協奏曲第8
〔No.12〕 イ長調(K.414

1782年の夏あるいは秋(原注1)

アレグロ:4分の4拍子(C
アンダンテ:4分の3拍子(ニ長調)
アレグレット:4分の2拍子

オーケストラ:弦;オーボエ2、ホルン2

(原注1)全集版番号で第12番。前曲の原注を参照)

 

 この協奏曲の全体的な性格は、この前のもの〔No.11 K.413〕と同じである。これらの2つの作品は近親関係にある。ともに同じ穏やかな風土の中に生き、呼吸をし、聴衆に衝撃を与えるどころか、単に驚きを与えることさえも避けている。この2つは申し分なく洗練されているのである。

 しかし、似ているのはここまでで、形式的には、イ長調〔No.12 K.414〕はひとつ前のもの〔No.11 K.413 ヘ長調〕ほどの面白みはない。一方で、その曲想はより個性的である。その最初の4小節はまさしくモーツァルト的であると同時にわれわれがユニークなものとして即座に歓迎するモーツアルトでもあるのだ。それに対し、K.413〔No.11 ヘ長調〕のモーツァルトは、誰にでも口にできることを誰よりも上手に語ったモーツァルトに過ぎないのである。さらに、第10小節での主題の再帰につける管楽器の単純な保持音(1小節遅れで)が、直ちにこのイ長調の作品を詩的な次元にまで高めるのだ。

 第1主題の優雅で憂愁に満ちた無頓着さととろけるような甘さは巨匠モーツァルトの多くのイ長調作品のものでもあり、1786年の協奏曲〔No.23 K.488〕に、より大きな広がりを持って再び現れてくるものであり、また、1789年のクラリネット五重奏曲〔K.588 イ長調〕にある静謐さ(それらの悲しみに満ちた出発点の記憶を失うことなく)に昇華するものである(譜例43)

 我々がここで辿っているのは感情面の発展である。形式についてはまた別の歴史となる。主題はモーツァルトにあって極めてありふれたタイプに属する。それが初めて現れる作品のひとつは、ハフナー・セレナーデ(1776年)のフィナーレを開始するアダージョであるが、そこでの意味はこの曲とは同じではない。それは1789年のプロシャ王四重奏曲ニ長調〔No.21〕で再び現れるが、その意義は今見ている協奏曲により近いものである。この主題の外見とその意味の乖離は好奇心を誘うものがある。主題の数は必然的に限られているが、表現の力は無限なのである。

 管楽器の武張った旋律に、第1ヴァイオリンが音階の断片で答え、それが3度聞こえる。そしてヴァイオリンがピアノpで聴き手をこの主題の出発点に連れ戻し、再び開始される。リズミカルに始まる弦の新しい音型が半拍ずれ込んだ音階に変わっていき、すぐに通常の騒々しい属和音での停止が続く。最も重要なフレーズのいくつかが繰り返されることと、旋律線が2度、あるいは少なくとも狭い音幅で進行しようとする傾向がアレグロ全体を特徴づけている。それらを通して、このアレグロに色濃く記されたゆったりした拍動の情緒と憂愁やけだるい甘さが表現されている。このパッセージは再び現れることはなく、それが占めている場は後に独奏の主題にとって代わられる。

 この非常に慣例的な騒々しい終結は、いらいらさせるほど、さらに言えば滑稽なくらいに対照的である。モーツァルトの他の主要作品で、楽想の内容とそれをくくる慣習的な進行方式がこれほどの対照的なものはない。主題の間の類似性という点でこの曲に似ているひとつ前の協奏曲〔No.11 K.413 ヘ長調〕では、このようなオペラ的に大げさな終結がなく、その結果より強い統一性が生じるのである。ここでは、あたかも各々の主題がその独立性を保ち、己の居場所に留まることを強く求めているかのようだ。その目的のために、このような紋切型にデザインされた防御壁を主題間に築き、現れては感情の流れを妨げるのだが、これには居心地の悪さを感じる人もいるだろう。

