Ⅲ 
フィナーレは8分の6拍子のロンドである。この拍子はモーツァルトの4曲の変ロ長調のピアノ協奏曲のうちの3曲で使われているものだが、それ以外では4分の2拍子に比して常用されることがかなり少ない(原注1)。そのリフレインはピアノで提示され、総奏が繰り返し、それが長いリトルネッロを付け加えるが、モーツァルトの最も心地よいロンドの主題のひとつである(譜例1081冒頭のピアノによる提示は、譜例108の1オクターブ上である。これは総奏の第2ヴァイオリンの音高であり、第1ヴァイオリンも1オクターブ上である。)。これは激しくも優美であり、モーツァルトの天才を特徴づけるこの2つの資質の結合を示す格好の例である。なんと力強く、しかも楽々と、音階上の5度の音から2度の音に向かって下りていく2冒頭の主題は2小節単位の音型で3度繰り返されるが、弱起第0小節の第1回目の最初のへ音(変ロ長調音階の第5音)から第6小節目のハ音(同第2音)まで2小節単位で下降していくことを言っている。ことか! その間、常に上昇し続ける気配を感じさせるが、それは、連続した3音による3度の上昇(1、3、5小節)の方が、6度の翔け下り(2、4、6小節)よりも耳に入りやすいことによる錯覚なのである。そのリズムは別として、この旋律の外形そのものはギャロップする馬を思い起こさせ、それぞれの断片の冒頭で繰り返される3つの音(これはK.456〔No.18 変ロ長調〕とK.482〔No.22 変ロ長調〕のフィナーレと同じであるが)はホルンの呼び声のようである。

(原注1)モーツァルトが1778年にパリから帰還したした後の協奏曲のフィナーレの約3分の2は4分の2拍子であり、その他の作品の大部分は8分の6拍子である。第1楽章で8分の6拍子は普通使われず、モーツァルトは4分の4拍子、数は少ないが2分の2拍子を好んでいる。

 ロンドは冒頭主題、譜例108の後でそれを引きずっていき、時折、その両翼に載せて高みへと翔け上る3 原文は、The rondo it draws after it and which at times , so to speak, it carries upwards on its wings, is a sonata rondo……であるが、これはガードルストーンが時々使う、やや文脈的にはことなった2つの文をまとめてしまう悪文である。おそらくThe rondo draws it after it and which(where)at times, so to speak, it carries upwards on its wings. という文と、The(This)rondo is a sonata rondo……という文が統合されたものと思われる。前者は、譜例108の冒頭主題の後の第9小節から第1提示部クプレ直前の第42小節までの様相を一つの文で述べたものである。afterの前後のitは冒頭主題譜例108のことである。また、この楽章からフルートが加わり、この楽章の最高音領域まで運ばれるが、それを載せる両翼とは、フルート以外の木管と弦を喩えているものと思われる。この間、ピアノは無言である。これは第1主題を「ギャロップする馬」のイメージでとらえていたが、それをさらに「ペガサス」へと連想をつなげたものである。。このロンドはモーツァルトの中でも数少ない、極めて型通りのソナタ・ロンド形式である。この形式については他のところで既に詳述した(原注1)

(原注1)49ページ(原本)以降を参照されたい。

 ウィーン期のモーツァルトの、ソナタ・ロンドを使った数多くのロンドのうち、第2クプレにおいて第1クプレで既に出てきた要素を使う型通りのものは12曲ほどに過ぎない。大半の作品では、ここで全く新たな要素を持ち込むのである。しかし、ほぼすべてのロンドでは、第3クプレを再現部として扱っている。少数では、第2と第3クプレの間のリフレインを省略するが、その時、特に展開部クプレが省かれた場合には、ロンドは2部構成の楽章の観を呈する。モーツァルトの協奏曲にはこれらのすべての変種が見出せる。

