協奏曲のフィナーレで最も一般的な形式はロンドである。しかし、モーツァルトは短調のロンドを徹底的に嫌っていた。彼が残した短調のロンドは3曲のみで、そのすべがソナタなのである(原注1)。短調で始まる4番目のロンドは協奏曲K.466〔No.20 ニ短調〕のものだが、その終わりは長調である。その他の短調作品では、モーツァルトはフーガ(原注2)かソナタ形式(原注3)、あるいはこの曲のように変奏曲(原注4)を使ったのである。

(原注1)K.304、ヴァイオリンのためのホ短調〔No.28〕;K.310、ピアノのためイ短調;K.457、ピアノのためのハ短調
(原注2)K.173、弦楽四重奏曲ニ短調〔No.13〕
(原注3)K.183とK.550の交響曲ト短調〔No.25とNo.40〕
(原注4)K.388、セレナーデハ短調〔No.12 管楽器のための〕、K.421、弦楽四重奏曲ニ短調〔No.15 ハイドン・セット第2番〕、K.491、この協奏曲〔No.24〕。ト短調のピアノ四重奏曲K.478〔No.1 ト短調〕と弦楽五重奏曲K.516〔No.4 ト短調〕は長調のフィナーレである。

 このフィナーレの主題は、モーツァルトが“変奏曲に使った”ものとしては間違いなく最も彼らしいもののひとつである。その歩みは整然として遅滞なく、無駄がないがそっけないわけではなく、行進曲と讃美歌の両方を思い起こさせる。これは二重の各々8小節の2つの部分1原文はtwo halves of eight bars eachで二重変奏曲を表しているが、主題および第1変奏は(8小節)反復+(8小節)反復、第2変奏以降は第7変奏を除き(8小節+8小節)+(8小節+8小節)である。この構造を現すため「二重の各々8小節の2つの部分」と訳した。で構成され、繰り返しがあり、主調から属調へ転調するが、多くの短調作品のように近親長調へは転調しない2 この変奏曲の主題の前半、後半の8小節は、ハ短調で始まり属調のト短調で終わる。ガードルストーンが原注にあげている曲、例えばK.388のセレナーデの第4楽章の変奏曲を見ると、その主題はハ短調で始まり、平行調の変ホ長調で終わる。すなわちこのハ短調の変奏曲では長調の明るい光が射しこむという感じが全くない主題であり、それが次の「全体を通して悲しみの闇に包まれ」という受け止め方に繋がるのである。。全体を通して悲しみの闇に包まれ、その感情において前の2つの楽章とかすかに繋がっているが、アレグロほどは旋律的ではなく、より控えめで、またラルゲットにあった清澄さと官能性は皆無である(譜例340)3譜例340で(a)は第0~3小節、(b)は第3~5小節、(c)は第5~9小節である、

 この主題とその和声づけはまことに素っ気ないが、スコアリングはこの上なく緻密なものである。旋律は初めから終わりまで第1ヴァイオリンによってピアノpで提示され、それを他の弦が伴奏するが、他の弦が自律性を示すのは前半部と後半部の最後の小節のみである。一方で、リズムは対照に満ちているが、旋律線は滑らかである。最初の4分音符(a)が強調され、それは2分音符と全音符(b)4この2分音符、全音符は譜例340の伴奏部に現れるもので、その部分は表示されていない。へと拡張される。そしてそれにレガートの4分音符の旋律線(c)が続く。

 木管がこぞって(a)を強調する。そして(b)ではフルートが1オクターブで弦に重なり、(c)(5~6小節)ではバスーンがホルンに重なり、そして7~8小節ではすべての木管が重なり、あるいは弦のハーモニーを完結させる。後半では、似てはいるが同じではない振る舞いが見られ、その結果、オーケストラの全楽器、ティンパニでさえも、ひとつかそれ以上の箇所で何等かの寄与をすることで、簡素なあまりに侘しいとさえ言える主題に華麗な色彩が広がっていくのである。

 この主題に8つの変奏が続く(原注1)。最初の変奏は全反復を持ち、Ⅱ、Ⅲ、Ⅳ、ⅤとⅥは“二重”変奏、Ⅶは繰り返しのない1回の変奏である。そしてⅧは拍子が変わり、コーダが続く。

