その形式と内容の多様さにも関わらず、モーツァルトの協奏曲には終始変わることのないいくつかの特徴がある。例えば、すべて3つの楽章からなっており、最初の楽章は常にオーケストラの前奏で始まること、また、第2楽章はほぼ常にアンダンテ、3番目の楽章はたいていロンドであることである。ということで、個々の協奏曲に目を向ける前にこれらの特徴について手短に検討しておくとなにかと好都合だろう。

 

 最初の楽章は協奏曲の様式にしたがって変更されたソナタ形式であり、このことに例外はない。第2楽章はほぼアンダンテあるいはアンダンティーノであり、ただ一度(原注1)アレグレットに出会うのみである。その形式は2つあるいは3つの部分からなるソナタ形式であることが多く、展開部を持つ場合と持たない場合があり、変奏曲やロンドであることもある。最終楽章は2つあるいは3つのエピソード〔中間部、クプレ〕を持つロンドである。例外はソナタ形式をとっている最初の協奏曲〔第5番 ニ長調K.175〕、変奏曲で終わるト長調〔第17番K.453〕およびハ短調〔第24番K.491〕のみである。

(原注1)K.459〔No.19 ヘ長調〕

 古典期の協奏曲では、交響曲と同様に第1楽章のアレグロが最も重要な楽章であり、その作品を特徴づけるものであるため、第1楽章でその協奏曲全体を断じてしまいがちである。第1楽章はかなり長いオーケストラの総奏で始まり、それが終わったところで独奏が入ってくる。この前奏曲は第1提示部であり、この楽章の主要な主題を含み、主調で終わる。独奏が入ってくると新たな提示部の始まりである。それは通常長めであり、交響曲の場合と同じように属調あるいは近親長調で終わる。この二重の提示部を除けば、第1楽章はソナタ形式である。次に展開部、そして再現部となる。

 ベートーヴェン以降の協奏曲では概して独奏を冒頭の小節から入れてくるが、モーツァルトはK.271〔No.9 変ホ長調 ジュノーム〕でそれを行っている。他の作品では、モーツァルトは30から60小節ほど続く導入部をオーケストラのみで奏させている。

 古典期の協奏曲の開始部の総奏は、第2主題が主調で提示されるということ以外は、通常のソナタ形式と逐一対応していると思いがちである。この考えには簡単でわかりやすいという良い点があるが、実際にはそのような例は多くない。モーツァルトの場合に限っても、23のピアノ協奏曲のうち13曲のみがこのような構成と合致し、その他は全て“不規則性”を示している。第2主題が属調(原注1)のこともあるし、欠けている(原注2)こともある。最初のオーケストラの総奏で第2主題と思われたものが展開部(原注3)や再現部(原注4)まで出て来ず、その一方で真の第2主題が独奏のみにあらわれることもある。開始部の総奏は第1主題で始まり、その楽章のそれ以後の部分で再帰するいくつかのアイデアを含んでいるということ以上の一般化はできない。

(原注1)K.413〔No.11へ長調〕、K.449〔No.14変ホ長調〕 (原注2)K.415〔No.13ハ長調〕、K.459〔No.19へ長調〕、K.466〔No.20ニ短調〕 (原注3)K.365〔No.10変ホ長調 2台のピアノのための〕、K.503〔No.25ハ長調〕 (原注4)K.450〔No.15 変ロ長調〕、K.467〔No.21 ハ長調〕、K.482〔No.22 変ホ長調〕

 では、順を追って見ていこう。

 既に述べたことだが、それは第1主題で始まる。古典期の協奏曲では概ねそうなのだが、モーツァルトにはゆったりとした導入部はない(原注1)。ただ、彼の最後の協奏曲〔No.27 K.595〕はヴァイオリンが第1主題を奏で始める前に1小節の伴奏で始まる。これはト短調の交響曲〔第40番 K.550〕でも用いられたやり方である。

(原注1)フィリップ・エマヌエルには2曲の協奏曲がある。Wotquenne’番号第41番変ホ長調および第43番Vト長調

 第1主題は、一度提示された後で、部分的に(原注1)、あるいは全体が(原注2)繰り返されることもある。それぞれ長さは違うが、それは通常主調で終わり、明確な結尾を持っている。いくつかの曲では、この結尾のテーマはいくつかの動きをしながら、それに続くものの中に姿を消していき、展開されて第2主題に連結される。これは偉大な1785年から1786年の名高い時期に作られた協奏曲〔No.20 K.466 ニ短調、No.21 K.467 ハ長調、No.22 K.482 変ホ長調〕にいくつかの例を見ることができる。しかし、モーツァルトの作品によくあるように、ほとんどの曲ではインスピレーションは先に進む前にここで一息つく。このことが作品に明確なアーティキュレーションを与えるのだが、これはモーツァルト独自のものとは言えないにしても、モーツァルトほどの才を持たない作曲家の場合しばしばこれによって音楽が分断され、つぎはぎのようなものになってしまい、モーツァルトのみがフレーズの流れに内的な統一性―それは感じ取るもので、分析不能なものであるが―を持たせ、ひとつの情緒の流れのもとに形が大きく異なる複数の主題を束ねることができたのである。どれほどその形が変化しようと、また、主題同士がいかに明確に分離されていようと、情緒の流れは一貫して破錠することがない。われわれはそれを直感的に把握できるのだが、楽譜を詳しく見ても、それは単に明らかに独立した主題が連続しているに過ぎないのである。しかしながら時としてモーツァルトもベートーヴェンに見られるような音楽の外形展開の工夫を用いることがある1交響曲第5番「運命」などで見られる、いわゆる主題労作的に処理するものをexternal deviceと呼んでいるものと思われる。モーツァルトの楽想の展開が内的であり、分析すると独立した主題の連続に見えることと対比させている。

(原注1)K.449〔No.14 変ホ長調〕
(原注2)K.242〔No.7 へ長調 3台のピアノのための〕、K.271〔No.9 変ホ長調ジュノーム〕、 K.414〔No.12 イ長調〕、K.456〔No.18 変ロ長調〕、K.466〔No.20 ニ短調〕、K.491〔No.24 ハ短調〕

 ひとたび第1主題を提示し終わると、通常の第2主題に該当する次のステージに導く前に、ある楽句あるいは連続した楽句が奏される。それらは副次的な主題の連鎖を成し、ほとんどの場合、その楽章のどこかで再び現れることになるのだが、それによってすでに耳にした一節を繰り返し聴くことになり、全体の統一がより確固たるものになるのだ。それらは楽章の異なる部分の連結装置であり、建築物のモルタルであり、繋ぎ合わされる石にあたるのが主要主題なのである。しかし、単 なるモルタルであっても、それらの多くは主要主題そのものにほぼ匹敵するはっきりした個性を持つのである。はじめの総奏においてそれらは主調から遠く離れずに、たいていは属和音に導かれるだけで善しとしているのだが、そこで第2主題、またはそれに相当するものが、聴衆を再び主調に連れ戻す。いくつかの例をあげると、足早に属調の領域に移ったり(原注1)、時には自らの属調を経過して(原注2)下属調(原注3)や、それほど多くはないが近親短調(原注4)や長調(原注5)に移ってみたりするのだ。遠隔調が出てくることは珍しいが、ト長調の協奏曲〔No.17 K.453〕で第2主題の後に突然変ホ長調が出現するのは珍しい例である。

(原注1)K.415〔No.13 ハ長調〕、K.453〔No.17 ト長調〕
(原注2)K.449〔No.14 変ホ長調〕、K.503〔No.25 ハ長調〕
(原注3)K.246〔No.8 ハ長調リュツォウ〕
(原注4)K.449〔No.14 変ホ長調〕
(原注5)K.466〔No.20 ニ短調〕

 開始部の総奏における第2主題の出現の仕方がどれだけ不確かなものかについては今述べたばかりである。極めて例外的なのだが、K.449〔No.14 変ホ長調〕では、第2主題全体がすべて属調で提示される。多くの場合は、それを欠いていたり(原注1)、連鎖する副次的な主題が使われていたり、その重要な扱い方から第2主題のように見えるものの、後になって独奏の提示部にそれを見出だすことができずに驚かされるのだ(原注2)。K.503〔No.25 ハ長調〕ではこの“偽の”第2主題が展開部で再び現れ、完全に展開部を乗っ取ってしまうのだ。

(原注1)K.415〔No.13 ハ長調〕、K.459〔No.19 へ長調〕
(原注2)K.450〔No.15 変ロ長調〕、K.467〔No.21 ハ長調〕、K.482〔No.22 変ホ長調〕、K.491〔No.24 ハ短調〕、K.503〔No.25 ハ長調〕

 総奏の第2の部分は連鎖的な副次的主題、それは経過句、すなわち独自の実体に欠け主要主題のアイデアを引き伸ばすためだけのものによって結句に接続されていく。しかしながらモーツァルトは、その時代のすべての例と同じく、形式的な統一性に向かって、つまり楽章全体に浸透したある1つの主題を使用する方向に向かう傾向があり、協奏曲作曲家としての経歴の最後になってから(原注1)、彼は第2主題の後に第1主題を繰り返し、そこから新しい展開部を引出し、そして提示部を終えるというやり方を2度行っている。

(原注1)K.467〔No.21 ハ長調〕、K.491〔No.24 ハ短調〕

 後は最初の総奏を締めくくり、独奏の登場に備えるのみである。ここではまた、第2主題の場合と同じくらいの多様性がある。総奏の結句にはしばしば正式な第3主題が含まれていることがある。それは他の副次的な主題よりもはるかに重要なものであり、楽章の途中で用いられることもあり、楽章の最後にまた姿を現すのである。その曲の性格がそれを許せば、それは旋律的なものというより、遊び心に満ちたよりリズミックなものとなる。

 独奏が入ってくる瞬間がこの楽章で最も印象的なところのひとつである。誰もが古典的な協奏曲とはすべてこのようだと見なす典型的な協奏曲では、オーケストラが結尾を締めくくる総奏の後で一旦静かになって、独奏が第1主題を提示する。これは“お定まりの”形式であり、それをベートーヴェンのハ短調のピアノ協奏曲〔第3番〕に見ることができる。しかしモーツァルトの場合は、通常信じられているよりもはるかに“不規則”である。伝統的なやり方に従っているのは14曲のみであり、他の9曲は、その中には彼の偉大な作品がほぼすべて含まれるが、独自の独奏の入り方を用意しており、それが作品ごとに異なっているのだ。時にはオーケストラと独奏が重なり、オーケストラが結尾部を終える前にピアノが第1主題を奏で始める(原注1)。またオーケストラがそのフレーズを終える前に、トリルによって独奏が待ちきれなくなったことが表され、結尾が終わるやあざやかな花火となって迸り出る(原注2)。あるいはオーケストラの知らない新しいフレーズで入り、自らを主張することもある(原注3)。このフレーズはその後も独奏のみが使える資産として残っていく。またオーケストラが自ら第1主題を繰り返し独奏はそれに伴奏を付ける(原注4)こともある。また、第2の提示部の始まりにおいてオーケストラと独奏が新たなフレーズを共有し、第1主題を再帰させる(原注5)例もある。それらは何と多様で、何と多くの忘れがたい瞬間であろうか。それまでに踏みならされた道を離れた時のモーツァルトの独奏の入り方は、彼の音楽の中でも最も愛すべき瞬間のひとつなのである(原注6)

(原注1)K.413〔No.11 へ長調〕
(原注2)K.271〔No.9 へ長調ジュノーム〕、K.450〔No.15 変ロ長調〕
(原注3)K.415〔No.13 ハ長調〕、K.466〔No.20 ニ短調〕、K.482〔No.22 変ホ長調〕、K.491〔No.24 ハ短調〕
(原注4)K.467〔No.21 ハ長調〕
(原注5)K.503〔No25 ハ長調〕
(原注6)ここでは、仄かで暗示的な独奏の入り方をするイ長調のヴァイオリン協奏曲〔No.5トルコ風〕のことを考えており、確かにこれは最も美しい入り方のひとつだろう。また、協奏交響曲〔K.365 ヴァイオリンとビオラのための〕での“喧噪の上から”羽ばたきながら入ってくるヴァイオリンとビオラの最初の登場などもそうである。

 独奏の入りがどれだけ独創的なものであったとしても、結局はいつも、通常はオーケストラによって提示される第1主題に導いて行く(原注1)。第2提示部の構造は第1提示部よりもさらに交響曲の提示部に近い。しかし、それが聴衆に与える効果は正式な提示部が与えるものと全く異なっている。それは主題の提示というより、それを展開しているのだという印象を与えるのである。いくつかの主要なアイデアをわれわれはすでに知っており、それは総奏において耳にしたものであるが、第2提示部でそれが変形されずに再提示されることはめったにない。楽章の残りの部分と比べれば、本当の展開部それ自体、特にモーツァルトにおいては極めて短く、それをそれに先立つ部分から分離独立させることが考えにくいほど短いのである。その結果、形式や様式などといったものを気にかけない聴衆にとって真の展開部は独奏の開始とともに始まるのであり、協奏曲の第1楽章を教科書通りに4つの部分に分けるのではなく、ソナタや交響曲のように3つの部分に分ける方が賢明だろう。すなわち総奏の提示部、展開部(独奏の提示部と教科書的な意味の展開部を含む)、それと再現部の3つである。

