、小粋な身なりで、髪粉とリボンをつけた鬘をかぶり、ウィーンの宮廷と応接間の愛嬌者であるモーツァルトがその音楽で表現するものは18世紀の貴族生活の表面的な上品さと浮薄さ以上のものではない、というものだろう。これはメヌエットやコントレダンスのモーツァルトで、チャーミングであることは間違いないが、血が通わず、空虚で、真剣に考え、感じることのできない存在であり、さらには、モーツァルトの音楽は、同じように不当な評価に甘んじているハイドンの音楽も、アンシャン・レジュームのサロンと閨房の香気を漂わせるが、他には何もないと言うのである。

 このような伝説は19世紀の前半のように“古典期”の芸術に対する偏見に満ちたある時代にのみ生じえることは言うまでもない。この伝説は、過ぎ去ったものにベートーヴェンが巨大な黒い影を投げかけていた時に現れ、人々がモーツァルトのソナタは知っていても傑作群に対しては相対的に無知であるために生き残ったのである。

 この言説、それは幸福なことに急速に姿を消しつつあるが、これがはなはだしく不当とは言えない時期があり、それは1773年の帰還から1777年のマンハイムとパリへの出発に至る間の期間である。この4年間、モーツァルトは、ザルツブルグ大司教閣下の慰みごとの音楽上のまかない人に過ぎなかった。モーツァルトは、身も心も衰弱させるザルツブルグの空気に屈服しつつ、それでも自らのスタイルの洗練に努めたが、わずかなアダージョを除けば、うわべは優雅だがありきたりの楽想を表現したにすぎなかった。

しかし、4年間の無気力な時期に屈する前に、モーツァルトは素晴らしい創造の一時を経験したのである。1773年の3月、モーツァルトはザルツブルグに戻った。彼は4か月後にザルツブルグを後にし、その夏をウィーンで過ごし、最後の帰還は10月の初めであった。イタリア滞在で芽生えたロマン主義はザルツブルグとの接触とともに急速に消え去ってしまったが、ウィーンの2か月間は彼のエネルギーに新たな燃料を与え、新たな影響力でそれをさらに刺激した。モーツァルトがそこで作曲した6曲の四重奏曲2弦楽四重奏曲第8番ヘ長調K.168~第13番ニ短調K.173までの6曲。は、イタリアで書いたものほどの炎ではもはや輝いていないが、ある種のぎこちなさとスタイルの新しさがインスピレーションの表出をしばしば妨げることがなければ、ジャンルに対する真摯な考えと綿密な推敲がそれらを先行者に匹敵するものたらしめたであろう証となる。これらの曲に表れている新たな地平を探求し、開拓したいとの好奇心と願望は、暫くの間、ザルツブルグの影響に抗い、最初のピアノ協奏曲〔No.5 K.175 ニ長調〕の中に姿をとどめ、翌年の6月に書かれたバスーン協奏曲〔K.191 変ロ長調〕にもその片鱗を見せているのである。

独奏楽器とオーケストラのためのモーツァルトの最初の協奏曲(原注1)はこの年の12月のものであり、ハープシコードのために書かれた(原注2)。若き音楽家のこのジャンルへの関心はかなり以前に遡る。それが鍵盤楽器のために作曲された最初の協奏曲だということのみならず、1760年に、4歳のモーツァルトがたくさんのインクの染みをつけながら書いていたのがハープシコード協奏曲であることが、小さな男の子の音楽活動を示す最初の証拠なのである。モーツァルト家の古くからの友人でトランペット奏者のシャハトナーが以下の会話を記録している。

 父:何をしているのかな? 
 ヴォルフガング:ハープシコード協奏曲だよ。最初のパートがもうすぐ出来るよ。
 父:見せてごらん。
 ヴォルフガング:まだ出来あがっていないよ。
 父:見せてごらん。きっといいものに違いない!

シャハトナーは続ける。

 父親はそれを取って、乱雑に書きとめられた音符を私に見せてくれた。ほとんどの音符は手でこすり取られたインクの染みの上に書かれていた。小さなヴォルフガングは、使い方が分からないため、インク壺の底までペンを浸してしまった。その結果が染みだ。しかし彼はすぐさま決断し、手の甲でそれを拭い、染みを広げて薄くしてから、また楽しそうに書き始めた。最初は馬鹿げたことにしか見えなかったので、父親と私はそれを笑って見ていた。しかし、それから、父親が音符と構成の重要な部分に目を向けると、彼は紙に注意を注いだまま、しばらくの間じっと動かくなくなってしまった。そして、彼の目から数滴の涙が落ちた。それは賛嘆と喜びの涙であった。「シャハトナーさん、見てください。」彼は言った。「すべてが何と正確で規則に適っていることだろう、ただ演奏だけはできないけれどね。ひどく難しいから誰も演奏できないかも知れない。」小さなヴォルフガングが遮った、「それは協奏曲だからだよ。できるようになるまで練習しなくちゃ。わかるでしょう。こんな風にね。」そして彼は演奏し始めた。彼は自分が作り出そうとしているものが何のかをなんとかわれわれに示すことができた。すでに彼は協奏曲の形式を把握していたのだ。

(原注1)2つのヴァイオリンのためのコンチェルタンテ〔ハ長調 K.190〕は、真の協奏曲というよりもディベルティメントである。
(原注2)現在は失われた草稿には、クラヴィチエンバロのための協奏曲と記されている。

 

 モーツァルトの天才が最初の実りを示すことになった協奏曲のこの奔放なスケッチはもはやわれわれの手元にない。しかし当時の様々なハープシコード作曲家の手になる雑多なソナタを協奏曲に編曲したものがいくつか残っている。最初にヨハン・クリスティアン・バッハによる3曲(原注1)、その後は、ショーベルト、エッカート、ラウパッハ、フィリップ・エマヌエル・バッハ、そしてホナウアーの作品(原注2)からの楽章を用い、あるべき位置に総奏を挿入することで協奏曲にまとめ上げたものが残っている。これらの編曲は、長い間、モーツァルトのオリジナルな作品として通っていたが、ヴィゼワ、サン・フォアやアルフレッド・アインシュタインによって実際の作者に帰することになった。これらが父親の監修のもとに行われたモーツァルトの習作であったことに間違いはない。

