フィナーレはモーツァルトの数少ない短調のロンドのうちののひとつである(原注1)。これは不規則なロンドの注目すべき例としてしばしば引き合いに出される。確かに、モーツァルトでは不規則なロンドがさほど珍しくはないのだが、このロンドはその仲間ではない。これはこの前の協奏曲〔No.19 ヘ長調 K.459〕と構想において非常に似通ったソナタ・ロンドであり、そこでは、真の「展開部」と言える第2クプレが、リフレイン、あるいは第1主題に戻ることなく直接第3クプレに連結する。その主な形式上の特徴はリフレインの最後の出現の後に続く長調1ニ短調の同主調ニ長調である。の長いコーダである。

(原注1)その他のものは、イ短調とハ短調のピアノ・ソナタ〔No.8 K.310、No.14 K.457〕、およびホ短調のヴァイオリン・ソナタ〔No.28 K.304〕である。このロンドの37小節の習作スケッチが、アンドレ版のモーツァルト作品集で出版された。ケッヘル-アインシュタインNo.466を参照されたい。

 楽曲分析すればこのようになる。しかし、ざっと見ると、ヘ長調協奏曲〔No.19 ヘ長調 K.459〕のように、どちらかと言えば2部構成の楽章のような印象を抱く2K.459第3楽章の本文では述べられていないが、それは変則的なものであり、展開部を欠いた2部構成のソナタ的なものと見ることも可能である。。各々はオーケストラの重要なパッセージで始まりコーダがそれに続く。最初のセクションでは近親長調へ転調し、第2部では様々な調性を通過して、半ばを過ぎてから主調へと戻る。

 ヘ長調協奏曲と同じように、ピアノが主題を提示し、そして、オーケストラの長い展開のために引き下がってその場所を空ける。主題はモーツァルトの中でも最もすばらしいリフレインのひとつである。そこには聴き手がロンドから連想するものが何もない。その激しさはこの楽章を第1楽章のムードと一致させる(原注1)が、その熱情はより外面的でより熱い。それは2度にわたって勢いを増し、若干の困難を伴いながら、高音部で主音から自らを引き離し、3回にわたって最後の旋律を開始する(譜例246)

(原注1)それはまたフィリップ・エマヌエル・バッハのハープシコードのためのハ短調のロンド、Wotquenne番号59第4番を思い出させる。

 ここで壮大なパッセージが開始される。モーツァルトの全作品の中で、たとえト短調交響曲〔No.40 K.550〕のフィナーレであっても、これ以上に熱烈なものはない(14~63小節〔13~62小節〕3ガードルストーンは楽章冒頭の弱起小節を第1小節と数えているが、弱起小節を0小節とする普通の数え方では、〔〕に示すように13~62小節である。以下同様に、ガードルストーンの示す小節数の後に〔〕で通常の小節数を示した。)。ヴァイオリンがリフレインの最初の上昇音型で口火を切るが、5小節目4第17小節。の変ホ音でこの曲が転調をしようとしていることが告げられる。そして、ヴァイオリン、ビオラそしてバスーンが主題の前半の断片をお互いに投げかわし、そのまま停止することなく近親長調5平行調のヘ長調。を通って、属和音の終止へ着地するが、そこで8分音符の動きが完全に落ち着いてしまう6直前まで下降音階を示してきた8分音符がなくなるのではなく、上下への動きのない8分音符の保続音に「落ち着く」ことを言っている。。休止もなく(31小節〔30小節〕)第2ヴァイオリンが、次いで第1ヴァイオリンが8分音符の保持属音を響かせ、そして木管とホルンを背にして脈打ち、打ち震える。この音塊の中から、1音ずつ上昇する動きが主調へと導き、そこで今度は低弦部で保持音が新たに開始する。それは、次から次に現れてはすぐにまた入っていく蜜蜂の群れを思わせる。今度は反対の方向7前のパッセージでは初音から第2音へ下降して保持する音型が順次上昇するのに対し、ここでは初音から第2音へ上昇して保持する音型が順次下降することを「反対の方向」と表現しているものと思われる。でゲームが再開され、大きな跳躍を伴う長い音価の主題が第1ヴァイオリンで聴かれる。最後に単なる下降音階の短いコデッタが主調で、ここまでのすべてを急激に閉じる。この豊かなパートは再び戻ってこない、あるいは再帰しても非常に変形され、見かけがあまりにも儚いため、識別できないのだ。

