協奏曲第12
〔No.16〕 ニ長調(K.451(原注1)

1784年、3月22日 完成

アレグロ・アッサイ:4分の4拍子(C
(アンダンテ):2分の2拍子(¢)(ト長調)
アレグロ・ディ・モルト:4分の2拍子

オーケストラ:弦、フルート、オーボエ2、バスーン2、ホルン2、トランペット2、ティンパニ2

(原注1)全集版番号で第16番

 

 モーツァルトは変ロ長調の協奏曲〔No.15 K.450〕を完成させるとすぐに、おそらくはそれを完全に仕上げる前であったろうが、この奇跡的な1784年の冬にもうひとつの協奏曲に着手した。1か月半の間でそれが3曲目なのだ! 彼はそれを前の作品から1週間後の3月22日に書き終えた。フーガを記譜しながらハ長調の幻想曲を作曲していると告げる姉への手紙によって、モーツァルトが数曲の作曲を同時に進めることができたとわかるが、変ロ長調の協奏曲〔No.15 K.450〕を書き終えないうちに、ニ長調の協奏曲〔No.16 K.451〕を頭の中で作曲していただろうことは十分ありうる。その一方、1783年10月31日付けの父親への手紙が裏付ける、モーツァルトがリンツ交響曲〔No.36 K.425〕を4 日で書き上げたという事実は、今見ているこの曲が1週間で作曲されたことも十分可能だと思わせる。自作のカタログよって証明されるいくつかの作品の日付は、リンツ交響曲について明らかにされたことと同様に、彼が非常な速さで作曲できたことが真実であることを示している。これを読んでも信じられない場合は、1936年にパウル・ヒンデミットが演じた早業を思い起こすべきである。彼は、ロンドンでヴァイオリン協奏曲を演奏することになっていたが、その演奏会の数日前に国王が死亡し、最後の段階でプログラムの変更を行うことを余儀なくされた。そこでヒンデミットは、4時間閉じこもって亡くなった国王を追悼する葬送の作品をその場で作曲することを提案した。提案は受け入れられ、その作品は演奏された。それは約20分の長さで交響曲の第1楽章程度の規模を持つものである。この現代の事例によって、伝記作家が語るモーツァルトの偉業はより説得力を持つのである。

 ともかく、この曲ではその第1楽章が一気に書き上げられたと感じる。己が自らの力量の最高点にいるとの自覚がもたらす誇りと喜びが前の協奏曲〔No.15 K.450〕を生みだす原動力となったが、それがまたこの協奏曲の作曲のペースを早めることになった。しかし、これらの感情は今や激しい熱情にまで高まっている。そして、この情感がより深く、より広がりを持つことで、形式もその豊かさを増すのである。第1楽章はモーツァルトがこれまでに書いた最も力強く、最も複雑なものであり、そしてモーツァルトのすべての交響的作品においても最も力強く手の込んだもののひとつである。この第1楽章について唯一非難できるとすれば、これのおかげで他の2つの楽章の影が薄くなってしまうことである。オーケストラと独奏が最も協働するのは、もはやフィナーレではなく最初のアレグロであり、それには、モーツァルトの全作品の中でも、最も素晴らしいインタープレイの例がいくつも含まれている。これは輝かしき芸術のひとつの傑作であり、誇示のきらいはあっても真摯な、満足感、自信、そして力を放つ、1784年のモーツァルトそのものなのである。流行の若き巨匠の理想を語るこの年の6つの協奏曲の中にあってこの曲は、それらに続く6作品の中であの偉大なハ長調協奏曲K.503〔No.25〕が占めているのと同じ地位を占めているのである。

 

 アレグロは、そのすべてにおいて、モーツァルトが到達した協奏曲の交響的なコンセプトを把握できる初めての楽章であるのみでなく、それを最もよく理解できるもののひとつである。これはおそらく、シュポールが見たように、人びとがこのジャンルの中に見出してきた、ピアノとオーケストラのための協奏曲というよりも“ピアノを伴う交響曲”という 理想を全うする作品のひとつではある。それはモーツァルトの協奏曲の誤った解釈ではあるが、オーケストラの絶対的な重要性、すなわち他の人々がベートーヴェンの功績としてきたオーケストラの“解放”が同様の誤りであることを我々に気付かせてくれる、という好都合な面もある。

 オーケストラはK.450〔No.15 変ロ長調〕よりも大編成である。モーツァルトはK.450のロンドで現れたフルートを保持し、トランペットとティンパニを加えている。これまでの協奏曲でモーツァルトが使った管弦楽では最大であるが、これらすべての楽器はこれまでの協奏曲ですでに登場しており、フルートはK.238〔No.6 変ロ長調〕のアンダンテとK.450〔No.15 変ロ長調〕で、トランペットとティンパニはK.175〔No.5 ニ長調〕、K.382〔ピアノと管弦楽のためのロンド ニ長調〕とK.415〔No.13 ハ長調〕で参加している。