(原注1)しかしK.271(No.9 変ホ長調 ジュノーム)ではオーケストラと独奏が一緒に提示する。またK.450(No.15 変ロ長調)では、独奏は、際立って長く輝かしい導入にも拘らずそれに満足せず、総奏からの介入をものともせず単独で主題を打ち出す。

 

 したがって、第2提示部は、実際には展開部の始まりなのである。われわれがまだ耳にしていないもの―例えばそれは独奏の独自主題、時には第2主題2“真の”第2主題のことである。第1提示部で“偽の”第2主題が提示された場合は、ここで初めて第2主題を耳にすることになる。も―が現れることも事実であるが、大半は既になじみがあるものなのだ。第1主題は既知のものであり、また総奏の最後に聴いた結尾の主題がほぼ半数の協奏曲で第2提示部の最後に再帰し、またいくつかの副次的なテーマは両方の提示部で共通している。ほとんどの主題的要素は総奏で提示され、それらは独奏において“詳述”されるのではなく、“展開されて”再帰するのである。

 このアレグロの第2部(原注1)は最も長く最も興味深いものであるが、協奏曲がどれほど多様であろうとも、どの曲にも必ず見出すことができる2つの道標を含む。それは、第2主題の登場と、このパートを締めくくるために総奏が回帰しいわゆる“展開部”(原注2)に導く部分である。この2つのステージは常に同じであり、作品によって変化するのはその間にあるパートなのである。

(原注1)あるいは第1独奏
(原注2)あるいは第2 独奏

 ピアノの登場はその作品の性格を決定してしまう。開始部の総奏は交響曲だと告げているように聞こえるかも知れないが、ひとたび独奏者が登場すると、オーケストラのパートがどれだけ輝かしいものであっても、聴き手の関心は独奏に移り、それ以降のオーケストラの役割は副次的なものとなる。オーケストラのほうが第1主題を開始しても、ほぼ常に独奏者がそれを奪ってしまい(原注1)、独奏は単独、あるいはほとんど単独で音階やアルペジオを駆使しながら先へ先へと進んでいってしまう。この輝かしいパッセージから、時にオーケストラによって遮られながら、そこから旋律的なアイデアや、すでに耳にしたことがある、あるいは新しい副次的な主題が徐々に姿を現す。第1提示部の結尾の主題が回想され、第1と第2提示部とを結びつけるために回帰することもある。また、独奏独自の主題が第1主題の直後に続いて出てくることもある。しかしながら概して、最初の独奏の勢いがいったん静まると、オーケストラがより堂々と、リトルネッロの断片を回想したり、独奏の最後のフレーズを繰り返したり変形したり、あるいは新たなパッセージを始めながら、介入してくるのだ。最後には、興奮が完全に静まり、混乱の中から独立した主題が立ち上がってくる。それは開始部の総奏の2番目の部分の一節であり、また、より頻繁には、独奏が単独で提示する新しいアイデアであるが、オーケストラはそれを独奏から奪おうとはしない。それは独奏の主題であり、とくにそれが属調であらわれてきたときには、あたかも第2主題であるかのように進んでいくと錯覚させられる。

(原注1)K.415〔No,13 ハ長調〕は例外である。独奏によるトリルのもと総奏によって第1主題が提示されると、続いてピアノは完全に新しい道を進み始め、第1主題は傍らに置き去ってしまう。

 独奏楽器に独自の主題を与えるという発想はヨハン・クリスティアン・バッハに負っているとされてきた。たとえその工夫の創始者でなかったとしても、最初にそれを常用したのはおそらく彼だろう。モーツァルトはヨハン・クリスティアン・バッハからそれを引き継いだのだが、彼はその主題により固有な性格を与え、そしてさらに際立ったものにした。モーツァルトの手によって、独自のテーマが独奏楽器を特徴づけ、ヨハン・クリスティアンの場合のようにはかない束の間の調べではなく、概してそれは主要な2つの主題と明確に異なる独自のアウトラインを有し、ピアノに独自の表現を担わせることで、ピアノのパートをより魅力的なものにしたのである。ここでは、ウィットに富んだシンコペーションのト長調協奏曲〔No.17 K.543〕の主題や、K.467〔No21 ハ長調〕やK.482〔No22 変ホ長調〕の短調の主題、あるいはK.503〔No25 ハ長調〕の壮大な主題などが思い浮かぶ。

 第2主題は独奏と総奏との競い合いの一時的な休止を示す。ギャラントな協奏曲では、オーケストラは単なる伴奏者としての役割におとしめられ、ピアノのみに第2主題を宣言する特権が付与されていた。そして、独奏がその楽章のパートを締めくくる属音のトリルに向かって勝利の行進を行う間、総奏がその頭をもたげることはない。モーツァルトもまたこのやり方で作曲し始めた。しかし、これは何度繰り返しても言い過ぎにはならないことだが、モーツァルトはギャラント協奏曲の狭い発想から出発しながらも、総奏にその作品の運命を担わせ、それに交響的な性格を与えることによって、そのジャンルを、世評で“真摯な”と称されようになるレベルまで徐々に高めていったのである。たとえ彼の初期の試みがまだギャラントな様式に従っていたとしても、成熟期の彼の協奏曲はそれから完全に解き放たれるのである。すぐにモーツァルトはギャラント様式の怠慢なやり方に飽き足りなくなり、2番目の協奏曲〔No.6 K.238〕において既にオーケストラに第2主題提示の出番を与えている。ウィーン時代には、ほとんどすべての協奏曲が同様な形式を見せている。総奏にこのような役割が与えられない9つの協奏曲のうち6曲までが1783年以前のものである3ピアノのみが第2主題を提示する作品は、No.5 K.175、No.7 K.242、No.8 K.246、No.9 K.271、No.10 K.365、No.13 K.415(以上6曲が1783年以前のもの)、No.514K.499、No.15 K.451、No.22 K.482(以上3曲が1784年以降のもの)である。。一方、後になって彼が依然としてピアノに第2主題を告げる役割を与えている場合でも、ひとつの例外41784年以降のものでは、上述のNo.22 K.482のみである。ピアノが第2主題を提示した後にオーケストラがそれを反復するのは、No.17 K.453、No.21 K.467、No.23 K.488、No.25 K.503、No.26 K.537である。を除いて、オーケストラはもう一度それを取り上げ、独奏楽器に応え、あるいは伴奏しているのである。1784年から1786年の協奏曲のいくつかでは、実際に第2主題がオーケストラによって提示され、それが終わったあと直ちに、独奏によって取り上げられるのを聴くこともある51784~85年のものでオーケストラが第2主題を提示した後でピアノが反復するのは、本文では3曲があげられているが、No.16 K.451、No.18 K.459、No.24 K.491、No.27 K.595の4曲である。しかし1783年以前にもNo.11 K.413、No.12 K.414の2曲ではオーケストラがまず提示し、その後でピアノが反復する形をとっている。。これは煌めくニ長調協奏曲、K.451〔No.16〕(原注1)において、また中でもハ短調の協奏曲〔No.24 K.491〕および最後の変ホ長調の協奏曲〔No.27 K.595〕に現れる。交響的な協奏曲の考えの根底にあるオーケストラと独奏の対等性および“オーケストラの解放”は、かつてベートーヴェンの手になるものとされていたが、それはモーツァルトにとってはすでにして既成事実だったのである。

(原注1)勇壮な(soldierly)がトーヴェイの形容辞である。

 第2主題が終わるとともに独奏の提示部も終わるが、その終わり方は協奏曲によってそれぞれ異なっている(原注1)。第2主題の後、次第に力強く緊張を高めていく独奏のパッセージあるいはその連続が勝利を確信したしゅちょう属調あるいは近親長調へ、そしていつものトリルへと昇りつめていく。その後ピアノは月桂樹の上でしばしの間勝利に身を委ねるのである。

(原注1)ハ短調の協奏曲〔No.24 K.491〕は3つの明確な主題を示す。2番目および3番目の主題は通常の第2主題に相当し、両者は近親長調のものである。再現部において両者は主調で逆の順序で再現する。

 そこで総奏が堰を切ったような勢いで入ってくる。ほぼ半数の協奏曲では、第1提示部結尾の主題を再び提示する。その他に、その楽章のつながりをより確固なものとするとともに、結尾句のみならず、第1主題(原注1)も再提示して、その結合をさらに強固なものにするものもある。これは楽章のすべての部分が第1主題で始まる早い時期のやり方が生き残っているのである。結尾句の主題も第1主題も出てこない場合には、オーケストラは2つか3つの副次的な主題を回想する。しかし、オーケストラがいつもその場所を邪魔されずに享受できるわけではない。というのもすぐにピアノが割り込み、第2の独奏へと急ぐことがあるからである。

(原注1)K.467〔No.21 ハ長調〕、K.491〔No.24 ハ短調〕

 ここから再現部までの部分は、交響曲やソナタのそれとのアナロジーで展開部と称される。実際にはわずか5曲(原注1)が、提示部から取られた素材を含む展開部を有しており、さらにその中でも、K.503〔No.25ハ長調〕とK.595〔No.27 変ロ長調〕のみが実際にその素材を展開させている。2台のピアノのための作品K.365〔No.10 変ホ長調〕では、新しいパッセージの後で最初の総奏の主題(偽の第2主題)を再現する。ニ短調の協奏曲〔No.20 K.466〕のこの部分はピアノが初めて出てきた時に発した悲劇的な嘆きの一節で始まる。そしてそれに続く堂々とした嵐のような独奏の間、オーケストラは第1主題から取られた3連符のモチーフで力強いリズムを奏でるが、この曲の他の部分から借りてくるのはこれがすべてなのである。K.503〔No.25ハ長調〕では、その展開部全体は偽の第2主題、すなわち開始部の総奏によって提示されたマーチの主題を基に巧みに展開される。しかしながら使われるのはこの主題のみであり、すでに出現した他の多くのアイデアは傍らに置かれたままとなる。K.595〔No.27 変ロ長調〕では、オーケストラは自らを第1主題のみに限定し、語り続けるピアノのもとで、それを変奏し、分解しつつ、対位法的に処理していく。その他の協奏曲においては、展開部は論理的に構築されたものというより、ファンタジアであり、即興である。ただ提示部の最後のフレーズを奏でることで始まることがあるという事実だけが、その協奏曲の他の部分との繋がりをもたせているのである。

(原注1)K.271〔No.9 へ長調ジュノーム〕、K.365〔No.10 変ホ長調〕、K.466〔No.20 ニ短調〕、K.503〔No.25 ハ長調〕、K.595〔No.27 変ロ長調〕

 独奏と総奏との関係が、提示部での素材の繰返しを特に印象的で特徴的なものにしている。そして再現部とコーダはさらにそうした役割を果たす。ゆえに、通常、展開部においては総奏に対して独奏のバランスをとることが非常にむずかしいということは別として、展開部はより簡潔で、交響曲やソナタよりもさらに対照的なものである必要がある。したがって、すぐれた古典協奏曲においては、その展開部が提示部の最も重要性の低い主題を基とするか、あるいは独奏の提示部で省略してしまったものを基とする(これはモーツァルトの最もすばらしい工夫のひとつ)か、あるいは元の主題がほとんど聞き分けられないくらいに変形したものであったり、あるいはより挿入句的なものであったりすることにほぼ例外はないとして良いだろう。(原注1)

(原注1)D.Toveyの未刊行の演奏会のノートより引用

 それ以上に、モーツァルトの作品全体に言えることだが、展開部の呼称は決してふさわしくないと認めねばならない。確かに、モーツァルトには、展開部をフィリップ・エマヌエル・バッハ、ハイドン、ベートーヴェンのようにみなした作品がある。上述した協奏曲、10曲の偉大な四重奏曲のうち9曲、4つの偉大な五重奏曲、へ長調のピアノのためのアレグロ(K.533)、弦楽三重奏曲変ホ長調(K.563)〔ディベルティメント〕、そして4つの最後の交響曲は展開部の名称にふさわしい例を与えている。しかし、ウィーン時代には、展開部といえるものを全く示すことがないソナタ形式の楽章が60以上あるのに対して、展開部の名にふさわしいものを持つのは20ほどの例にすぎないのである。

 最も多くの場合、モーツァルトは展開部をひとつの推移部と見なしていた。それは楽章の中の自律的な部分というよりも、主調や第1主題、また再現部に戻っていくためのものであった。モーツァルトのソナタ形式の多くは、互いに繰り返す2つの対称的なパートが、推移するためのパッセージあるいはブリッジに連結されて成り立っていると言って良いだろう。木管楽器のための変ホ長調のセレナーデ(K.375)の第1楽章はこの極端な例である。その展開部は提示部の第1主題とその繰り返しにあった主題から借りてきた2,3の和音と断片だけに限定される。あるアンダンテでは、このやり方はさらに進み、中間部は完全に抜け落ちてしまう。そしてその楽章は等分された似通った2つの部分によって構成され、第2の部分は第1の部分の細部に若干の変更を加えるのみで繰り返される。実際のところ、モーツァルトの第1楽章は、フィリップ・エマヌエルやハイドンのまさしく3部よりなる楽章というより、ダカーポ・アリアの伝統に属するのである。