 ピアノがあえぐようなリズムの主題で第1クプレを開始する(譜例247)が、それはハ短調ミサ〔K.427〕のドミニ・デウスですでに使われたもので、譜例2378第1楽章第2提示部のピアノの入りの主題である。を短縮したものである。それはリフレインの意欲的な回帰の前にすぐに消え去ってしまい、そのリフレインの後に近親長調9平行調のヘ長調である。へと転ずるピアノのパッセージが続く(74~92小節〔73~91小節〕)。しかし、長調の時はまだ告げられていないのだ。ピアノが、今度はヘ短調でもうひとつ別の主題(譜例248)(93~98小節〔92~97小節〕)を見つけ出す。それは飾りがなく鋭く、そして前の主題と同様に無伴奏である。木管がそれをピアノpで反復し、独奏がそれを修飾する(99~102小節〔98~101小節〕)。数小節の技巧的パッセージがヘ長調へと導き(103~111小節〔102~110小節〕)、そして突然、おしゃべりの衝動に取りつかれ、ピアノは連続する長い走句を開始するが、その中で前のすばらしい高揚の活力は拡散され失われる(112~139小節〔111~138小節〕)。これで2度目だが、予想通りのトリル上の停止で終わり、そして木管が新たな主題を提示する。

 この主題は譜例238がアレグロの他の主題と異なっていたように、ロンドの他の主題と異なり、それなりにモーツァルトの最も典型的なものでまた最も素晴らしい旋律のひとつである。ここにはこれまで我々が感じた、情熱、葛藤、勢いはもはやない(譜例249)。ピアノが変更を加えることなくそれを取り上げ、第1エピソードを閉じる短いパッセージを付け加える。そして、あっさりとこの主題に背を向けて、3回弾んだ後休止へと至り、それに続いてリフレインが提示される10第2リフレインは何の変更も加えられていないピアノ独奏で13小節の短さである。ただし続くが第2クプレの開始がどこからか、については次の訳注11を参照されたい。

 ヘ長調協奏曲〔No.19 K.459〕同様、第2クプレはオーケストラのパッセージで開始されるが、リフレインの冒頭に基づいたもので、その性格は経過句的なものである。それはすぐにイ短調の属和音で停止する。ここからソナタ・ロンドの「展開部」へと入るが、完全に主題展開的で、それは総奏とピアノで分担される。その冒頭は第1クプレの開始部を回想するが11前の文で「第2クプレはオーケストラの云々」とあり、これは第2クプレが第180小節から始まることを述べているが、その一方この文ではイ短調の属和音の後「ここからソナタ・ロンドの展開部」としているが、これは第196小節のことである。第180小節からのオーケストラがリフレイン主題の譜例246であることを考えると、前のピアノ独奏に続く第2リフレイン部と考えることができ、第2クプレ、すなわち展開部クプレの開始は第196小節からとすることができる。しかし、第1クプレ冒頭の譜例247が回想された後にリフレイン主題246が現れ、それが第2クプレの主要要素のひとつであることを考えると、第180小節からのリフレイン主題部は、第2クプレに属すると考えてもおかしくはない。したがってモーツァルトのソナタ・ロンドにおける境界の不明確化の傾向が強まる中で、第2クプレの開始部についてはどちらであるかを明確には確定できないが、ガードルストーンは第180小節から第195小節までを「経過句的なもの」と見ることによって、2つの考え方を折衷したものと思われる。、主要主題の譜例247がピアノによって展開され、それに激しいリフレインの回想が続く。そしてリフレインの最初の2小節が、ピアノから始まって、伝染するようにフルートへ、そしてバスーンへと広がり、急ぎ足で様々な調を通って、ついにト短調で停止する。その間ピアノは上昇し下降する、それらとは独立したリズムを持つ分解された3度の音型によってフルートとバスーンの進行をもつれさせる(211~229小節〔210~228小節〕)。