(原注1)K.107
(原注2)K.37(No.1 ヘ長調)、39(No.2 変ロ長調)、40(No.3 ニ長調)、41(No.4 ト長調)

 

 

協奏曲第1〔No.5〕 ニ長調 ハープシコードとオーケストラのための(K.175) 
 
     1773年、12月(原注1)

アレグロ:4分の4拍子(C
アンダンテ・マ・ウン・ポコ・アダージョ:4分の3拍子(ト長調)
アレグロ:2分の2拍子 (¢)

オーケストラ:弦;オーボエ2、ホルン2、トランペット2、打楽器2

(原注1)全集版番号で第5番

 

 この小さな協奏曲には、それからの数年間のモーツァルトの作品には見出せない生命力が満ち溢れている。これは数年間のギャラント音楽のまどろみに至る前の最後の個性の噴出であった。その性格は際立っており、モーツァルトの他のすべての作品と一線を画している。かなりのことを言っているようだが、そのすぐ後の協奏曲には言えないことなのだ。その独創性は今でも聴衆の前で演奏されるに十分相応しいものであり、家庭などの親密な場で演奏するピアニストも楽しませることができるだろう。それは喜びに溢れたと言うよりも、活気を感じさせるものであり、賑やかと言うより、非常に肉体的な、がっしりとした筋肉質なもので、モーツァルトのウィーン時代の音楽を貫く憂愁の片鱗さえない。後の作品で聴き手を惹き付け、夢見心地にする隠された深みや謎に満ちた暗い隅の部分などはまったくない。その隠し事のないあけっぴろげな感じ(原注1)、その強健な活力感が瞬時に聴く者を共感させてしまい、われわれは、この忙しく精気にあふれた小作品を、陽気で気さくな友人のように愛でるのだ。それは滅多に見ることがないこの作曲家の一面を露わにし、それゆえにこの作品に感謝せねばならない。それは、お馬鹿な(Boetian)3テーバイを中心とした古代ギリシアの一地方ボイオーティア(Boetia)。ヘシオドスやプルタルコスの出身地であるが、「牛の国」という意味もあり、「鈍い」「馬鹿な」などの意味を持つことわざの中で使われてきた。ここでは「お馬鹿な」と訳した。モーツァルト、手紙の中のおどけ者のもうひとつの姿である。

(原注1)“アペルト”はモーツァルトがいくつかのウィーン期以前の作品の冒頭に記した指示である。例えばニ長調のフルート協奏曲K.314だが、より繊細さが加わるものの、この協奏曲の様式を思わせるものである。

 この曲が生気に溢れているからといって、これを真剣に受け止めることの妨げにはならない。ハープシコードに対抗するオーケストラは野心的なものである。1782年以前のモーツァルトの協奏曲ではこれほど大きなオーケストラが使われたことはなく、また、1784年に至るまでこれほど多くの楽器が普通に使われることはなかった。古典期の交響曲のように(原注1)、作品全体の性格は第1主題によって示される(譜例9)。それは長く、筋張った、きらめくフレーズであり、3楽節4第1の楽節は第1~4小節、第2は第4~6小節、第3は第6~9小節。譜例9は第1の楽節である。で提示され、同じ精神に満ちた若干の展開が続き、飛びそして跳ね回る。それが導き入れる楽章は同様にさほど旋律的ではない。第2主題でさえも主にリズミカルなものであり、ハープシコードのアルベルティ・バスは、何事も意に介せず、せわしなく動き回る子供のような特徴を強調するが、これはアレグロ全体の特徴でもある。

(原注1)もちろん、ゆるやかな序奏がある場合は別である。この場合は普通逆にその後に続くものと対照的になる。

 ここで興味深いのは主にリズムである。“偉大な”時期のモーツァルトの作品でさえ、これほど多様なリズムを持ったものは決して多くはない。第1主題は3つのリズムの形5リズム形1は第1の楽節、2は第2楽節、3は第3の楽節を支配するリズムである。

を持っているし、コデッタで4番目のものを導入する。ギャラントな作品の第2主題は、しばしば第1主題と対照をなし、リズミカルでもったいぶった主題に、歌うような優しい主題が続くのだ。しかしここでは、その違いはさほど強調はされない。開始部のたわいない一騒ぎの後で、ペースは少し緩やかになり、ほぼ2小節にわたるピアノ〔p〕でのオクターブのトレモロ6第14、15小節の第2ヴァイオリンとビオラによるトレモロであるが、音高はオクターブではなく同一である。で一息つかせてくれる。次の主題は先のものより静かで、より旋律的ではあるが、これはヨハン・クリスチャンならばここで提示するだろうカンタービレではなく、それは第1主題同様に独特なリズムの組み合わせを示す7第2主題も3つの楽節からなり、第1の楽節は第17~29小節でリズム形1、第2は第20~22小節でリズム形2、第3は第22~24小節でリズム形3が支配する。

それはすぐにフォルテに入るが、楽し気にピアノ〔p84拍子は強-弱-強-弱の拍動であるが、例示されている最後のリズム形は弱-強-弱-強と拍動が逆転することによって、リズムの流れが遮られることを言っている。と交互しながら、最後に花火を打ち上げて総奏の導入部を終える。そのリズム型はさらに個性的なものであり、完全に4拍子の楽章の流れを遮る。