 このロンドの提示部クプレはリトルネッロの後に、外形とリズムがリフレインそのものに密接に関連したピアノの主題で始まる。それを2回提示した後ピアノはさらに続けるが、それは再び戻ることがない姿をくらませてしまうもの4原文は「姿をくらませてしまうもの(a fugitive thought)」が、これは2回反復されるクプレ冒頭のピアノの主題のことであり、「ピアノはさらに続ける」ものはそれに続く経過的な独奏パッセージである。再現部(第3)クプレでは冒頭のピアノの主題は再現されない。である。それにピアノの独奏パッセージが続き、弦がピアノを伴奏する。短い総奏が割り込んだ後、第2主題とも言えるものへと導かれる。これは最初ピアノが、そして弦が加わり、次いでフルート(原注1)、最後にオーボエが加わってくる手の込んだ真の総動員のパートである。それはヴァイオリンの低いロ音からフルートのハ音へと延々とうねりのように上向する6音音型からなっている5短い総奏は第72~75小節、ヴァイオリンの低いロ音から上昇していくのは第76小節から譜例109の終わりの第86小節である。。ピアノでは、とりわけ巧妙な手の交差によって音型はアルペジオの花輪で飾られるが、この作品を初見で弾いた時に見落とすと命取りとなるものである(譜例109)。上昇の結果、ヘ長調へと落ち着き、さらなる転調からは守られて、独奏がカンタービレの第3主題を繰り広げる。そしてフルートがピアノのアルペジオに伴奏されながら、それを引き継ぐ。オーケストラ、特に木管は、おそらくアンダンテにおける重要な役割で勇気づけられ、最初のアレグロの場合のように自らを断片的なパートに閉じ込めてしまうことはないのである(譜例110)

(原注1)K.238〔No.6 変ロ長調〕のアンダンテとK.382〔ピアノの管弦楽のためのロンド ニ長調〕の変奏曲を除けば、これらの協奏曲で使われるのは初めてである。

 モーツァルトがそのためにイントラ―ダ(原注1)6アインガング(Eingang)である。を残している休止の後、ピアノが冒頭と同じように弦およびバスーンの保持音に伴奏されてリフレインを提示する。オーケストラが力強くそれを取り上げ、低音部と高音部の間で7低音部はファゴット、オーボエ、ビオラ、チェロ、コントラバス、およびピアノの左手、高音部はフルート、オーボエ、および第1、第2ヴァイオリンである。新全集版ではピアノの左手が記されているが、これはフォルテの指示を伴っており、低音部の一楽器として意図されたものであり、通常のピアノの休止時の低弦部補強的な通奏低音として記されているのではない。、一種の不規則なカノンと言える対話もどきを繰り広げる。ニ短調の和音で終止した後、聴衆は伝統的な短調のエピソードが出てくるのを待つのだが、その時、もう一回転調して、聴衆を軽妙に空中へと放りあげ、変ホ長調で再び捕まえるのである(譜例111)

(原注1)K.624,No,21

 今開始された展開部クプレは3つのクプレの中で最も興味深いものである。多くのモーツァルトの第1楽章の展開部のように新たな主題で始まり、それはリズミックな最初の部分と歌うような第2の部分8この表現は曖昧である。「リズミックな部分」と「歌うような第2の部分」は継続的なもの、あるいはパートのことではなく、ピアノの右手がアルペジオのリズミックなパッセージを奏する上に、交差した左手の高音で歌うようなフレーズを連続的に奏するものである。この交差効果を譜例109と近い関係と述べているのである。からなり、譜例109と非常に近い関係にある。このクプレはピアノのものであり、時折ヴァイオリンによって伴奏される。最後に変ホ長調で終わるこのパッセージの最後の数小節は独奏であるが、ピアノが沈黙する前にオーボエが非常に優しく、まだ変ホ長調で、わずかに変形させたリフレインのモチーフを回想し始め、そして、このロンドのみならず、この協奏曲の中で最も独創的かつ魅力的な部分が始まる。

 ほぼ40小節にわたり、展開部クプレの最後まで、全楽器、フルート、ヴァイオリン、チェロとバスーン、中でもピアノとオーボエがともにあるいは交互にリフレインの主題の全体、あるいは一部を展開するが、それはまさに、翼を持つ馬の如くこの楽章を天へと運び上げるように思われるのである。

