協奏曲第10(No.14) 変ホ長調(K.449(原注1)                                                  

1784年、2月9

アレグロ・ヴィバーチェ:4分の3拍子
アンダンティーノ:4分の2拍子(変ロ長調)
アレグロ・マ・ノン・トロッポ:4分の4拍子(C

オーケストラ:弦;オーボエ2、ホルン2(随意)

(原注1)全集版番号で第14番

 

 モーツァルトは1782年8月の初めに結婚した。この夏に、今まで我々が見てきている協奏曲が作曲されているのだ。彼の妻、コンスタンツェ・フォン・ウェーバーは、その数年前に亡くなった写譜屋で舞台プロンプターの娘であった。彼女は母親と3人の姉妹と一緒に暮らしていた(原注1)。彼女らはかつてマンハイムに住んでおり、モーツァルトはその都市の滞在時に彼女らと知り合ったのである。そして、姉妹の中の一人であるアロイジアに深く思いを寄せ、モーツァルトの父親への手紙の中でたびたび彼女のことが語れられている。パリからの帰途、ウェーバー家が引っ越したミュンヘンを通過したが、アロイジアは彼を忘却してしまっており、モーツァルトは激しいショックを受けた。ウィーンで再びその一家と出会った時、アロイジアはすでに結婚しており、その時、彼はコンスタンツェの存在に気づいた。3年前には彼女のことは何ひとつ語られることがなかったのだが。実務的な事柄に関しては息子よりもはるかに健全な判断力を持ち、彼らの結びつきにひどく反対した父親との長い確執の末に、モーツァルトは彼女と結婚した。父親は、最終的にうわべは折れたが、ウォルフガングが“ウェーバー家の一人”と結婚することを受け入れることは決してなかった。父親は間違ってはいなかったのである。コンスタンツェは決して悪い人間ではなかったが、モーツァルトにとって助けとなるために備えているべきであった2つの資質に欠けていたのである。欠けていたのは、自分の夫の天賦の才を理解するための十分な洞察力、それに、モーツァルトにほぼ完全に欠如していた事を処するための現実的な常識を補うという資質である。深く理解することもできず、また現実的な資質にも欠けているコンスタンツェは、助けというより重荷となった。それにも関わらず、二人は8年半の間結婚生活を続けたのである。家庭内で諍いはあったが、深刻なものではなかった。

(原注1)彼女は15歳ほど年下のカール・マリア・フォン・ウェーバーの筆頭の従妹である。

 ウィーンでの最初の年は幸福であった。モーツァルトはある程度の成功を収め、それは、おそらく当世風の芸能人達に比べれば控えめではあったが、何不自由なく暮らすには十分なものであった。多くのレッスンの依頼が舞い込み、モーツァルトが独奏者として自分の作品や他の作曲家の作品を演奏するアカデミアや演奏会が一定の頻度で続いたのである。

 まったくのところ、私はやらなければならないことがあまりに多く、しばしば逆立ちしているのかちゃんと立っているのか分からなくなります。午前中は生徒に教え、2時になったらやっと昼食をとります。食事を終えると、かわいそうな私の胃袋に消化のために1時間与えなければなりません。ですから、夕刻は作曲のための唯一の時間ですが、しばしば協奏曲の演奏を依頼されるため、それだって確かだとは言えないのです(原注1)

モーツァルトは、1782年12月28日の父親宛の手紙の中で、典型的な一日をこのように描いている。彼の手紙は幸福に満ちていており、彼の従妹フラウ・ランゲによってアカデミアで催された協奏曲の演奏―それが自分のものか他人ものかは触れていないが―の成功を満足げに語っている。

 劇場はぎっしり満員で、またもやウィーンの聴衆に心から受け入れられましたので、喜びを感じないわけにはいきません。すでに舞台を下がっても、観客は拍手をやめようとしないため、ロンドをもう一度やらなければなりませんでした。それには、確かな、ほとばしるような喝采がありました。それは3月23日の日曜日に演奏する私の協奏曲のいい宣伝になりました。私はそれにコンセール・スピリチュアルのために作曲した交響曲を付け加えました。従妹はアリアNon so d’onde vien 〔どこから来るのかわからないK.294〕を歌いました。私の妻も一緒にいたランゲ一家の隣にグルックさんがボックス席を持っていました。彼は私の交響曲とアリアを大いに賞賛し、次の日曜日に私たち全員を昼食に招待してくれました(原注2)

(原注1)翻訳。E.アンダーソン、第Ⅲ巻、1242.
(原注2)同上。第Ⅲ巻、1254~5.