 第2主題は、モーツァルトのウィーン時代の多くの協奏曲のように行進曲のリズムを持っている。これはその最も早い作例のひとつである。しかしながら、これは心浮き立つような行進曲ではなく、冒頭のけだるい無頓着なタッチが未だに残っており、足を踏み出すよりも夢に我々を誘うのである。それは深みのない風景を横切る幽霊のような、操り人形の行進を思わせる。その旋律は非常に注意深く主音を避けて鋭い経過音を繰り返し、拍動にさからってその強勢がつけられる(譜例44)。役割は巧妙にユニゾンのヴァイオリンとビオラに割り振られている。その音型はそれを引き延ばす美しいパッセージの中に融解していく。低音の保持音1この低音の保持音は、ビオラによるものである。の上を、各小節ごとに短い下降音型に区切られて、第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンが交互に交替しながら1小節に1度ずつ階段を昇っていく2ここでのガードルストーンの表現は聴覚的なものである。実際には譜例45の上段第1~3小節第3拍目までの、比較的大きな、16分音符の4下降音+シンコペーションの5同音+2分音符と1音下の4分音符」という3つの部分からなる2小節分の音型が音階に添って上昇する。最初の「16音符の4下降音」が1度上昇ごとに区切りを付ける役割を果たし、「シンコペーションの5音」が第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンで交互に上昇していく形となるが、これが聴覚上はa scleが上昇するように聞こえるが、この様子を「階段を登る」と表現しているものと思われる。そして、最後の2分音符がもう一つのヴァイオリンの5同音の冒頭と2度でぶつかるのである。譜例45に見るように、極めて単純な構造ながら驚くべき巧妙な音響効果を上げている。なお、譜例45の上段は第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリン交互のものが同一段に記されたものである。。その結果うまれた両者の2度でのぶつかり合いによって、行進曲の夢のような雰囲気が、ff(フォルテッシモ)での一時の総停止3新全集版では、ffでばなくfである。まで保持されるのである(譜例45)。前のものとよく似た第3主題4ガードルストーンは第3主題としているが、この主題は第2提示部および展開部では出現せず、再現部で出現するだけの、ひとつの副次的主題である。なお、新全集版で2つ採録されているカデンツァの短いもの(A)はこの主題に基づくものである。が現れ、総奏が短い音階のパッセージで、それを繰り返して終わり、そして主音で終結する。この導入部はすべてイ長調から離れることがない。

 すでに述べたことだが、この曲のインスピレーションがヘ長調協奏曲〔No.11 K.413〕より個性的なものであっても、形式はよりありきたりである。独創的な独奏の入り方はない。またピアノは単に第1主題を拾い上げ、最初は、無伴奏で、2回目は弦の保持音を伴い、これを述べ直す。そして総奏が今耳にしたばかりの結尾の音形で入り、ピアノはそのモチーフのひとつを取って、そこから他のものと似た特徴の独奏主題を作りだす5ここはガードルストーンの表現がやや不明確である。ガードルストーンの言う「just herad、今耳にしたばかり」という表現は、直前のこともあり、またかなり前のこともある。直前のこととすると、ここで総奏が入る「今耳にしたばかりの結尾」とはその直前のピアノの第79~81小節の結尾音型を直ちに総奏が取り上げて入ることでなければならない。しかしピアノはそこからこの音型のひとつのモチーフを取り上げて続けるとあるが、これは第84小節の音型、すなわち第1提示部結尾の第62~63の小節の音型である。したがって、「今耳にしたばかりの音型」は直前のピアノの音型でもあり、第1提示部の結尾部全体の音型をさしているとも言え、どちらかは確定できない。。前の協奏曲と同じくらい簡潔で華麗なパッセージの後、ホ長調にたどり着き、総奏が行進曲を開始する。4小節を終えたところで独奏がそれを奪い去り、16分音符の伴奏を加えながら、この曲に徐々に活力を浸み込ませていく。オーケストラは再び沈黙、あるいはほぼ沈黙の状態に戻り、提示部の最後になってやっと沈黙から抜け出し、ピアノが語ってきたことに、すでに耳にしている終止音型6第1提示部の結尾部、第2提示部に入って第1主題提示部を閉じ、ピアノ独奏主題を導いた終止音型である(第145~152小節)。で喝采するのである。

