1784年2月9日、モーツァルトは10番目のピアノ協奏曲を完成させた(原注1)。この日から1786年12月4日の間、すなわち2年と10ヵ月の間に、彼の楽器のための協奏曲が12曲、モーツァルトの天賦の才の豊かな蓄えから湧き出ていくのである。この日付は大切である。それまでのモーツァルトは、その作品の中で弦や管楽器のためのものと同程度のわずかなピアノ協奏曲の作曲家であったが、これ以後、傑出したピアノ協奏曲作家となるのだ。続く3年間、このジャンルがモーツァルトの作曲で絶対的優位を占める。初期の9曲の協奏曲は前座のようなもので、モーツァルトのピアノ協奏曲の物語が事実上始まるのは1784年2月なのである。モーツァルトの作品におけるこのジャンルの重要性はこの3年間の作品の重要性に負っているのだ。これらの日々に跨る12の傑作は協奏曲の真の正典を成すのである。

(原注1)これは、その日から彼の死までモーツァルトが記録し続けた自作品の目録に最初に記されたものである。

 ピアノ協奏曲の優位性をはっきり知るためには、この32ヵ月間のモーツァルトの作品リストを一瞥すれば十分である。よりマイナーな形式のもの、アリア、変奏曲、舞曲、歌曲、カンタータ―などを顧みず、オペラおよびソナタ形式の作品に限定するならば、25から30の作品を見出す。オペラは開幕劇の『劇場支配人』〔K.486〕、それに『フィガロの結婚』〔K.492〕である。ソナタ形式のものには10曲の三重奏曲、四重奏曲と五重奏曲(原注1)、5曲のソナタと幻想曲、1曲のホルン協奏曲、交響楽的一章であるフリーメイソンのための葬送音楽〔K.477 ハ短調〕が含まれる。この期間をあと2日延ばせば、これに、この12曲最後の協奏曲〔No.25 K.503 ハ長調〕と同時期に作曲された交響曲プラーハ〔No.38 K.504 ニ長調〕が加わるのである。ピアノ協奏曲の優位性は疑問の余地がない。室内楽のみがこれに対抗できるが、そこでもピアノ・パートを持つ作品が10曲のうち6曲を数えるのである。この期間を通して毎冬、ほぼ月に1曲のペースで協奏曲が連なり、1784年の2月、3月、4月(3月には2曲も!)、そして1785年の2月と3月、1785年の12月、1786年の2月と3月、それから離れて最後の1曲が同年12月に作曲された。

(原注1)1曲の五重奏曲、3曲の三重奏曲、2曲のピアノ四重奏曲、4曲の弦楽四重奏曲である。

 これらの日付と数字の羅列については容赦いただきたい。これらの数字は、今その入り口に我々がいるこの時期の巨匠の作曲活動における協奏曲の数的重要性を一瞥することを可能にしてくれるのだ。個々の作品の音楽上の重要性は数的重要性に決して劣るものではない。それらに先立つ協奏曲でも、また初期の交響曲、またソナタにおいても、モーツァルトがその曲想と魂を深く込め、真摯な気持ちで取り組んだ作品は存在しなかったのである。この概括の例外をなすものは、『イドメネオ』〔K.366〕、ヴァイオリンとビオラのための協奏交響曲〔K.364 変ホ長調〕、それに、ハイドンに捧げられた最初の四重奏曲〔No.14 K.387 ト長調〕、さらに、今から検討を始める協奏曲から数か月後のハイドン四重奏曲のアンダンテである。

 ピアノ協奏曲が占める優位性の理由は明らかである。それはモーツァルトのピアニストとしての成功である。1784年から1786年の間、彼は流行の名手のひとりであり、おそらく一番の売れっ子ではなかっただろうが、それでも聴衆の気まぐれな人気をたっぷり受けた演奏家の一人であったことは確かである。その時代、名演奏家兼作曲家は今日のように絶滅一歩手前の存在になってはいなかった。今日の我々はドホナーニあるいはラフマニノフ的な自作自演の演奏に対して賞賛する以上に驚かされるのだが、モーツァルトはピアニストとして成功することによって、さらに多くの作品を生み出すことが必要となったのである。モーツァルトの名声の高まりによってこのような作品の数のみならず質も高まるのは当然のことであった。