 ピアノ9正しくはハープシコード。次のピアノも同じ。は総奏が仕掛けた煽動の手本に決して抗うことなく、耳にしたばかりの主題を回想し、目が眩むばかりの豊かなリズムで、主題をわずかに拡張するが、新たなものは何も付け加えない。オーケストラはこの作品に続くいくつかの協奏曲ほどには従順にピアノに語らすことなく、時折、主導権を取り戻すために次々に割り込み、特に提示部の終わりにかけて、属調でのトリル10第94小節の最後のものではなく、第83小節のトリルである。属調イ長調に転調しており、そのレ音のトリルである。によってハープシコードが疲れて、押し黙ってしまうのではないかと感じさせる。独奏がすぐに遮り、総奏が始めた同じフレーズを繰り返し、また遮られ、そして最後には支配力を回復し、それから自分の仕事を終えて管弦楽に展開部を終えさえるために一息つく、これらを聴くのはなかなか楽しい。

 大騒ぎは展開部で幾分おさまり、ハープシコードは短調の主題を奏し始める。それはこの楽章の中で唯一の感傷的なパッセージである。しかし、それはあっという間に終わり、16分音符が再び忙しく動きまわり始める。

 アンダンテはわれわれが “夢”と呼んだもののひとつだ。これは第1楽章同様に独特なものだが、これに続く協奏曲では彼が置かれた時代的な問題によって十分表出されることがなかったモーツァルトの個性が溌剌としている。これは3部構造のソナタで、その展開部は単なる短い推移部であるが、ヴァイオリンとビオラの魅惑的なつぶやきによって伴奏されている。気だるい調べで始まり、そして終わるが、その間の情緒の幅はかなり大きい。特に付点8分音符の快活なリズムのフレーズは、開始部と終結部の主題の穏やかさと対照をなしている。この楽章は、やがてイ長調協奏曲K.414〔No.12〕のアンダンテを生み出すことになるムードの初めての表出である。われわれはこの作曲家の全作品を通じて、同じ楽想の幅広く異なった表現や、同じ主題の再現、同じムードの表出に出会うのだ。

 フィナーレはモーツァルトのすべての協奏曲の中で最も独創的なもののひとつである。最も美しいわけでも、最も深みがあるわけでもないが、最も独創的なもののひとつなのである。その形式だけをとっても、それはポリフォニーによって変化を与えられたソナタ形式であり、ト長調の四重奏曲〔No.14 K.387 ハイドン・セット第1番〕、ヘ長調の協奏曲K459〔No.19〕、そしてジュピター交響曲〔No.41 K.551〕の最初のスケッチである(原注1)。その特徴は最初のアレグロと同じくせわしなさであり、絶え間なく、当てもない、その落ち着きのなさは、散歩に連れて行かれて喜ぶ子犬が跳ね回っているようである。その主題は第1楽章のものより旋律的で数も多い。最初の39小節の総奏のみでも4つの主題11①第1小節~、②第15小節~、③第23小節から、④第31小節~、の4つである。がある。最初のものはカノンで、2番目のもののシンコペーションの音形は、ト長調四重奏曲〔No.14 K.387 ハイドン・セット第1番〕のフィナーレの主題のひとつ12第31小節からのシンコペーションを持つ2番目の主題である。を思い起こさせるものだ。第3のものは旋律的で軽快なもので、同じ楽章のもうひとつの主題に類似している13第3の主題が類似しているのは第4の主題のことと思われるが、聴覚的にはやや異質である。この楽章ではさらに、第2提示部で第1主題の後に提示される「新たな主題」と展開部冒頭のものが見られるが、両者とも第3のものと似てはいない。。4番目のものは、ヴァイオリンの8分音符の反復音のもとでビオラと低弦のユニゾンによって提示されるリズミカルな結尾主題である。

(原注1)エンゲルスによれば、ソナタ形式のフィナーレは、ラング(1724-94)やアル・フェススター(1748-1823)の協奏曲でも見られる。

 開始部にあったポリフォニーはハープシコードが入ってくるところでまた現れる。カノンは再開され、独奏は片手から一方の手へと弦の主題を変化させた心地よい装飾の旋律を付け加える。ゲームは、突然気まぐれに中断され、対話のパッセージが続く。総奏は再びカノンを始めたがるのだが、ハープシコードはそれをアルペジオで遮り、新たな主題を導入する。総奏の2つの別の主題14楽章冒頭の4つの主題のうち、2番目と3番目の主題である。が続く。独奏は華やかなパッセージで先に押し進み、そしてオーケストラはリズミカルな結尾主題で提示部を締めくくる。   

 展開部は最もつまらない部分である。最初は、独奏がそれを完全に支配し、新しいことをすこし試みた後で、オーケストラに道をゆずり、それはカノン的な主題を再び呼び戻し、ほとんど変更されない形で再現部が開始される。終結部で最も注目すべきは、カデンツァに導いていくパッセージである。通常は和音がぎょうぎょうしく連なるのだが、ここでは4声で開始されるカノンであり、最後の対位法の出現である。それは4声全部が出そろったところで停止する。カデンツァが続き、そしてすでに耳にした2つの提示部を締めくくる主題が続くのである(原注1)

(原注1)モーツァルトは1782年ウィーンで再びこの協奏曲に立ち戻った時に最初の2つの楽章のためのカデンツァを書いた(K.624、Ⅰ、Ⅱ;マンディチェフスキーによってファクシミリが出版されている)。アンダンテのカデンツァはとりわけ魅力的である。

 この楽章の活力に溢れた音色、アイデアの豊かさ、対位法の手際は、同じくこの時期に作曲された変ホ長調弦楽四重奏曲K.174のフィナーレでも見出されるものである。

 モーツァルトは長い間この小品に温かい気持ちを抱いていた。1777年と1788年の旅行で、友人であるカンナビッヒ家がマンハイムで主催したアカデミーで彼はこの曲を演奏した。父親への手紙に書いている。「この協奏曲は非常に好評です」と。また1782年と1783年ウィーンでも再びとりあげ、そのために新たなフィナーレを作曲したが、それは面白くもない変奏が続くもので、もとの美しいソナタ形式のものの代わりとしては非常に貧弱なものである(原注1)。それは、残念な出来の最終楽章が付いた形で、1782年3月のアカデミーで演奏されたが、モーツァルトは父親への手紙の中でこの作品を“私のお気に入りの協奏曲”と称したのである(原注2)

