協奏曲第16番(No.20) ニ短調(K.466)(原注1)
1785年 2月10日 完成
アレグロ:C(4分の4拍子)
ロマンツァ:¢(2分の2拍子)(変ロ長調)
ロンド(アレグロ アッサイ):¢( 2分の2拍子)
オーケストラ:弦、フルート2、オーボエ2、バスーン2、ホルン2、トランペット2、ティンパニ2
(原注1)全集版番号で第20番
我々が子供のころ、同じ物語を繰り返しおねだりして、とうとうその物語の隅々まで覚えてしまい、それを熟知しているからといって、物語のある瞬間の感動や、それが心を揺さぶる力が鈍ってしまうことはなかった。その瞬間が近づいてくると、胸の鼓動が早くなり、固唾を飲んで、時が進むのを止められないか、そうできれば、その時が来るのを待つ期待感をよりじっくりと味わえるのではないかと願ったものだ。
モーツァルトの音楽のようによく知られた物語の場合でも、ニ短調協奏曲〔No.20 K.466〕の到来はこのような瞬間なのである。胸を高鳴らせながら待ちわびた子供向けの本の中のエピソードに近づいたように、1784年の協奏曲の転機を経てこの協奏曲が目に入ると、我々の感情は昂ぶるのだ。過ぎ去ったばかりの1年の偉大な景観にもかかわらず、気持ちが高まり、物語はさらに心さわがせ、より色彩に満ちたものとなり、そして、これまで経験することのなかった冒険とヒロイズムがそこに現れてくるのだ。
ニ短調の誕生はその作者の音楽の旅路における偉大な行程のひとつであり、彼がそこに到達した時、この作品は彼の中でも最新のもののひとつで、モーツァルトはその生涯を通して踏み慣らされた道を歩むことに満足していたと未だに思っている人々を恐ろしくひどく困惑させる作品のひとつなのである。モーツァルトの名高い“様式の美”、“形式の完全さ”が、日々同じ動作を繰り返す職人や、いつも同じ進路を走っているがゆえにそのすみずみまで知り尽くし、決して躓くこともなく目隠ししてでもある地点から次の地点までの最短経路を見つけることができる人の器用さに過ぎない、とする人々の誤りを、この曲は明らかにするのだ。
ひとつ前の章の最後に、1784年の作品には2つの楽想の潮流があると述べた。ひとつは生き生きとしていながら底が浅く、もうひとつはより深くより本質的なものである。1785年および1786年の協奏曲では第2の潮流が前者に勝利をおさめるのだが、それは前者を切り捨てることによってではなく、それを吸収することよってなのである。どうすればさらに正しく特徴を言い表すことができるだろうか? 1784年の協奏曲のグループに適切な形容辞を見出すことは十分に容易である。つまり、これらにはファミリーとしての顕著な類似性があるからだ。しかし、このニ短調が始まりの一連の偉大な協奏曲群を一言で言い表すのはより難しい。親密さ、深み、内省などと言ってみても、これらの協奏曲すべてに等しく当てはまる言葉を無駄に費やすのみだ。1785から86年にかけての協奏曲とその前の年の協奏曲との間には、大よその違いに加えて、他にもうひとつ違い1ここはやや文脈のとりにくい箇所である。「大よその違い(the general difference)」は、前年の協奏曲がファミリーとしての類似性を持っているのに対し、85~86年のものはファミリーとして一言で表せないこと、また「もうひとつの違い(another difference)」が前年の協奏曲が個々の曲の類似性が高いのに対し、85~86年のものは個々の曲の多様性が大きいことである。2つの「違い」は実質的にはほとんど同じことについて語っている。がある。後者の楽想がさほど内向的ではないだけではなく、各々の曲の類似性がより高いのである。しかし、この点で、次の2年間の6曲間の多様性はより広い範囲にわたっている。ニ短調〔No.20 K.466〕からハ長調〔No.21 K.467〕、イ長調〔No.23 K.488〕の間の距離は、1784年の各協奏曲間の距離よりもはるかに大きい。また概して、曲想はより深みを増し、作品の個性がより明確なものとなる。1784年の協奏曲では以前の協奏曲との関連で連続性を語ることがまだ可能であったが、これらについてはそれができないのである。