 オーボエが、変ホ長調で主題の4小節を2度9ガードルストーンの表現では4小節が2度提示されるように読めるが、実際にはオーボエによる主題の提示は2小節の主題が2回続けられるもので、文の後半の第1回目は最初の2小節、第2回目は続く2小節である。これが、2小節の休止の後、音程を上げて同じ形で反復される。すなわち計4回提示される。提示してゲームが開始されるが、2度目は1度高く始め、最後の下降の音程は6度から7度となる。ピアノがそれに続くが、さらに1度高く始め、最後の下降音程を5度に変えてヘ短調へ留め、そこで2度下でオーボエがまず2回、3度目をピアノが奏で、このお楽しみが再び始まる。我々は今、ト短調にいるのである(譜例112)。(引用は最初の3度の上昇と、2回目の始まりの部分を示している)10譜例112に示されているのは、第168~173小節のオーボエによる1回目、2回目の提示、ピアノによる3回目の提示である。本文の「最後の下降音程を5度に変えて~ト短調にいるのである」は譜例112の後のパッセージである。。昇ったからには降らなければならないが、同じやり方で同じステップを踏んでしまうのは進取の精神に欠ける。オーボエは沈黙したままで、今度は弦全体が、ピアノの低音がそれに重なり、ユニゾンでその仕事を引き受ける。その間ピアノの右手は滔々と流れるモチーフの新しい素材で伴奏する。モーツァルトはオーケストレーションを変えるだけでは満足せず、同じく旋律線も変形させるが、3度目には(a)11譜例に記入されていないが(a)はロンド冒頭、譜例108の第0~3小節の主題、本文の一種の短縮形は譜例113の弦(Quartour)の第1~2小節の音型のことである。全体ではなく、その代わりに一種の短縮形を提示する(譜例113)。これによって3度ではなく4度下に降りてくることが可能になる。今ここでは、出発した時から1度下のニ長調にいるのである。数小節にわたって同じ(a)による“展開”を続けるが、それはピアノの右手に託され、一方左手には華麗な伴奏が委ねられる。オーボエとフルートが保持音をつけ、弦は沈黙する。

 お楽しみが終わり、他のものへと移行することを示す合図として、モーツァルトはここで弦が主題を奏する流れるようなパッセージを挿入し、ピアノの右手はアルペジオ風に2種の高音部12前半の3小節はアルペジオ、後半の3小節は分解されたアルペジオによる、異なった2種類のピアノ伴奏がつけられることを言っている。をそれに重ねていく。このパッセージにより絶えず続いてきた転調は遮られて、しばらくの間ニ短調を明確に打ち出すのである。

 だがここで再びリフレインが回想される。(譜例114)とピアノが語ると13譜例114の最初の小節はその前のフレーズの音で、3度下が正しい。、オーボエがそれに続く。 そして、いたずらっぽく1度だけ変更してピアノが  (譜例115)と語るが、今度はオーボエが自らにそれの変更を許す(譜例116)。ピアノは、今度は(譜例117)と語る。3番目の侵入者が加わり、フルートがエコーする。そして、展開部クプレの最後の3小節の間、譜例117で、軽妙なおしゃべりを続ける。フルオートがその最後のおしゃべり(譜例118)を終えないうちにピアノが、これで最後のリフレインを主調で開始する。

 展開部クプレは次の3つのもので構成されている。

主題の最初の数小節を違った高さで、転調し、少し変形して繰り返すこと;14例えば第168~179小節(譜例112)  

それに外観は主題のそれを思わせる伴奏を付けていくこと;15同上の弦部の伴奏。

音階の異なった音程で“展開された”音形の断片を変形や転調をせずに反復すること;16例えば第180~185小節の弦部の進行。

 このうちの最後が、最もベートーヴェン的な“労作”であることは明らかである。そしてそれはモーツァルトにおいては、変ホ長調の五重奏曲〔No.6 K.614〕のような2、3の作品を除けば、最も頻度が少ないもので、モーツァルトのいわゆる“労作”はほとんどの場合、変奏、転調と楽器間の対話なのであり、このパッセージから教えられたことは、交響曲や室内楽を見ていくによって裏付けられるのである。

