アレグロとアレグレットがいかに独創的であり、第1楽章の気分にいかに感化力があり、第2楽章の動きがいかに調和のとれたものであっても、この協奏曲の最強の部分はフィナーレである。そこに重力の中心があり、この作品のことを考える時、我々の記憶の中でこの作品を象徴するのはこのフィナーレなのである。

 極めて複雑な作品を、
    主題A―第1主題―23小節
    主題B―第2主題―15小節
などのように要約してしまう形式的分析を行えば、このフィナーレが第2クプレの後のリフレインが省略されたソナタ・ロンドであり、構想においてK.456〔No.18 変ロ長調〕およびK.466〔No.20 二短調〕に類似していることを示すことができるかも知れない。そして、このような分析に帰せられる真実の狭い範囲の中でならば、このような分析も誤りとは言えないだろう。しかし、スコアに一度目を落とせば、それとは異なったより本質的な姿が示されるのだ。最初のページおよびそれに続く数ページは、整った規則的な体裁で、音価の等しい音符、休止、停止、それらが木の葉のように樹冠から根元まで上下に正確に配置された垂直的な構成で並んでいる。しかし、2回にわたりこの均整美は異なったテクスチュアの侵入によって破られる。そこでは音律線が、長く、あるいは短く、直線的あるいは曲がりくねり、あらゆる方向へさまようが、しかし、それは上から下へというより、横から横への動きであり、すなわちポリフォニックなテクスチュアなのである。

 ホモフォニーと対位法の並置がこの楽章の基本的な特徴であり、不規則なソナタ・ロンドの構成が特徴ではないのだ。ここにあるのは、“本質的に伝統的な要素と、軽い、当世的あるいは機知にとんだ旋律”が存在する作品のひとつなのである(原注1)。そしてモーツァルトにおいて最もよく知られているこの例は、ト長調四重奏曲〔No.14 K.387 ハイドン・セット第1番〕のフィナーレだが、あえて言えば、ジュピター交響曲〔No.41 ハ長調 K.551〕のフィナーレもまたこれに属するものである。サン-フォアは、“交響曲のフィナーレにフガートを支配的に使うことには先例がある”(原注2)、またその例はディッタースドルフやミヒャエル・ハイドンなどのオーストリアの作曲家に見出すことができることを気づかせてくれるが、彼らはモーツァルトの年長の同時代人なのである1ガードルストーンの原文では、「彼らはモーツァルトの年長の同時代人である」もサン‐フォアの言葉を地の文に移したものとしか読めないが、これはサン‐フォアの原文にはないガードルルストーン自身の言葉である。サン‐フォアは1789年のジュピター交響曲の説明で述べているのだが、ガードルストーンは、彼らは同時代人でありモーツァルトは「先例」に倣ったわけではなく1784年のこの協奏曲ですでにホモフォニーと対位法の併存を行っていたのだと、サン‐フォアに敬意を表しながらも、言いたいのだろう。。(ここでは、ヨゼフ・ハイドンが20に及ぶ四重奏曲のいくつかで書いたようなフーガ形式のフィナーレや、モーツァルトが1773年にウィーンで作曲したものの〔No.8 ヘ長調 K.168 第4楽章、No.13 ニ短調 K.173 第4楽章〕ではなく、2つのスタイルが交互に現れるものについて述べているのだ。)上述した3つの楽章2ト長調弦楽四重奏曲K.387とジュピター交響曲K.551、および本協奏曲の最終楽章の3つの楽章である。に、モーツァルトの最後の器楽曲(原注3)である変ホ長調の弦楽五重奏曲〔No.6 K.614〕のフィナーレを加えなければならない。そこでは2回以上にわたり5声部のフガートが入ってきて、荘厳さのかけらもない4分の2拍子の冒険に趣きを加えるのである。

(原注1)G.ド・サン-フォア:『モーツァルトの交響曲』、233ページ
(原注2)同上
(原注3)クラリネット協奏曲〔イ長調 K.622〕の一部だけを除くが、ともかく、その大半は間違いなくもっと早く作曲されていた。