 1783年3月12日付の同じ手紙で、モーツァルトは、その月の29日に彼自身でアカデミアを開催することを、そしてその演奏会の夜に書かれた次の手紙では、その成功を語り、さらに興味深いことに、演奏された曲目を書き連ねている。それは150年前の聴衆の忍耐力と好みを示しており、現在のものに比べかなり広範かつ豊富なものであった。

 私の演奏会の成功についてたくさんのことをお話しする必要はないでしょう。きっとすでにそのことについてはお耳に達していることでしょうから。劇場はこれ以上入りきらないほどで、ボックス席が満員だったと言えばそれで十分でしょう。しかし一番うれしかったことは、皇帝陛下がご来臨いただいていたことで、何といったらいいでしょう、陛下はどれほどお喜びで、どれほど喝采されたことでしょう。劇場に来られる前に、切符売り場にお金をお届けになるのが陛下の慣例です。そうでなければ、陛下のお喜びは際限のないものでしたから、私が大金を期待しても間違いではありますまい。陛下は25ダカットも贈られたのです。プログラムは次のようなものでした:

(1)新作のハフナー交響曲(K.385)
(2)ランゲ夫人がミュンヘンのオペラ(イドメネオ〔K.366〕)からのアリア“Se il padre perdei〔もし父を失ったら〕”を4つの楽器の伴奏で歌い 
   ました。
(3)私が予約注文で作曲した協奏曲の3番目のもの(K.415)を演奏しました。
(4)アダムベルガ―がバウムガルテン伯爵夫人のために私が作曲したシェーナ(K.369〔レシタティーヴォ「不幸な私はどこにいるの?」
   とアリア「ああ、語っているのは私ではない」〕を歌いました。
(5)最新のフィナルムシーク(K.320〔ポストホルン・セレナーデ〕)からの短い協奏交響曲。
(6)私が、ニ長調の協奏曲(K.175)を演奏しましたが、これはここでは非常に人気があり、その変奏曲のロンド(K.382)をそちらに送
         りました。
(7)テイベル嬢が私の最後のミラノのオペラ(ルチオ・シッラ〔K.135〕)のシェーナ“Parto, m’affretto〔一瞬のうちに…急いでいきましょう(第2
    幕)〕
”を歌いました。
(8)私が独奏で短いフーガを演奏しました(というのも皇帝陛下がいらしたからです)。そしてDie philosophenというオペラからのアリ
   アによる変奏曲を弾きましたが、これはアンコールされました。そしてグルックのPilgrimme von Mekka〔メッカへの巡礼〕からのアリ
   ア“Unser cummer Pobel meint〔我ら愚かな民の思うのは〕”による変奏曲(K.398とK.455)を弾きました。
(9)ランゲ夫人が私の新しいロンド(K.416〔レチターティーヴォとロンド「わが憧れの希望よ。ああ、あなたはいかなる苦しみか知らない」〕)を歌いました。 (10)最初の交響曲(K.385〔ハフナー〕)の最終楽章。(原注1)

(原注1)同上。第Ⅲ巻、1256~7。

 『後宮からの逃走』の成功は、その手紙の中で頻繁に満足げな様子が伺えるのだが、他にもオペラを書きたいというモーツァルトの願望に火をつけ、ひとたびならず、彼の注意を引いたいくつかのドイツ語やイタリア語の台本について言及している。1783年モーツァルトはもうひとつのトルコ風オペラを引き受けたが、今回はイタリア語のもので、ザルツブルグの司祭で『イドメネオ』をまとめ上げたヴァレスコ神父の台本であった。今回の作品『カイロの鵞鳥』〔K.384〕は第1幕が出来上がったところで放棄された。お気に召さなかったのか、あるいは出来が良くなかったのか、その台本は作曲家の要求に沿わなかったのである。同じ年に、モーツァルトはもうひとつのイタリア・オペラ『だまされた花嫁』〔K.422〕に着手したが、前作以上に早々と放棄された。3年後に初めて、モーツァルトは理想的なパートナー、ロレンツォ・ダ・ポンテ神父と出会い、彼との協働から偉大なオペラ・ブッファ、『フィガロの結婚』、『ドン・ジョヴァンニ』、『コシ・ファン・トゥッテ』が生まれた。