(原注1)楽譜には番号が打たれていない。各変奏が始まる小節を示す:Ⅰ、16小節;Ⅱ、32小節;Ⅲ、64小節;Ⅳ、96小節(変イ長調);Ⅴ、128小節;Ⅵ、164小節(ハ長調);Ⅶ、200小節;Ⅷ、(8分の6拍子)221小節。5これまでガードルストーンは弱起の最初の小節を第0小節ではなく第1小節としていたが、ここは最初の小節を第0小節とする数え方をしている。

 モーツァルトの協奏曲の他の変奏曲と同様に、主題にピアノのパートはない。第1変奏はもっぱらピアノのものだが、メリスマ的に装飾された旋律61音に1音の装飾音を付けていく唱法のことだが、ここではピアノの旋律線の強拍ごとに弦が4分音符の伴奏をつけることを「メリスマ的」と表現したものである。に弦が控え目の伴奏を付けていく。木管が第2変奏を展開する。それは新たな和声とリズムを持った文字通りの主題の反復だが、元の主題にあった対照はない7「元の主題にあった対照」とは、主題の説明に述べられているような主題部の、旋律的・律動的な対照、あるいは弦と木管との協働的対比のことである。第1変奏では木管と連続する旋律のピアノとは截然と分離されており、協働的対照は発生しない。。その滑らかさにも関わらず、震えるようなバスーンによってかすかではあるが情緒の高まりが表れる。ピアノが各後半ともに16分音符で、最初は音階によって、2度目はアルペジオを使って反復するが8原文はThe piano repeats each half in semi-quaver, using scales the first time and arpeggios the second である。ここの構造は(木管+ピアノのスケール・弦)+(木管+ピアノのアルペジオ・弦)であり、本文のピアノについての記述は前半部、後半部の各後半のことである。「各後半」と補足して訳した。、弦は旋律を簡潔な形に読み変えてそれを保ち続ける。

 さらなる感情の高まりがみられるのは第3変奏である。強弱記号はフォルテに高まる9新全集版でのフォルテの表記は、ピアノの提示後の全オーケストラが入るところである。。ピアノは単独で攻める。右手で主題の大意を反復するが、2拍目と4拍目ごとに付点8分音符を打ち鳴らし、左手で低音域から3連符で昇り、上昇を終えるたびにまた下っては上昇を再開する。これは旋律そのものが持つリズミカルな要素の初めての登場である。オーケストラの全楽器による総奏の反復にまで付点8分音符は生き残り、3連符の場所は第2ヴァイオリンが奪い、その下の弦による波打つような伴奏10第2ヴァイオリンの下3本の弦の範囲であるが、主に下2本を使った伴奏である。を保持する。弦、木管、金管、そしてティンパニによる(図1)のリズムは繰り返し強調され、今や主題全体に広がるが、その印象は力強く、勇ましい。しかし、それはよくある軍隊ロンド風ではなく、ベートーヴェンのハ短調のヴァイオリン・ソナタ〔No.7 作品30‐2〕に近い。すでにアレグロについて語った中で述べたが、このような純粋に肉体的な効果はモーツァルトでは珍しく、それが現れた時にはなお一層印象に残るのである。

 ファンファーレ11第5変奏での付点8分音符の音型を喩えたものである。が突然止み、それに代わってクラリネットとバスーンが変イ長調の開幕を告げる優しい旋律を歌いあげる。それは下属調12変イ長調は、厳密にはハ短調の下属調であるヘ短調の平行調、すなわち下属調平行調である。の穏やかさに満ちているが、この変奏には元の主題の形も、リズムも、和声も、またその気分さえもなく、間奏曲の性格が強いものである(譜例341)。リズムは依然として軍隊調だが、勇ましくも激しくもない。ピアノがそれをほぼそのままに繰り返し、弦がその低音域でそれに重なる。ピアノが自らに音階と分解された和音での走行を許すのは後半部になってからなのである。

 第5変奏は、それまでと同じように前の変奏に繋がっているが、最も感動的なもののひとつである。それは直ちに悲歌的なインスピレーションに立ち戻るのだが、それは他の楽章で何度も認められ、ここまでこの楽章で姿を消していたものなのである。これは全面的にピアノのもので、オーケストラの介入はそれぞれの部分の終盤の弦の保持音のみである。最初の部分はまさに変奏曲で開始され、それはもはや間奏曲ではない。それは自由な4声の対位法で、旋律的であり、薄いベールをまとったような透明感のあるテクスチャーは非常にモーツァルト的である(譜例342)。やや意外なことだがこれは一連の長調変奏曲での短調変奏の中で出会うような書法なのである。その後半は高音部で自己主張の強い付点8分音符のリズムを回想し、その間低音部から寄せては返すような音階が1回に1度ずつ上昇しながら、時に旋法的な響き13多くの臨時記号を用いて音階性を崩した半ば旋法的な上昇音型であり、左手の上昇音階が2度、1度、2度と通常のモーツァルトの音階音型の上昇には見られない形であり、そこに2つの短3度が内包されている。フリギアやエオリア旋法的な響きを持ち、その長短調がわからない。これを「旋法的な響き」と呼んでいるものと思われる。を伴って突き上げてくる(譜例343)。第2の部分は、対位法のほとんどが2声14ここでの対位法のほとんどは3声である。であることを除けばほぼ同じである。