 楽章はK.415〔No.13 ハ長調〕と同じ行進曲のリズムで始まるが、このリズムには続く3つの協奏曲〔No.17 K.453 ト長調、No.18 K.456 変ロ長調、No.19 K.459 ヘ長調〕で再び出会う。しかし、これらの協奏曲では、マーチの旋律は最初第1ヴァイオリンあるいは木管のみでピアニッシモppで提示されるが、この曲ではフォルテで全オーケストラによって始まり、第2小節でピアニッシモppへと下がるのである1新全集版での指示はピアノpである。なおNo,17、No.18およびNo,19の冒頭も同様に新全集版ではピアノpである。。第1主題はニ長調の音階で、10小節の間に2オクターブ上昇する。その進行はフルートと第1ヴァイオリンによって示され2第1ヴァイオリンは連続して2オクターブ上昇するが、フルートは1オクターブ高く出発するため、8小節目で第1ヴァイオリンと同じ高さに下がって上昇する。、バスーンと低弦が8分音符の連続する主音を響かせる。そして2小節おきに3当該の楽器が補強するフォルテは、第1小節、第4小節、第6小節、第10小節であり、規則的に「2小節おきに」ではない。しかし、直後に述べられる「堂々とした階段を元気よく大股で云々」の印象を損なうものではない。オーボエ、ホルン、トランペットとティンパニが補強するオーケストラのフォルテによって、ピアノpは遮られる。それだけではなく、これらのフォルテのそれぞれがリズムに区切りを記すので(譜例121)、最初のオクターブが、堂々とした階段を元気よく大またで登っていくような印象を与える。最初のオクターブの後、クレッシェンドがフォルテへと導くのと同時にペースが速まり、始まった時よりも2オクターブ高い主音でフレーズが終わるのである4原文はAfter the first octave the pace quickens at the same time as the a crescendo leads to forte. であるが、やや不正確である。最初の1オクターブの後の次の小節はそれまでのペースであるが、その次の小節から第1ヴァイオリンの音価は16音符となり、また上昇する度数が大きくなる。これがthe pace quickensであるがそれと同時にcrescendoの指示がつけられている。それがフォルテに導くのである。なお2オクターブ上昇して到達するthe tonicは、全体としては主和音であるが、「2オクターブ高い」とあるため「主音」とした。

 この第1フレーズは、同じくニ長調の音階からなるフォルテッシモの第2フレーズに引き継がれるが、それは付点8分音符で、下降するものであり、上声部とビオラおよび低声5上声部は第1、第2ヴァイオリン、それと相互に模倣を行う下声部はビオラ、チェロ・コントラバスおよびバスーンである。とに分かれて相互に模倣を行う(譜例122)。それは属和音へと導き、それに第2ヴァイオリンに割り振られた16分音符の上声部連続音が続く。オーボエ、ホルンとトランペットによって補助的な主題が提示され、再びピアノpに戻るが、開始部と同様に、他の楽器が1小節おきに炸裂するフォルテでいきなり入ってくる6「他の楽器」とは第1ヴァイオリンとフルートである。「開始部と同様に」とあるが、両方の場合ともに第2小節目にフルートおよび第1ヴァイオリンが引き継ぐものの、開始部では旋律を担い、ここでは「合の手」を入れるものである。(譜例123)。フォルテがそのまま続き、それとともにたった今第1ヴァイオリンとフルートが木管のピアノpを遮った断片(a)(譜例123の中の)に乗って属和音の終止がつくられ、それで最初のセクションが閉じられる。

 これらの25小節は、事実上、ひとつの楽曲を形成し、それが楽章全体に性格を付与するのである。打ち震える力7冒頭の25小節の前半は小刻みな保持音に乗ってピアノpの部分ではほぼすべてでトリルが使われている。また後半では音型(a)がトリル的な効果を持っており、これらから受ける印象を「打ち震える力」と表現したものと思われる。はほとんど弱まることなく、突然フォルテとなり、それはダイナミックであるがギャラント的な“びっくり”ではなく、激情を抑制すると同時にそれを強める低音の保持音、旋律的であるものの中における音階の重要性、これらがこのアレグロに一貫して存在するのだ。

 ここでは対照の原則が支配的であり、この原則はギャラントの作曲家たちには極めて大切なものであったが、もはや単なる遊びに留まってはいない。モーツァルトの天才は、自身の性格の内にある二面性の間の闘争という意義をそれに与えたのである。ここでは熱情と穏やかさが主役の座をめぐって争い、それは楽章全体を通して繰り広げられるのである。穏やかさは静かで秩序だった振る舞いを要求し、このパッセージの最初と3番目の部分8最初の25小節は、①2オクターブ上昇する第10小節までと、②フォルテの付点音符で下降する第10~17小節、③音型(a )がフォルテでピアノpを遮る第17~23小節、④最後のフォルテの終止部の第23~26小節第1拍までの4つの部分からなるが、第1、第3の部分は音階に沿って上昇、ピアノpの主旋律をフォルテが遮るという特性をともに持っている。に音階の音型とピアノpを課すのである。しかし、穏やかさは、激しく押し寄せる熱情を押しとどめることができず、熱情は、常にフォルテでこれらのセクションを遮り付点8分音符のパートで勝利を収めるのである。もちろん、この時代は古典期であるから、闘争は様式化されている。リズムが規則的で、熱情の激発は等間隔であり、二重性はなお明確である。しかし、対抗するものは、結局は同じ精神の2つの側面であり、それらは敵対していても、兄弟であることが示されるべきであり、根底にある同一性が表明されなければならない。この同一性は保持音で守られ、あたかも低部の保持音が上昇音階の足を縛り付け大地との接触が失われるのを防ぐかのようである。フォルテとピアノpが鋭く交代し、主題が音階に基づき、あるいは主和音のアルペジオが支配する、そして保持音が頻繁に使われるその他の進行部分を検討すれば、この解釈が、冒頭の25小節に限らず、これ以降についても通用することが分かる。

