実務的とは言い難い性格にも関わらず、モーツァルトにはあるきちんとした習慣があった。すなわち、1784年の2月から死の少し前まで、彼は自分が作曲した主題のリストをそれが完成した日に書き留めていたのである。そして丸一年間、日々の収支を帳面に書き留めたが、そこには英語の練習と手紙の英訳も含まれている。1784年5月27日には、こう記入されている。“歌うムクドリ”34クローネ(原注1)、そしてその向かい側に、(図1)と記し、“これは美しい”と書き加えている。

(原注1)スターリング(英:ムクドリ)

 ムクドリが試みた鳴き声はこの協奏曲のフィナーレの冒頭である。これは間違いなく、モーツァルトにその鳥を愛させ、買わせることになったその歌であった。この鳥が死んだ時、彼は自分の庭に韻文の墓碑銘のある墓を作った。つまり、この協奏曲はモーツァルトがかくも愛した羽の生えた家族に引き立てられたものと言ってよいだろう。

 11年前の試行作以来、初めてモーツァルトはピアノ協奏曲のフィナーレにおけるロンド形式の使用を止めた1最初の自作ピアノ協奏曲No.5のフィナーレはソナタ形式である。ただし、ウィーン上演にあたってロンド(K.382)に置き換えている。なお、本曲第2楽章の訳注5で述べたように、ソナタ・ロンド形式を使いづらいということもあったと思われる。。それに代えて、彼は主題と5つの変奏曲とそれに続く長めのコーダを書いている。主題にはドイツ民謡の調べがあり、パパゲーノの第1アリアを思わせる(譜例167)。その主題は繰り返しを持ち、第1変奏もそうだが、その他は二重変奏である。

 第1変奏はほぼすべて独奏のものとなっている。

 第2変奏は独奏と総奏で共有され、主題がピアノの右手の輝かしい3連符の伴奏のもと木管により提示され、次いで弦も一緒になってピアノの右手で提示されるが、その間左手が同じような伴奏を行う。関心は伴奏の方に置かれ、主題のスコアリングそのものは変形されてはいない。

 第3変奏は真の変奏曲である。提示役は木管に委ねられ、木管はそれぞれに、あるいはともに主題を新しい形で提示する。弦は沈黙しているか、あるいは反復音で伴奏する。ピアノは左手のアルベルティ・バスを伴った若干異なった主題を奏するが、ヴァイオリンもリズミックな伴奏をつける。二重変奏の第2変奏部には木管の自由な模倣による魅力的なパッセージがある(譜例168)

 第4変奏は短調である。全く重要ではない変奏曲でさえも、短調変奏に至るとモーツァルトは聴衆に彼自身の内なる何かを与えてくれ、この変奏曲も5つの中で最も興味深いものである。オーケストラのパートはその旋律の飾り気のなさと古風な特徴で、またその書法はさらに古風であり、3あるいは4声部の書法とスコアリングは注目に値する。木管と弦は分離せず、前者はヴァイオリンと重なっている。その結果は著しく飾り気のないものだ(譜例169)。ピアノによって再びシンコペーションが奏でられるが、その旋律はやや装飾が加えられ、モーツァルトは音域間での対比もうまく生かしている。

 悲しみと内向きの印象は、それに続く第5変奏の、第1変奏部では木管の5音の急下降2正確には木管と弦(第1ヴァイオリンと低弦)である。とピアノのトリルを、第2変奏部ではオーケストラの上昇する16分音符を伴った活力に満ちた変奏によって完全に追い払われてしまう。第2変奏部では独奏は音を静めるが、この変奏部を締めくくる代わりに突然進行を止めると、すぐに弦とピアノが独自の推移パッセージで入り、そこで独奏が、弦(原注1)のシンコペーションの下方進行に1オクターブの断片的な半音階で重なる(譜例170)。長い休止が第6変奏あるいはコーダの登場を告げる。

