モーツァルトがお気に入りの楽器の演奏のために書いた23曲の協奏曲1現在一般的に行われているモーツァルトのピアノ協奏曲の番号付けによる第1番K.37から第4番K.41番は、他の作曲家のクラヴィーア曲を協奏曲に編曲した習作と考えられている。ガードルストーンはこの4曲を除外し、現在の第5番K.175を第1番、現在の第27番K.595を第23番として番号付を行っている。本書では、ガードルストーンの原意を尊重し、その表記を残したが括弧で現在の番号等を併記した。はピアノ協奏曲の歴史上で、交響曲の歴史におけるベートーヴェンの9曲の傑作に比肩する役割を果たした。ちょうどベートーヴェンの作品がほぼ1世紀にわたって交響曲の形式を定着させたように、モーツァルトのピアノ協奏曲はその数の多さとほぼすべての作品の際立った美しさによってその後の時代の協奏曲の源泉となり、長年にわたるその発展の方向を定めたのである。19世紀に作られたほとんどの協奏曲の構造は基本的にモーツァルトの協奏曲と同じであり、現代の協奏曲でさえ彼の影響の証を示しているのである。

 モーツァルトは他の偉大な作曲家の誰よりも数多くの傑作を通して協奏曲の形式をより豊かなものにした。他の偉大な作曲家ではその作品における協奏曲の位置付けが小さく、交響曲や四重奏曲よりもはるかに小さな部分を占めるのみである。一方、モーツァルトにおいて、協奏曲は交響曲を除けば他のどのジャンルの作品よりも数が多く、あらゆる楽器および楽器群のために40もの作品を残している。ほとんどの巨匠たちがこの形式を半ば無視したが、そのことによって、モーツァルトの協奏曲、とくにピアノのために書いた協奏曲がことさら際立つ存在となったのである。

 それでも、形式の歴史などより個々の作品の個性や作品の楽想が与えてくれる喜びにより惹かれる音楽愛好家にとって、モーツァルトの23の協奏曲はさらに貴重なものなのだ。それらは喜びの尽きることのない源泉なのである。深さというよりも優雅な美しさを何よりも芸術に求める静かで満ち足りた状態から、動物的な活力の横溢、肉体的および精神的な健全さの自覚、悲しみ、さらには不快感でさえも、さらにはオリンポスの山の頂の空気を呼吸するような晴朗さにまできわめて様々に変化するわれわれの気分にモーツァルトのピアノ協奏曲は多様に照応するのである。一見して感じる曲間の相対的な均一性は、じっくり吟味することで姿を消してしまう。一つひとつの作品から感じられるものは決して同じではない。それぞれの作品は独自の個性で性格付けられており、それらのインスピレーションはそれぞれの曲の中により深く入り込むほどにさらに多様な姿を現すのである。

 この多様性ゆえにモーツァルトはわれわれの日々の糧となりうる稀有な作曲家の一人なのである。形式的な多様性はさほど問題ではない。われわれが求めるのはインスピレーションの多様性なのである。モーツァルトよりも多くの形式的多用性を有する作曲家は数多く存在するが、彼らの作品の中により深く入り込んでいくと、すぐに飽いてしまう。モーツァルトの偉大な作品ではこのようなことは決して起こらないし、モーツァルトが己のすべてを表現し切っていない作品で彼をじっくり吟味する時にそのような思いを抱くのみである。

 モーツァルトの協奏曲は、歴史的な重要性などといったものを超えて、心と精神に絶えず満足を与え、それゆえに音楽芸術の傑作に列するのだ。したがって、何よりもまずそれぞれの内的な特徴を、そしてそれを形作る情緒の性質を発見しなければならない。一方で形式についての研究もおろそかにできない。つまり、形式は内容と分離することができるものではなく、しばしば形式的分析によってこそ情緒的な秩序が持つ美しさが明らかになるからである。形式についての研究はすでにいくつか存在している(原注1)が、いずれもこれらの作品のインスピレーションがどれほど豊かで深いものかを明らかにしようとは試みていない。むしろ、これらの作品のインスピレーションの価値を過少評価して、“客間音楽(drawing room music)”と見なし、交響曲や室内楽よりも下に置く傾向があるのだ。協奏曲にはより高い地位が相応しく、これらの曲をその創造者の個性と同じく価値あるものとして、また十分な形で示していきたい。