 より重要性が低い運行であれば、第2主題が再び始まる前に終止の後で止まってしまうことだろう。しかし、このアレグロを特徴づける二重性の調和への関心が、そのような処理の手順を許さない。終止の後、当然予期される休止に代わって、低弦が妨げられることなく新たな属音の保持音を続けるが、それはその前のパッセージとの連結なのである。そしてその上を9小節にわたって魅力的な推移部が羽ばたき、第2主題へと導いていく(原注1)。そのリズムは前の部分を閉じた断片(a)(譜例123)を思い起こさせるものである。ここでは熱情は静まり、ヴァイオリン、フルートとオーボエ9さらにバスーンが加わるが、この経過フレーズは最後にフルートとバスーンが閉じるため、このバスーンは重要である。の間で交わされる魅惑的な会話が牧歌的な穏やかさで展開される(譜例124)。すべてのモーツァルトの作品においても、木管と弦を結びつかせた表現力のこれ以上に魅力的な例は存在しない。

(原注1)ニ長調の最初の協奏曲〔No.5 K.175〕の第2主題も同様に属音の保持音によって導き入れられる。

 この部分の最後の断片もニ長調の音階で作られている。第2主題は主和音のアルペジオで構成され、2つパートに分割されている。前半はオーボエとホルンに属し、後半はヴァイオリンとフルートのものである。モーツァルトのほとんどすべての協奏曲の第2主題同様、挨拶をするために顔を出すだけで引っ込んでしまい、その作品の物語りに参加するこことはない。そしてそのままピアノpで、転調し続けるシンコペーションのリズムのパッセージが開始される。それは、暗く神秘的で、ここまでのものとは異なっている(譜例125)。そして、それが終わる直前、突然にフォルテに強まるのである(譜例126)

 モーツァルトが好んで主題展開の終りのためにとって置く驚かせ方のひとつが、まだ我々を第1提示部の結尾から隔てている。聴衆は全終止で終えるフォルテを期待する。が、そのようなことは全くなく、それは偽終止10原文an interrupted cadence。普通はこれは中断終止または偽終止と訳されるが、その和声の動きは代表的なものではⅤ‐Ⅵからそのまま次のフレーズに移るというものである。中断終止というのは、Ⅵの和音が主音を含むトニック系の和音でそれで終止感を出し、あたかも終止するように見せかけて前のフレーズを中断し、次のフレーズへと移るからである。しかしここでの和声の動きを見ると、第60小節から、ニ長調のⅠ‐Ⅵ6‐Ⅰ‐Ⅵ6‐休止‐Ⅰとなっており、これは確かにⅥ6で終止感を出しながらもいわゆる偽終止の形はとってはいない。休止をⅤの属和音でつなぐことも可能だが、もしそうするとこの部分全体は完全終止になってしまうのである。さらにこの部分はト音の嬰音化によってイ長調と聴くことも出来る。いわゆるエンハーモニックで、イ長調のⅣ‐Ⅶ‐Ⅳ‐Ⅶという形でそのまま転調するのか、という思わせぶりであるが、その後に休止を入れ、何もなかったようにニ長調のⅠの「ありふれた音型」これで完全終止してしまう。ガードルストーンの主眼はこの休止によるいわば「宙ぶらりん」感、その後の「ありふれた音型」による「肩すかし」感をこのinterrupted に込めているのではないかと思われる。これはモーツァルトの「悪戯」「おどけ」で、いわば「偽の偽終止」と言えるのではないだろうか。間違いなくモーツァルトはこれを面白がり、楽しんでいるようだ。以後このカデンツが繰り返し出現し、展開部はこのカデンツで開始されそれが展開される。訳は、一応は偽終止感を出しているため「偽終止」そのままにした。へと導くのである。同時にピアノpへと入り、モーツァルトが何百回となく使った、ありふれた小さなフレーズで終えるために総奏が出現する(譜例127)。そして偽終止は、これぞモーツァルト的な和声の変更を加えて再び取り上げられ、ありふれたフレーズがその後にもう一度、そしてそれから、休みもなく、ありふれていることではひけをとらないもうひとつの小さなフレーズが、終結としてはたらき他の小さなフレーズがそれに連結する。第2主題のように、それは主和音の断片から成り、保持音の上に乗っていることで、先行するものへの類似性を認めることができ、それがゆえに、その本来の気まぐれさがもたらす以上の威厳と落ち着きを獲得しているといる(原注1)。型にはまってはいるが、確信に満ちた4小節の音型が導入部を締めくくる。

(原注1)それはト短調四重奏曲、K.478〔ピアノ四重奏曲 No.1〕のフィナーレの結尾の旋律を思い出させる。

 この最初の総奏は、かなりの程度それに続くものの概要を示すものだ。これはもちろん、すべての開始部の総奏に言えることであるが、その程度には違いがある。K.415〔No.13 ハ長調〕のそれはほとんど概要と言えるものではなく、そのほんのわずかな部分だけが楽章の本体で現れるだけであり、再び出現することのない展開からなっている。K.450〔No.15 変ロ長調〕のものは、最初の独奏の素材を第2主題も含めてほとんどすべて省略するし、またK.482〔No.22 変ホ長調〕も同様のことを行う。逆に、ここでは、楽章の残りの部分を築き上げるほぼすべての要素があり、ただひとつ欠けているのは、重要ではない独奏主題(譜例129)と、展開部のファンタジアの部分のみである。一聴した時にこの協奏曲の中で非常に重要なものと感じる華麗なパッセージでさえも、総奏に由来している。そして、この楽章は高度に有機的で統一されており、これまでに出会った中で最も有機的なアレグロの第1楽章なのである。すでに見てきた協奏曲の楽章の中でこれに匹敵するものを見つけようとするなら、ロンドの中にそれを探すべきであろうが、そうであってもK.449〔No.14 変ホ長調〕以前の作品ではほぼ見出すことはできない。事実、1784年初めのこれらの協奏曲は、これまでのモーツァルトの長期にわたる有機化と統一化への最初の偉大なる一歩を記すものなのである。

