The Narrow Road of OKU 改訂の跡をたどる
PART Ⅰ(百代の過客~仏五左衛門)
1. The travellers of eternity 百代の過客
【原文】
■月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也。
【第二訳】
The months and days are the travelers of eternity. The years that come and go are also voyagers.
【最終訳】
The months and days are the travelers of eternity. The years that come and go are also voyagers.
GSQ
キーンさんの訳に問題があるわけでも、最終訳での改訂もありませんが、『おくのほそ道』冒頭ですので、あげておきました。
SUA
元になった李白の詩「夫天地者万物之逆旅、光陰者百代之過客」から考えれば、日々は過ぎ去って還らないのですから、例えば、冒頭の文章は、
The months and the days are the travelers who have gone by eternally.
としても良いのでは。
GSQ
なるほどキーンさんの訳では、月日は永遠に旅し続けるという意味になりますね。いずれ「キーン訳 おくのほそ道を読む」の方に改訂していれましょう。以下は、最終訳で第二訳が改訂されている箇所のみ取り上げます。
【原文】
■舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらへて老いをむかふる物は、日々旅にして、旅を栖とす。
【第二訳】
Those who float away their lives on boats or who grow old leading horses are forever journeying, and their homes are wherever their travels takes them.
【最終訳】
Those who float away their lives on ships or who grow old leading horses and forever journeying, and their homes are wherever their travels take them.
GSQ
第二訳のboatsが最終稿ではshipsに改訂されています。両者にはどんな違いがあるのでしょうか。
SUA
芭蕉の原文は「舟」ですから、そのままだとboatが正しいように思えるが、乗船して生活するわけですから手漕ぎの舟ではなく、帆のついた船としたのでしょう。実際に芭蕉は「笈の小文」の旅では乗船していますから、旅との関係では、沿岸を船で行く旅をイメージしたのでしょう。
【原文】
■そゞろ神の物につきて心をくるはせ、
【第二訳】
Everything about me was bewitched by the travel-gods, and my thought were no longer mine to control.
【最終訳】
I seemed to be possessed by the spirits of wanderlust, and they all but deprived me of my senses.
GSQ
ここはほとんど改訳です。まず最初の文ですが、第二訳はEverythingが主語、最終訳では、I、私が取付かれたという形に訳し直されています。
SUA
Bewitchedは「魅入られた」ということで、Possessedは「取りつかれた」ですから、「物につきて」の訳としては後者の方が適切です。いずれの場合もIが主語になるべきです。前者の「私のすべてが」はリダンダントです。
GSQ
第二訳のthe travel-gods、それに対し最終訳のthe spirits of wanderlust、どう違うのでしょうね。
SUA
Sprits of Wanderlustすなわち「旅心をいざなう精霊」と素直に表現したわけです。第二訳の「旅の神」では、これは何の神だと欧米人は思うでしょう。
GSQ
後半の文、第二訳はmy thoughtがコントロールできる自分のものではない、とちょっと不自然な訳ですね。それに対し最終訳のthey all but deprived me of my senses.は随分自然な文に感じます。
SUA
「何物かに憑かれて心がくるう」との意味であれば、I seemed to be possessed by the spirits of wanderlustの文のみでいいと私は思いますがね。「憑かれる=ものぐるひの状態になる」ですから。
GSQ
そう言われると、なるほど、後半は不要ですね。
【原文】
■道祖神のまねきにあひて、取るもの手につかず
【第二訳】
The spirits of the road beckoned, and I could do no work at all.
【最終訳】
The guardian spirts of the roads beckoned, and I could not settle down to work.
GSQ
道祖神を最初はthe spirits of the roadでしたが、最終ではthe guardian spiritsとなっています。第二訳の方は単なる精霊のようなものになるので「守り神」の意味を込めたのでしょうか。
SUA
道祖神は「村境、峠などの路傍にあって外来の疫病や悪霊を防ぐ」神ですから、「守護精霊」はより正確な訳です。
GSQ
後半の文、両者にはどのようなニュアンスの差があるでしょうか。第二訳では全く仕事ができない、最終の方は仕事しようと思っても着手できない、といったニュアンスを感じますが。
SUA
その通りですね。したがって、「何かやろうと思ってもできない」とした後者の方が適訳です。
【原文】
■もゝ引の破れをつゝり、笠の緒付けかえて、
【第二訳】
I patched up my torn trousers and changed the cords on my bamboo hat.