(原注1)A.シェリング“Die Geischichte des Instrumentalkonzerts” ライプチッヒ 1906、Hエンゲルス“Die Entwicklung des deutschen Klavierkonzerts von Mozart bis Listzt”ライプチッヒ1927、H.Abert“Mozart”ライプチッヒ 1919-21

 モーツァルトの作品に限らず概して音楽批評家は協奏曲に高い地位を否定し、それが交響曲と同列に並ぶ価値のない劣ったジャンルのものと見做しがちであった。グローヴ音楽辞典初版にあるエベニーザー・プラウトの定義(原注1)や、ポール・デュカスの「交響曲に比べると協奏曲はより劣ったジャンルである。というのもその目的は概ね器楽奏者の才能をひけらかすことにあるからだ」といった意見(原注2)などにそのような姿勢が見て取れる。

(原注1)「演奏者の技量を示すためにデザインされた器楽作品」
(原注2)J.P.プロドンムによって引用されたもの“La question du concerto, in Zschrft, der Internat,Musikgesellschavt, 1904-6”

 同じような定義は今もまだ流布しており、芸術的な表現力よりも独奏者の肉体的機敏さと虚栄心を重んじると非難することで協奏曲の価値を貶めている。これがある演奏家兼作曲家の名人芸2原文はvirtuosity。通常「名人芸」と訳されるが、ガードルストーンは後述されるように、virtuosityを独奏楽器の独自性を保つための不可欠な要素と肯定的に捉えており、またその美的側面も高く評価している。そのような場合には「ヴァーチュオーシティ」と、ここでのように「見せびらかしの技巧」として否定的に使われている場合にのみ「名人芸」の訳をあてた。ただし文脈により「高度な技巧」等の適訳を用いた場合もある。的協奏曲について述べているのならこれは、これは確かに正しい。しかし、協奏曲の典型として最も劣った事例を取り上げているのであれば、不当である。モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、ブラームス、フランク、誰一人として、技巧の名手たちの虚栄心を満足させるために、あるいは演奏家がその技術をみせびらかすことを助けるために己の才能を捧げることはなかった。このような定義がなされてしまう理由はひとえに質の劣る協奏曲が数多いことに尽きる。大半の聴衆が協奏曲を聴く際に、その協奏曲自体の価値はどうであれ、最初に喝采し賞賛するのは独奏者の技に対してであり、その賞賛の理由は、“この音楽は何と美しいのだろう”ではなく、“この演奏者は何と多くの音符を弾けるのだろう”といことなのだ。

 協奏曲の本質は、一方でオーケストラと、もう一方では独奏楽器あるいは楽器のグループとの間の闘いにある。闘いは休戦によって中断され、その間両者は親密に協働する。そして最後に和解するが、それでもなおこれは闘いなのである。時には武器が両者同じ場合もある。それは独奏にも総奏にも回帰する主要主題である。また時には両者がそれぞれの武器を持つ。それは独奏のための主題であり、オーケストラに属する主題である。闘いには遷り変りがある。闘いの様相が定かでないままに推移し、独奏とオーケストラは、主要な主題をお互いに投げ掛け合う。総奏が一時的に勝ちをおさめ、その勝利を声高に宣言し、一方独奏も和音や音階やアルペジオによって相手の勝利が広がっていくのを眺めているが、煌めくような一連のトリルによって勝ち誇ったオーケストラを撥ねつけたりもする。しかし、一時的にはどうであろうとも、結局はどちらも勝利を収めることはなく、最後のカデンツによって平和がもたらされ、以前の敵同士は同盟を結ぶに至るのである。

 このような結果を生じさせるためには、両者の力のバランスが等しくなければならない。オーケストラはそのポリフォニーや音塊、色彩を使い、独奏者はそのヴァーチュオーシティを発揮する。楽団の重量と色彩に対抗する独奏者に許された唯一の防御手段は8分音符と16分音符である。この防御手段を取り去ってしまえば、彼の楽器は50の楽器のひとつに過ぎなくなる。オーケストラに押しつぶされ、その中に吸収されてしまう。ヴァーチュオーシティというのは、単に“技巧”を見せつけることではない。それは美の源泉であり、独奏楽器が生き残る条件そのものなのである。オーケストラにはその色彩と規模の追求を禁じられていないのに、なぜ独奏者にヴァーチュオーシティを禁じるのか。協奏曲でこの武器の使い方を誤る作曲家もいるという事実はともあれ、独奏者はヴァーチュオーシティに頼らなければならない。さもなければ屈服するしかないだろう。