 ピアノがK.449〔No.14 変ホ長調〕と同じような唐突さで第1主題に取り組む。ピアノは単独で取り組み、独奏が2オクターブを音階で昇る間、オーケストラはその武器を収めている。トーンが幾分弱くなるのを補うために輝かしさを表に出すことを余儀なくされ、ピアノは音階の進行を縫物のように装飾する(原注1)。強弱記号は何も記されていないが、しかしそれは明らかに、フォルテとピアノpとの間の交替であり、騒々しさの炸裂はここでは右手の2分音符の和音に、上方への押し上げは左手に任せられる。ピアノとオーケストラとの親密で継続的な協働が最大関心事であるこの協奏曲にあって、9小節にわたる無伴奏の独奏は例外的なものである。

(原注1)この開始部はピアノがオーケストラのパッセージを翻案する例として興味深いものである。それはモーツァルトがモーツァルトを編曲しているのであり、バッハによるビバルディ、リストやブゾーニによるバッハの編曲と同じ価値を持つのである。

 総奏が、弦だけに委ねられた譜例122の下降する付点8分音符で再帰し、ピアノは、低音、高音が交互する16分音符の上昇音階とアルペジオで装飾しながらそれを伴奏する(譜例128)。独奏のパッセージが、属音の保持音の上で弦と重なりながら、嬰ヘ短調へと、そして独奏の主題(譜例129)へと導くが、それは再び1度下のホ長調で繰り返されて、木管と弦が小さなトリルのモチーフを持ったインタープレイの短く美しいパッセージへ移るが、世界の中にいるのは自分たちであるかのごとくそれらは独奏を無視しているように見え、独奏は、木管の当意即妙な会話のひとつひとつを走句で強調して空しくそれらの注意を惹こうとする(譜例130)。これらすべてのエピソードはすべて新たに出てきたものである。

 書き換えられた第2主題を伴った開始部の総奏に出会うことになるのだが、そのための準備のパッセージ11第2主題は第128小節からである。ガードルストーンの言う「準備のパッセージ」を譜例130の主題部終了以降とすると、第112~127小節がそれにあたり、準備というには大きすぎるセクションである。では、上声部の保持連続音が今度はピアノの右手に、音型は弦とフルートに委ねられる。断片(a)がシーソーのようにフルートとピアノの間12正確には、フルート、オーボエとピアノ(両手)の間、である。で交互に展開される。羽ばたく音型は、ひょっとすると導入部でのもの以上に愛すべきものである。それは、ピアノの存在が色彩を付け加え風景がより豊かになるからである。モーツァルトが非常に愛したこの音型のささやきは、彼が明確な意図なしに使うことがないもので、ここでは、フルート、オーボエとピアノの間を巡る。前者は音型そのものを確保し、ピアノはそれにエコーする(再現部ではそれが逆のやり方になるだろう13音型とエコーでは転回関係となっている。再現部ではピアノが音型を確保、フルートとオーボエがエコーする。後出の譜例6 がそれにあたる。)。

 第2主題はフルートで提示されるが、最初オーボエが、次いで第1ヴァイオリンがそれに重なる。この協奏曲での独奏に対するオーケストラの高慢な態度を示唆しているのだが、独奏は繰り返される時にだけそれを取り上げるものの、それでさえも単独で享受することはなく、第1ヴァイオリンが1オクターブ下でそれに重なるのである。聴き手はここで華麗なるパッセージを期待するかも知れないが、そうではなく、真にモーツァルトらしい繊細さで突然短調に入り、ピアノは木管と短い対話を交わす。そして3小節のアルペジオ風の和音(よく響くが短く以前の服従に引き戻すもの)、ピアノの顫音を伴った木管の下降音階が続き、そして弦が譜例125で再び入ってくるが、調性以外は何も変更なく再現され、イ長調のまま譜例126のフォルテで終わる。この15小節の間、ピアノは沈黙してはいないが、その役割は、伴奏者ではないとしても、それは単なる注釈者のそれに過ぎない。2小節の沈黙14「この15小節」は、第2主題提示後の第143~157小節であり、ピアノはその最初の2小節、第143~144小節でガードストーンが「2小節の沈黙」と記しているように沈黙している。新全集版では、ここでピアノの左手が記されているが、8va basso(1オクターブ下の通奏低音)の指示がある。現代ではこれは通常奏されない。の後でピアノは入り、低声部を左手のアルベルティ・バスで補強する。そして次第に大胆になり、アルペジオでヴァイオリンの旋律線を装飾し、最後にフォルテで、左右手を変えながら全音階、次いで半音階の音階で、反復音の弾幕の中を突き進み、オクターブの最上音と次のオクターブの最低音を連結し、弦の跳躍を抑える(譜例131)。そこで初めて、ピアノは華麗な勝利の歌を勢いよく開始することができるのだが、それでもまだ木管の保持音と弦のスタッカートに監視されており、それは予期されたトリルが現れて呈示部の終わりを宣言するまで続くのである。