 1784~86年のウィーンの協奏曲と、その前の12年間にわたる9曲のザルツブルグとウィーンでの協奏曲の作品間の違いはどこにあるのだろうか? それは次の言葉で要約できる。形式の精緻化と楽想の深まり、である。

 それは、ほとんどの場合確かにその通りなのだが、楽章が長くなることや主題の数が多くなることによるものではないのだ。それは、特に構造がより複雑で大胆なものになることに、またそれまではほとんど未発達であった独奏とオーケストラの連携がより密接かつ多様なものになることに、またオーケストレーションが豊かになり、より様々な手段を活用することによっているのである。これらの作品のほとんどは最初の9曲よりも譜面の手が込んでおり、実際の楽器の数は別にして、モーツァルトはオーケストラからさらに多くのものを引き出しているのである。

 これら12曲の感情の幅の広さは議論の余地なく以前のものを凌駕している。各々が独自の個性を有するだけでなく、その個性の幅がより広くより豊かであり、この面における成長の結果として形式の精緻化が現われたにすぎない。6曲のうち5曲のザルツブルグ協奏曲1除外されているのはNo.9 K.271 変ホ長調 ジュノームである。においては、聴衆を突然驚かせないように、モーツァルト自身のより本質的な部分を抑えてきたが、これ以降、己を一途に作品に委ね、徹頭徹尾作品に打ち込むが、それがあまりに徹底していたために、結果として聴衆の先を行ってしまい、3年も経たないうちに自分が聴衆に見捨てられたことに気づくのである。彼の主題の劇的で固有な特性が強調され、すなわち、内なる生を露わにするパッセージがより頻繁に反復されるが、いずれであっても、この12の協奏曲以上に真正で、専一で、完全に彼自身のものである作品はないのである。モーツァルトがもう少し自意識の強い創造者であったならば、ジャン・カルタンのように、こう言ったかも知れない。

 私は音楽のために自分自身の新しい分身を作り出した。これまで私は自分の作品から離れて立っていた。今や彼らは私の中に入ってきて自発的になんなくその役割を果たすのだ。

 この様式の拡大と楽想と感情の深化がもたらしたものは、モーツァルトが今までにピアノとオーケストラのために書いたものよりも、すでに言及した数少ない例外はあるが、他のどのような組み合わせのものよりも、さらに野心的かつより深い意味が込められた楽章に見ることができる。

 レンツは、よく知られた著作『ベートーヴェンとその様式』で、モーツァルトの音楽を研究すると、人としてではなく芸術家としては時とともに変化したが、人としてはその経歴の最初から最後まで変わらなかったことが分かり、一方ベートーヴェンは芸術家であると同様に人としても進歩した、と述べている。この見解はモーツァルトに対して極めて不当なものである。モーツァルトがベートーヴェンよりも20年少なく生きたことを考慮に入れるならば、この言葉が内面的、本質的な力について意味するすべてにおいて“人としての”進歩の重要性は、後の音楽家、ベートーヴェンにくらべても、モーツァルトにおいて優るとも劣らないものなのである。モーツァルトは、ベートーヴェンが第3交響曲と作品18の四重奏曲を作曲した年齢、すなわち彼が“第2の様式”2レンツの言う「成熟期」で確立された様式の意味と思われる。に入った年齢で亡くなった。ベートーヴェンの最初の作曲とエロイカが大きくかけ離れたものであるとすると、モーツァルトが1775年および1776年に書いていた(その時すでに13年の作曲歴があったが、それ以上遡るのは控えよう)ギャラントの他愛ない作品と魔笛〔K.620〕とレクイエム〔K.626〕との間にも全く同じように大きくかけ離れたものがあるのである。

 モーツァルトが父親にわざわざ書いている(原注1)ように、1784年の四旬節(原注2)のために書いた4つの協奏曲のうち最初のものは、ごく小規模な楽団しか必要としないもので、弦とオーボエとホルンだが、木管部は随意的な存在である。しかしながら、木管は確保することが最善である。それは弦のグレーな音色に色彩を与えるだけではなく、木管がスコアの随所に重要な要素を加味するからなのだ(原注3)