 再びムードは澄み渡り、今回は平明なハ長調が天上のごとき平穏さを告げ知らせるが、それは変イ長調の間奏曲の撫でさするような暖かさとは非常に異なったものである(譜例344)。これはオーボエとフルートそしてバスーン間の対話であり、変ホ長調協奏曲K.482〔No.22〕のアンダンテでのハ長調エピソードのインスピレーションとその書法の双方を思い起こさせる。ヴァイオリンが旋律の主導権を握ると、ピアノはその旋律を上方高く放つ15第179小節の上向アルペジオである。。そして最後には木管がその座を奪い、独奏と木管たちとの対話で締めくくられる。

 これはこの協奏曲の最後の穏やかな一時である。これ以降、平穏であろうとする企てはすべて頓挫し、自らを苦悩に委ねてしまう。第7変奏はそれが主題であるかのように開始されるが、断片(a)と断片(b)(譜例340参照)の間にピアノと木管が割り込むことで直ちに聴衆は情熱の際まで連れて行かれ、(c)で独奏が両手によるアルペジオとアルベルティ・バスの打ち震える伴奏を加えた時には、聴衆は情熱のただ中にいるのである。ピアノ、弦と木管がインタープレイを一貫して続けるこの変奏には繰り返しがない。それは問題の核心へと突き進むかのようである。それを終わらせる代わりにピアノが譜例335に似た3小節の華やかな装飾楽句を付け加え、属和音とカデンツァへと導く。

 アレグロと同様に、カデンツァはトリルでは終わらず、総奏に妨げられることなく直接次の変奏曲に繋げる。最後の変奏は多くのロンドやアリアの結末のように8分の6拍子だが、調性は頑なに短調のままである。ピアノが単独で物語る(譜例345)。舞曲のリズムのみならず、ピアノが両手で奏する高音部の優位性が曲想の重さと対照的な軽さの感覚を与え、ほとんど悲劇とも言えるほどに悲しみの情を高めるのである。しばしば18世紀に、とりわけモーツァルトの音楽にこのような内容とその表現様式の巧緻な対照を見出す。音楽においてそれは、悲しみを表現する短い跳ねるような詩形16例えばホプキンスの詩形に見られるようなものである。に相当するものである。演奏会のプログラムの解説は、この変奏曲とそれから流れ出るコーダ(225~226小節、233~234小節その他;譜例345a17譜例345でガードルストーンは第6小節と第7小節を反復記号で表記しているが、実際には両小節には違いがある。 第6小節の変ニ音と変ロが短3度、変ニ音と変ホ音が短6度のナポリ6度である。新全集版では、第7小節は前者が2度になっておりナポリ6度ではない。これが3回にわたって出現する。)で執拗に現れるいわゆるナポリ6度(原注1)の存在をよく話題にする。情緒はここでは第1楽章のもので、その展開部で耳にした肉体的なアピールを再び伴い、さらに、何ものかが曲を日常の情熱の世界から舞い上がらせ、遠く天上の空間へ連れ去る。変奏曲から生まれたモチーフにとどまりながらピアノが高音のオクターブ和音へと突き進み、それより低い音域で弦がそれに重なりつつ(この協奏曲でモーツァルトお気に入りの書法上の工夫である)、歯が浮くほど耳障りに6度の半音階的行186度関係は、右手のオクターブの下の音と左手のアルペジオの初音である。6度は3小節、3回出現する。しかし半音階的な進行をするのは右手のオクターブの方であり、ガードルストーンの記述はやや曖昧である。に激しく突き進む時、聴衆はこのことをさらに強く感じるのだ(譜例346)

(原注1)短3度と短6度で構成される下属和音

 このパッセージがこの楽章の頂点であり、協奏曲の最終的なメッセージであることを強調するために、モーツァルトはこれを反復し(240~256小節、257~273小節)、これを最後に譜例345の断片(a)を響かせ終わると、オーケストラとともに結論のファンファーレに身を投じ、それが観念したように短調の勝利を宣言するのである。