このように考えていくと、これらの作品をモーツァルトの協奏曲の頂点に据えることになる。モーツァルトの作品で最も価値あるもの、最も個性的なもの、最も生命力あるもの、最もモーツァルト自身であるものを選ぶとすれば、たとえ選ぶ曲が少ない場合でも、この2年間の協奏曲を含めずに選択を行うことはできない。3つの偉大な交響曲、モーツァルトの最良の四重奏曲や五重奏曲、そして彼の最高のオペラ、ハ短調〔K.427〕およびレクイエムのミサと同等の権利で、ニ短調とそれに続く5つの協奏曲は、モーツァルトがその創造力を最も発揮した時点での代表作であると主張して良いだろう。
1785年2月10日、レオポルト・モーツァルトはその娘に、メールグルーベで“すばらしいピアノ協奏曲がウォルフガングによって演奏された……私たちが到着した時はまだ写譜屋が写譜している最中で、お前の弟は写譜を校訂しなければならないので、ロンドを試奏する時間もなかった”(原注1)と書き送っている。この協奏曲がニ短調である。
(原注1)1785年2月14日付の手紙
今まで見てきた中で、ひとつの協奏曲と他のものとの間にどのような違いを認めたとしても、ヘ長調の作品〔No.19 K.459〕と2ヶ月しか隔たっていないこの曲ほどひどく対照的なものはかつてなかった。ひとつの世界から全く異なった別の世界へと一足飛びに移ってしまうのである。そこにはもはや行進曲と舞曲のリズムの痕跡は全くなく、オペラ・ブッファの終止も、ヘ長調協奏曲の枠組みを構成していた陽気で左右対称的な旋律線もない。過ぎ去ったすぐ前の年のものに、この新しい作品に相当するものを見つけるとするならば、それはニ長調〔No.16 K.451〕であり、そこには執着と主張、緊張、ひとつのアイデアの追求などを見出すことができ、それまでの協奏曲が行ってきたこととに対する無頓着さと同様に強く冒頭から聴衆に衝撃を与えるのだ。しかし、両者の類似性には距離があり、ニ短調にはニ長調にはなかったものがあまりに多くあるために、一緒にしてしまうことはできない。
Ⅰ 一般的に、古典的協奏曲の開始部の総奏は、その大よその方向ではすべて似通ったものであり、すべてがそれに続く楽章に対してまったく同じ機能を果たし、ひとつひとつは些細な違いを示すにすぎないとされている。主要主題およびアレグロの他の部分が進む主な道筋の概略を提示すること、これがあらゆる最初の総奏がなすべき事のように思えるかもしれない。
これは物事をあまりに単純化している。すべてが似通っているどころか、モーツァルトのみでも2つのタイプを明確に識別できる。ひとつ目のものは、総奏に関するおきまりの記述が最もこれに該当するのだが、その楽章が立脚する主な主題を後に回帰する順序で提示するということである。つまり、総奏は要約であり、これから耳にするものの梗概である。ニ長調の協奏曲K.451〔No.16〕はこの種の総奏の申し分ない事例である。変ホ長調〔No.14〕、ト長調〔No.17〕、変ロ長調〔No.18〕、すなわちK.449、K.453とK.456もまた梗概と言えるが、完全なものではない。
一方、ふたつ目のタイプでは、総奏は単なる序奏である。それは第1主題を提示するが、その後に出てくることのない、あるいは総奏に含まれない他の主題に付随することになる副次的な要素に没頭するものである。ハ長調協奏曲K.415〔No.13〕の開始部は序奏型総奏の極端な例である。変ロ長調〔No.15〕、ヘ長調〔No.19〕、すなわちK.450とK.459の総奏は同じカテゴリーに属しているが、それに続くものからそれほどかけ離れてはいない。この第2のタイプはさほど有機的でなく、より緩い形式の楽章を導き入れるが、一方で、梗概型の総奏はより統合された楽章を先導するのである。