【最終訳】
I patched up my torn trousers and changed the cord on my bamboo hat.
GSQ
笠の緒の複数を単数に改訂しています。笠の緒のことを調べてみたのですが、二通りのものがあり、一つは緒の両端を笠に結びつけ、顎の下ので緒に通した留輪で締める形、もう一つは両側から垂れた緒を顎の下で結ぶものです。後者は2本別個に笠に結んだものなのか、それとも笠の上部を通してあるだけで実質は1本なのかは分かりませんが、おそらく1本だったのでしょうね。しかし、手軽に締めたり緩めたりできる前者が旅の傘としては好都合のように思えます。
SUA
私もそう思って調べました。本来は1本でないかと思います。
GSQ
それにしても、こんな細かなところまでキーンさんは再確認して訳をブラッシュ・アップしているのですね。頭が下がる思いがします。翻訳、特に古典の翻訳とは大変な作業なのですね。
SUA
誰かにわざわざ指摘されたのでしょうかね。その程度のことだと思います。
【原文】
■松島の月先づ心にかゝりて、
【第二訳】
Then the thought of the moon at Matsushima began to occupy my thoughts.
【最終訳】
By then I could think of nothing but the moon at Matsushima.
GSQ
「先ず」を時間的に考えれば、第二訳の方が原文に近いように感じますが。最終訳は英文としてはより優れているように思えますが、意味が変わってくるように感じます。
SUA
「先ず」は「どうにも、いかにも」ととるべきなのでは。そうであれば、後者の訳の方が適訳だと思います。
【原文】■草の戸も住み替はる代ぞひなの家
【第二訳】
Kusa no to mo
Sumikawaru yo zo
Hina no ie
Even a thatched hut
In this changing world may turn
Into a doll’s house.
【最終訳】
Even a thatched hut
May change with the dweller
Into a doll’s house.
GSQ
これは前にいろいろ検討したところですね。第二訳は読み方によってはひなの家に「替わる」動因が移ろいやすい「代」、すなわち、changing worldにあると読めるように思えます。原文の解釈次第で間違いになるわけではないのに、キーンさんは、ほとんど含意のない、ストレートなものに改訂しています。どういう考えがあったのでしょうか。
SUA
単純に訳し過ぎたと思ったのでしょう。できるだけそのままにして、読む人の解釈に任せたいと。
【原文】
■面〔おもて〕八句を庵の柱に懸け置く。
【第二訳】
(none)
【最終訳】
This became the first of an eight-verse sequence.
GSQ
この最後の文を第二訳は省略しています。最終訳でも原文の意味を変えて訳しています。面八句を理解させるのが難しいと感じたからかでしょうか。
SUA
「自分がここにいたとしるしおく」のですから、重要な文なのですが、Keene氏は、芭蕉は句を詠んだのみで、実際に懸け置いたとはとらなかったのでしょう。
2. The Start of the Journey 旅立ち
【原文】
■弥生も末の七日、明ぼのゝ空朧々として
【第二訳】
When I set out on the twenty-seventh of March, the dawn sky was misty.
【最終訳】
When I set out on the twenty-seventh of the third month, the dawn sky was misty.
GSQ
弥生は旧歴だからでしょうね。西洋歴でいうMarch=3月と弥生とはかなりずれがあるはずです。それで改訂したのでしょうね。
SUA
Marchの語源はMars、軍神ですからね。弥生の語源「草木の芽吹く「いやおい」」とはあまりにも違いますからねえ。
【原文】
■月は在明にて光おさまれる物から、不二の峯幽かにみえて、
【第二訳】
Though the pale morning moon had lost its light, Fuji could still be seen faintly.
【最終訳】
The early morning moon had lost its light, but the peak of Fuji could faintly be seen.