 モーツァルトの家への手紙は月平均して3通のペースで続いた。それは今我々が至ったこの時期の間書き続けられたので、彼の生活についてかなり豊富な情報を提供してくれる。この年の初めのいくつかの手紙はモーツァルトと妻のザルツブルグ訪問を告げているが、ある時は、大司教にザルツブルグに引き留められるのではないかという恐れから、また、ある時は(モーツァルトの言では)妻が妊娠したため彼女をザルツブルグには連れて行けないこと、あるいは、単に“天候ならびに周囲の事情”によって訪問は先延ばしにされていた。この和解のための訪問はその夏に実現し、若い夫婦は6月に生まれた小さなレイモンド・レオポルドを連れて、レオポルドとナンネルの下で3か月滞在した。これはウォルフガング最後の生まれ故郷の訪問であったが、しばらく留守にした後でも、この都市はモーツァルトに懐かしい気持ちを起こさせなかった。

 ともかくも私はザルツブルグも大司教も目にしたくはありません。……もしお父さんとお姉さんがそこに住んでおられるのでなければ、自分から出かけようなどとは決して思いもつかないでしょう。(原注1)

うわべは丁重であったが、コンスタンツェと彼女の新しい家族との間に心からの気持ちの通じ合いはなく、モーツァルトは落胆してウィーンへ戻ることになった。帰途、彼はリンツに数日立ち寄り、そこで自作の演奏会を開催した。演奏会には交響曲が欠かせないことが明らかで、パート譜をウィーンから取り寄せるための時間が無かったため、モーツァルトは4日でひとつの交響曲を作曲した。それが「リンツ」として知られているハ長調K.425〔No.36〕の交響曲であり、首都に定住してから書いた最初の交響曲となる。

(原注1)同上、Ⅲ、1276

 K.413〔No.11 ヘ長調〕、K.414〔No.12 イ長調〕、K.415〔No.15 ハ長調〕の協奏曲は1782年の夏の間に作曲されたと考えられている。その時から1784年2月までの間、1曲のピアノ協奏曲もモーツアルトから生み出さることはなかった。この15から16か月間の最も重要な作品は、コラールや、歌劇的作品1主にコンサート・アリアである。や室内楽などに属するものである。ザルツブルグで自分の妻としてコンスタンツェをうまく通すことができれば、その地で新しいミサを上演すると誓いを立てたが、この誓いの結果、我々はハ短調大ミサ〔K.427〕を得たのである。神がこの誓約の一字一句に拘るなら、神はその誓約者を約束違反だと咎めたかもしれない。すなわち、このミサは未完に終わったからだ。しかしながら、書き上げられたものの度を超えた美しさは、クレドの3分の2とアニュス・デイのすべてが欠けていることを補って余りあるものと神の目にも映ったであろう。この作品は、未完成ながら、モーツァルトの完成したミサすべて合わせたものと同等の、それ以上の価値があるのだ! この年の後半、この若者は『カイロの鵞鳥』の作曲に取り組んだが、彼の手紙は、仕事の進行具合とヴァレスコとの協働から生ずる困難についての言及と不満であふれている。管弦楽作品は、リンツ交響曲〔No.36 K.425〕があるのみで、それは今日でも演奏目録に入っているが、1779年2K.338のハ長調交響曲は1780年のものとされている。のハ長調交響曲〔No.33 K.338〕、1786年と1788年の偉大な作品〔No38~No.41〕の力感も多様さもそこにはない。モーツァルトはすでに作曲を始めていた一連の四重奏曲をのんびりと書き続けており、その年の終わりまでに、新たに2曲、ニ短調〔No.15 K.421〕と変ホ長調〔No.16 K.428〕の四重奏曲、をト長調〔No.14 K.387〕に付け加えたのである。ニ短調四重奏曲は、彼の子供の出産の前の夜に仕上げられたと言われており、作曲の机から妻の寝台へ、妻の寝台から作曲の机へと行き来する、このひっきりなしの移動が曲の流れを妨げてはいない。モーツァルトがその場で作曲したのでなく、頭の中ですでに出来上がっていたものを書き上げただけということもありうる。驚異的な記憶力によって、モーツァルトは音符に書き留めずに済ませることができたのだ。二流の作曲家が紙の上で構想し消し去ったりするように、モーツァルトは頭の中で曲を組み上げ、細部を修正することができたのである。(原注1)

(原注1)現代の作曲家、フレデリック・デルランジェがこのようなやり方で作曲したと言われている。

 以上がこの年の重要な作品のリストである。その中に傑作はないが、二、三言述べておかなければならない作品グループがもうひとつある。というのもそれがピアノ協奏曲と密接に関係しているからである。それはホルンのために協奏曲のグループである。