 あたかもこの楽章の一体性を強調するかのように、この時点でオーケストラが、新たな主題でも譜例128でもなく、譜例122の付点8分音符の下降音階の音型で再び入ってくる15譜例122は第1提示部、譜例128は第2提示部で、ともにニ長調の付点8分音符の下降音型であり、後者はピアノが伴奏を付けることだけが違っているだけである。ここがピアノのトリルの後に結尾部を開始する箇所だとすると、ピアノ伴奏のない譜例122であるのは当然である。とはいえここには通常第1提示部の結尾部と同等のものが続くはずであり、それではなく譜例122が使われていることが「驚き」であるべきである。ここは「新たな主題でも総奏提示部の結尾の主題でもなく、譜例122云々」とあるべきところである。。それは開始部で耳にしたその通りに、譜例126の最後の小節と連結し、そしてさらに偽終止、そして譜例127の小さなありふれたフレーズへと繋がっていく。初めの総奏のように、偽終止は繰り返され、今度は譜例127のフレーズの代わりに、それが中断された時点に立ち戻り、次に3度上で、そして最後にさらに3度上で再現される16譜例132は音型(b)の度数変化を示すためピアノ譜に弦と木管が重ねられているが、非常に分かりにくく、また本文にも一部曖昧さがある。ここの音楽の流れは次のようになっている。提示部の最後では、偽終止はオーボエとヴァイオリンで提示されるが、偽終止の反復から展開部に入る。ここからが譜例132である。展開部に入りまずフルートが前と同じ高さで繰り返し、次いでピアノの右手が3度上で、その後でフルートがさらに3度上で繰り返す、という流れであり、「中断された時点に立ち戻る」のがフルート、「次に3度上」がピアノの右手、「さらに3度上」が再びフルートである。原文は it resumes where it had stopped, one third higher, and finally, once again, yet another third higher. であるが、stopped,の後にthenがなければならない。本文には「次に」を補った。。ここでイ長調から遠く離れてしまい、また同じく過ぎ去ったものからも遠く離れてしまう。そこで、ひそやかな足取りで展開部が忍び込んでくるのである(譜例132)

 熱情に力強さが加わり、高慢の域にまで高められた完全な自信がこれまでを支配し、転調し続けるシンコペーションの主題、譜例125の神秘的な旋律が、ごく一瞬それを乱すように入ってきただけである。そして今、この上なくしっかりと築かれた境界線が瞬く間に消え去り、我々は見知らぬ海の上で目覚めるのである。気付いた時には、すでに陸から遠く離れているのだ。ひとつの世界を消し去り、これほどに異なったもうひとつの世界を呼び起こすのに一体何が必要だったのだろうか? 4小節の転調、ピアノの再帰、リズムを破ること、それらによって、ひとつの同じ音型が3回繰り返される中で、異なる性格に相当するものになることができたのである。

 直ちに、偽終止のモチーフが我々を新たな陸地へと導く。ピアノが、和音の中でも最も示唆に富むスーパー・トニックの減7の和音17第191~192小節。スーパー・トニックは上主音、音階第2音で、これはⅡ7の和音をディミニシュ化したものである。アルペジオの進行の間隔の音程はすべて短3度となっている。ガードルストーンが記すように、非常に神秘性のある和音である。のアルペジオによって我々を水の上にと送り出す。音型(b)18譜例132冒頭の偽終止の音型のことである。が戻って来た時にはホ短調にいるのだが、それは単なる寄港地である。航海が新たに始まり、同じ転調を通って、ピアノのアルペジオが我々をロ短調にと上陸させる(譜例133)

 この16小節19ロ短調に転じた第199小節から第214小節までの16小節である。にわたる無限への飛翔は、この見事な楽章の中でも最もすばらしい瞬間である。これまでの協奏曲ではこのようなものに出会うことがなかった。形式的には、これは幻想曲的展開部であり、その直接の先例はショーベルトおよびヨハン・セバスティアン・バッハの作品にある。しかし彼らのものとこれとの間には限りない隔たりがある。さらに、これとK.450〔No.15 変ロ長調〕の幻想曲的展開部(原注1)との間でさえ大きな隔たりがあるのだが、外面的にはこの2つは似ている。K.450と同様にこの曲では、第2独奏はピアノによる最後のオーケストラのフレーズの繰り返しによって開始されるが、K.449〔No.14 変ホ長調〕やK.450〔No.15 変ロ長調〕ではちょっとした戯れにすぎなかったものが、ここでは十分な意味を持っているのだ。また、他と同様にここでも、ピアノのパッセージは幻想曲であるが、K.450では足の踏み場を失うことがなかったのに対して、この曲では、突然奥深きものに捉われ、そして、モーツァルトは未知なるものへと飛び立つのである。振り返ってみるならば、直接の先行者のところで立ち止まってはならない。同じ空気を吸うものとして、はるかヨハン・セバスティアン・バッハのニ短調の協奏曲20J.S.バッハのチェンバロ協奏曲には第1番BWV1052と、第8番BWV1059の2つのニ短調があるが、第1楽章に「壮大な保持音」を持つのは、第1番BWV1052である。とその第1楽章の壮大な保持音にまで立ち戻らなければならない。そして、さらに近いものとしては、次の協奏曲〔No.17 K.453 ト長調〕とベートーヴェン―そのハ短調の作品〔ピアノ協奏曲No.3 作品31〕、さらには展開部の最初が“海図なき航海”と言われるヴァイオリン協奏曲〔ニ長調 作品61〕に目を向けなくてはならない。