GSQ
第二訳ではstillだけで時間の経過が示されていますが、最終訳は文全体が時間経過を表現しています。ずっと良くなっているように思いますが。
SUA
The Peak of Fujiとしたことでイメージがくっきりしました。Could faintly be seenの方は余韻があります。
【原文】
■上野・谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。
【第二訳】
The cherry blossoms on the boughs at Ueno and Yanaka stirred sad thoughts within me, as I wondered when again I should see them.
【最終訳】
The cherry blossoms on the boughs at Ueno and Yanaka stirred sad thoughts, as I wondered when again I might see them.
GSQ
第二訳のwithin meは当たり前ということでカットされたのでしょうか。
SUA
その通りで、まったく必要がありません。
GSQ
後半の文のshouldをmightに改訂しています。ニュアンスがどう変わりますか。
SUA
Shouldは確信的、Mightはやや曖昧な表現で、前者だと、「見ることができるのはいつであろう」、後者は、「見ることができるかも、できないかもしれないが」というニュアンスで、「心ぼそし」の表現としては無論後者の方が良いわけです。
【原文】
■千じゆと云ふ所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、
【第二訳】
When we disembarked at a place called Senju, the thought of parting to go on so long a journey filled me with sadness.
【最終訳】
When we disembarked at a place called Senju, the thought of the long a journey ahead filled me with sadness.
GSQ
第二訳は確かに単語に意味の重複が何重にもありますね。
SUA
第二訳は「別れ」partingもあってsadであるとしているわけですが、後の訳ではそれは余計なものとしてカットしているのです。
【原文】
■幻のちまたに離別の泪をそそぐ。
【第二訳】
As I stood on the road that was perhaps to separate us forever in this dreamlike existence, I wept tears of farewell.
【最終訳】
I stood at the crossway of parting in this dreamlike existence and wept tears of farewell:
GSQ
第二訳は離別が死別であるかのように訳されているような気がします。最終訳は以前いろいろ解説してもらったところです。
SUA
第二訳は言い過ぎです。俳句はいわばアンダーステートメントの芸術ですからね。常に言い過ぎは慎まねばならない。
【原文】
■行く春や鳥啼き魚は泪
【第二訳】
Yuku haru ya
Tori naki uo no
Me ni namida
Spring soon ends――
Birds will weep while in
The eyes of fish are tears.
【最終訳】
Spring is passing by!
Birds are weeping and the eyes
Of fish fill with tears.
GSQ
第二訳は完全な誤訳ですね。この「鳥」は春が終わって鳴く「だろう」鳥で、夏の鳥になってしまいます。鳥は今、芭蕉のいる目の前で鳴いている春の鳥でないといけませんね。最終訳はいいですね。
SUA
「行く春や」はどうしてもSpring is passing byでなくてはなりません。
【原文】
■是を矢立の初めとして、行く道なをすゝまず。人々は途中に立ちならびて、後ろかげのみゆる迄はと、見送るなるべし。
【第二訳】
I set out after composing this poem, the first of my journey, but I could barely keep go ahead, for when I looked back I saw my friends standing in a row, to watch me perhaps till I should be lost to sight.
【最終訳】
I set out after composing this verse, the first of my journey, but when I looked back I saw my friends standing in a row, no doubt to watch until we were lost to sight.
GSQ
発句(俳句)は poemではなくverseの方が適切なのですか。
SUA
普通、Verseは韻文と訳されますが、「連」、「節」の意もあり、従来は短詩が連なってゆく形式で発展した俳句は「句」で「節」より小さな単位なのですが、いずれにせよ、verseの方が相応しいのでは。
GSQ
第二訳では訳されていた「行く道なをすゝまず」が最終訳ではカットされています。原文もちょっと文脈が不明なところもありますが、キーンさんはどう判断したのでしょうね。
SUA
When I looked backで十分言い尽くせていると思ったのでしょうが、「後ろ髪を引かれて足が前に進まない」とのニュアンスがどこにもないので、やはりこれは不十分でしょう。
GSQ
最後の文節、最終訳ではかなり改訂されています。随分すっきりしたように感じますが、そのポイントは何なんでしょうか。
SUA
Perhapsなどと回りくどい言い方を止めて、No doubt to watch until we were lost to sightと簡潔に言い切ったからです。
3. Sōka 草加
【原文】
■ことし元禄二とせにや、奥羽長途の行脚、只かりそめに思ひたちて、
【第二訳】
This year, 1680, the thought came to me of going on a walking trip to the distant provision of Oku.