 しかし彼の展開部が短いものであっても、しばしばそれがその作品の中で最もすばらしい部分を含んでいる。夜明け前に最も暗い時が訪れる如く、モーツァルトのインスピレーションは元に戻る直前でその暗い力の絶頂に達する。それは核心的瞬間であり、楽章のクライマックスである。それはそこまで進んできた流れが究極の激しさに到達したこと示す。極めて楽しく晴れやかなアレグロでさえも、この瞬間は憂愁の、さらに悲劇的な様相を帯びる。半音階とスフォルツァンドが重なり、嵐がその絶頂に達し、絶望が完全なものになったと思われた時、突如としてベールがはがされ、第1主題の輝かしい夜明けが再現部の到来を告げるのだ。この例として挙げることができるものは数えきれない。変ホ長調のヴァイオリン・ソナタ(K.380)の第1楽章では、ピアノとヴァイオリンの和音があたかも雷と稲妻のように連続し、ベートーヴェンの作品111を思い浮かべさせる。パセティイクな短音階をもつ弦楽三重奏曲〔K.563 変ホ長調 ディベルティメント〕、ハ長調の弦楽五重奏曲〔No.3 K.515 ハ長調〕のものはモーツァルトの作品の中でも最も荘厳な展開部のひとつであるが、そこで短調に移されて不吉な感じを与える第1主題の上行音階と悲痛な叫びをあげる第2主題の後で6ガードルストーンは「上行音階の第3主題」と記しているが、これは明らかに誤りである。この楽章の主題の流れを見ると、提示部は上向音階の第1主題→第2主題→結尾主題、展開部は短調で、第1主題→結尾主題→第2主題の順に、再現部は第1主題→第2主題、コーダは結尾主題である。第3主題と言うならほとんどパートに出現する結尾主題であろうが、これはガードルストーンの言う「羽ばたく2度」の音型によるもので上行音階ではない。したがって本文の第3主題は第1主題の誤りである。本文を修正した。、暗雲は引き裂かれ、そして開始部の主題の非常に平和に満ちた旋律が眺望の中に現れてくるのである。またクラリネット五重奏曲〔K.588 イ長調〕での再現の仕方も思い浮ぶ。上昇し下降する弦と交差しながら、クラリネットのアルペジオがそれまでになくせわしない急ぎ足で、熱にうなされるごとく、短調に深く沈み込んでいくが、その興奮が絶頂に到達したとき、突然、心地良い第1主題が再帰し、平穏に立ち戻るのである。協奏曲自体では、ニ短調〔No.20 K.466〕、ハ短調〔No.24 K.491〕、イ長調(K.488)〔No.23〕、そしてハ長調(K.503;ロンド)〔No.25〕はその展開部において、われわれの魂をぐっと掴んでしまうまがまがしい出来事を予告するかのような切迫した響きで語られるのである。

 したがって、モーツァルトにあって再現部はしばしば解放であり、決してベートーヴェンに見られるような変形ではない。展開部の終わりで悲しみと苦悩をともなって情熱が高まった後、それは、主調と第1主題が回帰してきて解放されるのだが、それはあたかも嵐の中の航海を終えて港に到着するかのようである。最初の主題の再現により、苦痛に満ちた見知らぬ土地での探索は終わりをつげ、それ(第1主題)を目にしたことで故郷へ戻ってきたことを知るのである。それは、ベートーヴェンでは全く異なっている。主題が変更されることはないが、しばしばその提示の仕方が異なる。ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲の第1主題が勝利を得る様はどうだろう! それは、始めは聴き取れないほどの打楽器の拍子とともに、おずおずと恥ずかしげに振舞うのだが、再現部でそれがフォルテッシモで戻り、最初の打楽器は金管に代わり、勝利するのである!

 モーツァルトではこのような高揚は例がない。彼の短調の作品においては、再現は決して高揚や解放でさえなく、単に逆戻りなのである。ト短調の五重奏曲〔K.516〕および交響曲〔No.40 K.550〕では、楽章全体を圧迫し続けている苦しみの重荷を捨て去ろうとする。疲れ果て、戦いに打ち負かされて、後退するのだが、第1主題が容赦なく再帰することで、楽章はその運命に身を任せ、絶望のうちに己が駆り立てられてきた元の道を再び歩み出すのである。 再現部があまり多様ではないとの非難は、モーツァルトの他の作品に対してはともかく協奏曲に対しては当てはまらない。より詳しく見れば、彼のさほど重要でない作品では特に顕著だが、後半は最初の部分を一音も違えずに繰り返すこともあり、属調に入り込むことさえ避けて最初と同様主調で終わるのだ(原注1)。これはソナタがまだ耳新しくまだ馴染みがない様式であった時には疑いなく好都合なことであった。今日では、すぐにこのような再現の仕方の単調さに目が行ってしまう。モーツァルトの協奏曲の作品群は彼のどのような作品よりもこのことから自由である。最も血が通っていない最もギャラントな作品においてさえも、再提示部は、すでに耳にした主題を省略したり、開始部の総奏で出てきてそれ以後に出現しなかった主題を出して来たり、またこれらの主題が出てきた順序を変えて独奏と総奏を入れ替えたりと、様々に異なっている。協奏曲というジャンル自体、ソナタや交響曲ほどには再現部が単調さに陥りやすくないために、多様さを持たせるこがより容易である。一字一句の反復の目的が新しい形式の聴衆の理解の容易さにあることは分かるが、実のところ協奏曲は他のジャンルよりも多様性で聴衆を惑わせるリスクはより少ないのだ。

(原注1)この点でもモーツァルトのソナタ形式はダカーポ・アリアに類似している。

 モーツァルトは楽章のこの部分で華麗なパッセージをざっと切り捨ててしまい、この点で19世紀の他の協奏曲作家たちも彼に従ったのである。曲はクライマックスに向かって急ぐので、本質的でないことを安易に許容できないのだ。独奏と総奏の協働もまたより密接なものとなる。独奏は展開部の緊張の後で己を出し尽くした感があり、対抗者に対してより融通性を示す。そして、ほぼ常に対抗者に第1主題をゆだね、それが終わった時に初めて再び語り始める。ピアノとオーケストラの最もすばらしい協働にここで出会うのである。変ホ長調(K.482)〔No.22〕でピアノと第1ヴァイオリンがあたかもカノンであるかのように掛け合うフレーズで会話を交わすことがその例である。そしてついに、この楽章で際立った役目を果たしてきた様々な主題に再び出会う。本物の第2主題と偽のそれは互いを押しのけたり、繋がったりして、その親近性を確かめ合うのである(原注1)。同様に、より特徴のあるいろいろな副次的な主題もお互いに解釈し合いながら、その意味を増していくのだ。モーツァルトは、開始部の総奏で提示されるがそれ以降聴かれることのなかった副次的な主題を、この瞬間のためにとっておくというやり方を特に好んだ(原注2)。事実この第3の独奏は、2つの提示部を作っていた、時に非常に多様な要素が出会う場でもある。そしてこの出会いがどのようなやり方で処理されていくのだろうかとあれこれ考えるのもまた楽しいものである。そして、とうとう楽章は予期された一旦停止に至り、モーツァルトが協奏曲では一度も省略しなかったカデンツァが始まる。その結末は、ニ長調(K.537)〔No.26 ニ長調 戴冠式〕のようにおざなりなこともあり、また時にはニ短調〔No.20 K.466〕のように開始部の総奏の結尾が繰り返され、そこではオーケストラは物悲しく憂鬱な調子でピアノの独奏が沈黙した後も長く響き続ける。またある時はK.467〔No.21 ハ長調〕のように、カデンツァの長いトリルの後に新しい主題の結尾が続くこともある。これは、非常に興味深いものであると同時に非常に稀な種類の終わり方である。

(原注1)K.450〔No.15 変ロ長調〕、K.482〔No.22 変ホ長調〕、K.503〔No.25 ハ長調〕
(原注2)K.246〔No.8 ハ長調リュツォウ〕、K.413〔No.11 へ長調〕、K.415〔No.13 ハ長調〕、K.449〔No14 変ホ長調〕、K.450〔No.15 変ロ長調〕、K.453〔No.17 ト長調〕、K.595〔No.27 変ロ長調〕

 ここでコーダが登場しなければならない。ベートーヴェンほど種類が多くなく広範でもないが、モーツァルトの場合、特に短調の作品では素晴らしいコーダが少なくない。偉大な3つのト短調、四重奏曲〔K.478、ピアノ四重奏曲No.1〕、五重奏曲〔K.516〕そして交響曲〔No.40 K.550〕では、冒頭のアレグロは、そのコーダにおいて情熱的かつ簡潔に楽章の主たる楽想を要約するのである。ハ短調のソナタ〔No.14 K.457〕でも同じである。ニ短調〔No.15 K.421〕、変ロ長調〔No.17 K.458〕、へ長調〔No.23 K.590 プロシャ王第3番〕の四重奏曲、そして変ホ長調の五重奏曲〔K.614〕も同じように、それまでに過ぎ去ったすべてのものの縮図であるコーダでその第1楽章の末尾を飾るのだ。ハ長調の五重奏曲〔No.3 K.515〕では、すでに提示部を閉じた結尾部を繰り返す前に謎に満ちた展開の一節が挿入されている。ニ長調の五重奏曲〔No.5 K.593〕では、この曲の開始部のゆっくりした導入をもう一度始め、中断し、アレグロの数小節に戻り、そして喜びに満ちた音で不意にこの楽章を終える。いくつかの四重奏曲のソナタ形式のフィナーレもそのコーダにおいて偉大なる高みに到達している。すべてのこのような終結部の中で女王の座を占めるのは言うまでもなくジュピター交響曲〔No.41ハ長調 K.551〕のフィナーレある。そこでは第1主題は転回されて再帰し、それは誤ってフーガと呼ばれているが、主要な3つの主題が同時に並行して再現される。その技術と活力は、『マイスタージンガー』序曲のあの有名なパッセージに匹敵するが、ただモーツァルトのみがあのような軽妙さと気品を強さと緊張を伴って表現することが可能なのである。

 しかし、モーツァルトは己の協奏曲をこのような偉大な結尾で飾ることが全くなかった。ハ短調の協奏曲〔No.24K.491〕のコーダが、ト短調の五重奏曲〔No.3 K.516〕および交響曲〔No.40 K.550〕に匹敵する唯一の例である。彼の作品にあっては珍しいことであるが、まさに最後の瞬間にピアノが再帰し、この嵐と闇の楽章を閉じ、それを包む神秘的な黄昏が一層深くなるのである。概して彼の協奏曲のアレグロの終結部がすでに聴衆が耳にしなかったものを含むことはなく、またすでに馴染みのある要素を変形させるということもない。それはロンドの独創的な終わり方に匹敵するものではないのである。

 

 今日、モーツァルトおよびハイドン以外のギャラント時代の作品を聴く機会がほとんどないため、モーツァルトがその時代の美的な面での約束事に強いられた形式によってどれほど完璧な形で彼の楽想を表現することができたかを賞賛することは難しい。偉大な創造的才能を理解するためには、彼と同時代の平均的な作品をよく知らなければならない。そうすることで、モーツァルトほどの才がない作曲家たちとの比較が可能となり、彼らとの接点がわかり、また彼らとモーツァルトの隔たりも推し量ることができるのだ。このことによってのみ作品からその時代的なものを消去し、モーツァルト独自なものに達することができるのである。

 見識ある人々でさえもモーツァルト本人のものでは全くない特徴をモーツァルトに帰するのも、モーツァルトに及ばない同時代人の作品を知らないためなのだ。明確な分節、騒がしいカデンツァで区切られた楽節、未発達と感じられるくらいに簡単で束の間の推移部、これらはすべてギャラント時代のスタイルに属するのであり、これによってモーツァルトは称賛されるべきでも、非難されるべきでもない。誰もが使っている型を相互に関連させてどの型も損なわれることなく、楽想を表現するという技術こそがモーツァルトのものであった。

 モーツァルトはその時代の形式を受け継ぎそれを利用し、みずから己の形式を創案しなければならなかったとしても、おそらくすでにあるソナタ、変奏曲、ロンドなどよりもうまく自分の楽想を表現する形式を見出すことはできなかったであろうと思わせるほど、それらを楽々と使いこなしたのである。

 古典的ソナタ形式のものはモーツァルトの様式の中でも卓越しており、彼が第1楽章で他の形式を使うことはほとんどない。彼によってソナタ形式の意味が全うされ、また、構造上の必要性だけではなく、作品を高揚させる感情が要求するものに答えるものとなり得たのだ。その時代の劣った作曲家に対しては、ある主題はある時点で再帰してこなければならない、展開部がこの時点になければならないといったようなことは、作曲家自身がその表現の必要性を感じたというより、あらかじめ定められた曲の構想がそれを要求しているのだと思うことがあるが、モーツァルトの最善の作品にはそれを一切感じないほどにその個性の古典的形式への適応が完璧なのである。