(原注1)コシ・ファン・トゥッテの同じくト長調の二重唱“僕のドラベッラ(La mia Dorabella)” (第41~49小節)参照

 これは仰々しくまず二重終止線が前に置かれ、そしてプレスト:フィナーレ(Presto finale)と冒頭に記されているが、これはオペラ・ブッファをほのめかしているのだ。実際、このコーダは、モーツァルトの器楽作品の中では珍しく、全くの喜劇スタイルである。その長さはこの楽章の約3分の1にあたる。主題から遠く離れたところから出発した後にそれを回復させ、またいつも不完全あるいは変型された形で数回にわたって回想し、その間に主題から派生した音型による展開を差しはさむことによって主題を刷新していくのである。プレストの冒頭は、その見せかけの謎めいた様、ホルンの呼び声、木管と弦の間の素早く素っ気ない対立、短い断片的な音型間の対立、そして突然のフォルテ、これらが聴衆をオペラ・ブッファに一直線に飛び込ませるのだ。それにピアノが加わって反復され、激しい興奮状態に至る。騒々しいコーダと休止の後、役割は再びピアノに移り、主題から派生した音型を“展開”し始める。ここが最も興味深いところなのだ。弦の2分音符に対して、フルートとオーボエがこの音型に対抗し、ピアノは花火を打ち上げるような音階で両者を結び付ける(譜例171)(原注1)。これは3回にわたって奏される。そしてピアノと木管は一体となるが、まだ同じモチーフによって議論を交わし続け、低弦とホルンの主音の保持低音の上で、音階を登っていく(譜例172)3原著では、譜例172と譜例173が本文、譜例ともに逆になっているため、修正した。なおここでの「音階を登る」のは、第1楽章訳注13で触れた接続的な受渡しの変形である。。興奮状態はさらに高まり、フォルテで爆発するが、それに続く早口でブツブツ言うような回音の連鎖の中に自らを見失ってしまい、主題を回復し、その半分を弦に伴奏されて終えるのである。木管も同じように振る舞い、大音量で長い終結部が出発点(譜例171)へと連れ戻し、ゲームは一部の配役を変えて、もう一度始められる。ピアノ、オーボエ、そしてバスーンはもうひとつ別の断片(譜例173)でお互いに模倣を行い、目もくらむような終止の連続とフォルテとピアノpの交替の後で、オーケストラ全体が停止し、最後にもう一度主題を再帰させる。しかし、演奏者たちの忍耐力は尽きている。木管があざけるようにピアノが第4小節より先に進むのを妨げ、そして精神の高揚が頂点に達した中で、協奏曲は突然に終わる。不幸なこの主題を取り戻す希望を完全に切り捨てた後、幕が下りる中、木管とピアノはその主題の最後の断片を陽気にあちらこちらに投げ合う。

(原注1)コシ・ファン・トゥッテ、第1幕フィナーレのデスピーナおよびアルフォンソの“助けてやりなさい、慈愛を込めて(Secondte! per effetto di bontate)” と比較されたい。

 一種の形式上の類似性が、この協奏曲とその2、3週間前に作曲されたニ長調協奏曲〔No.16 K.451〕とを結びつける。長い主題、広範にわたる推移部、そして特にアレグロにおける展開部でその頂点へと達する企図の大きさ、これらが両者に共通する特徴である。しかし、この協奏曲〔No.17〕は、それほどは構築的ではなく、他方〔No.16〕のように大きな、互角の大きさの塊りとなって前に進んでいくことはない。部分同士が対立することなく、ひとつの要素は他の要素から派生し、対照されるのではなく相互に連関し合い、特にアンダンテは紛れもない流れとなり、主題というよりは感情が多彩に変化するのである。そして、K.451〔No.16 ニ長調〕よりも、楽章同士も互いに近いものとなっている。すでにアレグロとアンダンテの類似性については述べた。それらとフィナーレの関係は、一見してさほど明確でないが、変奏主題の開始部は、感情面は別としても、形の上ではアレグロの第1主題と類似している。そして、プレストでは、そこに他の2つの楽章にある広範さを見出す。それは大規模な主題展開や、展開と不可分の主題、オペラ・ブッファ的カデンツの反復の間も途切れることのない楽章の流れ、などである。