 オーケストラに吸収されてしまう危険は独奏楽器にとって現実的なものである。そしてこのことに対する反動からか、しばしば多くの凡庸な協奏曲では、先行したり、妨害したり、追いかけたりする総奏の介入に対して、一連の走句だけに自らを縛ってしまうという極端な形に陥ってしまう3独奏と総奏が次々と交替し、独奏は総奏に埋もれないために華麗なパッセージに専念し、Part1第3章で述べるピアノの総奏の間の連携が成立していない部類の協奏曲を指している。特に弦楽器や木管の協奏曲ではこの危険が脅威となる。しかし、ピアノはこのことをさほど恐れることはない。というのも、この楽器の音色が背景のオーケストラから明瞭に際立つからである。この理由ゆえに協奏曲という形式にとってピアノ協奏曲はおそらく理想的なものである。一挺のヴァイオリンと、すべての弦楽器と木管、金管が一丸となった相手との戦いは常に分が悪いのである。しかし、ピアノであれば、オーケストラにとってまさに格好の相手となることは明らかだ。

 そして協奏曲を2つの力、かたや単一な、かたや複雑な力との間の闘いと見なすならば、それは“劣ったジャンル”ではなく、ソナタ、四重奏曲や交響曲同様に研究に値するものとなる。現時点で、モーツァルトの作品は現存する全ての協奏曲の中で最も多くの傑作群を成している。これが彼の協奏曲に特別な研究がふさわしいひとつの根拠である。また別の理由もある。この作曲家のすべての作品の中でこれほど完全に自己を表出したジャンル4原文ではform。ガードルストーンは、このformを①三部形式などの楽曲形式、②フレーズなどの「型」に近い概念、③ここでの「ジャンル」、の3通りに使い分けている。は他にない。18歳から36歳までの幅広い期間にわたるモーツァルトの23の協奏曲はすべての年齢における彼の姿をつまびらかにしてくれる。それらはモーツァルトの芸術生活の最も多様な、また最も広範な目撃者なのである。われわれはそれらの中に彼の喜び、悲しみ、希望そして失望を見出すことができる。われわれはモーツァルトの協奏曲を通じて、困窮し働き疲れた男が、枯渇することなく湧き上がる光り輝く生命を常に己の中に新たに見出す内なる聖域に到達するのである。モーツァルトの最もすばらしい協奏曲が彼の他の最良の作品よりも偉大であると言っているのではない。4つの偉大な交響曲〔K.504 プラーハ、K.543、K.550、K.551 ジュピター〕、いくつかの四重奏曲と五重奏曲や多くの他の作品はあらゆる面でそれらと同等である。彼がその類まれな才能を注ぎ込んだ多様なジャンルにはほぼ例外なく、1つか2つは彼の手になるものでも最良と言える作品を見出すことができる。しかし、どのジャンルであっても、彼のピアノ協奏曲のように数多くの傑作が連なっているものはない。モーツァルトは約40の交響曲を作曲したが、そのうち38曲は31歳以前に作られたものであり、残りの10作品の内最後の4曲のみが偉大と呼ぶことができる。また同じく30曲ほどの四重奏曲を作っているが、最後の13曲のみが彼の成熟期に成るものであり、他のものは23歳あるいはそれよりさらに以前のものである。8曲の五重奏曲5弦楽五重奏曲第2番ハ短調K.406は、管楽器のためのセレナーデK.388の編曲であり、ガードルストーンはこれを除外して、五重奏曲を8曲と見做したものと思わる。も同じく、等質なグループを形成していない。1曲は非常に早い時期のもの〔K.174〕であり、ホルン五重奏曲〔K.407〕とピアノと管楽器のための五重奏曲〔K.452〕は彼が28歳および29歳のときの作品である。次の2曲〔弦楽五重奏曲No.3 K.515 ハ長調、No.4 K.516 ト短調〕は31歳の時に書かれている。クラリネット五重奏曲〔K.581〕は33歳、そして残る2曲〔弦楽五重奏曲No.5 K.593 ニ長調、No.6 K.614 変ホ長調〕はまさに彼の生涯の最後の年に作曲されている。このことは成熟期にわたってほぼ均等な間をおいて作曲されているオペラを除けば他のジャンルでも同じであり、オペラは創作者の個性を完全に反映しているという点で協奏曲に匹敵する作品群なのである。モーツァルトの器楽作品のごく一部分のみがこの世に残るとすれば(原注1)、彼の最も完全な姿を見せてくれるもので、失われた作品の喪失感を癒してくれそうなもの、それはおそらくピアノ協奏曲の作品群であろう。