 モーツァルトのあまり重要でない作品においてさえも、その緩徐楽章はあまねく純粋な形式上の卓越というレベルを超えており、時代の慣習に与えられた形式に従ってモーツァルトがどこまで自己表現できたかを緩徐楽章以上に如実に示すものはない。楽章がまとった衣裳の下にそれを支える骨格を感じることはほとんどなく、われわれの注意力が情緒以上に形式に向けられることもめったにない。(言うまでもなく、これはふつうの音楽愛好者について語っているのであって、作品が持つ様々なものをさしおいて構造に目が行ってしまう評論家のことではない。)モーツァルトのやや物足りないアレグロやロンドを聴いた時は、その対称構造やパッセージが型通りであることを感じ、その曲の楽想よりもこれらの特徴がより印象に残ることがあるかも知れない。しかし、このようなことはアンダンテではめったにおこらない。インスピレーションと技術、感情表現と構造とがかくも一体化し、音楽そのものの美しさ以外にわれわれの注意を奪うものは何ひとつないのだ。

 四重奏曲や交響曲の最善のものに匹敵するアンダンテが存在しなかったとしたら、協奏曲は彼の作品を代表するに相応しい位置を占めることがなかったであろう。彼の作品のどのような楽章であっても、その多様さにおいて協奏曲のアンダンテを凌駕するものはない。音楽の楽章をその内容によって分類するというのは非常に困難な仕事であり、このような分類はいくぶん恣意的なものになりかねない。内容は言葉によって定義しがたいもので、その楽章全般の性格を述べてもそれは大よそなものでしかない。ある人はある楽章を陽気と感じ、また他の人は悲しいと実感するかも知れない。しかし、このような形容辞はすぐに使い果たされ、“楽しい、憂愁に満ちた、輝かしい、愛らしい、活発な、堂々とした、繊細な”などと作品を形容するうちに言葉がなくなってしまう。それ以上進んでもそれは想像力の無駄遣いに過ぎない。

 しかしそれでも、ある楽章同士に類似したものを感じ、“類似した精神の系統”というものがあるように、“類似した楽章の系統”というものもあるのだ。一人の作曲家の作品同士に類似性があるのと同様に作曲家同士にも類似性が存在する。この楽章の類似性は実のところ作曲家間の類似性のほんのひとつの面でしかないのだが。ちょうど父親と息子、兄と妹の場合ように、家族同士が似ていることは認識できるが、それを言葉で定義するのは難しい。作品間、作曲家間に近親性を認めても、それは精細な分析を拒否するものなのだ。しかし、それが存在することに議論の余地はない。

 異なる作曲家の作品間に類似性を認めるのだが、それ以上に一人の作曲家の作品間の類似性のほうが認識しやすいのである。ゆえに、モーツァルトのアンダンテは豊かで多様なものではあるが、いくつかの例外を除いて、4つあるいは5つのグループに分けることができる。それらを便宜的に名付ければ“ギャラントなアンダンテ”、“夢の”、“瞑想的な”、“歌う”ようなアンダンテあるいはロマンス、“悲劇的”あるいは“劇的な”アンダンテとなる。

 この分類を絶対的なものと考えるほど真に受ける人はいないと思うが、モーツァルトがこのようなすばらしい音楽を注ぎ込んだこれらの緩徐楽章の全体像をより容易に把握する手助けにはなるだろう。分類というものはすべて、その性質上大まかなものであり、恣意的なものである。それが音楽の内容のように定義できないようなものを扱う場合は特にそうである。音楽家の中で最も詩的な存在を自分たちの都合の良い物差し7原文では「プロクルステスの(Procrustean)寝台」が使われているが、それはギリシャ神話出てくる追剥で旅人を捕えると寝台に寝かせ,体が長すぎると切り,短すぎると伸ばして殺した。緩徐楽章の類型づけという、こちらの都合の良い物差しでモーツァルトの音楽を判断してしまうことを言う。で解析しようとしているなどと非難しないでいただきたい! ただ、最終的により真実に近くより精細な理解に達するための方法としてこの分類を提案しているだけなのだ。大まかで厳密ではないが、それでも、モーツァルトのすべてを包含するには、まだまだ柔軟性が不足しており、彼の最もよく知られたアンダンテのいくつかはこのカテゴリーのどれにも収まり切れないものがあるのだ。

 このような制約はあるが、これらの用語をラベルとして自由に解釈してもらえば、ほとんどの楽章についてこの分け方が妥当だと言えるのではないだろうか。

 ギャラントな緩徐楽章はその作曲家らしい部分が最も少ないものと言える。それらにはモーツァルトの個性よりも、その時代の趣味がより明確にあらわれている。そのうちいくつかには、ヨハン・クリスティアン・バッハと署名されていたとしても、外的な証拠がなければその作者を特定することは困難だろう。それらは一種のけだるく官能的なあるいは牧歌的な魅力を持ってはいるが、何度も繰り返して聴くことに耐えるものではない。それらは、感情表現が強烈かつ個性的なものでなければ少しばかりは耐えることができるが、ずっと集中し続けることを求めなかった当時の聴衆を喜ばせるためのものであった。少し距離をとってみて初めて、その深奥にある美しさが作者の魂をあらわにするのだ。当然のことながら、この種のアンダンテはザルツブルグ期のものに最も頻繁に見出すことができる。当時、モーツァルトは彼の独創性を聴衆の要求に従属させ、それは彼自身にとっては非常に厳しい試練であり、一方聴衆にとってはこの上ない楽しみであった。これは彼の若さ(その都市から永久に去った時彼は25歳でしかなかった)故ではなく、パトロンの好みに従わなければならない、大司教の宮廷における彼の公な立場によるものでもあった。

 彼の作品の中のギャラントなものはあまりよく知られていないが、それも当然である。いくつかの作品に認められる美しさゆえではなく、その教育的な要素によって長寿を保つソナタがしぶとく生き残っていなければ、モーツァルトのギャラントな部分は今日の聴衆には無縁なものであっただろう。誰もがよく知っているギャラントなアンダンテを見出すには、まずそれらに目を向けなければならない。さらに例をあげれば、ハ長調(K.296)〔No.24〕および変ロ長調(K.378)〔No.34〕のヴァイオリン・ソナタのアンダンテがある。よく知られた多弁なハフナー・セレナーデK.250は、彼が21歳の時に作曲し今日でもしばしば演奏会のプログラムに載るが、ギャラントな緩徐楽章の最良の例のひとつである。それはイ長調のアンダンテで、威厳がなくもなく、また精気に満ち、機知さえ感じる瞬間もあるのだが、さほど個性的とは言えないものだ。

 この種の楽章が最も卓越した時期はザルツブルグの時代であるが、それらは彼の生涯にわたって現れている。偉大な一連の交響曲が生み出された年のその夏に作曲された2曲のソナタがあり、ひとつはピアノのためのハ長調(K.545)〔No.15〕、もうひとつはヴァイオリンのためのへ長調(K.547)〔No.43〕のソナタである。これらのソナタのアンダンティーノは純粋にギャラントな戯れのようなもので、この類では彼が作曲した最後のものである。しかしこの段階ではモーツァルトはもはや単にギャラントの人ではなく、これらのささいな作品の中にさえジュピター〔No.41 K.551 ハ長調〕の作曲家の存在を感じとることができるのである。

 これらの曲が作られるかなり以前に、ギャラントなアンダンテは変質を遂げていた。そもそものギャラントな緩徐楽章は、優雅ではあっても情熱に欠けていた。徐々にではあるが、モーツァルトは自らの個性をその中に注ぎ込み、この変化の最初の兆候は早い時期に現れている。すでに、彼がパリに出発する数年前に、アンダンテとアダージョはピンクと青の絹のリボンを振り捨て、全く彼自身のものになっていた(原注1)。その時点では、それらは例外的なものであったが、ザルツブルグの生活が終わりに近づくにつれ、モーツァルト自身の音調が徐々に強く、また頻繁に聴かれるようになった。そして、次第にわれわれは、ウィーン時代に彼の若年期の緩徐楽章にほぼ完全に取って代わる新しいタイプのアンダンテに導かれていく。フルートとハープのための協奏曲〔K.299 ハ長調〕のアンダンティーノはこの変化の証である。その作品は1788年、モーツァルトがパリで過ごしていた時のものであり、それは彼の経歴と芸術的成長に決定的な影響を与えた時期であった。一見すると、それはわずかに夢見るような優しさ、リボンで飾られた柔らかい感じの、ギャラントの作品のようだが、いくつかの特徴は完全にモーツァルト的である。これには、没個性的な牧歌的なものから成熟期の非常に個性的なロマンスに移り変る道筋が記されているのである。

(原注1)特に変ホ長調交響曲(K.184)〔No.24〕と弦楽四重奏曲ハ長調(K.157)のハ短調のアンダンテが念頭にある。

 1780年以降のモーツァルトの作品で、ギャラントなアンダンテに対応するのはロマンスである。彼がパリに行く以前にはこの名称も、ましてや表現様式も使うことがなく、大司教との決裂によって彼の芸術的自由が決定的になるまで、これが常用されることがなかった。モーツァルトはその名称を1781年に作曲した変ロ長調の管楽器のためのセレナーデ(K.361)の緩徐楽章に初めて使い、この時以来、ロマンスは次第に増えていき、ギャラントなアンダンテは徐々に減ってゆく。最後のピアノ協奏曲〔No.27 K.595 変ロ長調〕、変ホ長調の五重奏曲〔No.6 K.614〕にはともにロマンスを有し(原注1)、人生の最後の作品で、モーツァルトはそれが自分の好みの表現様式であることに気づいたのである。

(原注1)これらの楽章でその標題は使われてはいないが、それらは紛れもなくあきらかにロマンスである。

 青春期のギャラントな緩徐楽章と偉大な時期のロマンスとの間には大きな隔たりがある。しかし、その血統は明らかである。2番目のホルン協奏曲〔K.417 変ホ長調〕のロマンス、変ホ長調のピアノ協奏曲(K.449)〔No.14〕のアンダンティーノはまだギャラント・スタイルに近く、モーツァルト自身の音調はまだそれほど強くあらわれてはいない。しかしやがてファッショナブルなロマンスの無色の甘さに、より刺激的な感覚、過ぎ去っていく悲しみの響きが加えられていき、甘美さはさらに打ち震え、われわれはこの中に最もモーツァルト的な特徴である“情熱的な静けさ”を感じるのである。1784年から死に至る彼が傑作を生みだした時期において、彼のロマンスには、満ち溢れる喜びが表面を覆うものの完全には覆い尽くすことができないあの深い憂愁が繰り返しあらわれてくる。ハ短調協奏曲〔No.24 K.491〕のロマンスはゆったりと安らかな旋律のリフレインを伴った、外見的には非常に静謐なものである。しかし、エピソード8ハ短調協奏曲K.491のロマンスはロンド形式であり、このエピソードはクプレのことである。の旋律がなんと強く我々に訴えかけてくるのだろうか! 戴冠式協奏曲(K.537)〔No.26 ニ長調〕のロマンスは、同様に穏やかだが、一旦それが終わると、オーケストラは悲痛なほど切なる思いが込められたフレーズを添えるのである。最後の協奏曲〔No.27 K.595 変ロ長調〕のロマンスはひとつの長い別れの言葉である。それは悲痛だが同時に運命を甘受しているとも感じさせる。それから少なくとももう1つ、ゆるぎないものと思われた平穏さがその中間部で突如悲劇的な叫びとなるロマンスがあるが、これはニ短調協奏曲〔No.20 K.466〕のロマンスのことである。

 貧弱なギャラントのアンダンテから晩年のロマンスへの変化は、幼年期の物まねから自己覚醒へ、さらに晩年の完全なる開花へとわれわれを導いてくれる。しかし、ギャラントという言葉が、天賦の才が彼を駆り立て時代の慣習というくびきを捨て去る以前にモーツァルトが書いたもの全てにあてはまるなどと考えてはならない。もうひとつ彼の少年期に遡る緩徐楽章のグループがあり、モーツァルトはその中に、没個性的な要素が支配的であったためにソナタの楽章やロンドから締め出された宝を注ぎ込んだ。それが“夢の”アンダンテである。この名称はひとつの標識にすぎないので、より良い呼び名があれば、この名称にこだわるつもりはない。いくつかのアンダンテやアダージョの月光が差し込んでいるような清澄さをあらわすには、“ノクターン”という名前がふさわしいのかもしれない。その言葉はショパンに結びついており、ロマン主義の作曲家とこれらの楽章との近親性を示唆すると思われるかもしれないが、実際にそのように感じさせることはほぼない。

 “夢”はモーツァルトの幼年時代と成熟期の初期のものである。K.467〔No.21 ハ長調協奏曲〕のアンダンテでその最良のものが現れた後、それは消えてしまう。それは若年期の様式であり、その最良の例は1785年のものであるが、最も数多くまた最もその特徴を有するのはザルツブルグ期のものなのである。特にト長調のヴァイオリン協奏曲〔No.3 K.216〕はモーツァルトがそこに込めようとした極地を端的に示すものである。K.467〔No.21 ハ長調〕は、夢からわれわれを連れ去るある種の劇的な緊張を夢と調合することで、楽章をロマンスや“悲劇的”なアンダンテに近いものにしているのだ。