ニ短調協奏曲を開始する見事な総奏は梗概型である。それは、独奏の導入部と第2主題の後半を除くその楽章のすべての主題を聴かせてくれる。それに続くものが本質的なものを何も付け加えないということだけではなく、楽章すべての性格そのものが最初の15小節に表出されているのだ。これまでに見てきた中で最も個人的なこの作品は、第1主題そのものにその独創性を示している。モーツァルトの大半の協奏曲も含めて、ギャラントな協奏曲が常にそれで開始される明確なリズムとはっきりとしたアーティキュレーションを伴った歌い上げる主題はここには全くなく、ただ拍子に逆らって打ち震えるひとつの音があり、一方でその単調な鼓動の下、切迫した低音が突き上げる小さな3つの音で小節ごとに強調を加える。通常、これは熱情と不穏を表現する方法である。シンコペーションのリズムを伴ったピアノ(p)の反復音、上昇する3連符の手法、この時代のすべての音楽に共通するこれら2つの要素でこの開始部を作り上げられており、これはモーツァルトの作品の中でも最も個人的かつ最も力強いもののひとつである。
この朦朧とした背景の中からひとつの旋律の姿2譜例230第3~4小節の音型。が浮かび上がるが、すぐに覆い隠されてしまう。さらなる反復音の小節の後に、その音型が1度上で再び現れる(譜例230、1~5小節)。そしてメロディックなモチーフを背景から切り離し、緊張を高めながら、さらに迅速に、さらにまっしぐらに突き進む。その間、ホルンからフルートまでの木管が弦の色彩に次々と色を重ねていく。そしてまだピアノ(p)を保ったまま、1オクターブ上へと1度ずつ上ってゆき、そこで緊張が幾分緩み、再び下降して出発点へと戻るのである(5~15小節)(原注1)。
(原注1)この協奏曲は非常によく知られているため、他の協奏曲よりも引用を少な目にし、読者に対しては小節番号を示すのみにした。
そして、フォルティッシモ3新全集版ではフォルティッシモではなく、フォルテである。が解き放たれる。
分析すれば、穏やかに始まり突然のフォルテが続く、モーツァルトの多くの協奏曲を開始する古いギャラントの様式が認められるが、天賦の才によって新しいものに生まれ変わっているのだ。つまりここでは、新たな主題によって前進する(原注1)のではなく、辿った跡をもう一度なぞるという動きを示すのである(原注2)。シンコペーションのつぶやきが突如として16分音符のトレモランドへと変化し、地鳴りのような3連符が稲妻の閃光へと変わり、低弦から発して高音へ速度を増しつつ楽器の網が広がり(原注3)、木管とホルンがその騒動の最中へ飛び込んで各小節の第1拍ごとに句読点を打つ。トランペットの金属的な音は森の奥からきらりと光る鎧のようだ。荒々しい力と熱情が交互に、その激しさは全く弱まることなく展開していき、5小節の結尾で属和音の上で結ばれる。これはもうひとつの慣例的な振る舞いだが、モーツァルトは、それを熱情の表現とすることによって、そこに生命を吹き込むのである。(16~32小節)。
(原注1)K,414〔No.12 イ長調〕、K.415〔No.13 ハ長調〕、K.450〔No.15 変ロ長調〕、K.453〔No.17ト長調〕、K.537〔No.26 ニ長調 戴冠式〕と比較されたい。
(原注2)K.456〔No.18 変ロ長調〕、K.459〔No.19 ヘ長調〕、K,467〔No.21 ハ長調〕、K.491〔No.24 ハ短調〕も同じく、穏やかな開始の後に最初の小節をフォルテで繰り返す。
(原注3)これと、魔笛における2番目の夜の女王のアリアの開始部分との類似性が認められるだろう。
第2主題は近親長調4平行調のヘ長調である。で、オーボエとフルートに振り分けられ、バスーンとヴァイオリンに支えられる。それは対照的なリズムの中で一連の問いと答えで始まり(譜例231、33~34小節)、繰り返す度に1度ずつ上昇し、そしてオーボエの保持音のもとで、ヴァイオリンが引いては押し進める一連の短いため息へと入っていく(譜例232、39~40小節)が、それによってニ短調に連れ戻される。
再び熱情が自己を主張する。それに続く力強く、かき乱すようなパッセージ(44~71小節)は、強烈な力を持つ上昇音型((譜例233)、44~45小節)と、泣き叫ぶような音型(譜例234、49~50小節)からなり、それに対して下降するアルペジオ(譜例235、48~49小節)が拍動を加える。進行は概ねアレグロの冒頭部分の特色であった上昇と下降である。軍勢が殺到して、ピアノ(p)とフォルテで代わる代わる攻撃し、退却し、また新たな攻撃を行う。曲は抗しがたい熱情に突き動かされる魂の熱狂とともに押し寄せる。そして、突然、偽終止によってリズムは急に停止し、強弱記号はピアノ(p)に下がり、ヴァイオリンが数度ため息をついて、この荒れ狂うパッセージに結末をつけ、結尾の主題の登場を告げる。