 そしてここで譜例247が戻ってくるが、それはこれまでほとんど表に出てこなかったものなのだ12譜例247は初出の第1クプレ冒頭に続き、第2クプレ冒頭(注11参照)でも出現している。「ほとんど表に出てこなかった(kept in background)」という表現には疑問がある。。ピアノがそれをト短調で奏すると、フルートとオーボエが前面に出てそれを分割し(241~246小節〔240~245小節〕)、その後あまり意味のない断片が現れるが、それは最後に出てきた主題の第7小節と第9小節13主題の第7および第9小節、すなわち第236および第238小節。の近親なのだ(譜例250)。この断片には直ちにもうひとつの断片、240小節〔239小節〕のエコー14原文はecho of the bar 240 であるが、この第250小節〔249小節〕の10小節前であり、「連携」の章で述べられた厳密な意味でのエコーではなく、木霊的な意味であろう。なおこのもうひとつの断片は、譜例250をピアノが反復したものとも、あるいは木管が1音だけ嬰音化して反復したものとも考えることができるが、文脈的には後者であろう。が続き、この同じ3組の断片153組の断片とは、フルートとオーボエによる譜例250の音型とその反復、およびピアノによる第240小節〔239小節〕の音型を3組と数えたものであり、音型としては2種類である。はバスーンに支えられ、様々な調と音域を、しばらくの間一緒に戯れまわる。その間を主題と楽器が、クルピエが回すホイールの彩色された帯を通っていくルーレットの玉のように進む。たまたまの一投16ガードルストーンは、3組の断片が次々と調を変えて引き続くのを、ルーレットの様々な彩色の帯に玉を投げ入れる動作に喩えているが、「たまたまの一投」は、ピアノの第259小節後半にニ短調に転ずるところを言っている。それによりニ短調のリフレインを省略し、そのまま第3クプレへと流れ込む。でそれらがニ短調に移った時にゲームは終了し、ピアノは急いで主調への回帰を確実なものにする(247~271小節〔246~270小節〕)。

 規則的なロンドであれば、ここではリフレインを聴かせることになるだろう。しかしそれはあまりにしばしば出会ってきたものであり、ちょうど今立ち去った譜例247とともに、モーツァルトはそれを無視して、第3クプレあるいは再現部クプレを、譜例248でニ短調に移して開始する。そしてカデンツァまでこれ以上その調から離れることはない。進行の主な流れでは、このクプレは第1クプレの最後の部分を再現するものだが、譜例248に続くパッセージは非常に切り詰められている17第1クプレは譜例248の再現以降、2つのトリルで3つの部分に分けられるが、第3クプレでは最初のトリル(第121小節)までを再現する。。ニ短調に移調された譜例249が以前の晴れ渡った風景を今度は曇った空の下で見せる。その快活な足取りは短調の悲しさと諧謔的な対照を示す18譜例249はロンドで最も明るく軽快な主題であり、この主題の持つ意義については本章の最後に詳しく述べられている。これは第300小節から出現した後、ニ長調に転じたコーダの第355小節および第403小節から繰り返し出現する。もしこの第300小節で第1クプレ時の二長調で出現したとすると、このロンド全体が楽天的になってしまい、モーツァルトはそれを嫌ったのではないかと思われる。原文ではここでの効果を ironicalと表現しているが、最も軽快な主題を意図的に短調で提示したという意味であるととって「諧謔的」と訳した。。活力に満ちたピアノの一連の走句が最後のトリルに導く。これはオーケストラに対する合図である。かくも長い間を置いて、オーケストラは初めの激情を再び取り戻し、十分な間隔をあけて、最初の総奏を締めくくった “長い音価”の主題19“長い音価”の主題とは第51~56小節で出現した主題である。を解き放つ(339~346小節〔338~345小節〕)。しかし、これは単なる推移であり、一連の協奏曲の激しい主題(原注1)と同様にカデンツァの登場を告げるのだ(原注2)

(原注1)例えば、K.449〔No.14 変ホ長調〕のアレグロの主題。
(原注2)ベートーヴェンがこの楽章のために作ったカデンツァは、アレグロのためのものに比べてさほど成功しているとは言えない。