(原注1)この想定は荒唐無稽ではない。それはクレメンティの場合に起こっている。彼のピアノ作品のみは生き残っているが、一方で、交響曲、序曲や協奏曲はほとんどすべて失われてしまった。

 モーツァルトの生涯があまりに短かったために、レンツ以来、ベートーヴェンの生涯に認められるような三分法、ビンセント・デインディによればすべての創造的精神に認められるもの、を彼の作品に当てはめることは難しいように思える。36年のモーツァルトの生涯に、“三期間の法則”の、創始期、成熟期、そして完全な自己確立期を識別することは不可能に思われる。ほとんどの芸術家が50歳以降で初めて到達する次元にモーツァルトが40歳以前に到達できたと想定することは果たして妥当だろうか。それのみならず、一様に見える作品の中に、どのようにして3つの“時期”を見出すことができるのだろうか。モーツァルトの作品はみな似たようなもので発展の兆候が見られないという、かつて広く信じられていた意見に従えば、短い生涯の初めから終わりまで常に同じ主題を奏でていた作曲家の音楽を3つの時期に分けることはあまりに恣意的な行為に思える。

 しかし、一見そのように見えたとしても、モーツァルトの音楽を深く知れば知るほど、些末な区別に時間を無駄に費やすことなく、彼にも“三期間”の法則が適用できることがわかってくる。彼の作品における3つの期間の存在を否定することは事実に逆らうことなのである。モーツァルトが全く変わらなかったという見方は、非常に多くの人々が、しばしば子供の容赦ない指によって“解釈”されるピアノ・ソナタ、それは彼の生み出したものの中で最も貧弱かつ最も個性が希薄なものであるが、それを超えてその先にある作品をほとんど知らないという事実から生まれるのである。その先にある四重奏曲や五重奏曲、協奏曲や交響曲を知るに至れば、そのような印象は消えてしまい、その成長を示す様々なしるしをモーツァルトに認めることになるであろう。

 彼の仕事を3つの時期に分けるとすれば、最初の創始と形成の時期は、ザルツブルグ、またパリ、そして1762年から1780年の旅の期間における彼の若年期をカバーすることになるだろう。2番目の成熟期は25歳に『イドメネオ』〔K.366〕とともに始まり、3つの偉大な交響曲〔No.39 K.543、No.40 K.550、No.41 K.551 ジュピター〕および最後の四重奏曲〔プロシャ王セット No.21 K.575、No.22 K.589、No.23 K.590〕とともに終わるが、その時期の1789年から90年にかけての沈黙には落胆と悲惨さの最低の状態が記されている。第3の時期では、それまでモーツァルトを拘束していた制約を踏み越え、新たな土地に入り、新たな空の下を歩むことになる。それはこの世における彼の絶頂期である。しかし、モーツァルトに対しては絶頂を云々することを躊躇してしまう。彼の経歴は絶頂に達する前にあまりにも早い時期に突然終わりを告げられために、晩年の作品群に対応するこの第3の時期は完結したとはいえないのだ。『魔笛』〔K.620〕や『レクイエム』〔K.626〕が、その収穫がどれだけ見事なものとなったかも知れないことを示す第3の時期は始まったばかりであった。それでもなお、モーツァルトの晩年はそれ以前の時期とはっきりと異なっている。1789年と1790年の完全な沈黙の後、それは新たにそして突然に、傑作群として花開く。彼の2つの“遺言”、『魔笛』〔K.620〕と『レクイエム』〔K.626〕、ひとつは世俗的で人間的、もうひとつはキリスト教的であるが、そこにはまさに究極の形が刻印されている。それらは生涯の最後に位置するものであり、そこではかつてモーツァルト自身もここまで深く触れることがなかったような和音が響いている。これほどではないものの、この年の他の作品にもこの特徴が現れており、“第3の時期”と呼ぶことが正当化されるだろう。

 この作曲家の伝記を記すとすれば、3つの時期よりも2つに分ける方が正しいだろう。分水嶺は1781年のウィーンへの出発である。ザルツブルグの大司教の束縛と父親の監視、父親に対しては、大司教の元を去るのみならず、翌年結婚するという反逆を行い、息子あるいは使用人としての従属から解き放たれ、自らの独立を宣言したのである。そして、モーツァルトが新たに勝ち取った自由はすぐに彼の音楽のさらなる独創性として表れた。彼の生涯における解放の年、さらなる高みへの上昇の年、転回点として注目すべき1781年に、彼の実生活と音楽はひとつのストーリーとして一致を見たのである。