(原注1)200ページ(原著)参照

 ロ短調に至っても幻想曲は続いているのだが、よりかっちりとしたリズムが、馴染のある場所と感情に戻ることを示す。上昇するアルペジオと下降する音階の断片を通して、神秘的な主題がピアノの右手にほのめかされて浮かび上がり、ヴァイオリンによってなぞられる。展開部のはじめの夢見るようなムードは熱情に道をゆずり、熱情は高まり、その頂点に達するが、これは再現部の直前にかなりしばしばあることなのだ(原注1)。その時が近づくにつれて、ピアノが支配的になり、伴奏の影は薄くなるが、それはあたかも独奏楽器の衛星たちが、勝利の帰還からそれを隔てる涙の谷を独奏ひとりで渡らせるのがふさわしいと感じているかのようである。最大の緊張の一瞬、スーパー・トニックの7の和音21ここは減7ではなく、いわゆるロ短調のⅡ7の和音であり、展開部の神秘性はやや和らげられる。が低音の保持音に向かって砕け落ちる(譜例134)。わずかの間イ長調の和音に繋ぎ留められて、作品の二重の性格と熱情の豊かさが、その精神を揺さぶるが、圧倒されることなく、自らをユニゾン22単純な「ユニゾン」ではない。ピアノの左手はいわゆる「分解されたオクターブ」で、その上の音と右手がオクターブ関係であるが、左手の上音は右手に対して4分の1拍遅れとなっている。のアクセントに集中させる。これは再現部直前というステージが可能にしたのだ。そしてひとたび勝利が確かなものとなると、大きな悲嘆のうちに見捨てられていたオーケストラが、栄光の分け前を乞うために、すっかり打ち負かされた態で、ピアノpで戻ってくる。

(原注1)32ページ(原著)参照

 展開部の32小節の冒険は見事なものだが、何と短いことか! 楽章全体の10分の1にも満たないのだ! 展開部の短さは、すべての幼年時代の初期作品から晩年に至るすべてのモーツァルトの作品に一貫した形式的特徴である。概して、モーツァルトの最も独自で最も重要なものは、まさに最も短いものなのである。

 再現部は再びピアノとオーケストラをひとつのものにする。この楽章の最初ではオーケストラが第1主題の支配者であった。第2呈示部ではピアノが、そして今は両者が連合している。第1小節の行進曲のリズムとゆるやかな音階23第1ヴァイオリンとフルートによるトリル付きの音型が、音階に沿って順次上昇していくことをこう表現している。はオーケストラが担い、この力みなぎる噴出は、ピアノの走句によって分節される。(譜例135)。譜例128の2次的な主題は最初の独奏と同様に扱われるが、異なる点は、ピアノの修飾が今回は3連符のアルペジオの形を取ることである。独奏の主題(譜例129)は再帰せずに、譜例128がそのまま譜例123へと導いていく。第2主題の回帰の道を準備する愛らしい“羽ばたく2度”の音型が、スコアの一部24譜例124に相当する第2提示部の第118~127小節と、譜例6の違いについて述べているのだが、ヴァイオリンとフルートの役割が交替している。と調の変更以外の変化なく再帰する(譜例6)。第2主題と譜例125のシンコペーションのパッセージも同じであり25第2主題は、第2提示部でフルートが提示したものを、ここではオーボエとホルンが、譜例125のシンコペーション主題はヴァイオリンが提示しピアノが修飾したものが、調を変えただけで繰り返されるが、木管の伴奏が加わっている。、それに譜例126がフォルテ26新全集版にはフォルテの指示はないが、当然フォルテである。続く。そして再び偽終止とややありふれた小さなフレーズへとたどり着くが、以前にはこのフレーズによって未知なるものへ潜り込んでいったのである。今や残された仕事は結末をつけることだけである。そして、予期しない転調に代えて、モーツァルトはここに最後の華麗なパッセージを挿入する。それは、事実唯一のものであり、10小節にわたる完全に有機的なものである。それはただ主調を確定させるためのものなのだが、それなしには古典期の交響的な楽章は完結しないのだ。

 最初の独奏を締めくくった譜例122の付点音符の音型が回帰し、譜例123のコデッタがカデンツァへと導く。モーツァルトが残したもの(原注1)はほぼすべて主要主題からの引用と両手を交差させるパッセージから成っており、この種の技巧性がこの協奏曲本体にはないことで、さらに注目すべきなのである。これまでは、ピアニストがこの作品を公に演奏することが極めて稀な出来事であったが、調子が良くかつ精力に溢れた、そして最も重要なこととして、長さが適度であるこのカデンツァの使用を薦めたい。