(原注1)1784年4月16日付の手紙。この協奏曲〔No.14 K.449 変ホ長調〕およびト長調〔No.17 K.453〕は生徒のひとりで、大司教のウィーンの代理人の娘で、アブト・マックス・シュタッドラーの従妹、バベット・プロイヤーのために書かれた。ウィーン国立図書館で保存されている作曲練習が作られたのは彼女のためである。数年前にモーツァルテウムのコレクションに加わった彼女の自筆曲集にはモーツァルトによる葬送行進曲が含まれており、“マエストロ対位法氏”と署名されている(ケッヘル‐アインシュタイン番号 第453a番)。
(原注2)次の章の最初の注を参照。
(原注3)これは最初の総奏の51~2小節でオーボエの小さなフレーズがヴァイオリンでエコーされるところ;アンダンテの41~4小節、70~3小節そして118~22小節;そしてフィナーレの213~18小節、238~42小節そして262~6小節のオーボエとホルンのテヌートが音色のみならず全体のハーモニーを付加するところなどである。3例として挙げられている5か所のうち、アンダンテの41~4小節、70~3小節についてはホルンのみである。

 

 第1楽章は、一連の23の協奏曲の中でも数少ない4分の3拍子である。その他で同じ拍子のものは、ヘ長調K.413〔No.13〕およびハ短調K.491〔No.24〕の第1楽章であり、この曲と最も近い関係にあるのは後者である4No.24 K.491ハ短調の冒頭は、本協奏曲の第1楽章の冒頭主題を転回させたものである。。この拍子記号が示唆し、短調の作品に予期する不安定さが、驚くべきことに、通常は穏やかな調である変ホ長調に存在するのである。しかし、それは紛れもない。楽章全体が不安定で落ち着きのないムードを帯び、時には不機嫌で怒りっぽくもあるという、モーツァルトとしては珍しく、これがこの協奏曲を彼の作品の中で例外的なものにしており、その形式というより、その雰囲気の何物かによってフィリップ・エマヌエル・バッハを思わせるのである5「序論」で述べられたハ短調の協奏曲のことを言っているものと思われる。

 最初の4小節がこのムードを表している(譜例74)。調性は最初の音で確定されるが、第2の音で疑問(関係短調にあるのだろうか?)を抱かされ、第3音で否定(属調にあるのだ)させられる。長調でも短調でもなく、主調でも属調でもない導入部は、モーツァルトでは他に類を見ない。古典音楽においてこれに最もよく似たものはシューベルトのト長調の四重奏曲の開始部である6シューベルトのト長調の弦楽四重奏曲はNo.9 D.173とNo.15 D.887の2曲があるが、本曲とより直接的な類似性を持つのはNo.9の方である。

 第1主題の残りの4小節が主調を連れ戻し、7小節のコデッタで調が確定される。そこで新たな驚きが到来する。突き進んだり立ち昇ったりしながら、ユニゾンで、ハ短調へと疾走する燃えるような小さな主題が駆け上り、不安定さに激しさを付け加えるのである(譜例75)。第2ヴァイオリンとビオラの絶え間ない煽動に対抗して、異なった高さの音階の上で自らを新たにし、そして変ホ長調に触れ、しばらくの間変ロ長調にとどまり、ヘ長調へ至ると16分音符の熱狂も幾分静まる。しかしヘ長調はただひとつのステージにすぎず、モチーフが出口を探りそこに長くは留まってはいないのは、それが変ロ長調の属調としてであり、自らの展開のためではない。変ロ長調に戻ると、その調で第2主題が繰り広げられる。

 この主題は6度、そして3度で協和しており、憧れに満ちてはいるが残り火にまだ輝きながら、付点8分音符の口出しによって切り離され、始まった時と同じように変ロ長調で終わる(譜例77指定されている譜例7は第2提示部のピアノ独奏が入ってからの第138~145小節の譜例である。独奏ピアノのパートを第1、第2ヴァイオリンに移して読むと総奏提示部の当該箇所と全く同型である。なお最初の3小節が6度のユニゾン、2度目の繰返しが3度のユニゾンである。)。

 開始部の総奏において第2主題が主調ではなく属調で出てくるのは異例のことである(原注1)。すでにモーツァルトのヘ長調の協奏曲K.413〔No.11〕で、この規則破りを許していたが、しかし、それはわずかの間であり、主題は主調の囲いの外で生まれながらも、すぐにその中に入ってしまう。ここ〔K.449〕では、属調への移入が、主題が生まれる前から起こっており、それ全体が完全に拡大された後ではじめて、この楽章は変ホ長調の王道を再び歩み始めるのである。それだけではなく、K.413〔No.11 ヘ長調〕ではただ形式的で重要性のない不規則性であったものが、ここでは冒頭から主導権を握る熱を帯びた動きと落ち着きのなさのもうひとつの兆しとなり、独奏が入った後しばし静まるが、それは最後まで続いていくのである。