 実際は、“夢”は強い情緒を伴うものではなく、情熱の余地がまったくないわけではないが新鮮で豊かな美しい幻想がその最たる特徴なのである。確かに、モーツァルトのウィーン初期の“夢”は、ザルツブルグ時代の協奏曲よりもより深く、より豊かだが、幻想が憂愁に勝り、憂愁が口を開くときもそれは悲劇的な調子を帯びてはいない。それは妖精界の精霊によって息吹を吹き込まれて9原文ではinspired by a spirit of fairyland。シェークスピアの『真夏の夜の夢』で妖精の王オーベロンは”we are another sort of spirits”と言っており、a spirit of fairylandは妖精の国の精霊、すなわち妖精のことである。妖精が人間に幻想や夢を見させるのである。また、一方妖精パックのように様々な騒ぎを引き起こすが、ガードルストーンはこの特性を後述されるロンド、特にNo.13のロンドにおいて比喩的につかっている。、現実から離れすぎているために悲しみを知ることができないのである。その様式はしばしば長くうねるようなメロディーで、フレーズに分けることができず、ほとんど中断されることなく連続していく。そして、モーツァルトのリズムはここにおいて最も自由である。

 ちょうどギャラントなアンダンテがロマンスに道をゆずったように、“夢の”アンダンテは深く、豊かに成長していくにつれ徐々に幻想と非現実性を失っていき、成熟期の“瞑想”のアンダンテとなる。その変化は、ギャラントな緩徐楽章の変化に比べてさらにゆっくりしたものである。ハ長調の弦楽四重奏曲〔No.19 K.465 不協和音〕やプラーハ交響曲〔No.38 K.504 ニ長調〕のアンダンテはそのどちらのグループにも分類可能であり、また打ち震えるような動きの展開部をもつ3台のピアノのための協奏曲〔No.7 K.242 ニ長調〕のものはすでに単なる“夢”以上に凝縮されたビジョンの現れを告げている。実際には、この2つのグループは密接に関連しており、ト長調のヴァイオリン協奏曲〔No.3 K.216〕の“夢の”アダージョや、ニ長調の五重奏曲〔No.5 K.593〕の“瞑想”のアダージョのように明確にどちらかのグループに属するものがあるとしても、その他の多くは、“夢”と“瞑想”もしくは“回想”があまりにも密接に入り混じっているために、どちらかに分類してしまうことを躊躇せざるを得ない。それゆえ、モーツァルトのウィーンの初期のものはほぼ全2つの性格が混合したもので、純粋で単純な“夢の”はザルツブルグ時代に、“瞑想”は1782年以降、特に1785年に生み出されたものだと見做すべきだろう。

 “瞑想的”な第2楽章は、アンダンテであるよりアダージョであることが多く、通常“夢の”ものよりも純粋に旋律的ではないが、書法は豊かでまた対位法を多用している。彼の後を追う者が少なくさらには彼を凌駕する者が皆無であるためにモーツァルト独自のジャンルとさえ言える弦楽五重奏に、彼の最大かつ最も探求的なアダージョを見出すことができる。それはまた規模とインスピレーションにおいても最大のものである。壮大で多声的なト短調五重奏曲〔No.4 K.516〕のアダージョや、ニ長調五重奏曲〔No.5 K.593〕のさらに複雑なアダージョ、讃美歌のような旋律で歌い上げるハ長調五重奏曲〔No.3 K.515〕、またニ長調の四重奏曲K.499(No.20 ホフマイスター)では彼の楽想が最も高いレベルで昇華されており、これらは彼の技巧の最も確かな創造物である。そして、愛すべきザルツブルグ人をあえてバッハやベートーヴェンと同じ位置に置くことに驚く人々に対しては、これらの緩徐楽章およびピアノ協奏曲K.503〔No.25 ハ長調〕のアンダンテにぜひ耳を傾けてもらいたいと思う。

 今までその主な特性について手短に触れてきたアンダンテの4つのグループはほぼ正確に彼の生涯の時期に対応している。“ギャラント”と“夢”は少年時代と思春期に、“ロマンス”と“瞑想”は彼の成熟期に対応する。だがもうひとつ不規則ではあるが彼のほぼ全ての生涯にわたっている第5のグループが存在する。それは“悲劇的”あるいは“劇的”なアンダンテである。

 モーツァルトの短調の緩徐楽章はその際立った特徴により他の作品と別に位置づけられるものである。これまで、漫然とそれらを“悲劇的”または “劇的”と呼んできたが、この名称は双方共にそれらを他の緩徐楽章と区別するためであった。彼の作品全体が常に劇的なものと見なされており、彼の作品のあるものを他から区別するために“劇的”という言葉で語るのは無益だと思われるかもしれない。だが、この特質は彼のアレグロにおいて最も明らかなのであり、アンダンテではこれほどで顕著でない。作品に劇的な性格が与えられるためには、モーツァルトが鋭く悲しみに満ちたインスピレーションに駆られる必要があるのだ。その主題があらわれると、次に理想的な声でうたわれ、そして言葉が発せられるのを待つ。彼のすべての短調のアンダンテは、変奏曲の形式であろうとソナタやロンドであろうと、この意味ですべて劇的なものなのである。それらの数は決して多くはなく、1777年から彼の死までの間の十数曲であるが、そのほとんどすべてが彼の最もすばらしい緩徐楽章の中に数えられる。同時代の作曲家と同様に彼もほとんど短調を使わなかったが、使ったときには常に傑作を作り上げたのである。モーツァルトの短調作品は、彼の最上の作品の中で、その数の少なさからいえば不釣り合いなほどの地位を占めている。それはウィーン時代の12曲ほどであるが、それらには彼を今日まで生かし続けている作品のかなりの部分が含まれているのである。そしてそれはアンダンテについても同じであり、彼の偉大な作品として思い浮かべるものには、まず、ヴァイオリン・ソナタヘ長調〔No.33 K.377〕のニ短調の変奏曲、変ホ長調(K.380)〔No.36〕のト短調のアンダンテ、変ロ長調の協奏曲(K.45610原文はK.450〔No.15〕であるが、その第2楽章は変ホ長調であり、ト短調の変奏曲緩徐楽章を持つのはもう一つの変ロ長調K.456〔No.18〕である。明らかな誤りなので、本文を修正した。)〔No.18〕とイ長調(K.488)〔No.23〕のト短調の変奏曲と嬰へ短調のシチリアーノ、協奏交響曲(K.365)〔変ホ長調、ヴァイオリンとビオラのための〕のハ短調のアンダンティーノ、変ホ長調の協奏曲(K.482)〔No.22〕のハ短調のアンダンテなどである。

 彼の最もすばらしい短調のアンダンテは、1777年の協奏曲(K.271)〔No.9 変ホ長調 ジュノーム〕に始まり、弦楽四重奏のための前奏曲とフーガ(1788年)〔K.546 ハ短調 アダージョとフーガ〕(原注1)および1790年のオルガン幻想曲〔K.608 へ短調 自動オルガンのためのアダージョとアレグロ〕のアダージョで終わる。しかしすでに1788年の数年前から短調の作品は数少なくなり、短調の緩徐楽章を含むソナタ形式の最後のものは1786年の早春の作品であるイ長調のピアノ協奏曲(K.488)〔No.23〕である。悲しみの感情は美化され、それは落胆や傷心といった感情を残さず、かえって彼の最も生気に満ちたアレグロのようにわれわれを慰め、励ましてくれる。美しさが一瞬現れ、そしてそれは涙を経て、輝く明るさに到達し、聴衆は魅了され、この楽章が立ち上がった時のつらさや苦しみを忘れてしまうのだ。このような悲しみは若者の悲しみなのである。というのもモーツァルトが“悲劇的”なアンダンテを作らなくなった時点で彼は30歳でしかなかったからだ。この悲しみは彼の自然に脈うつ生命の強さのすべてがあるゆえに豊かで美しいのである。

(原注1)このフーガは元々2台のピアノのためのもので、1783年には作られていた。

 

 ピアノ協奏曲はこれらの5種類の緩徐楽章の最良の例を見せてくれる。モーツァルトは、K.413〔No.11 ヘ長調〕およびK.415〔No.13 ハ長調〕の緩徐楽章以上に典型的にギャラントなアンダンテの例を残してはいない。ロマンスでは、ニ短調の協奏曲〔No.20 K.466〕、ハ短調〔No.24 K.491〕、そして変ロ長調K.595〔No.27〕において最もすばらしい例を生みだした。彼の多くの社交音楽の硬質な明るさに甘美さを添えてくれた20回にわたる夏の“夢”11本格的な作曲が開始された年を交響曲第1番K.1の1864年あるいは1865年とすると、最後の“夢の”アンダンテであるピアノ協奏曲K.467〔No.21ハ長調〕のアンダンテが作曲された1985年までの20年間を指していると考えられる。なお「夏」は“夢の”アンダンテを「見せる」a spirit of fairylandからの連想で、シェークスピアの『真夏の夜の夢』からレトリカルに使われたものと思われる。“夢の”アンダンテが、夏に作曲された、あるいはそのイメージを持つといったことではない。、それは最初の協奏曲〔No.5 K.175 変ホ長調〕で出会うことができる。また3台〔No.7 K.242 ヘ長調〕と2台のピアノのための協奏曲〔No.10 K.365 変ホ長調〕、そして“偉大な”時期の2つの協奏曲、K.451〔No.16 ニ長調〕とK.467〔No.21 ハ長調〕のものがそうである。“夢”を引き継いだ“瞑想”的な緩徐楽章は4回あらわれる。最も早いものである1782年のK.414〔No.12 イ長調〕、1784年の讃美歌の響きの変奏曲をもつK.450〔No.15 変ロ長調〕、そしてより苦悩の影の濃いK.453〔No.17 ト長調〕のアンダンテ、そして、最後は、彼の作曲したもの中でも最も雄大な作品のひとつであるK.503〔No.25ハ長調〕の見事なアンダンテである。

 ここまで、ピアノ協奏曲が、他の作品群と同様に、モーツァルトの才能の最たる特徴を示していることを見てきた。しかし、“悲劇的”なアンダンテの場合、彼の成熟期においてはピアノ協奏曲のものが唯一、この悲劇的側面を映し出しているものであることに気づくだろう。彼のウィーンの最初の年以降、すなわち彼がその才を己の物として以降、彼の室内楽では短調のアンダンテがまれなものになり、交響曲からは完全に消えてしまったことは注目に値する。1788年の孤立した作品である感動的なピアノのためのロ短調のアダージョ〔K.540〕、1790年の最初のオルガンのための幻想曲のアダージョ(導入部および結尾部)〔K.594へ短調自動オルガンのためのアダージョとアレグロ〕、その他のあまり重要ではない作品(原注1)のいくつかの楽章などを別にすれば、ピアノ協奏曲のアンダンテのみである。初期には短調のアンダンテがさほど珍しいものではなかったが、その時期においても、最良のものは、K.271〔No.9 変ホ長調 ジュノーム〕と協奏交響曲〔K.364 変ホ長調 ヴァイオリンとビオラのための〕のみである。そして1781年以降では、彼の最良のヴァイオリン・ソナタの2曲がすばらしい短調の緩徐楽章を有する(K.377〔No.33 ヘ長調〕とK.380〔No.36 変ホ長調〕)。その具体化のためにゆるやかなテンポが求められる悲劇的感情の綾の表現は、彼の最も偉大な創造的期間を通じてピアノ協奏曲のみが担うこととなったのである。ここに緩徐楽章の暗い悲しみに沈んだモーツァルトの姿を探しもとめなければならない。ハ短調のセレナーデ〔K.388〕のアレグロ、ト短調の五重奏曲〔No.4 K.516〕と交響曲〔No.40 K.550〕のアレグロに匹敵するものは、アンダンテではピアノ協奏曲にのみ見いだすことができるのである。

(原注1)弦楽四重奏のためのプレリュードハ短調K.546、弦楽三重奏のためのイ長調、ト長調、ニ短調K.E.404a〔6つの前奏曲とフーガ〕、あまり重要なものではないがグラスハーモニカ・フルート・オーボエ・ビオラ・チェロのための五重奏曲の最初の楽章であるハ短調のアダージョK.617(1971年)などである。

 

 モーツァルトのアンダンテにおいて、どのような感情がどのような形式によって表現されたか、その関係について見てみたくなる。例えば“瞑想”の表現には常にソナタ形式が用いられるなどと言うことができれば、規則性を重んじる人にとっては大いに満足に違いない。しかし、無駄な努力である! このような関係は少なくともアンダンテでは存在しない。事実、確かにある種のアレグロにはそのような何かを見出すことができる。それらはある同一の感情に動かされることで、似通った形式を示す。つまり、短調の情熱的なアレグロ・アッサイの展開部はその他のものに比べるとより簡潔になる傾向がある(原注1)といったようなことである。しかし、モーツァルトの緩徐楽章に関しては、そのような形式と内容との対応関係の規定は不可能である。ロマンスと呼んだ“歌う”楽章はロンド形式であることが多いが、それは、明らかにロンドというものが最も声楽的な形式であり、“ロマンス”は、その名が示すように実際に歌曲を思い起こさせるという理由による、単なる外面的な類似なのである。それゆえに、われわれは、内容と形式は別なものと考えることで満足しなければならない。