(原注1)K.382〔ピアノと管弦楽のためのロンド ニ長調〕
(原注2)1784年パリでボイヤーによって出版されたのは、この新しいフィナーレの版である。元のフィナーレが出版されたのはずっと後になってからである。

 

協奏曲第2〔No.6〕 変ロ長調(K.238

     1776年、1(原注1)

アレグロ・アペルト:4分の4拍子(C
(アンダンテ・ウン・ポコ・アダージョ:4分の3拍子(変ホ長調)
ロンドー:アレグロ 4分の4拍子

オーケストラ:弦;オーボエ2(アンダンテではフルート2)、ホルン2

(原注1)全集版番号で第6番

 

協奏曲第3〔No.7〕 ヘ長調 3台のピアノのための(K.242

     1776年、2(原注2)

アレグロ:4分の4拍子(C
アダージョ:4分の4拍子(C)(変ロ長調)
ロンドー:テンポ・ディ・メヌエット 4分の3拍子

オーケストラ:弦;オーボエ2、ホルン2

(原注2)全集版番号で第7番

 

協奏曲第4〔No.8〕 ハ長調(K.246

1776年、4(原注3)

アレグロ・アペルト:4分の4拍子(C
アンダンテ:4分の2拍子(ヘ長調)
ロンドー:テンポ・ディ・メヌエット 4分の3拍子

オーケストラ:弦;オーボエ2、ホルン2

(原注3)全集版番号で第8番

 

 続く3つの協奏曲はひとつの同質なグループを形成する。それらは3か月の間に作曲されたもので、最初の協奏曲〔No5 K.175 ニ長調〕からは2年、5番目〔No.9 K.271 変ホ長調 ジュノーム〕のものとは9か月の隔たりがある。これらはモーツァルトのひとつの“様式”、20歳の年のギャラントな様式を示すものである。それ故に、もはやわれわれにとってさほどの本質的な価値を持たないとしても、これらの曲は伝記的意味で関心の対象となる。

 1774年および1775年はモーツァルトの生涯において特筆すべき出来事もなく過ぎ去った。1774年の末に、ミュンヘンからオペラ・ブッファの注文があり、新年早々父親と息子はリハーサルを監督するためにその都市に滞在しており、歌劇『ラ・フィンタ・ジャルディニエラ〔偽の女庭師〕』は2月に上演された。それは当初いくぶんか成功をおさめたものの、3公演以上は続かず、選帝侯の宮廷で定職を得ようという望みは消え去ったのだ。

 イタリアから帰還した1773年からマンハイムとパリへと出発した1777年までの4年間に、モーツァルトはその時代が理想とするものに決然と従い、ギャラントリーの様式を吸収し、聴衆である貴族たちの趣味に自己の表現を従属させようと固く決意して努めた。モーツァルトはイタリアの作品にあった炎を抑圧し、ニ長調の協奏曲〔No.5 K175〕のやや突飛なリズムにまだ現れていた生得のスタイルの粗野さを洗練させ、聴衆を驚かせショックを与えるかもしれない類の感情表現を沈黙させ、優雅でよどみない形式によって、上品だがありきたりな感情表現に自らをとどめた。この時期の作品の数は常に変わらず多いのだが、それらには、ミュンヘンのオペラ、牧歌劇『イル・レ・パストーレ〔牧人の王〕』、ミサ曲、モテット、リタニア、セレナーデとディベルティメント、交響曲は3曲だけ(原注1)、そして最後に、2つのよく知られた作品群、初期のピアノ・ソナタと5つのヴァイオリン協奏曲がある。

(原注1)アーベルトはそれらの中のひとつ、ト短調K.183〔No.25〕のあまりに“現代的な”性格が、大司教の不興を買ったと考えている。

 ソナタはこの時期で最低の水準の作品であり、モーツァルトの全作品でこれらほどつまらないものはない。へ長調K.280のアンダンテのような優れた楽章もいくつかあるのだが、これらのモーツァルトらしくない作品がよく知られているのは誠に残念なことである。ヴァイオリン協奏曲はこれらよりまだ良く、少なくとも、日常的に演奏されるト長調〔ヴァイオリン協奏曲No.3 K.216〕、ニ長調〔No.4 K.218〕、イ長調〔No.5 K.219〕はましだが、それでも偉大なるピアノ協奏曲の水準にはるかに及ばす、これらがピアノ協奏曲より頻繁に演奏されるのは音楽とは関係ない理由からである15ヴァイオリン協奏曲がピアノ協奏曲以上によく演奏された「音楽とは関係ない」その理由についてガードルストーンは語っていないが、おそらくベートーヴェン以降、パガニーニなどの特別な作曲家を除き、ピアノ協奏曲に比べヴァイオリン協奏曲の数が少ないため、ヴァイオリン奏者の演奏会での組み合わせでモーツァルトの5曲は貴重な「前座」的な演目として選ばれたのではないだろうか。。それでも生き延びる価値は十分にあり、結局のところ、モーツァルトがパリに赴くまでの間に生み出した作品の中では最良のものである。