 澄み切ったホモフォニーと厳格な対位法が同じ楽章の枠組みの中に存在すること、それは統一の中の対照の原理の表明であり、このフィナーレを豊かで強固な有機体としている。実際のところは、ト長調の四重奏曲〔No.14 K.387 ハイドン・セット第1番〕の熟達した手法に見られるような併存ではなく、両者の融合であって、フガートの中にハーモニックの要素が出てくるのが分かるだろう。楽章がホモフォニーから対位法へ推移し、またホモフォニーへと回帰するのは、ほぼ同じモチーフによるのである。主題の共有は、ジュピター〔No.41 ハ長調 K.551〕や五重奏曲〔No.6 K.614〕のフィナーレほど完全ではない。つまり、この点では、この協奏曲はト長調の四重奏曲と上記の作品との中間に位置しているのである。

 楽曲分析によっていくつかの主題を明らかにすることができるのだが、実際には2つの主題があるのみである。ひとつはリズミカルで主にハーモニックなパートに属し、もうひとつはメロディックでフガートに属する主題である。最初のものがリフレインである。主題のそれぞれの半分ずつが、ピアノとオーケストラによって交互に提示される3原文はEach of its two halves is given out in turn by piano and orchestra. 意味が不明確だが、218aがまずピアノで、次いでオーケストラが主題後半を、続いて218bがピアノで、その後にオーケストラで主題後半が奏されることを言っている。(譜例218aおよびb)。(断片(i)と218bの冒頭の部分は後ほど重要な役割を果たす)。

 ひとたびそれが終わると通例のオーケストラがリトルネッロを続ける代わりに、低弦がただちに新しいモチーフでフーガ風に入ってくる(譜例219)。続いて緊密な対位法の4声部のフーガが提示され、すぐ2小節後にそれへの応答が伴い、それは続いてその応答の間隔を1小節に縮小した小規模なストレットとなり4応答の間隔が1小節に縮小されるのは、通常のストレットのように両者の間の小節が短縮されるのではなく、8小節(4+4小節)からなるフーガ主題の後半の第1小節目が省略されることによって必然的にストレット化するという巧妙な仕掛けである。、ポリフォニーはハーモニーに道を譲る。競い合いは熱を帯びて続き、ヴァイオリンとビオラがトレモランドで突然開始し、ニ短調、変ロ長調そしてト短調の扉を開いた後すぐにその扉を閉じ、属和音の上で騒々しく終止する。ホルンがハ音を響かせ、息の長い保持音をピアノpで開始すると、低弦によってリフレインの断片(i)が囁かれ、それが高声部に広がると再びオーケストラ全体に広がって開始され、ついにフォルティッシモとなり木管と低弦で交互にほとばしる。その間、ヴァイオリンとビオラは楽しげにトレモランドに戻ってくる。ピアノpからフォルテへと推移する中で、断片(i)あるいはそのリズム、そしてトレモランドが徐々に全休止へと導いて行くが、低弦による主音の保持音に乗って完全にホモフォニックな結尾の主題が上下に跳ね回る。これは協奏曲のオペラ・ブッファからの臆面もない借り物のひとつで、まったくのコミックなフィナーレであり、おしゃべりで、用もないのにせわしく、頭はまったくのからっぽ(譜例220)だが、抗しがたいウィットでスコアリングされ補強されている。

 この総奏はかなり長く、この楽章のほぼ5分の1にあたり、そして非常に重要であり、それが単にヘ長調を守り続けているおかげで、これが協奏曲であることを忘れさせない。交響曲ならばここまでですでに転調していたに違いないからである。ピアノが入ってくると、聴衆はあたかも迷子になった我が子を見つけたかのような感じを受けるが、このきらめく導入部の後ではその輝きがやや失せるように思われる。独奏はどちらかといえば目立たない主題とともに現れるが、その主題は確定的なものではなく、それに続く技巧的なパッセージの中に消え去る(譜例221)。それに続くと言うのは、抑えきれない木管が許すならばそれに続くであろう、ということである。つまり、ピアノが主調に戻るとすぐに、木管は(i)のドラムをトントンと打つような音によって平穏を乱すからである。ピアノは再び開始しようとするが木管が再びそれを妨げる。これが数回にわたって繰り返されるが、とうとうピアノが然るべき勝利を収め、木管を沈黙させる。それでも一旦打ち上げ花火が聴衆を属調5ハ長調である。へ運び込むと、(i)のリズムが今度は独奏のトリルのもと、弦によって再び始められる。その感染力はピアノを征服し、そして、独奏、弦、そして木管のすべてがそれに服従し終わって初めて、その執着を免れることが可能となり、ピアノは唯一の主人公として、下降音階のパッセージ6最初は1小節おき、後半は各小節単位での16分音符の下降音階の音型が、各小節1音程ずつ下降していくことをいう。を前進するのである。