 ひとつ前の協奏曲〔No.16〕のように、オーケストラのパートは重要であり、頻繁なインタープレイもある。慣例的な伴奏音型は稀であり、木管は独奏に答え、それと会話し、または個性的な伴奏を付け加える(譜例156)。オーケストラは最初の総奏のパッセージを反復し、ピアノは新たなパートを付け加え(譜例166)、あるいは、楽器のひとつに取って代わる(譜例163)。特に第1楽章譜例154譜例155譜例158および変奏曲では、ピアノが楽器群と密接に結びついたすばらしいパッセージが数多く、最後のプレストでは、ピアノとオーケストラは多くの箇所で交響的に協働する譜例170譜例171譜例172。この協奏曲は、独奏とオーケストラの連携の重視という点で、ニ長調K.451〔No.16〕とハ長調K.503 〔No.25〕と伍して協奏曲全シリーズの中でその先頭に位置している。

 それ以前の協奏曲に比べて、最初の2つの楽章がより類似していると述べた。両者には、同じ静謐な気質、同じ繊細な感受性、同じ穏健さがある。両者は、直接的に語るより、暗示によって進行する。それは、情熱(譜例152)、感情の深さ(譜例153)、歓喜(独奏主題の最後4独奏主題部の最後、譜例150のコデッタ音型の受渡しなどの部分のことと思われる。)、力(譜例149)、憂愁(譜例156)などをほのめかす。ただ譜例156の空想の飛翔のみははっきりと表現されており、このことによって展開部は、主題展開的でなく含むのは新たな素材のみにも関わらず、枝葉に陥ることなく、楽章が十全な意味を獲得する瞬間となっているのである。アンダンテは確かに陰影が濃いが、全体的には穏健さも支配的であり、牧歌、悲歌、悲劇に近づいても、これらのどれもアンダンテを服従させえない。そして、時折それがドビュッシーを思い起こさせることがあっても、第1楽章の繊細で抑制された遊び心、より偉大なものの存在を主張するのではなく、ほのめかすにとどめる慎みはワトーの芸術やマリヴォーの喜劇を思い起こさせるのである。

 モーツァルトは一定数のト長調の作品を残したが、重要な作品にこの調を選択したのは3ないしは4回のみである(原注1)。それゆえに、モーツァルトにおいてト長調がある明確な特徴を示すとは言い難く、ルーシー(原注2)が、ト長調やヘ長調のように変音記号の少ない調では明確な情緒的性格付けが最もなしがたいと指摘しているのは正しい。

(原注1)ヴァイオリン協奏曲K.216〔No.3〕;弦楽四重奏曲K.387〔No.14 ハイドン・セット第1番〕;そしてヴァイオリン・ソナタK.379〔No.35〕だが、最も特徴的な楽章であるアレグロがト短調であるため、これを含めることには躊躇する。
(原注2)『モーツァルトと調性の特性』、ザルツブルグ、1931年。彼はまた、若年のモーツァルトは歓喜をト長調で現したが、成熟した後にはその出口をニ長調やイ長調に見出したとも記している。

 この協奏曲は同調の作品のグループに属してはいないが、その2つの楽章は他のト長調作品の重要な部分と同じ源に由来する。情感においても主題においてもアンダンテは四重奏曲K.387〔No.14 ハイドン・セット第1番〕と近い関係にあり、それは、暗く瞑想的かと思えば華麗であり、もうひとつの4分の3拍子のハ長調楽章で、その主題もまた厳粛さと華麗さが代わる代わる現れる。そして、アレグロの半ば陽が輝き、半ば翳るような“節度ある”音調は、2つの愛すべきト長調のロンドのものではないのだろうか。それらは、すなわち第1番のヴァイオリンとビオラの二重奏曲K.423、それとピアノと弦のための第1番の四重奏曲K.478であり、この2つの作品はほぼこの協奏曲と同じ時期のものなのだ(原注1)。これら3つの楽章の中に同じひとつのムードの明らかな表出が見て取れるのである。

(原注1)1783年および1785年。

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