 展開部は通常より大きな自由があるものだが、ここでの動きは始終やや型通りなものに留まっている。最初にピアノだけに委ねられた、行進曲のリズムの新しい主題が現れる。この協奏曲の他の多くの主題と同様、これが2度提示される。ここではまだホ長調である。束の間の活力が独奏を勢いづかせ、4小節のアルペジオの後、嬰へ短調に転じ、ピアノとヴァイオリンが短い対話を交わし、両者の応答は劇的ともいえる形で重なり合う。その勢いは情熱へと高まり、オーケストラとピアノは主調と近親短調の領域を大股で足早に進み、最後には強い情念とともに引き続くトリルと休止へと着地する。これはこの楽章で最も刺激的なパッセージであるとともに、ピアノと弦のインタープレイゆえに最も興味深いところである。左手と低弦は重なり合い、ヴァイオリンとビオラによって、またピアノの右手のアルペジオは1オクターブ上で、ハーモニーをつける。

 モーツァルトの再帰の仕方は非常に多様であり巧みなものが多いのだが、この曲では、簡潔で、おざなりでさえある。休止の後、カデンツァが暗示されるが、それは3オクターブにわたる下降音階である。そして沈黙の小節を経て、弦が第1主題を取り上げる。この、あたかも展開部の最後と再現部の間に開いた穴をカデンツァで塞ぐような発想は、3年後にモーツァルトがもうひとつのイ長調の協奏曲〔No.23 K.488〕を作曲した時に再び現れる7この曲の作曲を1882年と見れば、No,23 K.488は1886年で、正確には4年後である。。これは感情のみならず技術上の想像力が同一の調性において同じような道をたどるひとつ例である。モーツァルトにあっては、同じ調性の作品間の楽想および形式の類似性が特に明らかである。彼の音楽を探求していくと、常にこのことに気付かされるのである。

 しかしながら、同一調性の作品の間で近似性があるならば8原著はif kinship exists between keys、調性間に類似性があるならば、とあるが、ここは文脈上からも当然同一調性間の作品の間での類似性について述べるべきところであり、本文をその趣旨で修正した。、それは同様に同時期の作品の間にも存在し、この楽節は同様な類似を思い起こさせるのである。モーツァルトが単なるカデンツァだけによる再現の仕方を使ったのはイ長調の協奏曲だけであるが、この方法が表現する感情、突然にひとつのムードから全くことなったものへ移る感情的転回がまた1782年の協奏曲においても同じ個所で再び91882年の協奏曲は、K.414、K.413、K.415の順に作曲されたというのが定説である。したがって 原文againはそのまま「再び」と訳した。見出されるのである。この曲ではカデンツァがそれを表現し、K.413〔No.11 ヘ長調〕では転調とテンポの変更で、K.415〔No.13 ハ長調〕では転調、リズムの変更そして短いカデンツァで、と同一経験の3通りの解釈の手法である。

 再現部は第1部を変更なしに繰り返すことはない。それは独奏主題と第2主題に続くパッセージを凝縮し、その最後のところでモーツァルトは提示部から引用した音型を繰り返すが、ハーモニーを保持したまま軽妙にそれを転回させる10第246~248小節。これは第2提示部第128~130小節を転回させたものである。厳密な転回ではなく、上向の16分音符を下降させる形に変形させたものである。第3主題は弦によって提示され、ピアノがそれを取り上げ、このパッセージを辿りながら最後の経過句に入るが、結局それらのほとんどはイ長調の和音を強調しているに過ぎず、引き延ばしているのである。この時になってやっと夢見るような低音が再帰(譜例45)するが、それは急ぎ足でカデンツァに導く。カデンツァ集(原注1)にはこの楽章のためのものが2つ含まれているが、そのうち短い方のものは第3主題を基にしており、はるかに魅力的である11新全集版でもカデンツァAおよびBの2つが採録されているが、短いものはカデンツァAである。現代の演奏では残念ながら、長い方のカデンツァBが使われることが多いようである。。そして、幾分軽く浮いた感じで、コデッタがこの楽章を締めくくる。