 第2主題は弦によって開始されるが、ただちに木管に取って代わられる(譜例222)。ピアノがそれを反復し、修飾するが、すぐにそれを忘れて技巧にふけってしまう。しかし、オーケストラの記憶力はより優っており、独奏が音階を上下する間に、木管と弦は譜例222の断片(ii)7弦の断片(ii)は初拍の8分音符2音を16分音符4音に変更している(譜例223下段)。でお互いに答えあい(譜例223)、そして低弦でポリフォニックな音型が引き伸ばされ、広げられて立ち上がる(譜例219参照)8フーガの主題の第4小節目の下降音階がさらに第5小節まで下降を続けることである。本文は低弦とあるがビオラおよびチェロで、コントラバスは除外されている。。これはこのロンドにおいて、2つの構成要素が初めて協働する場面である(譜例224)。そしてその中で、右手の華麗な進行につれて、この楽章で非常に際立つ下降音階の音型が勝利を収める。

 属7の和音で停止し、カデンツァ9アインガングである。の後でピアノがリフレインを再び開始する。ピアノは単独で前後半それぞれを提示し、オーケストラがそれを反復する間それを修飾する。そこで、ついさっき低音がそうであったように突然に、第1ヴァイオリン、フルートとオーボエがフガートへと飛び込む。主題は同じだが(譜例219)、今度は対位主題、すなわちリフレインからの小さなリズミックな音型(i)(譜例225)によって強調されている。対位法は最初の時と同じように緊密に編み上げられているが、さらに豊かである。それは、ある程度独立して第2オーボエと第2バスーンが何度も第6番目の声部として立ち上がるからである。加えて、その入り方は、ヘ長調でなく、陰鬱な調であるニ短調であり、対位主題の存在とともに、これがこのパッセージに並々ならぬ活力を与えている。この協奏曲の全ての力がこれら35小節に凝縮されている。その律動には抗いがたい魅力があり、それはもはや、同じ調で順番にそれぞれの部分を呼び出して総出演させるような、決まりきったフーガの提示ではない。それらは、不等間隔での多様な調性の一連の侵入である。ニ短調、イ短調、ト短調、ハ短調、そして最後は変ロ長調と、短調に転ずることで譜例225は激しさを加え、その対位主題のリズムがより熱を帯びたものとなるのである。やや静まった中で、変ロ長調でビオラと第1バスーンが最後に入る時、その高揚は力を失うことなく大気は澄み渡り、その瞬間に強弱記号はピアノpへと変わり、独奏楽器がそのパートをオーケストラに付け加える。