 これから先は、新しい道へと踏み出す。すべては新たに作り変えられ、ロンドは冒頭時のように独創的なものとなる。カデンツァはオーケストラに妨げられることなく終了する。ピアニストはリフレインで追い打ちをかけるが、7小節目で突如中断し、いくつか激しい和音を発してそれを投げ捨ててしまう(347~354小節〔346~353小節〕20原著は247~354小節とあるが、247は347の誤りであるため本文を修正した。)。1小節の沈黙(原注1)があり、そしてホルンが低いイ音21ホルンは2本で、イ音をオクターブで保持する。を響かせ、その保持音の上にバスーン22原文はbassesであるが、ここで伴奏を行うのはバスーンだけであるため、「バスーン」で訳した。が伴奏音型を形づくっていく。オーボエが“幸福な”主題、譜例249をニ長調で提示し、ピアノがその例に従う。オーケストラ全体がフォルティッシモ23新全集版ではフォルテである。で突然開始する。その8分音符の動き371~376小節〔370~375小節〕、389~394小節〔388~393小節〕)が最初の総奏(33~51小節〔32~50小節〕)を思い起こさせ、ピアノが華麗にそれに応酬する(377~82小節〔376~381小節〕および383~388小節〔382~387小節〕)。そして、強弱記号は再びピアノpに落ち込み、独奏のアルベルティ・バスの上で、変形され速さを増した譜例249を木管が反復し、金管がファンファーレでそれを締めくくる(譜例251)。音量を上げることなく、このファンファーレは、金管からバスーンにまで響き渡り、ピアノが音階で割り込みそれに対抗する。さらにまだ静けさを保つ7小節の保持音24この保持音は第418~423小節で、正しくは6小節の保持音である。の後で、弦が嬉々とした音階でフォルティッシモ25これも新全集版ではフォルテである。に駆け上がる。そして突然2つの和音が鳴り響いてこの楽章を締めくくる。

(原注1)この沈黙には十分な音価が与えられなければならない。

 かくも様々な面を併せ持つのがこのロンドなのである。

 その全体的な構造と主題的な統一性(2つの主要主題、譜例246譜例249;2つの副次的主題譜例247譜例248)によって、このロンドは最後の協奏曲〔No.19 K.459 ヘ長調〕のものと近親関係にある。しかし、情感ではそれと根本的に異なり、また先行者に劣る面もいくつかある。

 ギャラント時代の短調の作品では、慣習的に作曲家は、提示部において近親長調に転じたように、その第1楽章と最後の楽章を、長調に転じ、明るい音色で閉じることを許されていた。ハイドンも特にフィナーレではしばしばこのように行い(原注1)、ベートーヴェンもしかりである(原注2)。しかし、モーツァルトはめったにこの便宜を利用することがなく、特に第1楽章では一度もそうしたことがない。フィナーレの全体が長調であることは2回のみで(原注3)、フィナーレが最後のところで長調に踏み入るのは同じく2回のみである(原注4)

(原注1)ハ短調の交響曲(No.95 Hob.I:95);いくつかのソナタと四重奏曲。
(原注2)第5番〔作品67 運命〕および第9番〔作品125 合唱付き〕;ヘ短調四重奏曲〔No.11 セリオーソ 作品95〕など。
(原注3)ト短調四重奏曲〔ピアノ四重奏曲No.1 K.478〕;ト短調五重奏曲〔No.4 K.516〕。
(原注4)ハ短調セレナーデ〔No.12 K.388〕とこの協奏曲。ピアノのためのロ短調アダージョ〔K.540〕では長調への転調は最後の2小節で起こる。

 このような長調への転調への誘因は形式的と言うより情緒的なものである。この協奏曲の第1楽章の源泉となった葛藤で始まる作品を締めくくるにはいくつかのやり方が可能であり、そしてまたそれがギャラント時代の短調作品の原点であり、ギャラント時代と言えば、短調が例外的なものであった時代で、明確に特徴づけられたムードに対応するものだったことを心に留め置いてもらいたい。

 葛藤は勝利によって終わらせることが可能であり、ベートーヴェンのハ短調交響曲〔No.5 作品67 運命〕、ベートーヴェン以後のブラームスの第1交響曲〔ハ短調 作品68〕やセザール・フランクの交響曲がその例である。

 モーツァルトの場合は、“気晴らしによる悲しみへの勝利”(サン-フォア)なのかも知れない。作曲者がそれまで苦悩を実感せずに、ただ描いてきただけかのように、それに突然に背を向け、正反対のムードの歌を歌うのである。ハイドンもしばしばこのように見えることがある。ベートーヴェンは少なくとも一度、ヘ短調の四重奏曲〔No.11 セリオーソ 作品95〕でそれを行い、そこでの苦悩に満ちたロンドの後の長調のコーダの侵入は解しがたい。ハ短調セレナーデ〔No.12 K.388〕の変奏曲の結尾はおそらくモーツァルトにおける同様の事例であろう。そして、ピアノと弦のためのト短調四重奏曲〔ピアノ四重奏曲No.1 K.478〕は、そのフィナーレにおいてアレグロの不安へのいかなる仄めかしも避ける。悲しみの理由についてはすべて語り尽くされ、他のことを語る時が訪れたのだ(原注1)