(原注1)ハ短調のソナタ〔No.14 K.457〕、ヴァイオリン・ソナタK.379〔No.35〕(第2楽章)、ト短調の五重奏曲〔No.4 K.516〕を見よ。

 モーツァルトは、フィリップ・エマヌエルやハイドンが好み、ベートーヴェン以降ほぼ必須となった楽章間の調性の対照を求めることがなかった。彼の第2楽章は概して下属調で書かれている。ト長調の四重奏曲〔No.14 K.387〕のアンダンテはハ長調であり、ハ長調のジュピター交響曲〔No.41 K.551〕のアンダンテはヘ長調である。例外は無視できるほど少ない。あるとしてもモーツァルトは、下属調でも変音記号が3つ以上あるような、あまりに変音記号が多い調性を好まなかった。モーツァルトでは4つのシャープあるいはフラットはまれであり、5つというのは、ロ長調あるいは変ホ長調の変奏曲またはメヌエットの中の短調を除けば他では全く見出すことができない。モーツァルトは4つの変音記号で書くよりも、下属調そのものをあきらめ、属調に頼る方を選んだ。彼は変ホ長調の作品の様々な所でそれを行っているが、その中では4つの内の2つのピアノ協奏曲、K.365〔No.10 2台のピアノのための〕とK.499〔No.14〕がこの調で書かれている。その他では、近親短調を用い(協奏交響曲〔K.364 変ホ長調 ヴァイオリンとビオラのための〕)、より事例は少ないが属調の近親短調(へ長調四重奏曲K.158〔No.5〕、ヴァイオリン・ソナタ変ホ長調K.380〔No.36〕)を使うこともある。短調の作品の場合、緩徐楽章では概ね近親長調に入る(原注1)。最後に2、3度、おそらく懐古趣味だろうが、楽章全体を同一調で通すということも試みている。しかし、これらの例外は彼のアンダンテの3分の1にも満たないのである。

(原注1)ニ短調の協奏曲〔No.20 K.466〕は例外である。そのロマンスは変ロ長調であり、近親長調の下属調である。

 一方で、構造は多様である。彼は第1楽章にほぼソナタ形式のみを使ったが、パリ時代の作品では変奏曲でそれに替えていることも時たまある。しかし、アンダンテではいくつかの型を自由に使いこなす。特に、どの楽章にも使いやすい変奏曲、もうひとつの汎用的な形式であるロンド、そしてその堂々とした形態がアンダンテやアダージョの瞑想的なフレーズにぴったりあっているソナタ形式、などである。後者のソナタは展開部を欠く2部構成のことも、3部構成のこともある。そして、定まった構成に従うことのないアンダンテがいくつかある。

 モーツァルトはこれらの型をすべての時期に無頓着に使ったわけではなく、1787年以降は2部構成のソナタ形式に戻っている。3部構成のソナタは、初期と生涯の最後の時期によく見られたが、1983年から1789年の間ではまれにしか使われなかった。初期のニ短調の四重奏曲K.173〔No.13〕のように、彼の若いころの作品に時々見受けられるロンド形式は、1783年まで常用されることがなかった。

 ピアノ協奏曲では3部構成のソナタ形式が好んで用いられている。23曲12ガードルストーンは23曲としているが、実際にここで問題にされているのは、第2楽章がアレグレットのNo.19 K.459を除外した22曲である。のうち8曲133部構成のソナタ形式を持つものをガードルストーンは8曲としているが、これは下の本文に例として出てくるNo.23 K.488および原注にあげられた8曲、あわせて9曲であり、誤りである。がそれを使っているが、それらのほとんどが後半のものに属している14ガードルストーンは「そのすべてが後半のもの」としているが、ピアノ協奏曲の後半を、本書でその大きな転換点とされるNo.14 K.499からとすると、9曲中7曲は前半、後半に2曲である。またNo.20 K.466とすると9曲中8曲は前半のものになる。したがってここでのガードルストーンの記述は「それらのほとんどは前半のものに属している」と正すべきだと思われる。。2部構成のソナタも同様によく使われるが、それは異なった時期に作られた3曲152部構成のソナタ形式の緩徐楽章を持つものは、No.6 K.238、No.11 K.413、No.25K.503の3曲である。No.19 K.459を除いた22曲の緩徐楽章の形式は、3部構成ソナタ形式9曲、2部構成ソナタ形式3曲、ロンド形式6曲、変奏曲形式2曲、不規則な自由形式2曲となる。がそれを用いている。変奏曲形式のアンダンテは1784年のもの、その他1784年と1785年の2曲では、ひとつはロンドを変形させたもの、もうひとつはソナタ形式を変形させた不規則なものが用いられている。

 3部構成のソナタは最初の協奏曲〔No.5 K.175 ニ長調〕で初めて使われ、1786年のイ長調K.488〔No.23〕以後は消えてしまったが、協奏曲作家としてのモーツァルトの経歴のほぼすべてに亘っており、それは彼の協奏曲の典型的なアンダンテの形式であると見なすことができるだろう16これは上の段落の3部構成ソナタの記述と矛盾している。。これは声域が広く、豊かにゆっくりと展開し、互いに融け込む主題によって進行する。そのソナタ形式はアレグロほどには明確に区切られておらず、その各部の区分もより不明瞭で、その構造を形作る要素もそれほど見分けやすくはない。そのテクスチャーはローマ人がレンガや小石を埋め込んだセメントの塊を思わせ、コンパクトで分離できない全体を形成しており、アレグロのものより一枚岩的と言えるかもしれない。これがひとつの特徴である。第2の部分もまた別の面を持っている。このパートは前に出てきた主題を回想はするものの、本当の展開部とは言えない。ほとんどの場合、それはわれわれを冒頭に連れ戻す単なる推移部にすぎず、時には、それはあまりに縮減されているため、それを独立した部分であると考えることさえ躊躇わせる。

 協奏曲のアンダンテが3部構成のソナタである場合は、ほぼ常にフレーズの最初の部分を含む総奏の導入で始まる。K.488〔No.23イ長調〕の構造は他のものとはやや異なり、直接独奏から始まる唯一のものである。時には導入部が極めて短く、始まりの独奏に変わっていく部分の概略を示すのみのこともある(原注1)。そして、さらに多いのが、アレグロの総奏と同様に、2つの主題を提示する場合である(原注2)。この楽章を締めくくるフレーズについて見ると、それが3回出現することもある(原注3)。K.414〔No.12イ長調〕の場合、それは展開部をも作り上げている。他の曲では、2回の出現で事足りている。それは総奏と楽章の最後の部分であることもあり(原注4)、最初の独奏と楽章の最後である場合もあり(原注5)、あるいは、楽章の終わりに1回だけ現れることもある(原注6)

(原注1)K.415〔No.13 ハ長調〕
(原注2)K.175〔No.5 ニ長調〕、K242〔No.7 へ長調 3台のピアノのための〕、K246〔No.8 ハ長調〕、K271〔No.9 変ホ長調〕、K365〔No.10 変ホ長調 2台のピアノのための〕、K414〔No.12 イ長調〕、K453〔No.17 ト長調〕
(原注3)K242〔No.7 へ長調 3台のピアノのための〕、K365〔No.10 変ホ長調 2台のピアノのための〕
(原注4)K.175〔No.5 ニ長調〕、K.415〔No.13 ハ長調〕
(原注5)K242〔No.7 へ長調 3台のピアノのための〕、K365〔No.10 変ホ長調 2台のピアノのための〕
(原注6)K.488〔No.23 イ長調〕

 2部構成のソナタはよりなじみの薄い形式であり、モーツァルトはそれを非常によく用いた唯一の古典時代の偉大な作曲家である。ハイドンやベートーヴェンは展開部に非常に重きを置いたため、展開部を欠く形式が彼らには魅力的ではなかったと考えられる。しかし、モーツァルトは、すでに見たように、展開部にこだわることなく、何のためらいもなく2部構成の形式を使っているのである。彼の経歴の半ばまでは、それが彼のお気に入りの型のひとつであった。しかし1788年以降は3部構成のソナタに戻り、それ以降の2部構成の楽章は変ロ長調の四重奏曲K.589〔No.22 プロシャ王セット第2番〕のラルゲットのみとなる。2部構成ソナタ楽章の最高峰は、ハ長調の協奏曲K.503〔No.25〕、ハ長調〔No.3 K.515〕およびト短調〔No.4 K.515〕の五重奏曲の3つの見事なアンダンテである。

 ロンド形式のアンダンテは、3部構成のソナタとともに彼の協奏曲の中でも最もすばらしいアンダンテである。すでに述べたように、それはどの時期においても見出すことができるが、常用されたのは1783年以降でしかなく、その時点でさえモーツァルトはこれを主により小さなジャンル、ソナタやトリオ、『音楽の冗談』などでしか用いなかった。確かに一度は四重奏曲(原注1)で、もう一度は交響曲(原注2)で見ることができるが、それはソナタのロンドとはやや異なる変形されたものである。最後の五重奏曲〔No.6 K.614 変ホ長調〕もまたそれを使っている。こうした若干の例外はあるものの、協奏曲はモーツァルトがロンド形式のアンダンテを真摯な形式として扱っていると思える唯一の作品群である。

(原注1)ニ短調 K.421〔弦楽四重奏曲No.15 1783年〕 (原注2)K543〔交響曲No.39 変へ長調 1788年〕

 協奏曲で最初にロンドのアンダンテが使われたのは1784年あり、それはニ長調K.451〔No.16 ニ長調〕である。その他に3つの偉大な協奏曲でロンドのアンダンテが用いられ、それらはニ短調〔No.20 K.466〕、変ホ長調〔No.22 K.482〕、そしてハ短調〔No.24 K.491〕である。また、ニ長調の協奏曲K.537〔No.26 戴冠式〕と最後の変ロ長調〔No.27 K.595〕もそれを使用している。生涯の最後に至り、ロンド形式が協奏曲におけるモーツァルトお気に入りの楽章となっていたのである。

 モーツァルトの協奏曲のアンダンテはすべてが同じようなソナタの構造を有しているわけではない。ニ短調〔No.20 K.466〕のアンダンテは、ゆったりとした楽章に突然あらわれるト短調のプレスティッシモの間奏がそれを遮る点で際立つが、これは彼の作品の中でも非常に珍しいものだ(原注1)。変ホ長調K.482〔No.22〕のアンダンテは、その変奏されたリフレインによって全く独自なものであり、ロンドと変奏曲が交差混淆したものになっている。それは、クプレがオーケストラに委ねられ、その間独奏者はリフレインの主題の変奏に専念することによってさらに特徴あるものとなり、そしてコーダで両者は一体となる。ニ長調K.451〔No.16〕とハ短調〔No.24 K.491〕のものはより規則的で、最初に独奏によって、次いで総奏によって提示されるリフレイン、2つのクプレとコーダである。2つの最後の協奏曲〔No.26 K.537 ニ長調、No,27 K.595 変ロ長調〕はプレスティッシモのないニ短調〔No.20 K.466〕のロマンスを思わせる。それは独奏と総奏によるリフレイン、最初のクプレ、リフレインとコーダ、新しいクプレ、そしてコーダも含めた最初のパートの回帰(ABACDABAC)という構成である。それは、モーツァルトが発展させフィナーレに頻繁に用いた、熟達したソナタ・ロンドの形式をアンダンテに応用したものなのである。

(原注1)もうひとつ例がある。それは変ロ長調のセレナーデK.361〔13管楽器のための〕のロマンスである。

 ギャラント時代に熱狂的に好まれた形式である変奏曲はモーツァルトの真摯な作品では常に珍しいものだ。彼はそれを大した意味のないお遊びと見なしており、ピアノのために書いた数多くの曲にはチャーミングなものも多いのだが、それらは彼が己のすべてを注ぎ込んだ作品に数えられるものではない。それでも彼はこの形式を重要な作品でしばしば用いている。ヴァイオリン・ソナタ〔No.33 K.377 ヘ長調〕のものはディベルティメントK.344〔No.17 ニ長調〕のそれの変形で、2番目のニ短調四重奏曲K.421〔No.15 ハイドンセット第2番〕のフィナーレの先駆けとなり、これらは彼の最も熱情的な楽章に数えられるもので、長調の四重奏曲〔No.16 K.464 ハイドンセット第5番〕のものは壮大なコーダへと導かれ、そして、第2のオルガン幻想曲K.608〔自動オルガンのためのアレグロとアンダンテ〕の変奏曲では、彼の最後の日々の平穏が表現されている。

 緩徐楽章に変奏曲を持つ2つの協奏曲〔No.15 K.450、No.18 K.456〕はともに変ロ長調であり、ともに1784年の作品である。最初のK.450のものは特にその主題ゆえに価値があり、またK.456のものはト短調という調性によって偉大な諸作品に通じるものがある。それらの豊かだが苦悩に満ちたインスピレーションがモーツァルトを突き動かし、その形式をさらに高めさせ、ピアノとオーケストラのインタープレイ、主題の変形、さらに、コーダは第一級のものである。