 しかし、それと同時にピアノはゲームを中止させる。対位法に自らを従わせることなく、独奏者として演じ続けることを主張するのだ。それでもなお、燃えるような飛翔は続き、そこでは右手の転がるようなアルペジオが低音のしなやかな上昇するオクターブに答える二重のフレーズで、1小節ごとに1音ずつ昇っていく。その間、弦の(図2)が、それに取り込まれてしまうことに抗い、そしてその脅威を切り抜け、生き延びる(譜例226)にも関わらず、ピアノがニ短調へ回帰し、ヴァイオリンはこれらの太鼓を叩くような音をポリフォニックな素材で代用することで10これは第1および第2ヴァイオリンの出来事である。原文ではピアノのことと読めるので「ヴァイオリンは」を補足した。これは訳注8で述べた譜例224の「引き延ばされたポリフォニック音型」と同型であり、訳注11に述べるように、ピアノの分解されたオクターブ音型の下降と並行し、協働する。、敵同士が近づき、またピアノがアルペジオ‐オクターブの交替を放棄して、鍵盤をかき鳴らして修飾しながら主題の旋律線に従うことに応じる11ピアノはいわゆる「分解されたオクターブ」の音型で。音階に添って下降し、それによって、ポリフォニック下降主題と並行し下降することを指している。ことでさらに、その距離が接近するのである(譜例227)。徐々に、激しさが抑制されていき、風景は親しみのあるものにと変わり、驚きもなく、ほとんど気づかれることもなく、第1クプレの(i)に伴われたピアノのトリルへと立ち戻る。展開部(第2)クプレが始まっているが、すでに半分を過ぎている12本楽章をソナタ・ロンド形式と見ると各部は次の通りである。
第1リフレイン  第1~119小節  最初のフーガ部が含まれる。
第1クプレ    第120~254小節
第2リフレイン  第255~287小節
第2クプレ    第289~390小節 2伴目のフーガ部で開始される。
第3クプレ    第391~453小節 再現部(クプレ)
カデンツァ
コーダ      リフレインの最後の出現
ガードルストーンは、第351小節からのピアノのトリルの時点を「再現部が始まって、すでに半分を過ぎている」としているが、これは第2クプレの途中である。したがって、「再現部(クプレ)」ではなく「展開部(クプレ)」の間違いであると思われる。本文はrecapitulationであるが、文脈の整合性のために本文を「展開部(第2)クプレ」に修正した。
。劇的な対位法の雷光のような進行が境界からロンドを追い出し、 譜例221の第1主題を一気にとばしてしまい、譜例222の前の独奏パッセージの冒頭に着地させる13第1クプレの第178~202小節を若干の変更を加えて短縮して再現したものである。第2クプレでの再現は異例である。この後、リフレインを省略して譜例222で第3クプレに入る。したがってここの文章は、「譜例222の前の独奏パッセージの前に着地させ、譜例221の第1主題を一気の飛ばして譜例222から第3クプレへと入る」とあるべきである。譜例222の前のパッセージに譜例222が続くため、第3クプレは分析的に見ない限り、区切られたものとは感じられない。これをガードルストーンは「対位法の雷光のような進行が境界からロンドを追い出し」と表現しているのである。すなわち第2、第3クプレの境界(形式)をロンド(音楽内容、進行)がはみだしてしまっていることの喩えである。

 この後第3クプレは、当然ながら主調を保ちつつ第1クプレを全く正確に再現する。譜例222の第2主題、さらに、低弦で、より静かにヘ長調でポリフォニックな音型の回帰が認められ、そしてカデンツァへと導き入れるストレピトーソを準備するために、モーツァルトは、主音の保持音14低弦およびホルンによる保持音であるが、これはヘ長調で属音である。の上に実に見事なパッセージを導入するが、これはフガートの後、このロンドの中で最も華やかな瞬間である。そのパッセージの要素はピアノの少しずつ上昇していく2小節の音型15第431小節から2小節のピアノの音型が2小節に1度ずつ上昇する。これが5回繰り返された後で、「下降するアルペジオと化す」のである。と、(i)から派生した分割された音型、オーボエとバスーンでも共有される弦のシンコペーションの動き、それとフルートの高音での保持音の補強である16フルートは高音部で、リズムは音型(i)で同一音を保持、他の木管の(i)から派生した音型ならびに弦の保持音に対する二重の補強となっている。(譜例228)。力強い波がうねり、砕け、その波頭は砕け散り、今またオーケストラの交互する(図3)17図の音型が木管で奏され、1拍遅れで弦が同音型を奏する。これが繰り返されることを「交互する」と表現したものである。に駆り立てられて、下降するアルペジオ18アルペジオ自体の音型は16分音符の4上昇音であるが、このアルペジオ音型が1音ずつ下降することを言っている。と化すのだ。ピアノは沈黙を守り、短いパッセージがカデンツァを導き入れる(K.624 No.30)。それはロンドの本体に相応しいものだ。譜例224がそれを開始するが、元の2オクターブの範囲に留まらず、一気に堂々と3オクターブ半下り19右手の譜例224のアルペジオに対し左手はフーガ主題を奏するが、本文で「3オクターブ半下る」と述べているのは左手のフーガ主題で、第2小節の上のニ音から第9小節のホ音まで、3オクターブ半下降することを言っている。、再び幾分か上昇し、そして、はるか高音部から右手が4オクターブ半を駆け下り、再び分解された7の和音による音階を上っていく。そして他の主題、音型(i)の番となるが、そのリズムのみが生き残り、そこから主音の保持音に基づく打ち震えるパッセージが立ち上がり、それはカデンツァの結尾というよりも次の準備と言えるもので、1小節おきの鳴き声のような音型はクワックワッと鳴く雌鶏を思わせ、それはフランスのハープシコード作曲家たち20ラモー、クラブサン組曲の『鳥のさえずり』など。が愛した自然の模倣のひとつである。カデンツァは右手のトリルと、左手による第1と第3クプレのパッセージを思い起こさせる(i)を回想して終わる。