 楽章の残りの部分について長々と述べる必要はない。オーケストラが譜例108を繰り返した後、ピアノは提示部17提示部クプレである。「姿をくらましてしまうもの(a fugitive thought)」と呼ばれたものである。を開始した独奏主題を省略し、ただちに第2主題(譜例109)に先行する独奏へと移る。それに第2主題が変ロ長調で続き、これが最後となる華麗なパッセージの後、総奏が最初のリトルネッロの一部18第1リフレインの結尾部の低音である。を使ってカデンツァの準備を行う。モーツァルトによって書かれたカデンツァ(原注1)は展開部クプレの断片である。それは右手の主題と左手の華やかな伴奏で始まる。展開部クプレを開始した主題を回想した後、それは低音に譜例108を導入し、再び3度を降りて行くが、今度は右手がアルペジオを断片化した音階に代えて伴奏する。そしてアルペジオは低音に波及する。譜例108は消えてしまい、通例の経過句が直ちに最終のトリルへと導いていく。リフレインがこれを最後にもう一度奏されるが、今回は開始部以来出会うことがなかったリフレイン後半部がそれに続く。そしてこの協奏曲は、喜び勇んで「騒々しく(strepitoso)」「非常に騒々しく(arcistrepitoso)」「極めて騒々しく(strepitosissimo)」へと身を投じる。ダ・ポンテによれば、すべてのオペラ・ブッファのフィナーレはこのように幕を閉じるべきものなのである。モーツァルトの協奏曲のいかなるパッセージでも、これほど明白に協奏曲というジャンルとオペラの親近性を示しているものはない。モーツァルトは「騒々しく」を賢明なやり方で扱っており、そのすべての力を蓄えておく。全体がピアニッシモppで10小節にわたって上昇して行き、残りわずか4小節となったところで初めて、モーツァルトは一斉に大砲を放つのである。このパッセージは主和音を拡張したものであり、弦はヴァイオリンの回音の強拍と、1小節おきに突き上げられる低弦の3音によって強調された変ロの低音を、ピアノはアルペジオで、ホルン次いでフルートとオーボエ、最後にはバスーンがファンファーレを奏する。全楽器が整列するとオーケストラは最後のフォルテッシモ19新全集版での指示はフォルテ(f)である。へと自らを投じるのである。モーツァルトの協奏曲には、さらに重要なフィナーレも、より騒々しいものも、さらに長くさらに騒々しいものもあるのだが、これ以上に大きな規模で構想されたものはなく、またこれほど巧妙に計算された音響効果を持つものはないのである(譜例119)(原注2)

(原注1)K.624、No.2220K.624、No.20の間違いである。ちなみにNo.22はNo.17 K.453の第1楽章のものである。
(原注2)楽章のこの部分の8小節は、後で付け加えられたもので、草稿の裏に書かれている(ケッヘル‐アインシュタイン、570ページ参照)

 本章の冒頭で、この協奏曲は1か月前に作曲されたものと非常に異なっていると述べた。1か月前の作品は不安定で、時に激しいものであった。今ここで論じているものは快活で、穏やかである。K.449 〔No.14 変ホ長調〕は少なくともその第1楽章は情熱的で内省的である。K.450〔No.15 ニ長調〕は、けがれなく、内省的ではなく、何の悩みもないスポーツマンである。雲がその表をよぎることもなく、3つの楽章の1小節たりとも悲しみや疑いを示すものはない。

 その相違は開始部におけるピアノとオーケストラの連携に極めて顕著である。K.449のオーケストラは小さいながらもピアノに対して対等に振舞っていた。K.450はこの面では一歩後退を示している。第1楽章はザルツブルグおよび1782年の協奏曲のステージへと立ち戻っており、ピアノが語る時には、オーケストラは沈黙するか、伴奏のために遠慮がちに声を上げるのみである。前作の協奏曲を富ませた協働および対話は消え失せてしまっている。オーケストラと独奏の交響的なパッセージもなく、主題が共有されることもない。それは独奏の主題のみではなく、第2主題が総奏のものとなることさえない。間違いなく、アンダンテと、特にフィナーレはそのすばらしい第2クプレで失地をいくらかは回復しているが、ただし、概して、K.449は、感情生活の深さのみならずその交響的な展開という面でも、その後に来る作品より先行している。