これは平穏を語っているのである。それは寂莫とした平穏であり、ほとんど絶望に近い。そのリズムは流動的で耳に心地良く、常のモーツァルトよりも自由である。それは、きわめて優雅で表情の豊かな対位法の上で上下するひとつの同じ動きの3つの断片で展開する(譜例236、71~74小節)5譜例236は上段が第1ヴァイオリン、中段が第2ヴァイオリンで、下段はビオラとチェロ・コントラバスを統合したものであり、4声部の対位法となっている。「3つの断片と低弦の伴奏で展開する」が正しい。第1ヴァイオリンが第1の音型、第2ヴァイオリンが第2の音型、ビオラが第3の音型で、低弦が対位法的な伴奏をつける。。
モーツァルトについて著述する多くの人々にとって“ベートーヴェン的”という言葉以上の賛辞はないようだ。批評家があるパッセージに対して称賛を表す言葉に迷った時、“価値がある”、あるいはさらにしばしば“ベートーヴェンとほぼ同等の価値がある”などと言明する。アーベルトさえもその記述の中で“ほぼベートーヴェン的”という言葉を撒き散らしているので、ボンの巨匠が唯一の手本であり、どれだけ彼に似るかによってのみ完全たりえると人々に信じさせてしまうかもしれない。
我々の作曲家の内にベートーヴェンの一段劣った変種を見る、この疑わしい称賛がそれに価することはほとんどない。たとえ“ほぼベートーヴェン的”なものがハイドンやクレメンティの楽譜に多く見られるとしても、モーツァルトにおいては稀である。同様に若きベートーヴェンにはハイドンやクレメンティを思わせる多くの箇所があるが、モーツァルトを思わせるものはほとんどなく、正確に言えば、あったとしてもそれは最もベートーヴェン的ではないものなのである。遠い間隔を置いてたまにある作品の細部がベートーヴェンを思わせることがあるかも知れないし、モーツァルトについて語る際に“ベートーヴェン的”という言葉を著者自身でも時折使ってしまうことがあった。しかしそれは単に一時的なものに過ぎない。しかし、ここでは、楽章全体の上をベートーヴェンの先駆けとなる息吹が確かに通り過ぎて行くのである(原注1)。
(原注1)ベートーヴェンの栄光がモーツァルトのそれを衰えさせた時に、この協奏曲はモーツァルトの作品で常に演奏される唯一のものになったのである。
ベートーヴェンらしく、モーツァルト稀なものは、止むことのない闘争と熱情である。モーツァルトにおいては、熱情の噴出の後には、弛緩と穏やかで情緒的な答えが続くのが普通である。熱情的なものと情緒的なもの、緊張と弛緩が交互に現れるのが典型的かつ頻度も高いのだ(原注1)。つまり、モーツァルトの熱情的な楽章での情感の進行は連続した流れではない。ベートーヴェンでは逆に、闘争は容赦なく続けられ、休息もなく、それを妨げるいかなる他のムードの侵入もない。その闘争が勝利を収めるまで、その努力を中断させるいかなる妥協もないのである。
(原注1)K,457(ⅰ)〔ピアノ・ソナタNo.14 変ロ長調第1楽章〕、K.550(ⅳ)〔交響曲No.40 ト長調第4楽章〕、K.388(ⅰ)〔セレナーデNo.12 ハ短調第1楽章〕の開始部など。
今、まさしくこのことをニ短調協奏曲の中に見出す。第15小節での弛緩は、緊張を乱したり緩めたりするものではなく、冒頭へ戻るものなのである。激しい結尾と第2主題を分ける沈黙は劇的であり、何らの息抜きももたらさない。そして第44小節(譜例233)から第68小節では切迫感が絶えず続き、熱情はさらに高まる。進んだり後退したりの動きの連続ではなく、その流れは途切れることなくその力を増していくのだが、これはこの協奏曲の他では並ぶべきものがなく、ベートーヴェンにあって典型的なものなのである。ただひとつの真にモーツァルト的な特徴は、第69小節での突然の落ち込みと絶望的な優しさの結尾部である(譜例236)。容赦ない闘争、交互して現れるのではなく蓄積され、速度を上げていく熱情の進行、これらがこのアレグロを、モーツァルトの作品であってまさにベートーヴェン的と呼ぶことが相応しいものにしているのだ(原注1)。