(原注1)ブライトコップ版のカデンツァ集K.624では、間違って戴冠式協奏曲K.537〔No.26 ニ長調〕のものとして編入されている(no.32)。

 この楽章は譜例12827カデンツァの後に譜例128は再現しない。第1提示部を閉じた結尾部をそのまま使っている。と型通りのコデッタで終了する。

 このアレグロは、アンダンテとロンドよりもはるかに優れたものであり、モーツァルトの協奏曲のひとつの頂点である。その最も明らかな特性は構築的な強さと美しさである。それは極めて堂々としたものだが、それは規模以上にその頑健さによっている。すでにこの最初の総奏の一体性について強調してきたが、この特質は、開始部の総奏から派生した残りの楽章全体を貫くが、それは他のどの協奏曲よりも完璧なのだ。ピアニストとしてのモーツァルト以上に、交響的作曲家としてのモーツァルトがこの創作により多くの喜びを感じているとの印象を抱くが、それほどまでにこれは交響的なのである。これは紛れもない事実であり、同じことが彼の多くの協奏曲についても言えるが、この作品の申し分のない演奏はピアニスト以上にオーケストラに依っているのである。管弦楽が優れ、ピアニストが凡庸な演奏は、その反対のことが行われる演奏よりも理想により近いものになるだろう。原則的にはオーケストラとピアノは対等の責任を負うのだが、実際にはオーケストラがその演奏の質に最も影響するのである。

 このくだりを読んだ読者でこの協奏曲を聴いたことがない人は、ピアノはこの曲の中で従属的な役割のみ演じていると思うかもしれない。実はそうではない。モーツァルト自らの言によれば、ピアノのパートはそれまでの協奏曲に比べて容易だが、それでもすばらしいものなのである(原注1)。ここでモーツァルトは、K.503〔No.25 ハ長調〕のみが匹敵する技術と、ピアノの華麗さを伴った管弦楽の輝きをひとつにしているのである。モーツァルトは両方の要求を満足させており、どちらも他方の犠牲になっているとは思わない。どうすればこのようなことが成し遂げられるのだろうか? この問いへの最良の答えは、ピアノとオーケストラの連携を簡単に調べてみることだろう。この問いは実際に協奏曲の中心的問題であり、狭い範囲内ではあるが、すでに述べたことのおさらいをお許し願いたい(原注2)

(原注1)1784年3月26日付の父親への手紙。
(原注2)パートⅠ、3〔モーツァルトのピアノ協奏曲:概論:ピアノとオーケストラの連携〕参照。

 2つのうちどちらかひとつのことが起こらなければならない。ピアノが単独で演奏するか、オーケストラとともに演奏するかのどちらかである。完全に独奏だけのパッセージは、ひとつ前の協奏曲〔No.15 K.450 変ロ長調〕では非常に長いものであったが、この曲では稀でありそれも短い。最も長いものは第1主題の提示であり、モーツァルトが通常行うように、主題を変更せずにピアノに任せたり、ピアノとオーケストラとの間で分割したりせずに、この曲では、できる限りピアノをオーケストラの対等者とするために主題を変奏させるという点で興味深いのである。第2主題に続く4小節の和音283小節が正しい。、さらにピアノが単独で演奏する部分で、モーツァルトは音響の対照を追い求めている。モーツァルトのピアノ作品では和音による進行は稀であり、彼の意図は明白である。

 それゆえピアノの独立性はほぼないものと見るのである。それはモーツァルトがオーケストラに付与した重要性を意味するのであり、独奏主題でさえも他の楽器を代表するオーボエの保持音に伴奏され、オーケストラが第2主題の口火を切り、ピアノがそれを取り上げると弦が重なるのである。華麗なパッセージはたった2つしかないが、それらは呈示部の最後で属調を、またアレグロの最後で主調を確定させるものであり、ここでは木管に支えられてはいるものの、ピアノは一時的にではあるが主人である。しかしピアノが発揮する技巧は楽章のフレームの枠内にとどまるもので、それ自体が関連なく展開することはない。

 結局、これらすべてのことはそれほど大したことではない。ほとんどの場合、ピアノは最初の総奏をもとにしているのである。すなわち、譜例122に対しピアノは最初第2呈示部で譜例128の32分音符の音階を、さらに再現部では3連符のアルペジオ付け加える。またピアノは第2主題を、2分音符を8分音符に細分化してわずかに装飾する。第2提示部では譜例125の低音を補強し、譜例126を音階で放ち、また再現部では、別の音階でロケットのように上方へ駆け上り、オーケストラのフォルテに句読点を打っていくのである29「すなわち」以降の事例がどこでのことか明示されていないので、本文に補った。また最後の譜例126については、第2提示部と再現部では、調が変更されているだけでピアノの音階は全く同型であり、「別の」という差異は認められない。。どの場合でも、ピアノのパートはオーケストラのパートに重ねられ、そのどの場合においてもそれはピアノに不可欠なものではない。

 しかし、ピアノがオーケストラのスコアの中に入り込み、他の楽器のどれかのパートを奪う場合でも同じように、開始部の総奏に基づいているのだ。第2主題を構成するパッセージと音型の複合でそれを行っている30第2提示部、フルートに続いて2回目のピアノによる第2主題の提示。前半が第2主題を構成する変奏されたパッセージ、後半が音型、その複合である。。また最初はヴァイオリンが担った上声部での保持音をピアノは自らに与え、それから断片(a)を取り出し31これは第1提示部第17小節からの断片(a)が出現するフレーズに対し、第2提示部第115小節からのフレーズでピアノがヴァイオリンに取って代わって断片(a)のフレーズを続けることを述べている。、さらに譜例6の木管との“羽ばたく2度”のパッセージの中での木管との対話では、ヴァイオリンが除外されるのである32この段落ではピアノが他の楽器のパートを奪う実例が3つ取り上げられているが、原文では3事例であることが分かりにくいため、「また」「さらに」を補って3事例であることが明確になるように訳した。