 ヴァイオリン協奏曲はモーツァルトが20歳の年の作品であるが、これから考察しようとしている3つのピアノ協奏曲を作曲した時に彼は20歳になったばかりであった。この時期までに、彼のスタイル変更は終わっていた。これらの曲とニ長調の協奏曲〔No.5 K.175〕ほど対照的なものは考えられない。ニ長調の協奏曲のすばらしい統一感は失われ、感傷が情緒に取って代わり、十分に練られたものというよりも受けを狙った技巧的パッセージにより主題は分離され(あるいは連結されて)ており、楽章に統一を与える回帰するモチーフを欠いている。再現部は第1協奏曲〔No.5 K.175 ニ長調〕よりさらに変化に乏しく、開始部で提示されたひとつのリズムが最後まで持続され、しかもそれはありきたりのもので、K.175〔No.5 ニ長調〕では壮大な対位法のフィナーレによって追い払われていた小規模なギャラントのロンド、これが最後ではあるがまた現れることで、ポリフォニーの最後に残った痕跡を消し去ってしまっている。これら3つの協奏曲のおかげで1番目の協奏曲〔No.5 K.175 ニ長調〕の大胆な独創性をよりはっきりと認識できるのである。

 

 そこにはモーツァルトの青春の夢がまさしく表現されており、楽しげな生命力への挑戦が憂愁さをも感じさせる上品な優しさとひとつのものとなっている(原注1)

(原注1)アーベルト、前掲書 第1章393ページ

 

 この変遷は1774年のバスーン協奏曲〔K.191 変ロ長調〕に極めて明瞭に表われている。音調はすでにギャラントリーのものであり、バーチュオーシティは常套的になり、リズムは平坦で、ロンド・アラ・メヌエットがフィナーレを占有している。しかし、第1 楽章展開部における独奏と総奏の間でなされるある種の機知にとんだやり取りは、1773年のものが最後となった生命力にあふれる旋風を思い起こさせる。

 ということで、この3つの協奏曲に至っていささか落胆を感じるのである。しかし、これらに全く魅力がないということではない。形式と内容のバランスは完璧である。ありきたりの内容だが、様式は整っており、ヘ長調〔No.7 K.242 3台のピアノのための〕のフィナーレを除けば、ソナタであまりにも普通に見られた空虚なパッセージに出会うこともない。第1協奏曲〔No.5 K.175 ニ長調〕ほど際立ってはいないが、各々には独自のニュアンスがある。変ロ長調〔No.6 K.238〕はより優しく、ヘ長調〔No.7 K.242 3台のピアノのための〕はより遊び心に満ち、ハ長調〔No.8 K.246〕はよりきびきびとしている。しばらくの間、これらの曲を巡ってみる価値はあるだろう。

 

 2 変ロ長調〔No.6 K.238〕 深みという点では、これら3つの小品の間で選ぶべきものはない。しかしその振る舞いは三者全く同じではない。この曲は、これらの中で最も際立っている。モーツァルトの他のどの作品よりも、18世紀のジェントルマンの理想をよく表現しているのだ。これは良き趣味のものであり、それが表現する感覚は最も好みのうるさい応接間でも表出可能なものなのである。同時に、機知に富んで明るく、それなりに個性的でもある。足りないものは、強く、凝縮された情緒であるが、それはこの曲が書かれた時代環境そのものに欠けているものなのだ。数多くのことを語ってはいるが、そのいずれにも深く入り込むことはない。これはギャラント音楽の理想形である。そしてそれはモーツァルト自身のこの期間の音楽の、特にこれらの協奏曲の理想形でもあるのだ。しかしながら、この曲ではそれが特に巧みな方法で成し遂げられているのである。

 第1主題は滑らかで愛らしく、当たり障りのないものである(譜例10)。ここにK.175 〔No.5 ニ長調〕のリズムの大胆さは皆無だが、それに代わるものとして、ピアノ(p)とフォルテが交互に現れ、これはすべてのギャラント音楽で好まれたものだが、モーツァルト自身も非常に好み、後年、彼はそれを単なる薬味としてではなく、より深い感情の表現手段として用いた。フレーズは彼の協奏曲の多くがそうであるように、3つの部分で展開される。3度の和音で上昇するパッセージ16原文はrising in thirds。このパッセージはオーボエおよび第1、第2ヴァイオリンと、ビオラが3度の関係で半音ずつ上昇する。がそれに続き、第2主題の前の目印の小休止として属和音の終止に至る。第2主題は非常にモーツァルト的なもので、総奏のパートで唯一目立つところである。第1ヴァイオリンから第2ヴァイオリンへこだまするように溜息を投げかける、さざめく柔らかな弱音のシンコペーションである。さらに常套的なフレーズがそれに続き、再び強音から静かな音に変わり、何の変哲もない音形で主題を締めくくる。独奏が第1主題を取り上げ属調に移って独奏独自の主題を挿入する。これはヨハン・クリスチャンが初めて体系的に用いたやり方である。これはすべてが優美かつ旋律的である。弦が第2主題を提示するが、これはフォルテである。これが終わらないうちに独奏がそれを取り上げ(譜例11)17譜例11は第2主題と独奏による反復のみの譜例であるため、原著の譜例11の指示位置を変更した。、弦の2小節の後、独奏が非常に魅惑的に作り込まれたパッセージでそれを締めくくる。これはこの協奏曲の中でほぼ唯一、リズムが揺らめきながら交差するところである。これは、開始部の総奏で第1主題に続いた上昇パッセージ、および第2主題を結尾部から分離させたもうひとつのパッセージによって展開部に連結されている。このようなゆるい構造が、その曲を作り上げている異なった要素を、パズルのように集め、解きほどき、また集めるといったことを、作曲家が意のままに行うことを可能にしている。この主題とパッセージの再構成の手法は、それによって全体の統一感と結合感を生みだすものとして後年、重要な意味を獲得することになる、