(原注1)このことはヨハン・クリスティアン・バッハの作品XII5および6のト長調および変ホ長調の協奏曲で見られるが、両者ともにその主題は主調で終わっている。ベートーヴェンではハ短調の協奏曲〔No.3 作品37〕で、第2主題が全面的に関係長調で提示されている。 

 変ロ音の低音の上で、2度が支配するさざめくハーモニー8第55~59小節において、低弦の保持連続音の上で第1ヴァイオリンの付点2分音符とビオラの2分音符、付点2分音符が1小節おきに初拍で2度でぶつかる。を通って結尾へと導く愛らしい連結主題は、モーツァルトがしばしば協奏曲の中で気前よくまき散らす経過句のひとつである。特徴的で興味深い主題が開始部の総奏でその役目を果たしながらも、その後2度と現れてこないという3つの例(原注1)についてはすでに述べた。もうひとつの例をK.459〔No.19 ヘ長調〕に見出すことになる。作曲家が簡潔さと統合に向かって前進するにつれ、この無駄は姿を消すのである。

(原注1)K.365〔No.10 変ホ長調 2台のピアノのための〕、K.413〔No.11 ヘ長調〕、K.415〔No.13 ハ長調〕

 ついに結尾の主題が主和音を4回繰り返し、変ホ長調を断言する。ここまでこの調がひどく無視されてきたので、さまよえる転調だらけの作品にタイトルを与えるだけの影武者になってしまう危険に晒されていたのである。この主題はリズミックかつ男性的で、時に情熱的、時に柔軟と対照的だが、しかし今まで聴いてきたように不安定な旋律が常にそこにある。結尾は比較的長く、展開部で重要となるトリルの音型で終わる。

 この総奏をもう一度振り返ってみよう。当初その不安定さに打たれる。落ち着きのない主題と頻繁な転調がこのムードの最も明らかな特徴である。総奏のほぼ半分は主調以外、関係短調、属調、そして“属調の属調〔ultra-dominant〕”で費やされる。しかし、そこにはそれ以上のものがある。変ホ長調の部分においてさえ、この調本来の雰囲気を台無しにしてしまうような変音記号に満ちている。今、イ音のナチュラルが変ロ長調への突入によって聴衆を脅かす(第3小節)かと思えば、次には変ニ音が変イ長調への転調(第65~6小節)をほのめかし、さらにはロ音のナチュラルが聴衆をハ短調の薄暗い縁を通り過ぎさせる(第71小節)。このように、4小節の最後のコデッタが総奏を閉じるまで聴衆は転調の砂地獄やその脅威から免れる時がないのである。これはこの作曲家におけるひとつの最もただならぬ状態の表現なのである。

 モーツァルトの他の総奏のほとんどは、主調を守り、転調するとしてもほんの数小節、概して非常に近い調へ転調するのである。(K.453〔No.17 ト長調〕で変ホ長調が突然ト長調へ舞い降りるのが唯一のものである。概して、これらの総奏が転調することは稀であるか、または全くない。ただ3つの例外があるが、そのうち2つはこの作品とK.413〔No.11 ヘ長調〕であり、3つ目のものは1786年の偉大な協奏曲K.503〔No.25 ハ長調〕である。 

 ドナルド・トーヴィ卿は、モーツァルトの協奏曲の重要性、特にアレグロの開始部の総奏と残りの部分の関係の重要性をたびたび力説してきた。

古典協奏曲形式の最も重要な一面は……開始部のオーケストラのリトルネッロがどのように主題を進めていくかということを含め、それらやその他の主題をソナタ形式で展開する独奏の提示部との関係である。この関係のあらゆる点において、モーツァルトのリトルネッロで両者が同じ形で繰り返されるものは2つとない。そしてモーツァルトのすべての協奏曲において、些細なデテールではなくより大きな領域に影響を与えるユニークな特徴があるのだ。(原注1)