 これらの4曲は、ザルツブルグを離れて以降にモーツァルトがピアノ以外の楽器のため以外書いた唯一の協奏曲である。ただし、変ホ長調のヴァイオリンのためのもの〔No.6 K.266 偽作〕(原注1)とクラリネット協奏曲〔K.622 イ長調〕は例外である。そのいくつかが今日存在するのは、ザルツブルグからの古い知人でウィーンに落ち着いたイグナツ・ロイトゲープがモーツァルトと友人関係にあったおかげである。ロイトゲープは、ザルツブルグのホルン奏者であったが、首都に居を構え商売のあがりを使って音楽の流行に一役買っており、郊外に小さなチーズ店、レオポルドに言わせると“かたつむりの殻くらいの大きさの店”(原注2)、を経営したが、その間もホルンの演奏は続けていた。彼は、忍耐強く純真な、すばらしく気質のいい男だったようだ。彼はモーツァルトのくだらない冗談の標的に自ら甘んじており、とてつもない量の冗談が彼に浴びせられた。彼のために、少なくとも2つの協奏曲〔No.4 K.495 変ホ長調とNo.1 K.417+514 ニ長調〕とホルンと弦のための五重奏曲〔K.407 変ホ長調〕が作曲されたが、作品自体は慰みものと見なされ、作曲にあたってモーツァルトがつくりだした状況をみると、彼がそれらを真面目なものと見ていなかったことが分かる。例えば、ある時には、モーツァルトが床に撒き散らした多くのオーケストラ・パート譜をロイトゲープに四つん這いになって拾わせたこともあった。またある時には、このチーズ屋で名演奏家が、ストーブの後ろにしゃがまされたままで、モーツァルトが協奏曲を始めてしまったこともある。この音楽家は、ロイトゲープに対する情け容赦ないからかいを総譜の上に残している。第2の協奏曲K.417〔変ホ長調〕の献呈辞はいう:

ウォルフガング・アマデウス・モーツァルトは、ロバで牡牛で愚か者のロイトゲープを憐れんで 1783年3月27日、ウィーンにて

(原注1)サン・フォアはこの作品が1786年に作曲されたと考えている。
(原注2)1777年12月1日付け、ウォルフガング宛ての手紙。

 4番目のものは、赤、黒、青、そして緑のインクで書かれており、中の1ページはホルン奏者が演奏している絵で飾られている。ひとつの楽章はオーケストラがアレグロで先行し、独奏はアダージョである。もうひとつの楽章は、全編独奏者の演奏に対するユーモラスな注釈が付けられている。

ロバ殿――勇気を出して――急いで――続けて――いい子だから――もう終わり?――お前さん……助けてくれ――ちょっと一休み――前進――前進!今度はさっきよりましだ……ああ、pecoreのトリル――神の感謝!もうおしまい!

 このような気分のうちに作られた作品は、モーツァルトが数年後に作曲した、より適った例である“音楽の冗談”〔K.522〕的なものだと思うだろう。とんでもない。ピアノ協奏曲の広がりと多様性は誇示できないが、これらは真正のモーツァルトの作品であり、彼の仕事場から出た鉋屑であり、彼の天才の釣銭のようなものであり、4曲ともすべて楽しんで耳を傾けることができるものなのである。4曲ともすべてその構造とスタイルは、それらに先立ち、また続く、さらに野心的な協奏曲と類似しているため、ここでこれらの曲を手短かに見ておいても、進むべき道から迷ってしまうことはないだろう。

 第1のアレグロ〔K.412 ニ長調〕はアンドレによって1782年の日付が記されているが、そのフィナーレ〔K.514 ニ長調〕は1787年まで完成しなかった(原注1)。第2には例のおどけた献呈辞が記されているが、日付はすでに引用した通りである(1783年3月)。第3には日付がないが、サン・フォアはその他のものよりの後だと示唆している。第4は1786年のものである。第1はニ長調で2つの楽章しかない。その他の3曲は変ホ長調で、一般的な3つの楽章を持っている。これらのアレグロはモーツァルトが決して手放さなかった協奏曲ソナタ形式であり、アンダンテまたはアレグレットはひとつあるいは2つのクプレを持つロマンスである。またフィナーレは、ロンドで同様に2つあるいは3つのクプレを持つ。オーケストラはオーボエあるいはクラリネットを伴った弦で構成され、第1と第3はそれにバスーンが、第2と第4はホルンが加わっている。