 おそらく第2主題の絶妙なつぶやきを除けば、ここまで見てきたもので、ヨハン・クリスティアンとサインされても通用しないものはないが、展開部は真のモーツァルトの姿が垣間見える。その作品がどれほど重要なものであろうと、またどれほど月並みなものであろうと、概してモーツァルトは展開部のために、特に再現部の直前に、若干の個性的な旋律や変奏を用意している。このことは、彼がザルツブルグの小宮廷のために書いた数多くのギャラント作品にも当てはまることであり、この曲においてもそうである。ピアノが独奏主題の双子の姉妹であるヘ長調の何の変哲もない独奏主題の双子の姉妹であるフレーズで開始する。そして弦が性急に奏で始めるが、突然、小さな雷鳴が起こり、われわれは減7の和音の降下するアルペジオによってハ短調へ投げ込まれる(原注1)。弦は沈黙しオーボエのみが痛切な音色で、一時的に解き放たれたピアノを伴奏する。激しく揺れ動き同時に悲しみを帯びたニ短調の音調はさらに迸り、独奏の進行の中で徐々に崩れて変化しながら、ト短調で終わる。その時総奏はいとも易く雲を追い払い、われわれを変ロ長調へ連れ戻す。ピアノはもう一度平穏に戻り、作曲家の真の顔はその華麗なパッセージの裏にまた隠されてしまい、第1主題へと連れ戻すのだ。その育ちの良い貴族的な陽気さを感じさせ、過ぎ去った嵐を忘れさせてしまい、再現部は変化されることなく展開する。

(原注1)楽章の最初のパートの後に短調のパッセージという原則は、もちろん、伝統的なものである。

 もはや熱情も、炎も、そして支配的な情緒もなく、その結果、活力ある統一も存在しない。この作品にまとまりがないわけではないが、それは主に形式的な手段によって保たれているのだ。ニ長調の小協奏曲〔No.5 K.175〕はその子供っぽさにも関わらず、なくてはならない作品だと感じさせるのだが、これは作者のひとつのムードに呼応している。変ロ長調の作品も、それに続く2つの協奏曲もそうではなく、これらは心地よい感傷が順序よく連なるものなのだが、その提示順序が変わってもそれによって何物も作品から失われることはないだろう。ニ長調の協奏曲〔No.5 K.175〕は1773年のト短調の交響曲〔No.25 K.183〕と同じくひとつの、分けることができないものである。若きモーツァルトの作曲からしばらくの間失われるのはこの不可分な一体性であり、彼がウィーンで自由を獲得したのちに再びこのすべてを取り戻すことになるのである。

 最初の協奏曲〔No.5 K.175 ニ長調〕とこの協奏曲のアンダンテの間には大きな隔たりがある。その形式は2部構成のソナタであり、第2部は第1部を若干の細部の変更を行って繰り返す。オーケストラが最初のフレーズを開始し、ピアノが第8小節で入ってくる。その性格は第1楽章のものであるが、没個性的な甘美さはハ短調の第2主題の高揚で瞬時に追い立てられる。この楽章の中間部においても、展開部がないのでこれは再現部なのだが、切実かつけだるい感じがまさにモーツァルト的なのである(譜例12)

 ロンドは最も均質性が高い楽章である。これは常に活気あふれて楽しく、その控えめで庶民的な音調は没落しつつあるアンシャン・レジュームにとっても不快なものではない。前年のヴァイオリン協奏曲ではフィナーレで同時代のフランスのヴァイオリン曲作曲家たちのロンドーのフィナーレを使った。それはラモーの舞曲“ロンドーで”とは大きく異なったもので、数の定まらないエピソードと非有機的な性格の通常のロンドに近いものである。そこにある主な違いは、古いロンド、あるいはロンドーが始めから終わりまで同じテンポを保持するのに対し、そのエピソードがテンポと拍子を変えることを許すことである(原注1)。今やモーツァルトはこの混成のモデルを放棄し、再びとそれに戻ることはない。モーツァルトの有機的な構成への好みは、フランスの舞曲“ロンドーで”形式の採用に繋がっていくのである。そこからモーツァルトはソナタ・ロンドを展開していき、そのすばらしいモーツァルト的ロンド形式は、古典期の最も豊かな形式のひとつである。この形式の発明はベートーヴェンに帰するとあまりにもしばしば言われてきたが、これはモーツァルトに対して不当であるばかりでなく、とりわけ嘆かわしいことである。というのも、形式に関してモーツァルトの発明になるものはほとんどないのだが、このロンドは構造的成長に対するモーツァルトの唯一の重要な貢献だからである。ベートーヴェンは確かにそれを用いた。しかし彼は、モーツァルトからそれを引き継いだまま手を加えることはなかったのだ。

(原注1)例えば、バッハのホ長調のヴァイオリン協奏曲のロンドとモーツァルトのト長調〔No.3 K.216〕、ニ長調〔No.4 K.218〕そしてイ長調〔No.5 K.219 トルコ風〕の協奏曲のフィナーレを比較されたい。

 モーツァルトのロンドは単純ではあるが有機的である。リフレイン、第1クプレは普通属調あるいは関係長調であり、続いてリフレインの最初の回帰、第2クプレは主調からさらに大きく離れ、2回目のリフレインの回帰、第1クプレの反復がそれに続き、それから最後のリフレインが回帰する。もともとはリフレインとクプレは截然と分離されたものであった。ヨハン・クリスティアンがこの窮屈さを切り崩し、彼の協奏曲においてピアニスティックなパッセージを主題と混在させ、その結果外形の固苦しさを和らげたのである(原注1)。しかし、ヨハン・クリスティアンはクプレから二重終止線とそれに続くダ・カーポでリフレインへと唐突に進んでしまったので、そのクプレの区切りはまだかなりはっきりとしたものであった。それのみならず、少なくとも協奏曲の中では2回目のリフレインの回帰の後に第1クプレを繰り返すことはなかった。モーツァルトはこれを行った。モーツァルトは、構成がこれ以上に堅苦しくならないように、そしてより統一性を強めるように、異なったパートの間の推移を効果づけた。主要な各部の区切りがウィーン時代にそうなるように、全体の中に埋没してしまうことはまだない。また主題の回帰はまだ規則的で予測可能なものであるが、ヨハン・クリスティアンの単純な小さなロンドに比べると明確な進歩を示している。