(原注1)音楽的分析に関する随想、Ⅲ、42ページ

 ここ〔K.449〕ではこの独自の特徴は、導入部のかなり大きな部分に及ぶ転調であり、とりわけ、第2主題を属調で提示していることである。この規則からの離脱を巧妙な変革とみなすことができるだろうか? トーヴィ卿が言うように、そこには却って、総奏がこのように扱われることで交響曲の提示部とあまりに似てしまうために、独奏の始まりが本来そうあるべきでない単なる驚きになってしまう危険があるのではなかろうか? ベートーヴェンのハ短調の協奏曲〔No.3 作品37〕はこの危険から免れていないが、そこでは主題間で調の転換とともにムードも変化するのである。それだけではなく、その楽章の大きさがそれにほとんど交響曲の提示部的な広がりを与えているのである。しかし、ここ〔K.449〕ではそうではない。確かに、出発点で調性はある程度多様だが、作品の短さと速さのため、聴衆はそのどれにも、変ロ長調にさえもゆっくりと留まることができず、結尾主題は主調に戻り、そこに長く留まるため、その他のすべての調が従属的であることが間違いないと感じられるのである。おおむね、これらの二次的な調は本道から大きく離れて独立した道を切り開くことがなく、それらは回り道あるいは近道と言うべきもので、主調の近くを通り、最後には同じ目的地へとだとりつくものなのである。

 ピアノの登場が鎮静効果を発揮する。これ以降は、神経の苛立ちが少なくなり、落ち着きのなさもさほどではなくなる。それはあたかもピアノの方がオーケストラより経験および年齢においても勝っているかのようだ。ともあれ、それはより逞しく、その入り方はモーツァルトのすべての作品の中で最も活力があり直截的である。導入句が全くないだけではなく、オーケストラでは痩せて筋っぽいものにすぎなかった第1主題に、ピアノが音階のすべての音を充たし、痩せた体にしなやかな輪郭を装わせることによって、力強さを加えるのである(譜例76)

このムードの転換の特徴は譜例75が出てこないことである。その位置には、短いが非常に興味深い独奏と弦の協働による第1主題の展開がある。12小節の独奏の後、弦の注意は上昇する3つの音(譜例76の7小節目、(図1)印)に引き付けられるが、それは第1主題において控えめながら重要な役割を果たしている。弦がそれを掴み取り、つぶやくように繰り返すが、一方、ピアノはこの同じ主題を閉じた音型(譜例76の11小節目、(図2)印)を低音部へと運んでいく。独奏は今提示された主題と関係づけられているが、それから派生したものではない音階のモチーフを続け、弦は下降する3つの音の主題をささやき続ける(原注1)。そして8小節の後9音階のモチーフが開始されてからの8小節である。、対抗者は武器を交換する。第1ヴァイオリンとビオラは音階を、ピアノはアルペジオの音線で修飾した3つの音のモチーフを取り上げる。オーケストラのラケットと羽根のゲームの狂騒が静まると、ほぼピアノのみが独奏主題を開始する。それはハ短調の問いかけるような旋律で、変ロ長調で問いを繰り返し、開始部の総奏で譜例75を結び第2主題を導き入れた音型にヘ長調でその答えを見出す(譜例7)。第2主題については、新しいことを何も語らないが、以前と同様に変ロ長調で、自らピアノ(和音のパート)と第1ヴァイオリン(付点4分音符での答え)に分かれて語るのである。導入部でそれに続いた保持低音の部分を、ピアノが2,3の華麗なパッセージで置き換える。それは最も技巧的ではないこの協奏曲において、最初でほぼ唯一のものである10華麗なパッセージ(bravura passage)が「ほぼ唯一」と述べているが、展開部や再現部では,ガードルストーン自身がその語を使っているように、より規模の大きな華麗なるパッセージが見られる。。そしてオーケストラ全体でリズミカルにすでに述べた雄々しい主題を変ロ長調によって結ぶ。