(原注1)この協奏曲のためのカデンツァの草稿(K.624、7-14)にはその裏に、1786年のもうひとつのイ長調協奏曲K.488 がスケッチされている。これによってそのカデンツァが作られた時期を定める助けになるかも知れない。モーツァルトが同じイ長調のより大きな作品を構想していた時に、この小さなイ長調を再び取り上げたのは奇妙なことだが、それは教えるためのものであったことは疑いない。

 

 同じ年の他の2つの協奏曲のアンダンテが取るに足らないことに比べれば、この曲のアンダンテははるかに重要度が高い。それはほとんど宗教的とも言える荘重な主題で開始され、際立って十分に和声づけられている。時折あることだが、これを急いで演奏することは、それから意味を奪い取ることになり、十分な音価が低音に与えられなければならない(譜例46)。それは弦によって提示され、アレグロの第1主題を思わせる音型の第2主題がそれに続く。伴奏の連続音がそれに第1主題よりも軽快な足取りを与える。それに続いて、ほんの一瞬であるが、半ば開いた扉を通して詩心にあふれる世界を目にするものの、その扉はまたすぐに閉じられ、聴衆は強い驚きと切望のうちに取り残されるのである(譜例47)

 ピアノが第1主題を反復し、次に第2主題に移る前に、ピアノのためにとって置かれた新たな主題を挟み込むが、それが再び現れることはない。第2主題はイ長調で現れるが、その旋律線は装飾されてトリルへと導き、最初の独奏が閉じられる。

 再び扉が半分開かれ、聴衆はたった今見たばかりの神秘的な世界を目にする。しかし今回は、2小節の後、扉は閉じられずに大きく開いて、聴衆は妖精の国へと飛び込んでいく。ピアノがまさに最初の和音から大胆に入ってくる。長調から短調へ、モーツァルトではほぼ常に特別な意味を持つ推移の仕方で、神秘が突然深まる。ヴァイオリンとビオラの3度のさざめきがひとつのフレーズを終止させるが、ピアノが同じように、もうひとつのフレーズを開始する12この部分のガードルストーンの記述は、音楽の前後関係が曖昧である。上の「ピアノがまさに最初の和音から大胆に入ってくる(The piano enters it boldly with its very first chord.)と、後ろの「ピアノが同じように、もうひとつのフレーズを開始する(The rustling of violins and violas end one phrase)は、同じ展開部の冒頭(第57小節)のことを述べたものである。すなわちこれは譜例48に他ならない。。すでに長調に戻っているが、それらはほの暗い。しかし、それは美しい一日が終わりを告げる薄暮の暗さなのである。短調の時は、それは不吉な、迫りくる凶事の前兆であった。弦はpp(ピアニッシモ)に減衰し、独奏が再びmf(メゾフォルテ)(原注1)で入る13新全集版では、ppおよびmfの指示はない。ただし第1提示部の第1主題を閉じた同じ「さざめき」の音型にはppの指示がつけられており、同型であるため敷衍できるものと考えられる。。明るさの変化だけでなく、エネルギーも湧き上がり、未知のものに向かって引っ張られ動く力も強まるのである。未来は我々に何をもたらすのか、とピアノが問いかけているようである。