 それはあたかも(これはもっともなことでもあるが)、作曲家が自らの進歩のすべてについては付いていけないかのようだ。前作にあった進歩はこの作品の中にはない。ピアノをオーケストラとどのように一緒に扱うかという点に進歩はなく、オーケストラのパートそのもの、様々な楽器群間の連携にこそ前進の一歩があるのだ。なによりも、それは木管の独立という点にある。この面で、以前の作品群からこの作品への躍進はまさに巨大な一歩なのだ。モーツァルトの以前の交響曲や協奏曲(原注1)のどれにも、これほど木管が弦から分離されたこともないし、これほど独創的で己の本質を表現できるパートを委ねられたこともなかった。弦とまったく同じように主要な主題を拡張する権利を享受していることに止まらない。確かにこの権利を有しているのだが、木管は、独自の主題を持ってもいるのだ。例えば、第1主題の半音階的な冒頭は、最初に木管によって提示され、ピアノがそれに続くが、再現部では再び木管で提示されるのである。確かにヴァイオリンとビオラがその再現へとつぶやくように上昇音階で導くが、これは主題の告知であり主題そのものではない。主題が再現するとき、それはオーボエとバスーンのために予約されているのである。それは第1楽章譜例98のアルペジオ風の部分でも同じである。展開部では、伴奏が最も興味深いが、木管グループは弦に対抗して際立ち、弦と交互に譜例102のピアノの3連符とそれに続く16分音符を支える音型を形作っていく。緩徐楽章では、そのパートはさほど印象的ではないものの、第2変奏ではピアノと弦がそれぞれ主題を提示するが、その時はじめて木管が自分の番でそれを歌うのだ。しかしフィナーレでは、木管のメンバーのひとつ、フルートが遅まきながら出世を遂げ、譜例110の第3主題では全オーケストラを代表する。そして、オーボエが非常に表現豊かな独創性をもって振舞うのはすでに見てきた通りだ。一言で言うなら、この協奏曲は、独奏と総奏のインタープレイが貧弱であるとしても(これは第1楽章のみに当てはまるものであっても)、木管に与えられた重要性の中にこそ、これに続くほとんどの協奏曲が進むべき道を開くのであり、それらのいくつかは、ピアノのオブリガート付きの木管協奏曲と称されてきたのである。

(原注1)「交響曲と協奏曲」には下線を引いて強調しなければならない。というのもモーツァルトの室内楽にはすでに、変ロ長調〔K.361〕、変ホ長調〔K.375〕そしてハ短調〔K.388〕の堂々たるセレナーデで頂点に達するいくつかの木管楽器の作品があるからである。また『イドメネオ』では、木管はこの協奏曲と同じくらい自由に扱われており、すべての面で弦と対等のものとして示していたのである。

 ピアノのパートは、バベット・プロイヤーとモーツァルトの能力の差の分、K.449〔No.14 変ホ長調〕よりも難しい。より難しいが、同時により“モダーン”でもある。第1楽章では3度の和音が極めて頻繁に使われているが、それはおそらく、1772年以来クレメンティによってなされた技術的な進歩にある部分負っている。しかし、第1主題の独奏パートの3度のハーモニーは、完全にピアノによる木管の効果の模倣の姿そのものを示している。当時すでに確立されていた、他のオーケストラ的効果が2度、華麗なパッセージの右手の中に現れる(119~21小節、264~5小節)21このオーケストラ的効果の指示箇所は、第1楽章である。

 モーツァルトの作品における変ロ長調の特性については後に論じるが、今は、K.450〔No.15〕はその前の作品がそうであったように孤立したものでは決してないと述べれば十分だろう。同じ調性の他の作品、同年のすばらしいヴァイオリン・ソナタK.454〔No.40〕や、同じく1784年の有名な「狩」(モーツァルトがそう称したのではないが)と呼ばれる四重奏曲K.458〔No.17 ハイドン・セット第4番〕では、同じ陽の光あふれる空のもと、同じ歓喜の賛歌が響いている。同じように目も眩む陽光がそれらを満たし、ともかくもそれらの第1楽章と最終楽章は同様に、空の表を過ぎていく雲でさえも無縁である。似ているのは情緒的なもので、形式ではない。それらの主題は似てはいないし、それらの構造はジャンルの違い程に異なっている。しかし、インスピレーションの同一性に疑問の余地はなく、1786年の変ロ長調のトリオK.502 〔ピアノ・トリオNo.4〕は同じ種族に属しているのである。一方この協奏曲とこの年の末の変ロ長調K.456〔No.18〕 の間では、類似はさほどではない。

しかしながら、このような同一調の作品間の類似性があるとすれば、同時期の作品間における類似性もあるのだ。“けがれなきスポーツマン”という表現、これはこの協奏曲と同じく、次のもの〔No.16 K.451 ニ長調〕にも当てはまるのだ。ここにある同じような自信と誇り、躊躇いと不安感の欠如は、若き巨匠自身にもほぼ同じ傾向があることを示している。このことは年末のヘ長調の協奏曲〔No.19 K.459〕についても言えることなのだ。K.449〔No.14 変ホ長調〕がユニークなものであるのと同様に、K.450は作曲家の生涯の一時期を代表するものであり、生命と喜びに満ち溢れたひとつのファミリーを形成する作品群がこれに続くのである。

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