 ロンドの結尾はリフレインの最後の回帰であり、3連符の伴奏によっておどけた感じで跛行するが、それはしばしば4分の2拍子のロンドを締めくくる8分の6拍子への変更と同じもの(原注1)となる21この4分の2拍子のロンドでは、原注にあげられた例のようなカデンツァ後の拍子変更は行われないが、3連符を使用することにより、8分の6拍子への変更と同じ効果をあげていることを言っている。。それとオペラ・ブッファのモチーフである譜例220の大幅に拡大されたバージョンだが、そのおしゃべりはこの結尾部をあたかもカササギの集まりのざわめきのように響かせる。

(原注1)K.449〔No.14 変ホ長調〕、K.451〔No.16 ニ長調〕、K.491〔No.24 ハ短調〕参照。

 このすばらしいロンドにおいて、モーツァルトは、手品師のような技で、情味に乏しい旋律と窮屈なリズムの主題から、力強い曲線で、ゆとりのある豊かな音型と、多彩なリズムを持ちながらひとつのインスピレーションを一貫して持ち続ける、大胆に仕上げられた楽章を引き出したのである。アレグロ部は概ね独奏冒頭の小節の中に含まれており、付点のリズムや3連符の伴奏といった楽章の主要な要素はそこにある。しかし、フィナーレのリフレインを耳にして、それに続く素晴らしさを予知する者はいないだろう。さらに、それに特徴的な3つの8分音符のざわめきのリズムがほぼ楽章全体に付けられており、最初のフガートのみがそれが含まれない唯一の重要な部分である。そして主題そのものが、全体あるいは部分的に、リフレインのみならず、フーガの対位主題と伴奏音型を提供しているのである。

 その動きの激しさは技巧を押し流してしまう。1小節として無為な経過パッセージはなく、ピアノが華々しくふるまう間一瞬たりとも足踏みすることはない。すなわち音階やアルペジオ、分解されたオクターブ進行のすべてが常に目標に向かって前進し、モーツァルトの作品あっても協奏曲ではたまに起こることのある堂々めぐりは一切ない。抗しがたい力の嵐によって聴衆は運ばれていくのである。

 その強靭さは情熱に由来するものではなく、楽章の熱気は魂の熱ではない。大きくかつ力強いが、このロンドは奥深い楽章ではない。それが放つ熱気は、その進行の速度から、鍵盤の一番上から下までを一気に覆うその広がりから、リフレインの断片の絶え間ない衝突から、さらに、対位法の速度、その緊密に織り上げられたテクスチャーも加わって生じるものなのだ。それはフォルティッシモを避けはしないが22新全集版では、第3楽章にはフォルティッシモの指示はなく、すべてフォルテである。、聴衆の血を沸き立たせようとするのは、大音量によってではなく、3打とそれに続く休止の力強いリズム、最もディオニソス的なものである確実で直接的な反応を生み出すリズムの使用によってなのである。2番目のフガートを、これほど息つく隙もなく、明らかに劇的な瞬間にしているのは、これらの包囲部隊の砲列の集結と一斉砲撃によるのであり、内的な葛藤の表出によるものではない。この協奏曲のいかなる楽章にも葛藤は存在しない。その目標は真に情熱的な音楽の目標と時に同じように思え、聴衆に与える効果も同じように思えるのだが、その出発点は情熱のものとははるかに隔たっている。それは演じているだけであり、進むにつれて喜劇から取られた形式的な細部を認めることができた。それは怒りと猛烈さを、しかも上手に真似てみせるのだが、それは遊戯に過ぎず、いかなる不安や苦悩も後に残すことはない。