(原注1)これらが一組のものであるとは決して確定はできない。それらのオーケストレーションは異なっている。

 概して、第1楽章は最も興味深いものなのだが、ピアノ協奏曲のデザインを縮尺スケールで再現している。主な形式上の相違点は、この2種類の協奏曲において作曲家が解決しなければならない問題点の違いに由来している。まさにこの楽器の特性により、ホルンはピアノよりも独立性が低く、単独では演奏できないし、その表現力にも限りがある。ゆえに、ホルンはオーケストラとの対抗者であるというよりも協働者であり、時折、総奏の中に退いてしまうだろう。ピアノ、ハープそれにオルガン以外のすべての独奏楽器と同様に、同輩の中で一番目の存在(primus inter pares)ではあるが、それ以外の順序のものではない。それゆえ総奏の役割はピアノ協奏曲よりもはるかに重要であり、独奏が総奏の一部となり他の楽器に従属する部分がより多くなるのである。それのみならず、技巧を発揮させるための手段が限られていた(バルブ・ホルンはまだ発明されていなかった)ので、展開部のパッセージは主として弦に委ねられることになる。同じ理由から、独奏者としての初期のホルンの演奏で最もたやすい方法は歌うことであり、ピアノ協奏曲に比べてメロディーがより豊かなものになるのである。作曲家はこれらのささいな作品の中にメロディーの宝物を浪費ぎりぎりにふんだんに撒き散らすのだ。そしてモーツァルトの他の作品よりも、カンタービレの主題が展開部や華麗なパッセージに比べさらに重要なのである。

 変ホ長調の3つの協奏曲は、最初のものに比べより成熟し大胆であり、独奏楽器の特性によって発揮の場に制約はあるが、モーツァルトの巧妙さはさまざまな旋律を生み出すところに主に現れている。彼は第1楽章の3つの部分で、それを分割し、また結び付け、それらの順序をひっくりかえしたりすることを楽しんでおり、それゆえ、第2主題、偽の第2主題、独奏主題といった言葉は何の意味もない。さらに第1主題さえも総奏と独奏がいつも同じとは限らないのである。この点で、これらの協奏曲の形式の研究は魅力的であり、いわば、巨匠の無限に実り豊かな想像力と、気持ちが乗った時には些細な作品にさえも注がれる心くばりに関する非常に綿密な例を提供するのである。偉大なピアノ協奏曲ではこのようなことはなく、モーツァルトのこの側面についてはここのみでしか検討できないのである。

 第1のK.412 ニ長調は3本章では4曲のホルン協奏曲について、まず各曲の第1楽章を、次いで第2楽章(緩徐楽章)、最後にフィナーレを、4曲分、比較しながらまとめて叙述している。、試行的な作品である。その構造はピアノ協奏曲のものと違わない。3つの主題しかないが、そのひとつは、K.365〔No.10 変ホ長調 2台のピアノのための〕と同様、偽の第2主題であり、ややためらいがちな展開部は第1主題から大きく離れることはない。ホルンのパートは他の協奏曲よりも及び腰なもので、間違いなくモーツァルトは善人ロイトゲープの力量を過少評価していたに違いない。あたかも彼に自信を持たせようとするかのように、モーツァルトは第1ヴァイオリンにほとんど協奏的と言えるような重要なパートを与えたため、この作品はヴァイオリンとホルンのための協奏交響曲とさほど変わらないものになっている。

 第2のK.417〔変ホ長調〕は、4曲の中で最も大胆に企図された作品である。その幅広い音調、その音律と表現力は一聴しただけで聴く者の心を打つ。これは現代のコンサート・ホールでもより頻繁に演奏されるべき価値があるものである(原注1)。それはすべてがメロディーであり、連結句やコデッタはほぼ皆無である。主題をばらばらにし、目まぐるしく変化させるゲームはここでその最高点へと導かれていく。