(原注1)ブライトコップが出版したピアノ独奏用編曲につけられたピアノ(p)は、全集版にはない。しかし、このパッセージの感じからすると、明らかに必要なものである。

 オーケストラに見放されたピアノは孤独な反逆者のように旅を続ける。オクターブ上でその音型を繰り返し、激しい注釈を付け加える。そしてホ短調の和音の上で幾分静まるのである(譜例48)。オーケストラは服従させられ、主導権を失い、まだ短調ではあるが、その主題を新たにピアノ(p)でつぶやくだけである。独奏が激しい上昇の音型で、拍子とは逆のアクセントで強調しながら再び発進し、ロ短調に至って停止する。オーケストラがまた声をあげ、そして、まだ従属的ではあるが、同じフレーズをさらうのである(譜例4914ガードルストーンの手書き譜ではQuarture(弦4部)となっているが、これは2小節目から5小節目の第1音までがピアノのパート、後の部分は弦4部の統合譜となっている。)。三たびピアノが入ってくるが、今回はもっと寛いで、しばしの間ではあるが長調を連れ戻す。そして最初にホルンが、次いでオーボエが保持音を奏し、ピアノの歩みを伴奏する。さざめきの音型を離れることはないが、しかしそれぞれの繰り返しごとに新しい意味を付け加えながら、3度の確認を通して15譜例50の3小節目で16分音符の小さな音型が3回反復されることを言っているものと思われる。ロ短調からイ短調へ転調する経過パッセージである。、弦がそれを再びイ短調で取り上げるところまで導いていく。その間、ピアノはトリルでこの旅の終わりを告げることに専念するのである(譜例50)

 モーツァルトは、展開部を提示部の最後のモチーフによって開始することによって、提示部と繋げることを好んだ。特にピアノ協奏曲では第1楽章に二重終止線がない16二重終止線は、弦楽四重奏曲のような提示部と展開部を区切る終止線であるが、これがあるということはフレーズが完全に切れてしまうことを意味する。この曲のアンダンテの例では、提示部の最後の音と再現部の最初の音が重なり、連続性が担保されている。二重終止線がないと、このような表現がしやすいことを言っている。ことが交響曲や弦楽四重奏曲よりもこの方法をとりやすいのである(原注1)。しかしアンダンテではめったにこのやり方をしないし、展開部全体をこのモチーフで構築するということはさらに稀である。今回は、たった今消え入ってしまった主題を取り上げるにとどまらず、その美しさに捉えられて、己をそれから引き離すことができないのだ。しかし、たとえ新しい素材があったとしても、この過ぎ去っていったもの以上の異なるものを作り出すことはできなかったであろう。

(原注1)K.482〔No.22変ホ長調〕、K.537〔No.26 ニ長調 戴冠式

 再現部は、独奏の主題を省いて、その他を変更することなく繰り返す。K.624のカデンツァ集の2つの中で、長い方は第2主題を基にしており、一方は第3主題を基にしている。後者がはるかに魅力的である。

 

 この協奏曲のアンダンテがヘ長調〔No.11 K.413〕やハ長調〔No.13 K.415〕のものよりはるかに優れているとしても、そのロンドはそれらのものに比べて面白みがない。リフレインは4分の2拍子で、その軽快な足取りと決然とした様子は、第1楽章のとろけるような甘さや第2楽章の荘重さと対照的である。全体を通してロンドはこの特性を保ち続けるのだが、それにも関わらず、その主題間には、K.413〔No.11 ヘ長調〕のメヌエット‐フィナーレ以上に対照的なものがある。

 このロンドは同じく2部構成であり17No.11 K.413のロンドと「同じく」の意味である。、その第2部は、わずかに変更を加えるだけで、第1部を反復する。総奏のみが3つのモチーフからなるリフレインを提示し、その2つ目のものはユニゾンによって行われる(譜例51、a、b、c) 。第1クプレは新しい主題で開始されるが、次いで弦がユニゾンのモチーフ(b)を回想し、ピアノが対位法的な扱いでそれを取り上げる。第1ヴァイオリンが続いて新しい主題を引出し、そしてピアノがそれを完結させるが、数小節にわたって両者は対話を交わす。ピアノが3連符の伴奏を伴ってモチーフ(b)を再現し、クプレの残りの部分はこのモチーフに関したものである。それは異なった和声づけで、ピアノからオーケストラへ、またピアノへと受け渡される。