 この高みへの上昇は25歳のときに起きた。ほとんどの芸術家が創作を始める年齢でモーツァルトは成熟期に到達したのだ。どんなに若かろうが、彼はすでにほとんど独自と言うべき存在となっており、この時点までの彼の創作生活は、ひとつの“時期”を成す十分な長さがあり、その時期の数曲か、特にヴァイオリン協奏曲のいくつかは未だにわれわれのコンサートホールで演奏されている。この時期の作品はヴィゼワ­とサン‐フォアの2巻の大冊に十分な素材を提供可能なほどの量がある。この点でモーツァルトに匹敵する存在はシューベルトとメンデルスゾーンのみである。

 しかしながら、この大量の作品にもかかわらず、モーツァルトは決して神童ではなかった。彼の少年期の作品には、『糸を紡ぐグレートヒェン』や 『魔王』、『真夏の夜の夢』序曲6『糸を紡ぐグレートヒェン』はシューベルト17歳、 『魔王』は18歳作品である。また『真夏の夜の夢』序曲はメンデルスゾーン17歳の作品である。のようなものはない。彼が12歳以前に7つの交響曲を作曲したのは事実である。しかし、1760年の交響曲7現在第1番とされる交響曲K.16は1764~5年に作曲されたものであり、原著の「1760年の交響曲」は「1760年代の交響曲」の間違いであると思われる。また、12歳までに7曲の交響曲を作曲したという記述も、ガードルストーンの時代から偽作確定や新発見などで異なったものとなっている点注意されたい。は取るに足りない作品であり、ほとんど“客間の音楽”以上のものではない。これらの交響曲は、賢く、真似好きで、鋭い感受性を持ち、耳にして感性に響いたものをすぐに自分の書くものに取り込むことができる子供の手慰みに過ぎない。彼が18歳以前に書いたものはベートーヴェンが12歳で作曲したと言われているソナタと比べてそれ以上の価値があるとは言えない。一方で、ベートーヴェンは早熟な作曲家と見なされたことがなかったのである。それとは逆に、ベートーヴェンは晩成型の、その成長が決して滞ることがなかった作曲家として、20歳で持てるものをすべて出し切ってしまいそれ以後は何も生み出すことがない早熟の天才と常に対照されてきたのである。この対照の仕方はメンデルスゾーンにあてはめるのならば、部分的には正しい。シューベルトの場合は必ずしもそうではない。シューベルトは真の傑作を早い時期に生み出しているが、短い生涯を通して常に進化し続けたからである。モーツァルトに関していえばこれは全く当を得ていない。22歳のパリ旅行以前にモーツァルトは偉大な曲をひとつも書くことがなかったし、それ以降は最後まで、つまり『魔笛』〔K.620〕と『レクイエム』〔K.626〕に向かって発展し続けたのである。

 

 モーツァルトは最初の協奏曲を1773年、17歳の年に作曲した。この時には、旅に明け暮れた少年期がすでに終わり、ウィーン、オランダ、イギリスそしてイタリー(最後の国は3度訪れている)を訪れた青年はザルツブルグに戻っていた。1781年に立ち去るまでにモーツァルトがザルツブルグを留守にしたのはマンハイムへとパリへの旅行の間のみだが、この期間にはピアノ協奏曲を全く書いていない。それゆえ、1773年と1780年に書かれた彼の最初の6つの作品をひとつの時期に属するものと見なせるかもしれない。

 しかし、それらを等質なグループとするためには、それぞれが作曲された時期があまりにもかけ離れているのだ。最初のもの〔No.5 K.175 ニ長調〕は他の5曲とは明らかに異なり、またその後の作品全てとも異なっている。一方で、2番目〔No.6 K.238 変ロ長調〕、3番目〔No.7 K.242 3台のピアノのための〕そして4番目〔No.8 K.246〕の作品は類似しており、モーツァルトのギャラントな協奏曲の典型的な例である。5番目〔No.9 K.271『ジュノーム』〕、6番目〔No.10 K.365 変ホ長調 2台のピアノのための〕の作品はまた他の作品と明らかに別なもので、それらを一緒にまとめるのは、ただ年代が近いというだけの意味からでしかない。しかしこのような差異があるものの、これら6曲のザルツブルグ協奏曲をひとつのクラスにまとめるのは好都合であり、これにより、彼のすべてのピアノ協奏曲を4つのグループに区分することが可能となる。