(原注1)ピアノの書法においてもモーツァルトには珍しく、ベートーヴェンに典型的に見られる2つの特徴がある。それは最低音域の使用と広い音域を頻繁に使っていることである。私の考えだが、形式的な類似性はないものの、このアレグロとベートーヴェンのニ短調ソナタ作品31のⅡ(第17番 テンペスト)の間には類縁性がある。
聴衆は独奏の入りを幾分不安な気持ちで待つ。一体どのようなものを隠し持っているのだろうか? これほど劇的な作品が、K.456〔No.18 変ロ長調〕のようにのどかで山場のない世界6原文はtimeless。K.456で使われていたdulationlessと同義で、序・破・急のような「時間的な区切りがない」ことであり、2つの芸術典型のひとつ「非山場型」「非継時展開型」とでも呼べる典型のことである。timelessをそのまま訳すと意味が取りにくくなるため「非山場型」の意味にとって訳した。であるかのごとく、それまで何事もなかったかのように、出発点に立ち戻りただ総奏の冒頭を反復するのみで、約束を違えることはあり得ない。どのように新たな要素をドラマの中身に組み入れるのだろうか? どのような形で第1主題を呼び戻すのだろうか? 聴衆の期待は大である。
その期待は裏切られない。ハ短調〔No.24 K.491〕とハ長調K.503〔No.25〕とも相当するパッセージ7K.491やK.503ともに、本K.466同様、ピアノは総奏が提示していない独自の主題で第2提示部を開始する。で、ピアノが最初に発する言葉は、モーツァルトのすべての協奏曲で最も感動的な独奏の入りを成すのである。ピアノの登場は、数多くの楽器にもうひとつが加わったのではなく、ひとつの個性がオーケストラの集団の匿名性に取って代わったとの印象を与え、楽器の一群の中から突然上がる人間の声を耳にしたかのような畏怖が我々の心を満たす。ピアノは総奏が中断した道筋を取り上げながら、その前と同じ情感だが、さらに自由で、さらにさまよいながら主題を提示する。それは小節に区切って書かれてはいるもののレシタティーヴォ的な性格を有しており、演奏する場合はこのことを銘記すべきである。あまりにそれを厳密に演奏すると、そこから魂を抜いて空にしてしまうことになる。それは3回にわたって昇り下り、その度に物憂さが増しつつ、最後の上昇で完全に消滅し、16分音符で木管の伴奏の中に流れ去ってしまう(77~78小節および88小節;譜例2378譜例237は77小節から88小節であるが、第77~78小節の後79小節後半~87小節は省略され、次に第88小節が示されている。)(原注1)。
(原注1)この楽章のムードとフィリップ・エマヌエル・バッハの堂々としたニ短調の協奏曲(Wroquenne番号17;未出版)には大きな類似性がある。モーツァルトのもの以上に荒れ狂う嵐のような総奏で開始され、新たなリズムの静かで詩的なチェンバロの入りが続く。
一旦その勢いが衰えると、再び弦が冒頭の小節の鼓動を取り上げ、ピアノはほぼ直ちに16分音符でそこに刺激を加える。すぐにピアノはオーケストラの鳴動を置き去りにして、提示部を切り詰めながら、一跳びに第2主題に先立つカデンツとこの主題そのもの(譜例231)へと到達する。
そしてモーツァルトは、お気に入りの仕掛けを使ってパートに違った役を割り当てる。最初はフルートの役割だったものをピアノに与えるのだ。短いパッセージが近親長調9平行調のヘ長調である。を導入し、新たな主題(譜例238)へと導くのだが、それはそのさえずるようなほとんど陽気ともいえる性格によって楽章の他の部分と一線を画している。ウィットに富んだ弦の合の手を伴うピアノによって拡張され、さらに木管よって繰り返されるが、ピアノはそれを音階によって飾り立てる(127~143小節)。