 緩徐楽章で自由な形式を用いている協奏曲が2つある。K.449〔No.14 変ホ長調〕のアンダンティーノは一種ロンドの雰囲気を持った3部構成のソナタであるが、それはほぼ一連の変奏曲と見なすこともできる。堂々たる協奏曲であるK.467〔No.21 ハ長調〕では、そのアンダンテの“ノクターン”のおもむきがショパンの出現を告げている。そこでは5つないし6つの主題を見出すことができるが、それが再現してくる順序とそのときの調性は既に定まったどのような方法にも該当していない。この魔法のようなアンダンテを聴くと、“形式重視者”モーツァルトはファンタジーの名手でもあり、自ら望みさえすれば、夢見るロマン主義者にもなりえたのである。

 モーツァルトは、非常に多様な構成と異なった情緒の楽章に彼の魂の最良のものを注ぎ込んだのである。真摯な”ものと見なせる他のジャンル、すなわち四重奏曲、五重奏曲、交響曲と同様に、最良のアンダンテとアダージョをわれわれにとって貴重なものとしている特質がこれらの協奏曲に全て見出されるのである。

 

 ある作品のフィナーレがアンダンテや開始部のアレグロに匹敵するものであることはまれである。作品のはじめの楽章があれほどわれわれを楽しませてくれたのに、最終楽章に満足できないままになってしまうことをいくたび認めなければならないのだろうか。このことは、特定の時代だけではなくあらゆる時代、そして17世紀から今日にいたるまでのすべての作曲家について言えることである。もちろん例外あり、最良のものが最終楽章である作品も多い。しかし、概して、様々な理由により、作曲家はそのフィナーレでアンダンテやアレグロの高みに達していないということも事実なのである。

 これをどう説明したらいいのだろうか? 間違いなくいくつかの理由があり、またそれは時代によって異なっているのだ。モーツァルトとベートーヴェンの時代では、フィナーレが劣るのは意図的になされたものであった。ギャラント時代の聴衆は真面目な内容の音楽が間断なく続くのを聴くのが難しかったに違いない。彼らは現在のわれわれ以上に対照を必要として、真面目な楽章が2つも続くのには疑いなくうんざりしただろう。アレグロとアンダンテの次にはリラックスさせるものが求められたのであり、軽快で跳ね回るフィナーレがそれを提供したのだ。第3の深刻な楽章など当時の聴衆には耐えられるものではなかったのであろう。同じ理由で、ハイドンは彼の四重奏曲と交響曲にスケルツォ・メヌエットを挿入し、それによって2つの深刻な楽章にはそれぞれより軽いものが続くことになったのである。モーツァルトがアレグロとアンダンテの間にメヌエットを置き始めたときも、(彼のいくつかの四重奏曲と五重奏曲でのように)それは軽さと深刻さが交互に現れることを可能にするものだったのである。

 つまり、フィナーレがあからさまに表層的であるという特徴はギャラント時代の作曲家にとって意図的なものだったのである。それにも関わらず、ハイドンは時に、モーツァルトはしばしばそれに抗った。しかし、ベートーヴェンは、短調のフィナーレを除けば概して陽気なロンドの伝統を守り、それをロマン派の作曲家たちに受け渡したのである。シューベルト、シューマン、メンデルスゾーン、さらにはブラームスまでも、かなり頻繁にフィナーレを全体の最後を飾るものとしてではなく、リラックスさせるものと見なしたのだ。そして“娯楽的”フィナーレへの志向は現代まで生き延びているのである。

 100ほどあるモーツァルトの“偉大な”時期のフィナーレのうちおよそ40曲は、並みのロンドのような娯楽的なものでしかない調べの上をいくものであり、20曲あまりは開始部のアレグロに決して劣るものではない。最後の四つの交響曲〔No.38 K.504 プラーハ、No.39 K.543、No.40 K.550、No.41 K.551 ジュピター〕のもの、イ長調の四重奏曲〔No.18 K.464 ハイドンセット第5番〕、そしてニ短調〔No.20 K.466〕、ハ短調〔No.24 K.491〕、ハ長調〔No.25 K.503〕の協奏曲がそうである。これらの最も偉大な諸作品においてモーツァルトはお目出度いフィナーレの考えを捨て去り、深刻な時には陰鬱な雰囲気のフィナーレでそれらの作品の最後を飾ったのである。お目出度いフィナーレが生き残っているいくつかの作品においても、1787年や1791年の五重奏曲〔No.3 K.515 ハ長調、No.4 K.516 ト短調、No.6 K.614 変ホ長調〕、ハ長調やト長調の四重奏曲〔No.19 K.465 不協和音、No.14 K.387〕、ト長調の協奏曲K.453〔No.17〕およびイ長調K.488〔No.23〕に見られるように、その情緒は深められ偉大な高みに達しているのである。間違いなく水準以下の出来の、ほがらかで跳ね回るような調子の踊りを一回りまわって、楽しませリラックスさせるだけの狙いの最終楽章がこれら偉大な14年間の作品の半数を超えることはない。そしてそれらのほとんどはトリオやピアノ・ソナタのように、当時の流行を追い求める発注者の求めによって生み出されたものの一部であることを心にとどめておくべきだろう。そのほとんどはロンドであり、それよりも“真摯な”フィナーレのためにモーツァルトはソナタ形式および変奏曲形式を取って置いたのである。

 モーツァルト自身もギャラント時代に一般的であった浅薄な協奏曲の概念から出発し、ロンド形式を使う場合には最後までそれが生き残っていた。しかし、彼はそれを、前もって注意されなければ耳にしてそれがロンドだと気づかない程度にまで変容させたのである。それは明らかに彼のお気に入りの形式であった。彼の“偉大な”時期の111のフィナーレのうち、76はロンドで、18曲はソナタ形式、17曲は変奏曲またはメヌエットである。この数字だけでも彼の好みがわかる。しかし、このことはまた、モーツァルトがその形式を精緻なものにするのにどれほどの配慮をし、作品ごとに変化させていくときにどれほど限りない技巧を用いたかということを見れば、このことが事実であるとさらに決定的に示すものなのである。モーツァルトのインスピレーションが最も高みに達したものとしてアンダンテに注目するならば、ロンドは形式の大家としての彼の卓越を示すものなのである。

 18世紀の初期の単純で小規模のロンドとモーツァルトの最晩年の四重奏曲、五重奏曲や協奏曲のソナタ・ロンドとの間には計り知れない距離がある。さらに、ヨハン・クリスティアンがロンドンの聴衆のために書き、ソナタ、四重奏曲や協奏曲を苦も無く締めくくったロンドと、彼の弟子であるモーツァルトのロンドの間にも大きな隔たりがある。モーツァルトは、彼の音楽的才能が輝き始めた幼年時代から一貫して、ヨハン・クリスティアンや彼の同時代人たちが次々と大量に生み出していたロンドの無味乾燥さに甘んじることは決してなかった。

 モーツァルト流のソナタ・ロンドは、クープランが用いた単純なロンドー(rondeau)の形式を発展させたものではない。クープランのロンドーは、リフレインの繰返しによって分離されたクプレあるいはエピソードが直線的に連続することより先には行かない。それぞれのクプレは独立したもので、前に出てきたクプレが繰り返されることはない。楽章を有機的に繋ぐ唯一の仕掛けはリフレインであり、それは通常変更されることなく繰り返される。クプレの数は決まっていない。この種の楽章はその世紀を通して見出されるが、モーツァルトのフィナーレでもクープランのもの以上に形式上で複雑とは言えないものも存在する(原注1)

(原注1)例えば、ロ長調と変ホ長調のセレナーデ、K.361〔13管楽器のための〕やK.375などである。

 ソナタ・ロンドの起源は、フランスの歌劇作曲家たちの舞曲“ロンドーで(en rondeau)”17ロンド(輪)になって踊ろう、という意味である。に求められなければならない。これらは、概してただひとつのクプレしか持たず、2つ以上あることはめったにないという点で単純なロンドーとは違っている。このような舞曲の2つが結び付けられた時に、ソナタ・ロンドへの歩みが始まるのだ。ラモーの多くの舞曲はこの方向を指し示している。ためしに、Les Indes Galantes1735)〔優雅なインド人〕の第1幕を閉じるリゴドン(rigaudon)とタンブラン(tambourin)18リゴドンは4分の2拍子、または4分の4拍子の飛び跳ねるような舞曲、タンブランは同名の打楽器の伴奏で踊る舞曲。を吟味してみよう。これらの舞曲はそれぞれ同じ構成である。最初のものは属調に導いていくクプレをひとつだけ持つト長調のロンドーである。2つ目のものは、それと同じ道筋をたどるが、短調であり、その後最初の舞曲が繰り返される。このような一組の舞曲とソナタ・ロンドの間の類似性は容易に見て取れる。

 2番目の舞曲は2部構成(CD)であることが多い。そうであったとしても、ソナタ・ロンドとの類似性は近い。最初の舞曲はリフレイン、提示クプレ、リフレインの回帰に相当するだろう。第2の舞曲は展開部クプレに相当し、さらに初めのリフレインに戻り、再現部となる。

 後の形式との主な違いは、リフレインとクプレを截然と分けるはっきりとした区切りがないということにある19原文が曖昧であるが、明確な区切りがないのは後の形式のほうである。。しかし、初期のロンドーでも常にその区切りが明確であったわけではない。クープランは、一度ならず、楽章を通じて出てくる主題やモチーフを使用することによって彼のロンドーを一体化しようと試み、ラモーは、ハープシコードのためのホ長調のタンブリン、Les Cyclopes〔サイクロプス〕、La Follette〔いたずら好き〕やLa Vilageoise〔村娘〕などでこの試みをさらに進めている。La Vilageoiseでは、第1クプレはリフレインと同じ主題で開始され、16分音符の低音で伴奏される第2のエピソードの後で、同じ音形でリフレインへ進む(原注1)Les Cyclopesは、次のアナリーゼが示すようにモーツァルトに非常に近いところまでわれわれを導く。

(原注1)これと同じ工夫がK.449〔No.14 変ホ長調〕のロンドの第2のパートで見られる。

 長く複雑なリフレイン、その第2のパートは開始部の小節を想起させる多くの旋律を含んでいるが、もしそれが同じ調性にとどまっていなければ、提示部に相当するものであろう。しかし、これは、モーツァルトやベートーヴェンのロンド・ソナタの豊かで多主題のリフレインに非常に似ている。第1と第2のクプレと間で繰り返されるのは最初の4小節のみであり、(a)と(b)のほぼ50小節のすべてが回帰する時には、それは再現部の印象を与える。実際、これらの小節が初めて現れる時に近親長調に転調しないということさえなければ、Les Cyclopesはソナタ・ロンドの早い時期の例と見なされても良いものである。いずれにせよ、それはその形式の出現を十分に予想させるもののひとつである。

 それゆえにモーツァルト流のロンドは、フランスの“ロンドーで(en rondeau)”舞曲を2つ組み合わせ、その第1部を回帰させたものをより精緻なものにしたに過ぎないとも言える。

 第2番のピアノ協奏曲〔No.6 K.238 変ロ長調〕でそれは十分な姿で現れる。それは1778年から死にいたるまで、ほとんどの彼のピアノ協奏曲で用いることになり、また、すべての作品においても他のどのような形式にもまして頻繁にモーツァルトがフィナーレに採用したソナタ・ロンドをあますことなく示すものなのである。

 この楽章は舞曲“ロンドーで(en rondeau)”のように、第2部の後に第1部の全体が繰り返される。そしてそれは実際のソナタとほぼ同じくらい緊密に一体化しているのである。最後の部分全体が再現部となっており、それゆえにこれを、より有機的に構成されていない他のロンドと区別するために、ソナタ・ロンドと呼ぶことを提案しているのである。これは、それぞれの部分が他の2つの部分と同じ主題、すなわちリフレインによって分離され、提示部では属調で終わる代わりに主調に戻る、こうしたソナタであるとも言えるだろう。

 モーツァルトでは、“規則通りの”ソナタ・ロンドはほとんどない。彼はソナタ・ロンドを完全に自分のものとしていたので、他の形式の場合に比べ、自らを定まった構成の内に止めることが少なかったのである。K.451ニ長調〔No.16〕のソナタ・ロンドは、あらゆる面でその定型に従っている数少ない例であり、これを分析しておくと好都合であろう。

 提示部であるリフレイン、それは2つの旋律から成り、主調から離れることはないが、その後に提示部の一部でもある第1クプレが始まる。2つの旋律が識別でき、第1のものはニ長調で約40小節にもわたる。第2のものは属調である。それは転調し、主調に戻ると同時にリフレインに回帰するという点で、ソナタの第1部にあたるものである。リフレインは変更されることなく繰り返される。楽章は第2クプレに進んでいくが、そこでは第3主題を短調で提示した後、リフレインの主題と第1クプレの第2主題が展開される。この部分はソナタの展開部に相当するものである。最後に、リフレインがもう一度繰り返され、そして細部に変更をくわえられた1クプレの全体が主調から離れることなく回帰する。そしてリフレインがもう一度奏される。そこからカデンツァに移行するのだが、その後で4分の2拍子だった楽章は、8分の3拍子のきわめて長いコーダで幕を下ろすのである。これは次のように概略を示すことができる。