 これは遊戯であると述べたが、この判断は実際に作品全体について言えることであり、感動的なアレグレットの短調主題でさえも、物まねであり憂鬱なムードの表現ではない。しかし、この曲はテンポと形式でこれに続く激しい作品〔No.20 K.466 ニ短調〕に非常に近いため、聴衆はこの遊戯が、もしや“火山の上で”演じられているのではないかと疑問を抱くだろう。この明らかに情熱的なロンド楽章をモーツァルトは2か月後に再び見出すのだが、不思議にこれと似てはいるが、それは真実の情熱に駆られたものなのだ。

 このヘ長調協奏曲はまことに春めいて、無頓着なものだが、一度ならずニ短調の協奏曲と符合する個所がある。調性の選択自体が類似の印23ニ短調は、この協奏曲の調性へ長調の平行調であり、ともに1個のフラットを持ち、構成音は同じである。だが、どちらの曲も知っている人にとっては、たとえ一瞬の間でもいたるところで前者の旋律や和声進行が後者を思い起こさせても驚くには値しないだろう。しかし、この曲の第1楽章の展開部が、ニ短調協奏曲のアンダンテを激しいプレストが遮る時に同じ和音と同じピアノのパッセージで開始されるのを聴くと、それが単なる偶然の出会いだと考えることはできない。その2つのパッセージの間で唯一注目に値する相違はその調性であり、ひとつはイ短調、他方はト短調である(譜例229;K.459のアレグロ)。ヘ長調協奏曲の場合、それは肉体的な興奮の瞬間に過ぎず、第2独奏の入りは伝統に従って短調へ転調しているだけという人が いるかも知れないが、ニ短調を知る者にとっては、短いものではあるがこれらの部分はニ短調の予兆を孕んでいると思える。それは嵐の警告であり、その嵐の到来は2か月後に物語られるのである。

   またさらに、フィナーレの上にも、到来しつつあるものはしばしばその影を投げかけている。その4分の2拍子のテンポが両者のロンドで同じであることは何ら特筆すべきことではない。しかし、疑いなく、ニ短調の前兆のような魂が第2フガートの上を通り過ぎる。この35小節はニ短調のフィナーレにあっても場違いではないだろう。直感的にもそれを感じるし、またさらに詳しく見ることで、ニ短調の主題、譜例247はフガートの主題、譜例225の転回形24転回形となっているのは冒頭の3音である。でしかないことが分かるだろう。この2つの作品のきわめて相反する性格にもかかわらず、モーツァルトの魂のどこか深いところで、それらは共通の泉から汲み入れられ、相反しながらもその下にある類似によって両者は結びつけられるのである。ヘ長調の協奏曲を1784年の“流行にのったヴァーチュオーソ”の協奏曲と一緒に扱ったが、実際、それはお揃いの服を纏い、同じ足並みで歩むことも事実ではあるが、聴衆はしばしばそこには厳粛な後続者に共通する何かがあるのではないかと思うのである。

 

 この第15協奏曲〔No.19〕は、モーツァルトがヘ長調で書いた3番目のそして最後のものである。最初のものは3台のピアノのための取るに足りない協奏曲〔No.7 K.242〕であり、作曲家の個性はほとんど重きをなさない。2番目のものは、ウィーンの聴衆へ作曲家の紹介のために、受け入れられるべく試みられた優美で控えめな1782年のもの〔No.11 K.413〕である。3番目のみがヘ長調協奏曲を代表するものなのである。