(原注1)49~50ページ〔原本〕を参照されたい。

 フランスの方法に倣い、モーツァルトはこの協奏曲で第2クプレを短調にしている。これはしばしば関係短調で開始されるギャラント期のソナタ形式の展開部との最初の類似点である(原注1)。その他のクプレは、第1クプレは主調と属調で、第1の4つの主題のうちひとつを省いて18省かれるのは第1クプレの4つの主題のうち最初のものである。繰り返す第3クプレは、主調のみである。第3クプレは真の再現部であり、後の作品の第2クプレで、新たな主題を導入するのではなくすでに耳にした素材を“展開させる”ことにした時に、フランスのロンドーからソナタ・ロンドへの遷移は完成するのである。

(原注1)ダ・カーポ・アリアでも同じく第2部はしばしば関係短調である。

 このロンドの主題自体はアレグロとアンダンテのものよりも興味深いものである。その平易な進行は、この楽章をさらに活気あるものにしている。この作品の残りの部分同様にピアノが優勢であり、2、3の小節を除いてオーケストラとの協働の好みは最初の協奏曲とともに失われ、1784年に至るまでそれは戻ってこないのである。

 モーツァルトはこの協奏曲を1777年にミュンヘンで、また同年、次の2曲とともにアウグスブルグのシュタインの、またマンハイムのカンナビッヒのアカデミーで演奏した。彼は後年パリで、まとめてこの3曲の出版を試みたが、その企ては明らかにうまくいかなかった。

 

 第3 ヘ長調 3台のピアノのための〔No.7 K.242〕 変ロ長調の協奏曲〔No.6 K.238〕はモーツァルト自身のためにであったが、続く2曲は他人のために作曲された。大司教コロレードの妹で、夫は義兄の宮廷で地位のある人であったロドロン伯爵夫人と、おそらくモーツァルトの生徒であったその2人の娘、ルイーズとジョセファの3人はピアノを演奏し、音楽的証拠を信じれば母親と年上の娘には才能があり、モーツァルトが同年2月に3台のピアノのための協奏曲を作曲したのは彼女らのためであった。

 間違いなくこれはこの一連のモーツァルトのピアノ協奏曲の中で最も興味を感じさせないものである。ひとつの協奏曲に3台のピアノというアイデアは、すぐさまバッハの存在とバッハがこの組み合わせで引き出した豊かな対位法の効果を思い起こさせる。対位法を使わずに3台のピアノのために作曲するなどということは考えることもできないが、この協奏曲の工夫を凝らしたホモフォニーには当惑させられる。

 だからと言って、このことを強調しすぎるのは明らかに公平ではない。1776年に理想とされたものはバッハの時代のものとは違い、この作品でのポリフォニーの欠如はモーツァルトの責任ではない。モーツァルトは後になって、協奏曲においてさえも、ポリフォニーに相当大きな役割を与えている。しかし、たとえこのことを認めたとしても、この作品はやはり力がない。アイデアは常套的であり、ひとつ前の協奏曲〔No.6 K.238 変ロ長調〕の没個性的な魅力さえも持ち合わせていない。じっくりと考え抜かれたものではなく、和声はほぼ常にありきたりかつ陳腐なものである。そして、3人の独奏者のインタープレイを生かすためのモーツァルトの工夫は、エコーといくつかの応答、それらの間で分割された運びと、主題と伴奏の間での連携に限られている。これらすべてにおけるオーケストラの役割は最も小さく、この作品の大半を通じてほとんど完全に沈黙している。

 第1楽章はひとつ前の協奏曲〔No.6 K.238 変ロ長調〕と同じ構想である。独奏主題が2度現れ、ともにハ長調である。同じくハ長調で展開部が開始され、すぐにハ短調に転じ、第1ピアノと第2ピアノ交互での一連のアルペジオに導く。それはヨハン・クリスティアンやハイドン、ショーベルト、シュローターその他の同時代作曲家の協奏曲の中間部を形作る名人芸的モチーフの連続を思い起こさせる。これはモーツァルトのピアノ協奏曲でこのうんざりさせられる趣向が現れる唯一の例だが、それは前年のニ長調のヴァイオリン協奏曲K.218 で見られたし、またその後1777年に作曲されたヴァイオリン・ソナタニ長調K.306でも使っている19ヴァイオリン協奏曲K.218では、第1楽章展開部第133~140小節あたりと思われるが、まだプリミティブである。K.306のバイオリン・ソナタは不規則な形式で、第83~109小節の展開部的なところであるが、これは提示部第13~15小節のモチーフを展開したものである。

 ロンドはモーツァルト的と言えるロンド形式を有しているが、そのテンポはメヌエットのものであり、その主題は色彩に乏しく、変ロ長調〔No.6 K.238〕の機知や生命感にあたるものは何ひとつない。3つの楽章を通して第3ピアノのパートは縮減されており、そのために重要なものを何ひとつ失うことなく2台のピアノ用にアレンジできたのである。ジョセファのピアノの腕前は彼女の母親と姉ほどではなかったに違いない。

 今述べた批判はアダージョには当てはまらない。ここではモーツァルトの真の魂があらわになっている。すでにこの点については述べたが、他の楽章の視野の範囲がどのようなものであろうと、彼の緩徐楽章はほぼ常に個人的なインスピレーションから発しているのだ。彼自身の理想はここで聴衆のそれと融合し、彼の青春時代で最も純粋かつ最も詩的なものであるこの楽章にインスピレーションを吹き込んでいる。彼の天才の最もわかりやすい証は、しばしば語られるアンダンテの秀逸さである。というのも、これらは平凡さを最も嫌う楽章であり、二流作曲家の手になるとその結果は最悪となる。威勢の良いスケルツォに磨きをかけることは比較的やさしい。しかし、緩徐楽章においては偉大なもののみが成功するのである。