 この協奏曲はあらゆる面でモーツァルトの最も偉大な作品のひとつである。4曲ないし5曲の偉大な作品から選ぶことが可能であるならば、最も偉大なものであると言ってもやぶさかではない。これまでその偉大さの主要な要素の分析を試み、あるいは、せめてそれらの要素に対して注意を喚起しようと試みてきたが、語っていないことがひとつある。

 それはピアノとオーケストラの協働に関することである。

 この協働が持つ味わいのある複雑性が協奏曲の特に優れた要素である。これを欠いた協奏曲は良き音楽ではあっても、良き協奏曲ではあり得ない。つまり、交響曲ではなく協奏曲であるのは、独奏とオーケストラの諸楽器との協働があるからなのである。それは形式上の理念ながら、協奏曲という分野のみが持つ資産として、確実な表現の可能性と不可分のものなのである。この理念を自らの前に掲げていない協奏曲は、繰り返して言うが、美しい作品であるとしても、それが掲げる看板には値しないのである。

 さて、この理念を念頭に置いてみると、モーツァルトの23のピアノ協奏曲によるその実現のされ方は非常に様々である。最初の9曲はその理念からほど遠く、1784年にモーツァルトはそれにかなり近づき、同じ年のニ長調〔No.16 K.451〕、ト長調〔No.17 K.453〕そしてヘ長調〔No.19 K.459〕において理念への完全なる到達を見るのである。しかし、これらの理念上の成功はそれに相応しい情緒的な価値を伴っておらず、ニ短調〔No.20 K.466〕においてそれまでの彼のいかなる器楽曲よりもさらに深い情熱を協奏曲形式でモーツアルトが表現した時に、彼は協働の理念からは離れ、対抗者間における交代と対立の理念へと立ち戻るのである。そして、彼はコンチェルタンテ19ガードルストーンは、concertanteという語を各楽器が個別独奏的に競い合うという形態を意味させており、collaboration=協働と対立的に捉えているようである。の複雑性と過剰さの中に、協働の理念の真摯さで得たものを失ってしまうのだ。

 モーツァルトが変ホ長調〔No.22 K.482〕(再現部)とイ長調〔No.23 K.488〕(アレグロの展開部とアンダンテ)で、それをかなりの程度取り戻すのを目の当たりにした。そして、ハ短調〔No.24 K.491〕では失地がすべて回復される。協奏曲の舞台から退出しようとするその時に、モーツァルトはインスピレーションの偉大さとピアノと総奏のインタープレイの豊かさと多彩さの双方で等しく卓越したのである。もう一つ、アレグロとラルゲットでピアノが単独で奏することはほとんどないことも述べておこう。ピアノの入りを示す前奏(譜例326)がある程度の長さを持つ(原注1)唯一の完全な独奏のみのパッセージである。その他ではオーケストラが3、4小節沈黙することもあるが、それは提示部の終わりの束の間の清澄さをピアノによりはっきりと歌わせるため(241~244小節)であり、あるいはピアノが単独になることで譜例333の楽章の頂点(325~329小節)での情熱の爆発がより直接的なゆえにさらに劇的になる可能性があるからだ。ラルゲットでは、無伴奏のピアノによって最初と3度目のリフレイン(1~4小節、63~66小節)が提示される。両楽章のその他の時では、オーケストラを代表する楽器がピアノと一緒に奏するのである。