(原注1)アンダンテが貧弱なので、上演にあたっては、K.495の美しいロマンスを代用することが可能である。

 第3のK.447〔変ホ長調〕は、一見してさほど魅力的でなく、独奏も十分にうまく扱われていないように見えるが、オーケストラに関しては極めて興味深いもので、そのパートは考慮に値する。総奏は、独奏の後に毎回第1主題の後半を反復し、そのたびに第2主題も提示する。しかし、それが自由に振舞うのは展開部である。この部分はいつものように短いが、モーツァルトのすべての作品の中でも最も非凡な交響楽的パッセージのひとつである。それは変ニ長調で提示される独奏の新しい旋律で始まり、10小節で突然停止する。そしてホルンが変ト音を響かせ、2小節の間保持する。最初それは独奏のみだが、再び弦が奏で始め、それはニ長調だが、その下属音、変ト長音を軸として大胆なエンハーモニックな転調4異名同音を用いて行う転調。遠隔調への転調を容易にするものであるが、ここでは変ト長調から嬰ヘ長調、すなわち♯系から♭系への同一音階への転調である。を行い、第3の新しい調である嬰ヘ長調となる。そして大いにモーツァルト的な8小節(譜例70)の異様な転調が続く。ホルンは全音符の保持音に引きさがり、その間オーケストラは、せわしないモチーフを繰り返し、ニ長調からニ短調、変ホ短調、ト長調、ハ短調と昇って行き、再びト長調へと戻って止まり、ホルンと対話を交わし、そこでト短調へと移り、最後に再現部に向けて変ホ長調へと至る。これはモーツァルトの、1784年から1786年の偉大な協奏曲(原注1)に特徴的な幻想的展開部の最も早い例のひとつである。

(原注1)この協奏曲〔K.447〕の草稿には他のものには書かれているロイトゲープを奮発させるための冗談が書き込まれていない。これはプロフェッショナルなホルン奏者のために書かれたのだろうとサン・フォアは推測している。

 第4の、そして最後の協奏曲K.495〔変ホ長調〕はこのような大胆さを示してはいない。それが書かれた頃には、モーツァルトはすでにほとんどすべての偉大なピアノ作品を作曲し終えていたので、疑いなく、協奏曲ゲームに飽きはじめていたのだ。それは他の作品同様に豊かな旋律に満ちているものの、さらにスケールが小さい。その最も印象的な特徴は、展開部の主題で、バッハとベートーヴェン(原注1)でよく知られた主題であり(譜例71)、またその結尾の主題で、その伴奏はモーツァルトが“羽ばたく2度”音型を使い得た、詩情に満ちた手法の見事な実例を示すものである(譜例72)(原注2)

(原注1)ヨハネ受難曲、アルトのためのロ短調のアリア第31番;チェロ・ソナタイ長調、作品69の第1楽章の中ほど;変イ長調のピアノ・ソナタ作品110の、フーガ割り込むアリオーソ。
(原注2)モーツァルトのこの音型の使い方についての包括的な研究ができるかも知れない。それはほぼ常に明白な情熱的な意味を伴い、しばしば彼の作品に現れるのである。

 アンダンテはいずれもやや面白みに欠けている。最上はK.495のロマンスであり、それは、全く同時期のピアノの二重奏K.497〔4手のためのピアノ・ソナタ ヘ長調〕のアンダンテの同じ主題に若干のリズムの変更を加えて使っている。K.447の変イ長調のロマンスはロンドで、頻繁なリフレインの回帰が合計5回、その楽章の半分を占めるのだ! そのエピソードの重要性のなさはフィリップ・エマヌエル・バッハとの関連を物語っている。そのすぐ後のピアノのためのニ長調のロンドK.485も、この手のものとしてはモーツァルトで唯一の作品である。その主題は、フィナーレのエピソードとして再現する。

4つのフィナーレは非常に似通っている。ピアノ協奏曲の当該部分と比べても、これらの第3楽章は、第1楽章よりも各々の違いの程度は小さい。最も活気にあふれたものは、1787年に作曲されたK.412〔No.1 ニ長調 K.514〕のフィナーレである。オーケストラは確かかつ熟練の手に成るものである。ここでは再びK.415 〔No.13 ハ長調〕のフィナーレの小さな“2度”(譜例62、Ⅱおよび譜例69)に出会う。それは同様に、楽章の終わりにかけて、オーケストラ全体を手中に収めてしまう(譜例73a および譜例73b)。このコーダによって、このロンドはこれらのホルン協奏曲の中で、前の章で考察した一連のピアノ協奏曲〔「1882年の協奏曲」K.413 ~K.415〕のグループと最も類似性のあるものとなっているのである5No.1 K.412の第2楽章はK.514のケッヘル番号が付けられており、すべてのホルン協奏曲、ロンド等の中で最後のものである。現在それは不明の他人の手が加わったものであり、モーツァルトの自筆譜が失われているため、改訂出版譜による改訂が行われている。

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