(原注1)ト短調五重奏曲〔No.4 K.516〕のフィナーレは、モーツァルトの楽章の中でも最も評価の分かれる作品のひとつである。賞賛すべきものとみる者もいる一方、完全に取るに足りないもので他の3つの楽章ほどの価値がない、“完結されることのない作品の、無価値な終わり方”(ダンヒル)と非難する者もいる。

 このような極論に賛同することはできない。モーツァルトのすべての第1楽章の中でこの曲のアレグロが占める栄誉ある地位を、モーツァルトのすべてのフィナーレの中でこの曲のフィナーレが同じように占めることはない。しかし、このフィナーレについて言われる厳しいことに値することもない。悲観的な締めくくりを好む者もいるだろうが、モーツァルト自身は、一度のみであるが、哀調に満ちた作品を嬉々とした調子で締めくくるにあたって、聴衆が彼を真剣に受け止めるに十分なものを残したのである。この楽章は見せかけの終わり方ではない。その前のものと明らかな関連があるのだ。協奏曲全体と同様、“気晴らし”はここにはない。間違いなく、初めの3つの楽章の何もこれほど高く舞い上がる飛翔を告げてはいない。アレグロ・マ・ノン・トロッポ〔第3楽章〕の最後のところは、アレグロの冒頭同様、そのムードは悲しみに打ちひしがれている。しかし、フィナーレの序奏となるアダージョは変化への心の準備をさせる。まさにその冒頭で、リズムが新たな方向へ向かう動きを表現するのだ。その遅さにも関わらず、この導入部以上に静的と程遠いものはない。その雰囲気は陰鬱だが、その中に留まることはない。聴衆は今深い森の中を通り過ぎている、あるいは夜明け前の寒く暗い時間を過ごしていると感じるのだ。第13小節に向って第1ヴァイオリンが下降する悲歌を、問いかけるようなほとんど希望に満ちた上昇する音型に置き換える時、我々の目に一瞬の光が映る。木々の枝はまばらになり、目に見える空の大きさが広がっていく。そしてロンドのリフレインとともに、主題の旋律のみならずその伴奏のリズムもが足を速め、我々は開けた田園の中に出て、大空へと舞い上がるのだ。推移は急で、10小節ほどで最も深い絶望から完全な晴朗さへと移るのだが、しかしそこには間違いなく推移が存在するのだ。モーツァルトは、闘争も飛翔も苦悩から抜け出るただひとつの道ではないことを知っている。悲しみを通り過ぎるためには、森の中を通り過ぎその先に広がる幸福な草原に到達するように、時が過ぎ去るのにまかせればそれで十分なこともあるのだ。

  “時を重ねて過ごした;だがそれは変わることはない。
       私の心の軸は回転する;だがまた同じ時を過ごすのだ”(シニエ)

    〔“Souffre un moment encore ; tout n’est que changement.
       L’axe tourney, mon Coeur ; souffre encore un moment”(Chenier)〕

同時に、この楽章が幾分長いとしても、概して、そのこと自体がこれについての批判の対象になることはない。

 またアレグロとの近親性は、2つの楽章の主題にいくつか類似点があることで証明できると付け加えてよいかもしれない(例えばアレグロの第30小節とこのフィナーレの66~68小節)。

 1928年に競売に付されたスケッチの1枚を見ると、モーツァルトは最初、フィナーレを短調で構想していたことがわかる。現在のものと同じ8分の6拍子のリフレインは、その旋律で、ト短調交響曲(No.40 K.550)の冒頭の旋律に先行するものである。

 サンーフォアがモーツァルトについて語ったことを引用したが、モーツァルトは通常、苦しみによって生み出された作品を書いた後にはそれを放棄あるいは断念する道を選んだと言いたい。モーツァルトの成熟期の主な短調作品の3分の2以上は悲しみ、あるいは情熱的な音で終わるか、情緒的にというよりは形式的に、せいぜい最後の小節で長調に転ずることで平穏を見出すのだ(原注1)。これらの例では、フィナーレは最初の感情をさらに情熱を加味することによって追認する(原注2)か、あるいは、疲れ、諦めて再びこのような感情に戻る(原注3)か、のどちらかである26モーツァルトの短調のフィナーレが、ベートーヴェン的な「苦悩との闘争と勝利」ではなく、短調の情緒の追認、あるいは諦めるように、せいぜい最後にわずかに長調に転ずるかのどちらかである、ということを言っている。