(原注1)18小節である。

 しかし、総奏が常に独奏の傍らにあること自体が協奏曲の価値の構成要素となるわけではない。その結果として生ずる複雑さが味わい深いものでなくてはならないのだ。このハ短調協奏曲は、独創的かつ表情豊かな伴奏の数の多さおよび熟達した協働の瞬間の豊富さで、先行するすべての協奏曲、さらに、この後の3曲のうちの2曲を凌駕している。それらをいちいち挙げる必要はないだろう(原注1)。使い古された形式である保持音や反復音はほとんどなく、それらに十分な力を取り戻させる状況においてのみ使用されるのである(原注2)。ここでは、モーツァルトは表情豊かで旋律的な音型をより好んでいる。すなわち、ピアノの休むことのない走句(譜例325c;170~174小節)、譜例329のヴァイオリンの息つく間もないエコーなど以上に、木管の“問いと答え”を好むのである。しかし何よりも、諸楽器はもはや厳密な意味での伴奏ではこと足りず、独奏の音調や旋律と競い合う。音調については、独奏に重なってその音色に暖かさ、鋭さや柔らかさを加え、旋律については、楽章全体を貫いている第1主題からの断片のいくつかでピアノを支える。このことの事例は楽譜のどのページでも明らかではあるが、すでに引用した譜例328譜例335などの数小節(原注3)を参照してもらわねばならない。弦または木管が休むことなく16分音符でピアノを支え、緊張が高まった瞬間にそれらの多様な音型とリズムが全体をすばらしい力のレベルへと上昇させるのである(原注4)。念のために、再現部の435~462小節の反復の時にピアノが加わることで豊かになる総奏のパッセージの工夫が印象的な例のひとつであると述べておこう。ここで、またすでに事例で挙げたいくつかのパッセージでは、片方の対抗者がもう一方にもはや服従することなく、対等の条件で協働するのだ。ピアノとオーケストラは共に作品の共通の理念に向かってそれぞれの自我を抑えるが、それでも各々の個性を覆い隠すことも、協奏曲を“ピアノのついた交響曲”に変えてしまうこともないのである。

(原注1)私はすでに第Ⅰ部第3章でモーツァルトの伴奏の興味あるものについて分類を試みている。
(原注2)譜例325aの保持音(125~133小節、369~380小節)、反復音は特に譜例331(220~227小節)のもの。
(原注3)同じく239~240小節、252~256小節、310~324小節、388~390小節、463~468小節。
(原注4)譜例332;346~356小節、355~361小節、コーダ。

 ピアノの書法それ自体が消えてしまっていた何ものかを取り戻し、これまでは別々のものであった2つの特性を結び付けた。それはニ短調〔No.20 K.466〕の変化する旋律線と異なった音域の巧みな使用とハ長調〔No.21 K.467〕の多量の技巧性を統合したが、それはK.482 〔No.22 変ホ長調〕とK.488〔No.23 イ長調〕にはほとんど見ることができなかったものなのである。この前の年の偉大な2つの協奏曲の、一方のしなやかな強さと激しさをもう一方の重さと量と融合させ、他の3つのハ短調のピアノ作品とともにこの曲はモーツァルトがお気に入りの楽器からこれまで引き出した情緒的力の極限を示すものなのである。

 しばしば引用されるシュポールの表現は他と同じくこの曲の場合も決して正しくはないが、半ば戯れで、木管とピアノのための交響曲と定義する方がよりふさわしいだろう。この協奏曲はすでに和声と調性で非常に多彩であり、絶え間ない、時には大胆な転調がかくも実り多く、最も音調の色彩の豊かなもののひとつでもあるが、それは木管の数の多さとそれが占める重要さに負っているのである。他のどの協奏曲でもモーツァルトが木管をこれほど気前よく扱っているものはない。これは7本20フルート1、オーボエ2本、クラリネット2本、バスーン2本、計7本である。本章冒頭オーケストラ構成参照。の木管楽器を有する唯一の作品であるだけでなく、木管が真の協奏的パートを頻繁に受け持つのだ。木管のみで奏することも数回あり、特にラルゲットの一部でのその演奏は所謂“木管セレナーデ”といえるほどである。アレグロの第2主題、譜例327は、その2回の出現ともに21譜例327では、まずピアノが主題を提示、弦が伴奏し、反復時に木管が主題、弦の参加はない。また譜例330でもまず木管が主題を提示、弦が伴奏し、その反復時には弦がピアノとともに主題を奏する。、弦は主題提示に参加を許されない。譜例330も各出現ともに22譜例327と譜例330は提示部と再現部で、提示順序を入れ替えて2回提示される。、フルートとオーボエが主題を提示する一方、弦は伴奏を行うのみで、木管の後でそれを反復、しかもピアノとともに反復することだけが許されるのだ。偽の第2主題、譜例324もやはり木管のもので、弦は木管に混じるが、その立場は下位のままなのである。再現部でフルート、クラリネットとバスーンがその優位な立場を明け渡す時、それによって利するのは弦ではなくピアノなのだ。提示時でも伴奏時においてもそこに旋律がある時には、モーツァルトはあからさまにオーボエ、クラリネットそしてフルートを選ぶのである。