ヘ長調で空気は澄み渡るが、楽章はその活力を少しも失わない。それに続く独奏の30小節10第144~174小節。は熱情とエネルギーの奔流を解き放ち、決して緊張が弱まることはないが、闘争と苦悩はその影をひそめる。ピアノはほぼ一人で語る。そのいつもの語り口である音階、アルペジオそして分解されたオクターブに譜例233の激情の上昇音型の面影を織り交ぜる。2度にわたってそれはヘ長調のトリルへの道へ導き、ともに2回勢いを増して新たに開始するが、それは定められた境界線を思わず越えて押し流されてしまうかのようである。この部分は最初の独奏を閉じるいつもの華麗なパッセージの部分より長いが、埋め草の趣は決してなく、無益な技量の見せびらかしもない。ピアノは、オーケストラによって開始された仕事をそれに代わって、持てる力を最大に使って成し遂げるのだ。
これほどの長い沈黙の後で総奏が再び登場する時の力感はいつもの場合よりはるかに大きい。それは最初の総奏で活力に満ちた結尾部(原注1)に先立ったパッセージ11第16小節からの第1主題提示部後の部分で、置き去りにされるのは、第28~32小節の結尾部である。当然であるが続く第2主題部を飛び越えて、第1提示部の結尾主題である譜例236をここに置くのである。を繰り返し、そしてヘ長調へと転じるが、ここでは、その結尾部を置き去りにして、譜例236へと飛び越えてしまう。これはモーツァルトがこれを特別に重要な主題だとみなしたためである。というのも、通常モーツァルトが最初の独奏の終わりに結尾主題を置くことはめったにないからである(174~193小節)。
(原注1)モーツァルトは「コシ・ファン・トゥッテ」第1幕のフィオルディリージのアリア〔第14曲「岩のように動かず」〕を書くときに、この入り方を思い出したのだ。この節の歌詞は怒りの調子を伴った貞節の表現である。
“そして死だけが(E potria la morte sola)この心を変えることができるのです。(Far che cangi affeto il cor)”
2つのパッセージの調は同じで、音符はほとんど一致している。
この提示部を一目振り返ってみれば、最初の総奏を「梗概」と呼んだことが正しいと分かる。ピアノは総奏のメッセージを拡張し、またその意図もはっきりとさせる。しかし最初の一節とヘ長調の歌い上げる主題を別にすれば、何も新しいものをもたらさない。オーケストラについては、それが単独で語らなければならない時には、常に最初の言葉を繰り返すのみで、さらには、オーケストラの役割は以前の協奏曲よりも小さいのである。あたかも最初の総奏の後でそれ以上何も言うことがないと感じたかのように身を引いて、すでに開かれた道をピアノに好きなように歩ませるのだ。
この作品の劇的な性格は最初から明白だが、ここに至るまでは、ドラマそのものと言うより、ドラマの予告であった。さあ、その葛藤の核心に入り込んでいくとしよう。
結尾の主題に、全く自然に独奏のレシタティーヴォ譜例237が連結される12結尾の主題は第1提示部を閉じた譜例236であり、独奏の入りの譜例237が連結されるのは不自然ではないものの、原注1で述べられるように、第2提示部の冒頭が展開部の開始部となるのは形式上異例でもある。。このような提示部の冒頭の再現は一種の見せかけである(原注1)。状況は本当に変わってしまうのだ。独奏はもはや単独では語ろうとせず、これから開始される短い戦いでは、パートはピアノとオーケストラの間で等しく共有されることになる。オーケストラは譜例230の切迫した主題を、またピアノは登場時の譜例237の旋律、さらには技巧のパートを受け持つのである。
(原注1)展開部を提示部の独奏の導入部で開始し再現部の導入の時に省略する構想は、モーツァルトではもうひとつの短調協奏曲K.491 〔No.24 ハ短調〕のみで見られるものだが、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲〔ニ長調 作品61〕で使われている。
2度にわたってピアノがさまようような歌を、最初は総奏が終わった時のヘ長調で、続いてト短調で提示するが、その度にその意味を改める変更が加わっている。2回、他の楽器がそれに開始部の鳴り響く主題で答えるが、それはピアノにさらに十分に語らせようとしているかのようである(192~220小節)。