最初のグループは、1773年から1780年の間にザルツブルグで作曲された作品である。

2番目のグループは、1782年の夏、ウィーンで書かれた3つの協奏曲で構成される。

3番目、これはそれまでのものよりもはるかに重要で、また興味深いものであり、1784年、1785年そして1786年に作曲された12曲の傑作が含まれる。

4番目は、恣意的ではあるが、3年の間をおいて1788年と1791年に作曲された最後の2つの協奏曲をこの区分として扱う。

このように、協奏曲は17歳以後のモーツァルトの全生涯をきわめて均等にカバーするものであり、特に28歳から30歳の期間に、それ以前に優る、最もすばらしい果実として実を結ぶのである。

 

 ハープシコード協奏曲はモーツァルトの最初の試みよりも半世紀以上前から存在ており、あらゆる協奏曲の形態の中でこれは最後に出現したものである。独奏ヴァイオリンのための協奏曲は1700年以前から知られていたが、ハープシコードが協奏的な楽器としての姿を見せ始めたのは18世紀も3分の1を過ぎたころでしかない。当初は、他の楽器のために作曲された協奏曲を編曲したものをすべてハープシコード1台で演奏しようと試みた(原注1)。その後この楽器のために書かれた協奏曲に取り組んだのだが、バッハの『イタリア協奏曲』のように、それはオーケストラなしで総奏と独奏が交互に奏されるのを模倣したものであった。最終的に、弦楽器をともなった協奏曲として演奏されるようになったのだが、ここでも再び、最も早い時期の作例をバッハの作品の中に見出すのである。

(原注1)バッハによって編曲された様々なイタリアおよびドイツの作曲家の作品

 モーツァルトの協奏曲はバッハのものとわずか50年ほどしか隔たっていない。この半世紀間に協奏曲の形態は主に3つの“楽派”で成長を遂げた。それは、北ドイツ、ウィーン、そしてロンドンの楽派であり、それぞれの代表的作曲家は、フィリップ・エマヌエル・バッハ、ワーゲンザイル、そしてヨハン・クリスティアン・バッハである。この3人のうち2人がヨハン・セバスチャンの息子であることは興味深く、さらに、同じくハープシコード協奏曲を開拓した、彼のもう一人の息子ウィルヘルム・フリードマンを加えると、モーツァルト以前のこの協奏曲の形式はバッハ・ファミリーの領地であったと言えるだろう。いずれにせよ、バッハ・ファミリーから離れなければ、協奏曲の歴史を描き出しその主要な特徴を数え上げることが可能なのだ。モーツァルト以前にはヨハン・セバスチャンと彼の3人の息子のようにすばらしい作品を生み出した作曲家は存在していなかったのである。

 北ドイツと、ウィーンおよびロンドンの楽派はそれぞれ別の視点で協奏曲を考えていた。前者ではオーケストラと独奏の役割は全く同等であり、両者は同じ楽句を使いながら協働し、競い合い、どちらかが他方に従属することがない。一方で、ウィーンの協奏曲およびヨハン・クリスティアンが英国で作曲した協奏曲は独奏を優位なものと見なし、オーケストラは独奏の伴奏としての役割、あるいはその威厳を高めるための枠組みの役割を果たし、それはあたかも廷臣たちが大勢群がって国王の威厳を高めるのに似ている。総奏の仕事は独奏が入ってくるのを告げることに、また歌劇風なアリアの中でリトルネッロを奏でることで独奏者にしばしの休息を提供し、音調のコントラストを与えることで単調さを回避することに限られるのである。

 この2つの考え方では、前者の方がより実りが多いことに議論の余地はなく、後者はすでに言及した協奏曲形式に対する芳しくない批判の原因となっている。ウィーン楽派が示唆したやり方は発展の余地が限られてしまい、単なる名人芸を披露するものに急速に退化していく。一方で、フィリップ・エマヌエル・バッハの協奏曲に見られるようなオーケストラと独奏の協働は、交響曲のように多彩で豊かな発展の余地を生み出すのである。この2つの形式のうち後者は、チェンバロがハンマークラヴィーアに主役の座を譲った世紀末に勝利をおさめるべくしておさめたのである。しかし、その勝利のうちにウィーンの協奏曲は変容していき、やがて、ヨハン・クリスティアンの軽さ、輝かしさと彼の兄弟の協奏のスタイルを統合する存在をモーツァルトの中に見出すことになるのだ。

 