 モーツァルトにおいて、ヘ長調は、ト長調同様に特徴が最も明確でない調のひとつである。作曲家は重要な作品ではあまりこの調に頼ることはなかった。他では4曲のヘ長調の作品のみがこの協奏曲に匹敵する。それはヴァイオリン・ソナタK.377〔No.33〕、ピアノの二重奏ソナタK.497〔4手のための〕、フィナーレを欠く(二手のための25連弾を「四手のための」、単独奏者のソナタを「二手」したものと思われるが、現在後者を二手のためのソナタと呼ぶことはほとんどない。)ピアノ・ソナタK.533(原注1)、最後の弦楽四重奏曲K.590〔No,23 プロシャ王セットNo.3〕である。このリストに、両端のヘ短調のアダージョに挟まれたヘ長調のアレグロで構成されている自動オルガンのための最初の幻想曲K.594を付け加えてよいかも知れない。しかし、これでヘ長調の作品の“ファミリー”を語るのは不十分である。この調では、これらのような重要な作品は例外的なのだ。つまり、ヘ長調というのは、ささいな作品、ディベルティメント、軽いソナタやソナチネ、音楽の冗談などの調なのである(原注2)

(原注1)これは常に(全集版を除き)フィナーレとしてのロンドK.494と一緒に出版されてきた。しかしその楽章は省くのが最善の選択である。というのも他の2つの楽章ほどの価値がなく、またそれらとの関連もない。モーツァルトは怠け癖のせいで、それらを一緒に出版するのを許してしまったのかもしれず、たまたまそうなってしまったのかもしれないが、責任はモーツァルトにある。
(原注2)ハ長調作品の中での、非常に興味深く、強い個性をもった4分の3拍子や8分の6拍子のヘ長調アンダンテのグループ26例えばハ長調の交響曲No.34 K.338、No.41 K.551ジュピター、ピアノ協奏曲No.21 K.467、No,25 K.503、弦楽五重奏曲No.3 K.515などのヘ長調の第2楽章などである。についてはこの限りではない。それは12ほどの楽章があるが、その中のいくつかはモーツァルトの作品の中でも最も見事なものである。またレクイエム〔K.626 ニ短調〕のリコルダーテもその拍動とインスピレーションにおいてその仲間に属している。

 それでも、今見てきた協奏曲とこれらの作品のそれぞれとの類似点を特定することは可能である。二重奏ソナタとファンタジアについては、確かに形式的な類似性は全くないが、ともに同じ活力と気分によって展開される。伴奏での頻繁な3連符とK.533のアレグロでの重要な対位法は、これを協奏曲の第1楽章と第3楽章に結びつける。そして四重奏曲では(フィナーレの)気分と活力、さらに対位法の使用に加え、(アレグロの)良く似た主題さえもあるのだ(原注1)

(原注1)協奏曲のアレグロの独奏主題;四重奏曲の第2主題である。

 これらの楽章の中でこの協奏曲と形式およびインスピレーションにおいてまぎれもない類似性を示しているのは、ヴァイオリン・ソナタ〔K.377 No.33〕のアレグロである。そこでは、この協奏曲の第1楽章同様に3連符が支配し、飾りのない、筋張った主題の単なる伴奏として始まるが、葉が落ちた木に蔦が飾りをつけ、その姿をおぼろげにするように、そのむき出しの姿に衣をまとわせて終わるのだ。またここで、主要主題において下降音階のモチーフと譜例219のシルエットに出会うのである。このソナタのアレグロは協奏曲のそれと同様に主題はひとつのみであり、伴奏の3連符に育まれるリズムと旋律が楽章全体に広がる。そこではまた、協奏曲には異質な厳しさとドライな感触を伴った一種の超然とした感じもあり、それが生き生きとした力強いリズムによって表現されており、両楽章ともに絶えず動き続け休むことがない。ソナタのそれは真の常動曲であり、この協奏曲のアレグロと同様にフィナーレも思い起こさせる。ソナタの方が3年早い作品だが、そのアレグロはいわばこの協奏曲の第1バージョンであり、第1バージョンゆえの一種の硬さととげとげしい感じがある。3年後、モーツァルトに同じインスピレーションが再び訪れた時、より豊かな肉体で角がとれ、元の活力と強さに陽気さと安心感が加わるのである。

 