 ピアノ、そして総奏がリフレインの最初の部分を繰り返し、総奏が(b)を持ち出してくるが、それを終える前に、警句のようにイ長調からニ長調へと転調する。独奏が第2クプレを新しい主題で開始し、ヴァイオリンとビオラがそれを使って、数小節にわたる会話を交わし、そしてピアノが締めくくる。しばしの勢いの時を経てロ短調からホ長調へと移り変わり、イ長調で第1クプレの主題18第1クプレの主題となっているが、これもモチーフ(b)のことである。を見出すのである。ホ長調からイ長調に転調されたモチーフ(b)が再び変形されることなく取り上げられ、そのオーケストレーションによりロンド全体の中で最も興味深い11小節のセクション、すなわちホルンと第2ヴァイオリンによる主音の保持音に乗って(b)が対位法的に展開され、カデンツァへと導いていく。カデンツァの即興(ad libitum)は、第1クプレを開始した主題で終わるが19第1クプレを開始した主題がカデンツァに含まれているのではない。正しくは「カデンツァの即興は、ピアノが第1クプレを開始した主題を奏し始めることによって終わる」である。、6小節にわたってピアノがそれを試みた後で飽いてしまう。総奏がそれを終わらせようとするが、やはり諦めてしまい、ピアノがもうひと働きをし、弦に伴奏されて数小節のカデンツァ・オブリガータ(cadenza obbligata)を付け加え、通常のトリルではなく属7の和音で終止する。この楽章は、さらに譜例51(c)でカデンツァの直後に、しかも最後からたった6小節という位置において、ピアノに、オーケストラにも加わらせながら最後のリフレインの回帰をさせるという掟破りをするのである。

 カデンツァへ導いていくところを別にすれば、このロンドの中で最も興味深いのは、ピアノとオーケストラがインタープレイを行う稀有な個所である。すなわち、すでに言及した(b)を展開させるところで、ピアノヴァイオリンがモチーフを提示し、ピアノが強い拍子の和音で伴奏する。それはモーツァルトの他の作品では見いだせないものである(譜例52)20譜例52は第152~154小節のものである。このフレーズは第1クプレの第68~69小節で既出だが、ここでは4度高くなっているため、強い拍子がより強調されたものになっている。

 

 

ロンド イ長調(K.386

1782年10月19

アレグロ:4分の2拍子

オーケストラ: 弦、オーボエ2、ホルン2

 

 この協奏曲のロンドでもうひとつ興味を抱かせることは、ケッヘルによって386という番号をふられたピアノとオーケストラのためのロンド イ長調との類似性である。この曲のスコアはモーツァルトの生前には出版されず、未完であったが、前世紀(18世紀)にはまだその形をとどめていた。しかし、競売人たちの無頓着な扱いによって、ばらばらにされてしまったようである(原注1)

(原注1)これは一時ステンデイル・ベネットの所有に帰していた。最近になって2葉が発見され、前世紀〔18世紀〕の40年代にこれらから、またシプリアーニ・ノベロが出版した独奏ピアノ用編曲から、アルフレッド・アインシュタインが楽章全体を再構築した(ユニバーサル、1936)。

 草稿に書かれた日付とアンドレの注によると、それは1782年10月19日で、それがこの協奏曲のフィナーレとして構想されたのではないかと思わせる。それはK.414の第1楽章と同じ憂愁に満ちたさりげなさを感じさせ、おそらくモーツァルトは、2つの楽章の類似性がある種の単調さを生じさせると考えたのだろう。それで彼は、アレグロとは全く異なる、活気を帯びたきびきびとした調子の現在のフィナーレに差し替えたのかも知れない。それは確かに同じ時期のものなので、ここで論じられるべきだろう。