 この協奏曲のアダージョは第1協奏曲〔No.5 K.175 ニ長調〕と同じく3部構成のソナタであるが、ここでは展開部は単なる経過部以上のものであり、長く、独自の重みがある。いつも通りオーケストラの前奏が2つの主題を提示し、3台のピアノが20正確には、第1ピアノが入り、第2小節から第2、第3ピアノが入る。第1主題によって入り、長調に転ずる。第2ピアノがカンタービレな独奏主題を提示し、それは自らの左手と第1ピアノの右手によって伴奏され、数小節の後、両者は役割を交代する。このうねるような主題はオーケストラによって妨げられることなく、真の第2主題21第22小節の末尾からの主題であるが、これは総奏提示部の第1主題に続く第5小節からのものと同一であり、「真の第2主題」とするには疑問がある。へと導かれる。

 第2主題は非常に単純な、ほとんどスケッチ的なシンコペーションの主題から成り、一風変わったうねりのある伴奏を伴うが、主題同様に注意を惹くものである。これは偉大なハ長調協奏曲K.503〔No.25〕のヘ長調のアンダンテとなって再び現れる主題の登場の仕方の初めての例22第1提示部では第2ヴァイオリンのさざ波のような32音符のアルペジオの上を第1ヴァイオリンの断片的な主題が奏され、第2提示部ではピアノの左手にさざ波の伴奏、右手に断片的な主題が移される。これはこの協奏曲のアダージョと第25番K.503のアンダンテと、ほぼ同型である。である。モーツァルトにあっては、主題、さらに楽章でさえもそれに似たものが頻繁に出現することについては既に述べた通りだが23No.5 K.175 第2楽章での指摘。、それらの変化の仕方がしばしば興味深い成長の証となっている。

 展開部の7小節とそれから派生するカデンツァの2小節は、この作品の最もすばらしいところである。もうひとつのややスケッチ的な主題の上を、1台のピアノがスタッカートの32分音符で、想像しうる限りこの上なく絶妙な伴奏を形づくっていく。それはモーツァルトの印象主義の最も魅惑的な例のひとつである。くっきりと明快な外形を一旦離れて、モーツァルトは数小節にわたって、輪郭のはっきりしない、霧がかかったような効果を追い求め、それが他の部分の明快さと対照をなしている(譜例13)。ここでも後年の作品のひとつのパッセージが思い起こされる。それはニ長調の四重奏曲K.499〔No.20 ホフマイスター〕のアレグレット24K.499ホフマイスター四重奏曲は第1楽章アレグレット、第4楽章がアレグロである。しかし、ここで言う特徴を持つ展開部は第1楽章アレグレットのものである。明らかな誤りなので、本文のアレグロを修正した。の展開部である。その半ばで、ピアノのざわめきの上に、オーボエが鋭いトーンで入ってくるが、それはやや唐突に終わり、第1主題の中に溶け込んでいく。

 モーツァルトは最初の2つの楽章のためにカデンツァを残している。アダージョのためのものは、すぐに展開部の愛すべきパッセージを取り上げ、2小節にわたって進めるが、その後常套的なフィオリトゥーラ〔装飾された旋律〕へと巻き戻される。

 

 4 ハ長調〔No.8 K.246〕 このグループの3番目で最後の協奏曲はリュツゥオ伯爵夫人のために書かれたもので、わずかながらより興味深いものでもある(譜例14)。それは、ある程度ニ長調〔No.5 K.175〕(ギャラントリーによって征服されてしまったかのようなモーツァルトの生涯のこのステージにあって常に振り返る一種の黄金時代である)の精神をいくらか取り戻し、変ロ長調〔No.6 K.238〕の典雅さを併せ持っているものの、それでもまだ幾分か没個人的なものにとどまっている。他の2つの曲同様に、第1主題と第2主題の間に独奏主題が挿入される。そして展開部は短調である。新しい主題がその中に現れるが、それには変ロ長調のここで生み出された偽らざる苦悩の音がない。アンダンテ開始部の切望感はまさにモーツァルト的であるが、ピアノはすぐに表現力に乏しいとりとめのない演奏の中に自らを見失ってしまう。フィナーレは再びメヌエットであり、3台のピアノのための協奏曲〔No.7 K.242 ヘ長調〕より機知に富んではいるが、大したことを語っているわけではない。

 この協奏曲は、その独奏主題が無ければ、われわれを長く引き留めておくことはないだろう。これは2回にわたりともにハ長調で他のピアノ協奏曲に現われた主題の最も初期のバージョンである(譜例15a)。これは単純で、かつ1785年ころの作曲家であれば誰の手になっても良いと言えるものである。6年後に、同じ部分、同じ調、同様なアイデアの繋がりとなってモーツァルトの心によみがえった

が、それはより豊かなものであった(譜例15b)。最終的にこれは完全なる成長を遂げ、より簡潔にかつより深いものとなって4年後に再び現れるのである(譜例15c)(譜例15a,b,c比較表示)。この美しい旋律の原点は1776年のこのザルツブルグのハ長調の協奏曲であり、それゆえにこの協奏曲はわれわれの記憶に値するのである(原注1)

(原注1)マンディチェフスキーは、K.246のパート譜の草稿のファクシミリを出版した。今モーツァルテウムにあるが、それはモーツァルトが総奏の間の独奏者のパートをどのように理解していたかを示している。独奏者は今日のように沈黙したままではなく、その役割を他の楽器と合奏して低音を受け持ち、もし第2ピアノがなければ、その機能を満たしていた。草稿はこの機能の発揮させ方が極めて没個性的なものであることを示している。大きなオーケストラとこれらの協奏曲を演奏する場合には、この合奏機能は必要なくなるのである。

 モーツァルトはこの協奏曲を1776年にミュンヘンで演奏し、マンハイムで彼の生徒に教え、1778年の1月にその地でアボット・フォーグラーが演奏している。モーツァルトは1782年4月10日付けの父親への手紙の中で、この曲をウィーンに送ってくれるよう頼んでおり、その時期に至ってもモーツァルトがこの曲に関心を持っていたことを示している。

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