 この協奏曲のアレグロおよびフィナーレ、K.271〔No.9 変ホ長調 ジュノーム〕のアンダンティーノ、さらに、K.482〔No.22 変ホ長調〕のアンダンテのみがモーツァルトがハ短調を使った協奏曲の楽章なのである。この調はその他の作品にあっても非常に稀であり、この協奏曲、木管セレナーデK.388〔No.12〕、ピアノ・ソナタK.457〔No.14〕のみがハ短調を用いたソナタ形式の作品なのである。加えて、エジプト王タモス〔K.345〕の第1間奏曲、2曲のピアノのための幻想曲23原文はthe two piano fantasiasであるが2曲の幻想曲のうち、1曲はハ短調K.475 であるが、もう1曲のハ短調K.396は未完成作品である。なおK.426の2台のピアノのためのフーガはハ短調である。その他にピ小品ではピアノのための小葬送行進曲K.453aがある。、フリーメイソンのための葬送音楽〔No.477〕、前奏曲とフーガK.546で、この調による器楽作品のリストは完結する。

 ハ短調はモーツァルトとって明らかにまれなものである。その使用頻度においてまれであり、また、それを用いた曲の価値においてもまれなのだ。すべての短調と同様、モーツァルトは深い情緒を感じた時のみハ短調を使用したのであり、上述した作品のほとんどは彼の傑作に連なるものなのだ。この理由を除けばモーツァルトの作品におけるこの調の性格を一般化することは難しい。つまり、多くの点において彼の“ハ短調作品”はそれぞれに独自のものだからである。本協奏曲を語った時にすでに触れたことだが、このことはモーツァルトの他のハ短調作品についても真実なのである。激しい情熱が旋律よりもリズムの効果によって己を表出することで聴衆を歌の魔法によって圧倒する、というよりも忘我の境地に連れ去ってしまう、これがニ短調協奏曲〔No.20 K.466〕やト短調交響曲〔No.40 K.550〕のフィナーレの性格だが、これはまたエジプト王タモス〔K.345〕の間奏曲やハ短調のソナタ〔No.14 K.457〕、それとセレナーデ〔No.12 K.388〕のいくつかの部分についても言えることなのである。つまり、この特性がこの協奏曲において優勢ではないという事実によって、これがハ短調には異質のものだと論じてはならないのである。その一方で、これらすべての楽章に共通して聴かれる、歌うような時として悲歌的な音調はまた、ニ短調の協奏曲の嵐のような性格を持たない同じ調の四重奏曲〔No.15 K.421 ハイドン・セット第2番〕でも支配的であり、その情感はこの協奏曲により近い。つまり、モーツァルトの音楽においてハ短調が持つ、あるいは持たない特性を一般化することは厄介なことなのである。

 ソナタ〔No.14 K.457〕そしてセレナーデ〔No.12 K.388〕にも、この協奏曲の持つ、ごくたまには荒々しさに身を委ねる威厳に満ちた憂愁はない。両者とも、鋭いリズミックなフレーズに静かで歌い上げるフレーズが続くという激しい対立によって進行するのである。ベートーヴェンがこの協奏曲を心にとどめていたとしたら、セレナーデも念頭にあったとは思えないだろうか。つまり、作品37の協奏曲〔No.3 ハ短調〕がこのセレナーデのように対立によって展開するからであり、そのモーツァルト的な変ホ長調の主題は、セレナーデの第2主題と兄弟とまでは言わないものの従弟のように似ているからだ。すでに述べたように、ベートーヴェンのこの協奏曲はコーダで非常にモーツァルトのものに接近し、またここからモーツァルトの協奏曲とソナタとの接点も見ることができる。つまり、ソナタ〔No.14 K.457〕の最後の数小節は協奏曲が第1楽章を閉じた時の情感をより簡潔に表出しているのである。

 

 この章の最初に思いあたった考えを述べて終えることにしよう。ニ短調〔No.20 K.466〕同様にこの協奏曲もモーツァルトの作品の中では孤立したものである。3年にわたってモーツァルトに表現の主要手段を与えたこのジャンルに別れを告げるその間際に、彼は自身の中に棲む激しい悲しみをこの作品に具現化したのだ。悲しみは彼の他の多くの作品でも見ることができるが、作品全体にそれが充満することはごく稀であった。12曲からなる一連の傑作をこの年の12月の勝利の歌〔No.25 ハ長調 K.503〕で締めくくる前に、モーツァルトは我々に深い悲しみの歌を聴かせてくれたのだ。18ヶ月後に最後の交響曲を作曲する時、モーツァルトは同じようにしてト短調〔No.40 K.550〕の涙の谷間を通り抜け、ハ長調〔No.41 K.551 ジュピター〕によって勝利へと至るのである。

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