 モーツァルトの時代に先立つ時期に協奏曲は非常に多様な形式を示していた。3楽章構成は未だ支配的ではなく、やロンド・フィナーレの伝統も根付いておらず、個々の楽章の構造も作曲家によってまちまちであった。3または4つの独立した楽章の形式が存在を主張し始めていたが、同時に、2つの楽章、時にはすべての楽章が連結されたものも見出すことができる。ギャラントの趣味にはあまりにも生真面目すぎるアンダンテがそこから排除された、さらに取るに足りない2楽章の協奏曲も存在したのだ。フィリップ・エマヌエルはその素晴らしいハ短調で1楽章の協奏曲を残している。4つの部分楽章はソナタ形式的にひとつに連結され、提示部にはアンダンテとメヌエットが続き、その後開始部が属調で回帰してきて再現部となる。4つの部分はすべて連結されている。原曲のカデンツァでは、ベートーヴェンが第9交響曲で行ったように3つの部分すべてから引用されている。18世紀における最も偉大な作曲家たちに次ぐ存在のフィリップ・エマヌエルの作品は、非常に多様な形式に加え、思いがけない宝を秘めている。あるニ長調の協奏曲のアンダンテはベートーヴェンの第4番協奏曲のひとつの先駆けであり、独奏とオーケストラは堂々としたフレーズでそれぞれ自分の主題と個性を保ちながら、会話を交わす。オーケストラはホ短調で悲しみと悲劇を語り、ハープシコードは長調で明るく晴れやかな音調で慰めを与えようとする。

 モーツァルト以前の協奏曲の形式の多様さは、豊かさと言うより手探りと戸惑いの表れである。作曲家はそれぞれ己の道を探しており、それぞれの違いは大きな個人的な独創性よりもお手本として機能する典型が欠如していたことに由来している。その差異は内容ではなくやり方にあり、初期、過渡期の混乱と言えるものであった。実際にフィリップ・エマヌエルの時代は2つの種類の特徴、素朴さと過渡期の性格を有している。それは器楽における対位法から和声の時代への過渡期であり、同時にそれは結果的に偉大な古典音楽の時代の準備期間なのだが、未発達な姿を見せるものでもあった。その内には、モーツァルトおよびベートーヴェンの時代がまとめあげ、ひとつのものに融合させる要素が散在しているのだ。また、手探りで様々な方向に成長のための道を探っているが、まだ正しい道を探し当てていないこともわかるだろう。

 フィリップ・エマヌエル自身にもこの戸惑いがなかったわけではない。彼の作品は長い間にわたって新奇さを追い求めた結果であり、その探求は必ずしも成功しているわけではない。彼の作品の中にある種の無理を感じ、それがわれわれをどこにも導くことがなく、心が満たされないままになってしまうことはしばしば経験することである。フィリップ・エマヌエルの楽想もまたしばしば荒削りのままで、形をなし自らを表現することに失敗している。彼の音楽の中には金の鉱脈を見出すことができるが、フィリップ・エマヌエル本人はそれをどう開発するかを知ることがなく、その存在にさえ気が付いなかったようだ。しばしば彼の曲はその良さをくすませてしまうある種の不完全さを感じさせ、それが悲しい。だからといって、彼のいくつかのすばらしい作品の価値が減じるわけではなく、フィリップ・エマヌエルは変遷期の時代的特徴から抜きんでている。

 フィリップ・エマヌエルは18世紀の半ばに活動した作曲家で唯一偉大といえる存在である。彼の父、ヘンデル、ラモーなどはその世紀の前半の作曲家であり、ハイドンやモーツァルトは後半の時期に属している。1733年(彼が最初の協奏曲を作った年)から1788年(彼の死の年)にわたって活躍したフィリップ・エマヌエルは上記の2つのグループの間隙を埋めている。彼が、新しい音楽から得た収穫をまとめあげそれらを秩序だった構造に作り上げることができたならば、一言で言えば古典的性格を与えることができたならば、モーツァルトに委ねられることになる仕事を彼が成し遂げていたかもしれない。フィリップ・エマヌエルは環境ではなく自らの才能に妨げられたのだ。時に彼の作品は知的気まぐれの産物あり、あまりに新しいもの、聞いたことのないものを見ようとしすぎたために、己が獲得したものをさらに究めていくことができなかった。他のすべての美点を差し置いて新奇さが彼を支えていたかのように、フィリップ・エマヌエルは目新しいことが美しいことだと見なしたのだ。彼が目指すものはあまりに否定的なもので、それは彼の先行者達への反抗であり、すなわち彼の父が最後の代表的存在であった対位法楽派に逆らい、彼らが行ったことをすべて避け、それらの上に自己の新たな構築物をつくりあげることをせずに、己の作品の中にそれらを取り入れることを拒んだのである。それゆえ、彼の作品の言い淀んだ感じに加え、ある種の無味乾燥さが時にわれわれを拒絶し、その中に深く入っていこうとする気持ちを萎えさせてしまうのである。しかし、フィリップ・エマヌエルの音楽、特に彼の協奏曲を深く知れば、このような非難を彼の作品全てにまで及ぼすことが極めて不当であると分かり、その作品を注意深く選ぶことによって、ふさわしい地位が彼に与えられることになるだろう。