 最後に、初めの総奏から派生していない若干の部分のピアノの役割は、時にはオーケストラのフレームワークの装飾(独奏主題の後の110小節~12小節)であり、また、時には対談者(展開部の初めの186小節~200小節33第199小節が正しい。また3行後も第199小節が正しい。)である。それは折々オーケストラと密接に連合し、もはやどちらかがどちらかに従属するということはなく、その集合体がひとつの交響的な全体としてオーケストラと木管の音塊と融合するのである。それは、ピアノとヴァイオリンがフルートとオーボエの保持音のもとでロ短調で開始して新たな曲をおぼろげに感じさせる展開部(200小節とそれ以降)に見ることができる。

 それゆえ、この作品の一体性は、これまで分析してきた様々な工夫と同じ程度に、きわめて密接な独奏と管弦楽との協働の上に成り立っていることが分かる。この一体性は決して単なる形式上のものではないことを付け加える必要があるだろうか? モーツァルトは自らの作品の構築性に並々ならぬ注意を払っているが、まさにその理由は、形式に霊感を与える楽想はそれ自体構築的な力を有し、力強くも清澄な楽想は申し分なく構築された全体の中でのみ自らを表現できるからなのである。ここでは素材と様式の対立はない。モーツァルトがどちらかひとつに取り組んだとしても他のものを無視することはない。楽想はフレームと同様に重要である。インスピレーションは、K.449〔No.14 変ホ長調〕と同様に熱情的ではあるがそれほど苦悩に満ちたものではなく、またK.450〔No.15 変ロ長調〕よりも独創的であり、それを体現することのできる優れた形式に値するものなのである。

 この楽想の特徴についてはすでに述べている。芸術作品における思考には2つの側面がある。ひとつは、芸術家自身が意図しているかどうかは別として、その価値ある作品のすべてがそれを知るために何等かの寄与をする、彼の深奥の特性を顕わにするものであること、2つ目は、その作品が生み出された時に創作者を支配しているムードの表出である。他の多くの作品がそうであるように、K.451は、この両者の相互作用を明らかに示している。強さと優しさ、熱情と穏やかさ、明るさと影の融合は、魂を形式という殻の中に閉じ込めることができるという限りでの話だが、モーツァルトの魂の中核にある原理なのである。この曲は、幸せの瞬間に、己の作曲家および演奏家としての才能が認められ、成功を得たことでもたらされた喜びのうちに、それを表出しているのである。この表出を闘いと試練の時に置き換えてみると、ニ短調〔No.20 K.466〕とハ短調〔No.24 K.491〕の協奏曲として現れるのである。そこでは闘いがあるが、ここでは闘いの可能性があるだけである。戦うことのできる人と、闘いの只中にある人との差、幸福で勝ち誇った熱情と不調和との闘いで苦悩する熱情との違いである。

この作品に個人的なものが深く刻みつけられていることに議論の余地はない。しかし、この作品は、モーツァルトの他の作品のみならず多くの他の音楽家の作品を含む長い系列からなる、オペラ的アリアの流れに分類されるのである。このことはすべてのギャラントな協奏曲について間違いなく言えることであり、前の時代の協奏曲と分かつ相違の非常に多くは、そのアリアに依っているのである。しかし、この類似性は形式上のものにすぎず、K.449〔No.14 変ホ長調〕あるいはニ短調〔No.20 K.466〕のような協奏曲ではほとんど認めることができないが、一方、この曲ではより深くより全面的である。ニ長調は、モーツァルトにとって、誇りおよび力と一体になった抜群の技巧を示す調である。それは、それ自体は悲劇的ではないが、悲劇の可能性がそこにある熱情的で気高いアリアの調である。このことを理解するためには、読者はこのように深刻で熱情的ではあるが悲劇的ではないニ長調のアリアのひとつ、『イドメネオ』の王のアリア“Fuor del mar ho un mar in seno〔海の外なる胸の内の海は〕”に目を向けるべきである。しばしばモーツァルトは技巧が際立つ作品にニ長調を使っているが、この協奏曲の精神に最も近いのは、このアリアであり、そこでは2つのジャンルの近親性を最もよく理解できる。形式上の主な違いは、当然のことだが、アリアではオーケストラが人声に従属すること、協奏曲では主題とつなぎのパッセージがさらに幅広いことである。後者については、事実、K.451は注目すべきものである。この曲には広がりおよび壮麗さがあり、これに再び出会うのは、後のモーツァルトの作品では、2、3の他の協奏曲やハ長調の五重奏曲〔No.3 K.515〕のみで、四重奏曲や交響曲でさえこれを知らない。第1主題と第2主題とをつなぐ譜例124の広がりを思い出していただきたい。このような楽章を聴くと、モーツァルトは他の誰もがやることを行ったとしても、他の誰よりもはるかにすばらしくそれを行ったのだ、という評が正しいと感じるだろう。それが以前の作品では『イドメネオ』のアリアを指し示すとすれば、以降では、同じくニ長調で悲劇的ではないが、力と熱情の作品であるプラーハ交響曲〔No.38 K.504 ニ長調〕に至る道を指し示している。サン・フォアはこの交響曲を“劇と喜びの要素の融合”、そこでは“ぶっきらぼうで、ほとんど鞭打つようなリズム……そこに聴衆は真の幸福よりも闘いと力強い衝動を予感する。”と(原注1)正しく述べているが、これは今分析している楽章にも見事に当を得た評価なのである。

(原注1)『モーツァルトの交響曲』139ページ

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