(原注1)このパッセージの音作りは、モーツァルトの常套手段である音階第7音のフラット化で特徴付けられている。

 この主題の後半は、高音の反復4分音符と低音のトリルの連鎖を含んでいるが(譜例77)11譜例77は「この主題の後半」のものではなく、総奏提示部の結尾のものである。なお、第2主題の後半部とこの譜例77は同音型であり類縁的なものである。、これは展開部の間ずっとピアノとオーケストラが弄ぶ小さな装身具のようなものである(原注1)。ピアノが最初、提示部の最後のところを転調しながら反復し、変ロ長調へと戻ると、弦とオーボエが再びユニゾンでそのトリルを提示する(譜例78a)12ガードルストーンの手書き譜は78aと78b、2つが掲載されている。譜例と本文との対応から、本注の箇所に(譜例78a)を、もとの(譜例78)の箇所を(譜例78b)に補完修正した。。ピアノはそれをアルペジオの音型で遮ると、オーケストラは新たに、今度はハ短調で再開し、ピアノも同じように動く。この無邪気な作戦行動は転調をしながら、3回繰り返される。ピアノと総奏の交替に代わって協働が続き、ピアノがトリルを、弦が4分音符の音型を奏しつつ、さまざまな調を経て変イ長調に至って終結する(譜例78b)。このパッセージには徹底してモーツァルトの繊細なユーモアが感じられる。

(原注1)モーツァルトは展開部の最初の部分を、提示部の結尾主題から引いた要素で組み立てることを好んだ。K.482〔No.22 変ホ長調〕とK.537〔No.26 ニ長調 戴冠式〕参照。

 続くものは異なっている。前に見た協奏曲〔No.13 K.415 ハ長調〕のように、ここでも再現部の直前で作品の表面を暗雲がよぎるのである。K.415に比べると、ムードの変化はそれほど唐突ではないが、K.415のように喜びが悲しみに屈するというよりも、ここでは遊び心が真面目さに道を譲るのである。その変化は、トリル音型が消えてしまうことと弦の8分音符が4分音符に代わって速度が遅くなることで明らかとなる。短い新たなパッセージでインタープレイが行われるが、それは、ピアノは8分音符の、弦は4分音符のアルペジオに依っており、お互いに均衡をとり、また絡み合いながら、重々しく、しかし、一種の球技を思わせたりもする(譜例79)。オーケストラが持続音に移るにつれて真摯さが色濃くなり、次いで8分音符の強拍で区切りをつけることで満足し、最後に沈黙する。モーツァルトの再現部の前でしばしば起きる情緒的な緊張は、ここでもピアノで高まるのだが、ここでは開始部の不安定さに至ることはなく、ちょうど苦悩に転じるその時点で、それは属調の結尾となり、簡潔で深く静謐な4小節の調べが、聴衆を物語の始めに連れ戻す(譜例80)。ここで我々は、1788年の偉大な変ホ長調の交響曲〔No.39 K.543〕の対応する個所で、さらに際立つ不安感に満ちた瞬間を終わりに導く、より静謐でさらに深みのある三姉妹の小節13交響曲No.39変ホ長調K.543の第1楽章、再現部直前、第181~184小節の同型3小節。を思い出さないだろうか。このように、感動的な楽想は、傑作から傑作へと、生涯にわたる記憶や予感のように、互いに先触れとなりまた回想されていくのである。

 オーケストラが第1主題とともに入り、第9小節目でピアノがそれを取り上げ、以前と同様の対話を行うが、2、3の軽い変更のみで、変ロ短調へと移っていく。独奏主題がヘ短調で開始され、変ロ長調で終わる。ここでコデッタが変ホ長調へと、また第2主題へと連れ戻す。再現部の後半は14原文では「再現部」となっているが、述べられている箇所は再現部後半の第2主題再現以降のことであるため「再現部の後半は」と補足した。提示部と同じ道をたどるが、華麗なパッセージは2倍の長さとなる。

 終わりに近づくにつれ、楽章はその嵐のような始まりを思い出し、激しく小さな譜例75を解き放つ。それはわずかな間であり、10小節後にはカデンツァのための休止により短く切り上げられる。しかし、そのメッセージはすぐにカデンツァによって再び取り上げられ、同じ付点4分音符とアルペジオの音型で開始される。これは間違いなくバベット・プロイヤー嬢のために書かれたもので(モーツァルトは自分のものは即興で演じたからである)、他に比して非常に簡略なものなのだが、この協奏曲の精神を見事に映し出している。ここで入ってくるただひとつの他の主題はまさしく(譜例75とともに15原文では譜例86となっているが、明らかな誤りであるため本文を修正した。譜例75が、カデンツァの直前の第1ヴァイオリンでカデンツァを開始する音型、「ただひとつの他の主題」は第169小節からの第2提示部結尾に導く主題である。)、すべての中で最も活力に満ちた、立派な締めくくりの主題である。そして、アレグロは、最初の総奏を閉じた19小節が変更されずに繰り返されることによって終わるのである。

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