 ヨハン・セバスチャン・バッハの一番下の息子であるヨハン・クリスティアンの才能はフィリップ・エマヌエルにかなり劣っていた。しかし、彼の協奏曲はやがてモーツアルトの協奏曲に繋がっていくのだ。「フィリップ・エマヌエルは作曲するために生きている。私は生きていくために作曲する」と常に語っていた彼は、軽薄な社交界によって押し付けられた枠の中に自身を閉じ込めた。彼の聴衆は彼らを楽しませ、退屈を紛らわす音楽を求めたのだ。彼らは真摯さと深さ、いわゆる“魂が激しく揺さぶられる”ことを恐れた。そして彼らの嗜好がそのようなものを表現する短音階をギャラント様式から追放してしまった。ヨハン・クリスティアンは、数少ないもののハ短調のピアノ・ソナタ作品5Ⅵのような骨太な作品を残しているが、それは稀なことであり、彼の協奏曲の中にそのようなものはほとんどと言うより全く見出すことができない。彼の音楽は上品で洗練されたメロディーの連続であり、彼のアレグロは親しげで遊び心に満ちている。彼のアンダンテは優しいメロディーであり、時にもの悲しく、1780年の社交界を魅了した田園へのあこがれを反映して牧歌的でもある。彼のプレストに活力がないわけではないが、すべてが微笑みを浮かべた個性のない仮面に覆われている。それは彼が注文を受けて作品を書いた社交界の薄っぺらさを表現しているが、作曲家自身の感情については何ひとつ見せることがない。ヨハン・クリスティアンは魂のないモーツァルトなのである。外面的には品の良さと慎みを示しているが、モーツァルトの生命の源である深い美しさはない。しかし、これらの軽薄さにもかかわらず、ヨハン・クリスティアンにはフィリップ・エマヌエルよりも高度に進んだ形式と構造に対する感性があった。彼には天分に代わって趣味の良さがあった。彼の楽想はたわいのないものだが、それは優雅に提示された。彼は金鉱を持ち合わせていなかったが、自分の安ピカ物を最大限に活用できた。彼は自分のアイデアを巧みに整理し、秩序付けることができた。そして彼の楽章の各部は非常に良くバランスが取れている。ヨハン・クリスティアンの音楽は彼の兄弟のものより造形的であり、その旋律は、それが描くものがさほど重要なものでないにしても、輪郭はより明瞭である。その身振りは、強い情感を顕わにすることがないにしてもより規則正しい。それは巧まざるものであり、聴く側もまた同様に容易く理解できるものである。彼の中では活力に満ちた精神がまどろんでいたのかもしれない。もし彼が老年に達することができたならば、ハイドンの晩年がそうであったように、年老いて大輪の花を咲かせることができたかもしれない。しかし、彼は1782年に46歳で、単なる社交界の作曲家以上の存在になることなく、亡くなってしまった。

 モーツァルトの最初の協奏曲はヨハン・クリスティアンの影響を示している。ピアノを“歌わせ”たのも、また独奏のみの主題を与えたもの、ヨハン・クリスティアンが初めてではないだろうが、旋律的なパッセージや独奏独自の主題が彼の協奏曲に頻繁に規則正しく出てくるので、部分的にはそれらが彼から始まったと言ってもよいだろう。芸術の形式はそれを最初に使用した者ではなく、それを常に用い、それを共有の資産として伝えた者によって生み出されるのだ。モーツァルトに受け継がれる時点にまでヨハン・クリスティアンはピアノ協奏曲の形式上の変化をもたらしたのである。彼の作品13と若きザルツブルグ人の最初の協奏曲〔No.5 K.175 ニ長調〕の違いはそのパーソナリティの違いによるものであり、そのムードあるいは形式に由来するものではないのだ。

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