2回目には変ホ長調へ着地する。この楽天的な調性でピアノが再び、その主題の3度目の変奏を行いながら入ってくる。しかし、この主題の勝利は短命である。それが終わるか終らないうちにピアノは一挙に低音へ落ち込み、それを完全に見捨ててしまう。独奏は3回にわたって(3つの旋律部からなる主題、あるいは主題自体の3回の反復は、モーツァルトの最も真正な目印である)鍵盤を主和音のアルペジオで上り下りしながら、減7の和音へと駆け下る13次の一文で説明される転調と上下するパッセージの後が減7の和音である。なお譜例239は最初の変ホ長調の部分のみの譜例である。。変ホ長調からヘ短調へ、ヘ短調からト短調へと上昇する間、稲妻で引き裂かれた天空に弦が一丸となって第1主題の3連符を再び響かせる(譜例239)が、これは第1主題が最も劇的に最も簡潔な形に縮減されたものである(原注1)。ピアノは幅広く両手を使って突き進み、そして最後の炎の迸りの中で、あふれ出る流れは最高音部から底辺にまで流れ下って、低音部に集中していく(247~250小節)が、その時、一時は力を失っていたがまだまだ不屈の精神(再現部に入る直前の最終小節での突然のフォルテがそれを証明している)が、この楽章の出発点を、最も短い経路と最も簡潔な手法によって回復するのである(譜240)。
(原注1)ハ短調のファンタジアK.475〔ピアノのための幻想曲〕14原文ではK.375となっているが、K.475の誤りである。本文を修正した。ピウ・アレグロと比較されたい。ここを響き渡るフォルティッシモで演奏したくなる。しかしモーツァルトは我々の嗜好が期待するものに反して、〔少なくともピアノ以外の〕総奏232~252小節にピアノ(p)の強弱記号をつけている。
第2主題、譜例231は変更されることなく再現する(原注1)が、さえずりの主題、譜例238はここではニ短調で提示され、これ以降ニ短調から離れることはない。それに続く長い独奏(318~355小節)は主に提示部での長い独奏に対応するものである。再び3回現れるトリルと譜例23315譜例233は、最初は弦で提示された第1の音型である。ここでは最初のトリルのピアノ右手が分解されたオクターブ、左手は分解されたアルペジオの形で高音は保持音、低音が譜例233を再現する。2度目のトリルの後は右手と左手が交替する。に再会するが、語り口の変化は大きく、それにまったく異なった精神を吹き込み、またピアノの走句の音型もまた新しい。このパートすべてには活力に満ちたひたむきな性格があり、それは最後に至るまでその強さを増しつつ持続するが、その性質は展開部にあった怒りではない。それは実際のところこの楽章の結末となるのだが、それは絶望という結果なのである。闘いは続くが、今に至っては、もはや勝利はあり得ないのだ。さえずる主題、譜例238にあった希望の光は、その主題の短調での回帰とともに消えゆきつつあり、その戦いの継続で得るのは、勝利ではなく、消耗なのである。この30小節と展開部の対応する部分16ガードルストーンが示しているように、これは第318~355小節の38小節である。対応する部分は展開部ではなく第2提示部の第145~174小節であり、30小節というのはその小節数である。は、この音楽のジャンルが与えることができる表現豊かな技巧の最もすばらしい例である。その熱情の力のおかげでモーツァルトは完璧な形式的美に到達したのである(原注2)。
(原注1)モーツァルトで第2主題が全部で3回も同じ調で出てくるのは、これが唯一の例である。
(原注2)“常に変わらない満足を与えてくれる芸術の最上のものは、何か他のものに強く集中した結果として形式的な美に到達するものである。熱情的な演説は、慎重に組み立てられたものよりも韻律の美しいものになるのと同様である”(タイムズ Lit.Supp., ラファエルについての記事、1927年1月27日)。