 これは珍しく長い総奏で始まる。モーツァルトほとんどのロンドは、独奏に主題を提示させているが、総奏の提示部が終わるまでそれを待たせているものもいくつかある。しかし、これほど提示部が広範なものはない。それは3部分からなるリフレインを持ち、その第1の部分のみがリフレインの都度回帰するだけである(譜例53)。第2の部分はさほど重要ではなく8小節の長さしかない。そして第3部分は、より充実していて、ピアノpとフォルテのユニゾンのパッセージからなり、4小節のコーダへと導く。

 そこでピアノが、わずかに変形された第1部分の旋律で入ってくる。それは3小節の推移句を経て、ホ長調でモーツァルトのお気に入りのテーマ21付点8分音符と1音上の回音付き16分音符およびさらに1度上の2つの8分音符というモーツァルトが瀕用する音型である。によって開始される第1クプレに導いていく(原注1)。そしてピアノが、拍子が整った、かつ優美な技巧的パッセージへ展開させる。そこでは腕の交差が一役を果たすが、すぐに、この楽章の第2主題(譜例54)を成す旋律で、カンタービレへと戻る。これはK.415 〔No.13 ハ長調〕の第2主題と近親関係がある(譜例15b)。それに、非常に短いが、技巧的なパッセージが続き、カデンツが中断され、その後に総奏がこのセクションを終わらせる。これは後に反復されるが、ロンドの中で、その規則正しくややけだるいリズムが幾分耳障りな音によって乱される唯一の箇所である。そして、美しい対話のパッセージがリフレインへと連れ戻す(譜例55)

(原注1)3度、4度、5度の音階に基づく。ハ長調の協奏曲K.246〔No.8〕、415〔No.13〕、503〔No.25〕の第1楽章を見られたい。また同じくニ長調の四重奏曲K.575〔No.21 プロシャ王セット第1番〕の第1楽章、展開部の開始を見られたい。223度4度5度は、このモチーフの第1小節目の音程幅を言っていると思われる。例であげられているK.246は5度、K.315 は4度、K.503は5度である。なおこのK.386は3度幅、K.575の場合は6度の幅である。なお、前者3例については譜例15のa~cで挙げられている。

 

 後者は最初独奏に、そしてオーケストラに戻り、オクターブの音型を付け加え23ピアノの左手、チェロおよびコントラバスによるオクターブ音型である。、第2クプレの基調である嬰ヘ短調へと転調する。それは主和音の32分音符のアルペジオで、総奏は伴奏と反対の動きで交差するが、それはポッターの編曲〔ノベロの出版した独奏版の編曲者〕に一部示されたものである。しかし技巧的なパッセージはすぐに終わり、嵐の予感の中から譜例54が、低音の変更を伴って短調に移されることで、この楽章の中でこれらの数小節が最も独創的なものとなる(譜例56)。その旋律が再び始まり、1度ずつニ長調へと下降しながら、そこで一時停止し、次にイ短調、ホ長調を経て、主調にそしてリフレインへと戻る。

 楽章の残りの部分はすべて総奏によって反復されるリフレインによって構成され、その後非常に短いピアノのパッセージが続き、第1クプレで出てきた中断されたカデンツへと導き、その後、これが最後となるリフレインの開始部が提示されるが、ピアノがそれに駆け抜けるような数小節を加え、ロンドは総奏からピアノへの2回の鋭い応答とともに、典型的なやり方で閉じられる。

 非常に節度ある技巧性と技術的な平易さがこの楽章の外面的な特徴である。その形式はK.413〔No.11 ヘ長調〕とK.414〔No.12 イ長調〕の2つのクプレを持つロンドと似ている。それは後者〔K.414〕よりも転調が少なくリズムもより単調である。実際にモーツァルトがイ長調の協奏曲〔K.414〕のために書いたとしても、現在のロンドと差し替えなかったことを悔やむ理由はなく、現在のものの方が優れているのである。しかし、これは心地よい小品であり、アルフレッド・アインシュタインによる再構成はすべてのモーツァルティアンが感謝すべき、敬虔な仕事である。

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