(原注1)ニ短調四重奏曲K.421〔No.15 ハイドン・セット第2番〕、ロ短調のアダージョK.540〔ピアノのための〕
(原注2)ハ短調ピアノ・ソナタ〔No.14 K.457〕、ト短調交響曲〔No.40 K.550〕
(原注3)ハ短調協奏曲〔No.24 K.491〕、最初のオルガンのための幻想曲ヘ短調K.594

 ニ短調協奏曲の場合、一聴しただけではそのどちらか明らかではない。ここでは、単に転回、純粋に形式的に短調作品に長調の結尾を並べることが起きているのだろうか? それとも闘争と勝利だろうか? 結末ののどけさは、“気晴らし”あるいは克服によってもたらされたのだろうか?

 “気晴らし”によって、と答えたいという衝動にまずかられる。短調から長調への推移は突然であり、推移部はない。カデンツァが譜例25127原著では譜例250となっているが、あきらかに譜例251の間違いであるため、本文を修正した。のすぐ前に来たならば、変化を準備するのは独奏者の役割となるはずである。しかし、それはあり得ない。というのも、カデンツァに続くリフレインの数小節ゆえに独奏者はカデンツァをニ短調で終えねばならないからだ。譜例249が長調で出現することは、それゆえに、ハ短調のセレナーデ〔No.12 K.388〕やベートーヴェンのヘ短調四重奏曲〔No.11 セリオーソ 作品95〕、あるいはハイドンの多くの作品のように、状況が変化したのだという印象を与えるのである。

 しかし、変化はそれより前の時にすでに準備されているのではないか? 戦いの兆候を耳にしなかっただろうか? 長大な最初の総奏(14~63小節〔13~62小節〕)は第1楽章にインスピレーションを与えている葛藤よりもさらに厳しい葛藤の産物ではなかったか? 確かにそうである。もしそのように緊迫した状態がロンドを通して保たれているならば、“気晴らし”などと口にする気にはならなかっただろう。しかし、その葛藤がさらに強まることはなく、それどころか、闘争の気分は華麗な走句(111~139小節〔110~138小節〕)の中で尽きてしまうのだ。活気に満ちたリフレインの回帰がそれを復活させる可能性もあったが、ピアノとオーケストラが一緒になって、より神経質な譜例247をリフレインに挟み込む28ピアノとオーケストラが一緒になって譜例247を挟み込むのは、第3クプレの第230小節とである。ことで、聴衆は再びそこから遠く連れ去らわれてしまう。譜例246、247および248には情熱的な雰囲気があるが、それらの出現の順番には不可避あるいは劇的と感じさせるものが何もない。

 しかし、それらのグループと主要主題譜例249の間の対照についてはそうではない。これらの間には差異のみならず対立があり、初めて対立が真に劇的なものとなるのである。再現部で譜例249がニ短調で再び出てくる時にはさほど劇的ではないが、コーダにおいて再び劇的なものとなるのだ。楽章の全体的な性格に対立する唯一の要素をここで使うということは、決して偶然によるものでも、作品を長調で終えるという純粋に形式的な必要性によるものでもない。聴衆はそこに劇的な意味を見ざるを得ず、それを、それより前の瞬間の心を乱す不安に対するのどけさの勝利、すなわちクライマックスと見做すのだ。カデンツァのすぐ後にリフレインを中断させて意味深長な“幸福な”主題が出現することをもって、単なる“逃避”を想像することはできない。ここには葛藤と勝利があり、また、ベートーヴェンに比較すれば戦いの進行は継続的でも首尾一貫してもいないが、この特性はモーツァルトのフィナーレでは他に類を見ず、この協奏曲においてすでに注目したベートーヴェン的な特徴のリストにやはり加えられるべきなのである。

 この作品がモーツァルトの協奏曲の中でどれほど独自の位置を占めているかを繰り返し述べる必要はない。この作品は以前のいかなる協奏曲、たとえ最も個人的なものあっても、それよりも“娯楽的”理想から遠くへだたったものである。これは痛切な経験の物語であり、これこそ“転機の作品”なのだ。この事実をおろそかにする演奏は不十分である。ただ上品なだけの演奏、“完璧なフレージング”、楽天的な解釈ほどここにふさわしくないものはない。独奏者と指揮者は、モーツァルトに “スザンナとケルビーノのチャーミングな融合(原注1)以上の何かを見出だすことで考えをひとつにしなければならない。そして、この作品の激しい抑揚を最大限に発揮させるべきである(原注2)