モーツァルトは、自分のために作曲したこれに続く協奏曲〔No.21ハ長調K.467〕と同様に、この協奏曲のために自作のカデンツァを残しておらず、また生徒にもそれを教えていなかったのは間違いない。しかし、若きベートーヴェンによって書かれたものがある。それはこの楽章の鋭い注釈であり、その性格はベートーヴェン的であるとともにモーツァルト的でもある。思わぬところが強調されることで、まさにここでこの作品の特性について語ってきたことが裏付けられているのである。これを何度でも聴いてみたいのだが、ヒズ・マスターズ・ヴォイスによる録音では、独奏者がこのカデンツァではなく、ありきたりの技巧に溢れたものを挿入していることが残念であり、それは楽章に光を投げかけあるいはそれを要約するものとはかけ離れた、単なる押し付けに過ぎないのだ17エドウィン・フィッシャーの独奏・指揮による演奏である。。
結尾部は、最初のアレグロの結末によくあるお座なりの短いものではなく、そこでは、演奏者がその力を発揮した結果、言うべきことが言い尽くされたと感じるのだ。その長さは約30小節で、最初の総奏では第2主題に続くものであった激しいパッセージ(44~71小節)18譜例232に続くパッセージである。をさらに簡潔に反復し、ここでは、力感を強調する反復から解放されてそのしなやかで強靭な活力は見事にこのエピローグに相応しい。これに譜例236の結尾主題が続くが、感情の迸りの後で、その物憂さが寂寥感をさらに強める。この主題はすでに2つの部分を閉じているが19第1および第2提示部である。、この楽章全体を閉じるにはそれでも不十分である。そこでモーツァルトは短いコーダ、高声部の疲労で消耗したような旋律のもと、最後にもうひとつ “脅すような”3連符の轟きを低音部で呼び起こし、それがこの楽章の端から端までを貫き通す(原注1)。
(原注1)この最後のところにモーツァルト的な“羽ばたく2度”の音型が出てくることに注意されたい。それが出てくることで、この結尾部は、この協奏曲に近いインスピレーションを持つ作品との類似性を感じさせるものになっている。また、ピアノのためのアダージョロ短調K.540などである。
このアレグロでは、楽想が形式ときわめて緊密に一体化されているため、後者ついて付け加えることはほとんどない。凝縮した熱情的なインスピレーションがこの楽章に完全な一体感をもたらしている。最初の総奏には重要な要素のみがあり、そこにはそのほぼ全てが含まれている。展開部は主題展開的な展開部の伝統に繋がるものであり、副次的な音型を奏する楽章様式(原注1)や、新たなモチーフを持ち込む様式の流れを追うものではなく、主要な要素にのみにこだわる展開部(原注2)に近いものである。それは要約であり、幻想曲的展開部のように形式上の束縛からそれを解き放つのではなく、意味ある要素の使用に自らを止めることによって、作品の魂を最も純粋な形で表現するものなのだ。
(原注1)K.449〔No.14 変ホ長調〕、K.537〔No.26 ニ長調 戴冠式〕
(原注2)K.271〔No.9 変ホ長調 ジュノーム〕、K.491〔No.24 ハ短調〕、K.503〔No.25 ハ長調〕、K.595〔No.27 変ロ長調〕
再現部において、モーツァルトは、その冒頭の総奏が「梗概」であるすべての協奏曲が直面する問題を突きつけられる。つまり、いかにしてそれを最初の独奏の反復以上のものにするかということだ。ここでは、必須の短調への回帰それ自体が変換を行う要素であり、さらに、最後の壮大な華麗なパッセージが再構築され、コーダが結尾部に目新しさを付け加える。
独奏と総奏の役割ははっきりと分けられている。概して、交替あるいは対立が協働より優位である。まず楽章のメッセージが総奏によって発せられ、そして、独奏によりそれ独自の言葉で繰り返される。展開部では、対照を示すパッセージの後数小節のインタープレイが行われるものの、すぐに独奏が単独で再び演じる。最後の部分ではカデンツァに至るまでピアノが支配するが、その雄弁な結尾部はオーケストラの分担となる。展開部を除けば、インタープレイの瞬間は第2および第3主題、すなわち譜例231と譜例238、そして特に、ピアノが第1主題のオーケストラに加わってそれを支援あるいは鼓舞する見事なパッセージ(95~104小節、261~267小節)のみなのだ。実際のところ、協働よりもむしろ対立が葛藤の表現となっているのではないだろうか?