 この協奏曲の中にニ短調協奏曲〔No.20 K.466〕の予兆を見出したからと言って、これまで作品を順にひとつずつ見てきたこともあり、1785年初頭の2つの作品をとばしてしまうわけにはいかない。それはハイドンに捧げられた6曲の四重奏曲の最後に作られたイ長調〔No.18 ハイドン・セット第5番〕およびハ長調〔No.19 ハイドン・セット第6番 不協和音〕である。

1784年の興奮の後、イ長調四重奏曲の静粛で内向きの特性は、若き巨匠の自身への内向化を示唆している。それは広大なスケールで構想されており、モーツァルトの室内楽でその規模に匹敵するのは、ハ長調とト短調の五重奏曲〔No.3 K.515、No.4 K.516〕のみである。その展開部は真の主題展開的作品であり幻想曲ではない。そのフィナーレは絶頂であり弛緩ではない。主題と変奏のアンダンテは見事なコーダで終わるが、それは楽章を締めくくるのではなく、その上に翔けあがり、過ぎ去ったものについて思いにふけり、ベートーヴェンのエピローグにも匹敵するような醒めた精神でそれを解釈していくのである。この曲は他の四重奏曲よりも書法的にはより綿密なもので、協奏曲のように規則正しく提示部の結尾と再現部へと展開していく第1ヴァイオリンの華麗なパッセージはこれにはない。

アレグロのうねるような半音階の主題とフィナーレは、苦悩の後のほとんど諦観に近い静けさと言え、これはK.414〔No.12 イ長調〕と386〔コンサート・ロンド イ長調〕の協奏曲とロンドが一瞬覗かせたものであり、これ以降それはモーツァルトのイ長調作品の特質となる。この苦悩の後味は幾分物悲しいが、前年の諸作品の後に、この四重奏曲は、モーツァルトは歌をかなでる1本の弦しか持っていないと主張する人々対する答えとしてなんと素晴らしいものであろうか!

ハ長調四重奏曲のインスピレーションはそれほど独創的ではない。一種の快活さがそれを1784年の作品と結びつけると思えるが、むしろそれは2ヶ月後のハ長調協奏曲〔No.21 K.467〕と同じ系統に属するものである。これは、2つの協奏曲K.467〔No.21〕とK.503〔No.25〕、五重奏曲〔No.3 K.515〕、そしてジュピター交響曲〔No.41 K.551〕を含む一連のハ長調作品の中で、最も早い時期のものでかつ最も目立たないものである。有名になり過ぎた導入部の次に注目すべき特徴は、第1楽章とメヌエットのトリオで何度も立ち戻ってくる、脅すような陰影である。

 これらの四重奏が新たなページを開くのである。“流行にのったヴァーチュオーソ”の時期は閉じられるのだ。この時期について結論を述べるとしよう。華麗さ、魅力、色彩、火花、誇らしげな態度といった表面的な特質が親密さや感情の内面性に対して優位だが、以前のギャラントな作品とは対照的に、このことがこれらの作品がより高度に個人的なものであることを妨げることはない。しかし、個性の中に引きこもらず、それとは逆にその才能を惜しみなくすべての方向へと広げていくときにこそモーツァルトの個性が余すことなく顕わになるのである。この“表出”は、狩の四重奏曲〔No.17  変ロ長調K.458〕およびヘ長調の協奏曲でその頂点に達し、ともに歓喜と力を語るのである。

 しかし、このことと並行して、内面的な深まりも進行している。いくつかの協奏曲やソナタ、変ロ長調の四重奏曲〔No.17 K.458〕のアンダンテの中にそれが見出されるのだが、完全にその覆いが引き裂かれるのは、ハ短調のソナタ〔No.14 K.457〕においてのみである。

 この十ヶ月の間の作品を貫く楽想には2つの性格がある。ひとつは、輝かしく外面的なもの、もう片方は、心の奥底からのもので、時に不安定であり、前者に従属しているのだが、間違いなく今すぐにも自らを顕わにしようとしている。前者は現実の聴衆へと語りかけ、後者はそれに背を向けているか、あるいは理想的な聴衆を夢見ているのだ。

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