これまでの2つの楽章はモーツァルトの作品の頂点であり、同じ一人の人間の作品として2つのものが互いにこれほどにまで異なる創造の水準に達することが可能であることの証しである。これまでこれらの楽章に対して愛情をこめて行った分析的研究の後では、フィナーレに深入りしようという気持ちになれない。このフィナーレがモーツァルトに、たとえ30歳のモーツァルトにとってさえ値しないと言うのではない。しかし、たった今、モーツァルトもそれを超えることのなかった2つの楽章を後にしたばかりであり、また一方で、彼の協奏曲にはこれよりさらに興味深く魅力的なフィナーレが数多く存在する……。しかし、モーツァルトの偉大な協奏曲のすべての楽章を探求すると誓ったのであり、この務めを避けるべきではない。この楽章に対して当然行われるべきことを行おうではないか。

 このフィナーレは、K.451〔No.16 ニ長調〕のフィナーレのように、厳格な形のソナタ・ロンドである。リフレインの主題は、アンダンテのすばらしさの後の荒っぽい覚醒であり、突然聴衆はオペラ・ブッファの中に乱暴に投げ込まれる。楽章の残り全体もこれと違うことはない。ヘ長調協奏曲K.459〔No.19〕のフィナーレも4分の2拍子の飛び跳ねる主題で開始され、その性格は非常に似通っているが、そのロンドは後にリフレインでは示唆されなかった高みへと登り詰める。一方、この曲では、このような驚きは待ち構えておらず、開始部によって告知されていない小節も皆無である(譜例271)。第1クプレはハ長調で始まりト長調へと転ずるが、第1、第2、第3の主題を持っている。アレグロに比べると技巧パートは少ないものの、その活力は劣っており、表現してもより短い間にそれを使い果たしてしまう。展開部クプレはK.451〔No.16 ニ長調〕と同様に、全面的にリフレインの最初の音符に基づいており、この楽章で最も興味を惹かれる部分である。ピアノと木管はその断片で機知に溢れた軽口を交わし、互いに協力し合う。そのパッセージはK.450 〔15番 変ロ長調〕のロンドの似通ったパッセージを思い起こさせる(譜例272)。ゲームが終わるとリフレインが完全な形で戻ってくる。第3クプレは再現部であり、第1クプレを若干の変更を加えて反復し、属調へ転ずることはない。それはカデンツァへと導き、最後にリフレインが戻って、コーダを形作る。

 たとえ素材がありきたりのものであっても、完成されたものは良きモーツァルトのものである。この協奏曲の第1、第2楽章ほど偉大ではないものの後にくるのであれば、人はこのロンドを率直に賞賛するだろう。記譜法は光彩を放ち、木管と弦が活発に対抗しあう(譜例273)。伴奏はしばしば独創的であり(128~140小節、207~212小節、379~392小節)、ピアノと総奏との掛け合いはアレグロよりも頻繁に行われ(162~169小節、413~418小節、そこではピアノが木管の提示する第3主題を断片的なアルペジオや音階で装飾する。314~320小節では、ピアノがリフレインを提示し、弦の伴奏に合わせて10度で奏する1ピアノの右手と左手の音程幅である。初出の譜例281では第1、第2ヴァイオリンの音程幅である。。371~375小節では、ピアノが木管の第2主題の提示を音階で装飾する。そして最後の部分全体、ここではピアノは弦によって提示されたリフレインを華々しいアルベルティ・バスと音階で支えつつ活気づけ、最後の主題の旋律の中をロケットのように突き進む。展開部クプレはK.451〔No.16 ニ長調〕よりも興味深いが、K.450〔No.15 変ロ長調〕のものには及ばない。しかし、この楽章は両者を思い起こさせ、モーツァルト的な主題労作の優れた例なのである。

 この章は少々短く終わるが、それはこの協奏曲がそうであるからだ。この作品のような始まりに結末をつけるのは非常に困難である。1786年のハ長調協奏曲〔No.25 K.503〕では、そのアレグロはさらに堂々としており、ロンドではその威厳を保つのが難しい。ハ長調の五重奏曲〔No.3 K.515〕はそれよりはうまくいっている。しかし、モーツァルトがオリンピア的な第1楽章に匹敵する理想的なフィナーレに到達しえたのは、ジュピター交響曲〔No.41 K.551〕においてのみなのである。

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3.第18協奏曲(No.22):K.482 変ホ長調:第1楽章

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