(原注1)アーネスト・ニューマン
(原注2)“この協奏曲の第1楽章には、オーケストラとピアノがただ優雅に演奏するだけでは露わにすることのできない、暗い精神的な深さがある。”(アーネスト・ニューマン)

 その深さと意味するものによって、ニ短調協奏曲は偉大な前進を記している。形式においては、第1楽章および第3楽章にさほどの独創性はなく、後者がヘ長調協奏曲〔No.19 K.459〕のフィナーレと同じ道筋をたどっていることをすでに見ている。主役間のインタープレイでは、1784年のいくつかの協奏曲が獲得した地点から後退している。変ホ長調〔No.14 K.499〕、ニ長調〔No.16 K.451〕、ヘ長調〔No.19 K.459〕はこれより数多くの、より多様な協働の例を示していたのである。さらに、ピアノとオーケストラが一体となるロンドのパッセージは、この楽章の中で最も説得力に欠け、情緒の流れからも外れている29第2(展開部)クプレのことである。ガードルストーンは前に、譜例247の挟み込みにより、リフレイン主題の情熱から聴く者を遠く連れ去ってしまう、と表現している。。モーツァルトがここで失った地盤を回復するのは1786年の協奏曲〔No.23イ長調K.488以降〕においてなのである。

 ニ短調の協奏曲は、モーツァルトの協奏曲(原注1)の中のみならずすべての作品の中で孤立したものである。この調性はモーツァルトによってほとんど使われることがなかった。この協奏曲の他では、2つの弦楽四重奏曲K.173〔No.13 ウィーン四重奏曲第6番〕 とK.421〔No.15 ハイドン・セット第2番〕のみがニ短調の器楽曲である。緩徐楽章では時折ニ短調に頼ることがあり、その例としては、ニ長調セレナードK.320〔No.9 ポストホルン〕のアンダンティーノ、ディベルティメントニ長調K.334〔No.17〕とヘ長調ヴァイオリン・ソナタK.377〔No.33〕の変奏曲、オーボエ四重奏曲〔K.370 ヘ長調〕のアダージョ、ピアノのための小さな幻想曲K.397の前半がある。これらの作品にこの調を選んだ意味は、一連のニ短調の合唱や劇的な諸作品によって明らかとなる。それは、「タモス王」(原注2)〔「エジプト王タモス」のための付随音楽 K.345〕の間奏曲と合唱、1780年のすばらしいキリエ〔K.341〕、「イドメネオ」〔K.366〕でのエレクトラの最初のアリアと合唱“逃げろ、怪物だ〔Corriamo, fuggiamo〕”、ハ短調ミサ〔K.427〕のドミニ・デウス、そして特に、「ドン・ジョヴァンニ」〔K.527〕の祝宴の場面、およびレクイエム〔K.626〕である。モーツァルトにおいてニ短調は、陰鬱で不吉な予兆、内向的で大げさではない情緒、悲歌や叫びというよりも闘争の熱情、迫りくる運命の表現に関連している。それは肉体および精神的な危機を語るもので、すなわち「タモス王」の邪悪なフェレスを滅ぼす嵐の、エレクトラがイダマンテとイリアを脅す時の、またクレタの人々が恐怖に取りつかれてそれから逃げる怪物の、そして、最後の審判(レクイエム)と地獄送り(ドン・ジョヴァンニ)の危機である。2つのニ短調四重奏曲〔No.13 K.173、No.15 K.421〕のある部分でも幾分感じることができたこのインスピレーションは、キリエ、ドン・ジョヴァンニ、レクイエムでまさに完璧に表現され、モーツァルトのすべての器楽曲の中ではこの協奏曲のみによってあまねく表現されているのである。

(原注1)モーツァルトの未完成作品の中に6小節のニ短調のピアノの楽章がある。おそらくK.537〔No.26 ニ長調 K.537〕のために意図したものだろう(ケッヘル-アインシュタインK.537b)。
(原注2)作曲の日付は1774年であるが、しばしば、この協奏曲に近い、特異な終結部が見られる。

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