 このソナタ・ロンドは完全に型通りのものであり、さらにいえば、その第2クプレが本当の展開部になっているという点で本来のソナタに近いものである。この特徴は、変ホ長調の弦楽五重奏曲〔No.6 K.614〕、変ロ長調K.450〔No.15〕とハ長調K.467〔No.21〕の協奏曲のフィナーレのみが持つ共通点なのである。モーツァルトの他のソナタ・ロンドは全てある種の不規則性を示している。それはある時はわずかであり、またある時には際立つこともあるが、考察すればするほど何等かの不規則性がその全体に十分な多様性をもたらすことがはっきりと見て取れる。時にはリフレインが最初に出てきた時の構成要素であった主題のいくつかを欠いたまま回帰してくることがある。あるロンドではさらに、展開部と再提示部の間が全て省略され、2つのクプレに縮減されてしまったかのように見えることもある(原注1)。また、時には第1クプレが主調で始まり属調で終わる代わりに、属調で始まり主調とは離れた別の調に変わっていくこともある。そして最後に第3クプレが提示部クプレの一部を省略したり、新しい主題を持ち出してきたり、第2クプレやリフレインのフレーズを回想するようなこともあり、その可能性は無限である。

(原注1)K.413〔No.11 へ長調〕、K.414〔No.12イ長調〕、K.456〔No.18変ロ長調〕、K.459〔No.19へ長調〕K.488〔No.23イ長調〕;2台のピアノのためのソナタK.488〔ニ長調〕;変ホ長調の四重奏曲K.493〔ピアノ四重奏曲第2番〕;弦楽三重奏曲K.563〔ディベルティメント 変ホ長調〕

 最後のクプレの後のリフレインはしばしば短縮される。一度のみだが、それを欠いていることさえある(原注1)。そして、通常はそれにコーダが続く。また作曲家の気まぐれによって、それは長いこともあり短いこともあり、いくぶんか新しい素材であることもある。

(原注1)ピアノ・トリオ ハ長調K.548〔No.6〕

 さらに、たとえ“不規則性”があることを認めたとしても、ロンドの中にはどのような明確な形式にも還元できないものさえある。「小夜曲(Kleine Nachtmusik)」や変ロ長調ピアノ・ソナタK.57020原文は The finale of the Kleine Nachatmusik of the piano sonata in B flat, K.570となっているが、これはThe finale of the Kleine Nachatmusik and the piano sonata in B flat, K.570であるべきで、間違いと思われる。ピアノ・ソナタK.570のフィナーレが「小夜曲」と呼ばれた事実はないし、曲想もそうではない。ちなみに、両者ともそのフィナーレは不規則なロンド形式である。本文を修正して訳した。、変ロ長調の四重奏曲K.589〔No.22 プロシャ王セット第2番〕のフィナーレは独自の構成に基づいているが、協奏曲の場合でもそのようなものがいくつかある。

 ゆったりとした拍子のアンダンテの直後、ピアノがフィナーレの主題に出会う喜びに溢れて勢いよく立ち上がる。独奏は、オーケストラが最初の音を発する前にそれを展開させ、己を主張する。弦は反復和音でつぶやきながら、ぴったりとピアノについてゆく。霧につつまれたような、よりそうような背景を得て、輝かしいリフレインの輪郭はさらに輝きを増すのである。総奏からフィナーレが始まることはほとんどなく、特に情熱的な主題の場合はそれが全くないが、楽章が静かで物思いに沈んだものである時、または主題と変奏形式の時に、ピアノはしばしば管弦楽にその主役の座をゆずることがある(原注1)。このような始まり方は概して短い。しかしK.271〔No.9 変ホ長調 ジュノーム〕での40小節に及び、無分別ともいえるようなその長さだが、例外的なものである。ひとたび主題の輪郭が明らかになると、オーケストラはそれを反復し、様々な補完的なモチーフを付け加えていく。この開始部の総奏には型通りの結句が続き、そして主調での全終止へと導かれることもある(原注2)。そして続いてピアノが展開部クプレを開始する。このような協奏曲においては、リフレインはもはやギャラント・ロンドの心地よい小唄ではなく、いくつかの明確な主題(原注3)と結末の小コーダを持った真の意味でそれから発展したものなのである。

(原注1)K.382〔ピアノと管弦楽のためのロンド ニ長調〕、K.386〔ピアノと管弦楽のためのロンド イ長調〕、K.413〔No.11 へ長調〕、K.414〔No.12イ長調〕、K.453〔No.17ト長調〕、K.491〔No24ハ短調〕、K.503 〔No,25 ハ長調〕
(原注2)K.488 〔No.23 イ長調〕
(原注3)2つあるいは3つである。K.482〔No.22 変ホ長調〕には4つある。

 クプレの大部分は概してピアノが主役であるとは言え、オーケストラが完全に引っ込んでしまうことはない。伝統的なロンドの名人芸というものは、特に19世紀以来のフンメルやモシュレス、ショパンのような意味で伝統的なものなのだが、モーツァルトにおいては、彼の第1楽章同様にロンドでも見ることができない。純粋な名人芸なるものはモーツァルトにはほぼ無縁である。モーツァルトが彼の主題を修飾し、展開し、相互に連携させていく輝かしい走句21原文はrun。主要主題や副次的主題などを繋ぐ、やや急速で連続する装飾性を持った経過句的なもの、ガードルストーンの言葉を使うならば「モルタル」的なものである。訳には「走句」を用いたが、これはpassageの訳語として作られた語である。本来は「翔り」のような音や演奏の動きに主眼を置いた言葉を使いたいが、それはモーツァルトにあっては別の意味が付加されてしまうこともあり、適語がないため走句を用いることにした。は、常に表情に富み、デュセック、フンメル、クラメール、フィールド、シュタイベルト、コジェルフやその他のギャラント時代のピアニスト兼作曲家たちがやったようには、手を加えることができないものなのである。提示部クプレは主調から属調へ移りつつ展開する。遠隔調へ迷い込むことはほとんどなく、またそのテンポを変えることもほぼない(原注1)。しかし、第1と第2主題の間に短調のエピソードを挿入することは常に可能である。それは、第1楽章の独奏の主題がしばしば短調であることと対応しているのだ。クプレの最後のところのリフレインの回想は通常独奏の役割であり、オーケストラはその後でそれを反復する。

(原注1)K.415〔No.13 ハ長調〕はその第1クプレに同主短調で短い、感動的なアダージョを挿入している。

 真ん中のクプレは、第1楽章の展開部と同様に予期せぬ驚きを与える。それはロンドの中核となる部分であり、それを聴くために他の部分があるとさえ言える場合もある。

 K.450〔No.15 変ロ長調〕では、ピアノと管楽器が一緒に洗練され機知に富んだ会話を交わしながらリフレインを開始し、それが完全に回帰するまで戯れつづける。K.415〔No.13 ハ長調〕は、ここでリフレインを構成している3つのモチーフを回想し展開する。K.246〔No.8 ハ長調〕は第1クプレの主題をリフレインへ回帰するための架け橋として使っている。そして、K.271〔No.9 変ホ長調 ジュノーム〕、これは最も風変りなもののひとつだが、この部分の3分の2を占めるメヌエットと変奏曲に入っていく前に、短調でリフレインの最初の旋律を回想している。

 しかし、ほとんどの協奏曲ではこの点、伝統的な“ロンドーで(en rondeau)”舞曲に忠実であり、この第2クプレの構成に新しい要素を取り込み、(もうひとつのフランスの特徴であるが)それを短調としている。これらの新しい要素は、はっきりとした主題とも言えないパッセージや走句であり、すべてのモーツァルトのパッセージのように旋律的ではあるものの、明快なひとつの調べを形づくるものではない。しかし、それらによってこのクプレは即興の性格を帯びることになるのだ。われわれはまたしても、モーツァルトが、時にはあれほど形式家でありながら、ファンタジーの天才でもあったことを思い知らされるのである。

 このような中間クプレの特徴を要約するのは不可能である。モーツァルトがわれわれを驚かそうと心中密かに意図した時、それを唐突にわれわれの上に放つのは、ここなのだ。4分の2拍子の最中に複雑なメヌエットをはさみ、しかもそれを4拍子に変化させているのも、ここである(原注1)。また、8分の6拍子のギャロップの中で立ち止まり、3拍子のアンダンティーノで回想するのもここである。それはあたかも、過酷な炎暑の中を辿ってきた猟師が、突然目の前に現れた広々とした詩的な風景を、馬を止めて愛おしげに眺めるようである(原注2)。そして最後だが、彼が非常に気楽で陽気さに満ち溢れている時には微塵も感じさせなかった悲劇が突然現れて、ロンド全体を短調の暗い色調で覆ってしまうのもここなのである。ここで念頭にあるのは、特にあの堂々としたK.503〔No.25 ハ長調〕のフィナーレである。その第2クプレは、フランスのロンドの簡素な短調を至上のものにしたといえる、偉大なドラマチストの発した最も感動的な言葉のひとつである。

(原注1)K.271〔No.9 変ホ長調 ジュノーム〕 (原注2)K.482〔No.22 変ホ長調〕

 しかし、徐々に、暗い嵐の雲、メヌエットやアンダンティーノ、自由なファンタジーはすべて消し飛んで、懐かしいリフレインの輪郭がわれわれを見知った土地へと連れ戻してくれる。このリフレインの回帰は、やや馴染まれ過ぎているために、ロンドの弱点でもある。モーツァルトは、5つの協奏曲(原注1)でそれを省略し、すぐに再現部22再現部クプレ、すなわち第3クプレのことである。に入ることで、この楽章をより強靭なものにしている。またその他に、ほとんどそれとは気づかないくらい切り詰められて再現するか(原注2)、主調ではなく他の調で回帰する時もあり、最後の協奏曲K.595〔No.27 変ロ長調〕のように、再現部を待ちきれなかったかのように終わる前に停止し、消えてしまう例もある。

(原注1)K.413〔No.11 へ長調〕、K.414〔No.12イ長調〕、K.456〔No.18 変ロ長調〕、K.459〔No19 へ短調〕、K.488 〔No.23 イ長調〕 (原注2)ピアノ四重奏曲ト短調K.478〔No.1〕

 第3クプレでは、ピアノは第1クプレの場合ほどは大きな役割を果たさないが、これもやはり作品によって非常に多様である。ほとんどの協奏曲ではすでに第1クプレで耳にした主題を省いてそれを短縮し、ここは退屈なものになりやすいと気づいて結末へと急ぐ。すばらしいハ長調協奏曲K.503〔No.25〕に対してただひとつ非難の余地があるとすれば、それはまさしくロンドのこの第3クプレがあまりに長く、またあまりに第1クプレと似ているということである。その結果、ほんの少しだが退屈を感じてしまうのだ。

 第1楽章はめったにコーダに登り詰めていくということはない。作曲家はそれをフィナーレのためにとっておくのである。K.450〔No.15 変ロ長調〕のコーダは低音で3連符のモチーフを繰り返し、変ロ長調で騒々しく語りがむしゃらに疾駆するロンドは、次第に熱を帯びていくゴール前の足踏みの中で終わりを告げる。K.595〔No.27 変ロ長調〕ではより安らかであり、緊張を高めることなくフィナーレに導かれ、陽気な音調ながら、この作品全体のものであるわずかに悲しみを帯びた甘美さを保っていくのである。それらのいくつかは、協奏曲は騒々しい勝利の音響の中で終結を迎え、ピアニッシモで消えていくべきとの慣例を破るものである。ヴァイオリン協奏曲のうち2作品〔No.3 K.216、No.5 K.219〕はこのように終わっている。ハ長調協奏曲K.415〔No.13〕の終わりは、既にどこかで奏でられたリフレインの小さな断片をつかまえて、ピアノとオーケストラの間で受け渡しながらどこまでも増殖させていき、コーダ全編を通じて暮れかかる森を飛行する妖精のように滑らかに進んでいくのである。すべてが徐々に消え去っていき、ただ揺らめきだけが残り、それすらも薄暮の中に消え去って、終わりを迎えるのだ(原注1)

(原注1)完全を期すために次のことをつけくわえておこう。ふたつの協奏曲、K.415〔No.13 ハ長調〕と449〔No.14〕は完全に不規則なもので、定まった構成をとっていない。また、K.537〔No.26ニ長調 戴冠式〕は2つのクプレを持つロンドであり、2部構成のソナタのように、展開部を省いている。

 外観上モーツァルトの協奏曲の形式は、各作品でその主要なところで大よそのところ共通している。ソナタ・アレグロ、ソナタ・アンダンテ、ロンドまたは変奏曲のフィナーレという続き方がめったに破られることはない。しかし、その表面下に至れば、その多様さは限りない。彼の協奏曲のひとつひとつを見ていくことで明らかになる細部の変化を数え上げてきたが、それはわれわれにとっても長いと感じるものであり、読者を戸惑わせるのではないかとの懸念もあったのだが、それでもロンドとソナタが経た変容のほんの一部に触れたにすぎないのである。しかし、このことが、モーツァルトは常に同じであるとの誤った考えを正す手助けになるならば、読者を戸惑わせたことを残念とは思わない。しかし、ここでいったん止めて、モーツァルトの無限の多様性が持つその他の面を明らかにする役割を個々の協奏曲の精査に委ねようと思う。


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