【最終訳】
This year, the second of the Genroku era, the thought somehow crossed my mind that I might take a walking trip all the way to distant Oku.
GSQ
さすがに西暦表記だと、ちょっと変ですね。注さえつけてあればいいはずです。
SUA
仮にもDairyなのですから、1680年はおかしいです。まあ、江戸時代の人は1600年でも1700年であっても全く気にかけないでしょうがね。
GSQ
「かりそめ」がsomehow crossedでその感じが出ているように感じます。その他いろいろ改訂されているようですが。
SUA
「かりそめに思ひ立ちて」は「たまたま心に浮かんだことだ」であると、somehow crossing my mindの方が適訳です。
【原文】
■呉天に白髪の恨みを重ぬといへ共、耳にふれていまだめに見ぬさかひ、
【第二訳】
It did not matter if I should have the misfortune to grow gray on my travels, for I wanted to see places I had heard so much about but never visited.
【最終訳】
It did not matter if I should be unlucky enough to grow gray on my travels, for I wanted to see places I had long heard about but never visited.
GSQ
どういう理由で改訂が必要だったのでしょうか。あえて変えなくてもいいように感じるのですが。
SUA
heard so muchをlong heardにしたわけですが、やはり、「長い間耳にしてきたが」のほうがいいですね。文章も簡潔になるし。
問題は「恨み」です。キーン氏はこれを「残念なこと」と解したのですが、「白髪の老人になってしまうような旅の苦労を重ねても」くらいの意味じゃないですかね。
【原文】
■若し生きて帰らばと
【第二訳】
On the contrary, it seemed to me that I should be fortunate if I managed to come home alive.
【最終訳】
It seemed to me instead that I should be fortunate if I managed to come home alive.
GSQ
前の文のunluckyに対してこの文のfortunateの対の関係ですが、なぜOn the contraryをinsteadに変えなければいけないのでしょうか。
SUA
On the contraryは文章語で、やや硬いと思ったのでしょう。前の文章を受けるにはinsteadの方が自然です。
【原文】
■定めなき頼みの末をかけ、其の日漸う草加と云ふ宿にたどり着きにけり。
【第二訳】
Leaving the future to decide this uncertainty, I pursued my journey to a town called Sōka, which we were barely able to reach the day of our departure……
【最終訳】
Leaving this uncertainty for the future to decide, I pursued my journey to a post-town called Sōka which we were barely able to reach the day of our departure.
GSQ
これは語順の変更ですが。
SUA
最終訳ではthis uncertaintyが強調されていますので、こちらがいいでしょうね。Post-townは宿場とはっきりさせたわけです。
(4. The Doorless Shrine of the Cauldron は第二訳では省略)
5. Buddha Gozaemon 仏五左衛門
【原文】
■卅日、日光山のふもとに泊まる。
【第二訳】
On the thirtieth of March we stopped at the foot of Nikkō Mountain.
【最終訳】
On the thirtieth of the third month we stopped at the foot of Nikkō Mountain.
GSQ
最初に見た3月の問題で解決ずみです。
【原文】
あるじの云ひけるやう、「我が名を仏五左衛門と云う。
【第二訳】
The innkeeper told me, “My name is Buddha Gozaemon.
【最終訳】
The innkeeper informed us, “My name is Buddha Gozaemon.
GSQ
特に大きな問題ではないですね。
SUA
Told usでも良いと思いますが、もう少しフォーマルに「告げた」としたかったのでしょう。
【原文】
■万正直を旨とする故に、人かくは申し侍るまゝ、一夜の草の枕も打ち解けて休み給へ」と云ふ。
【第二訳】
People call me Buddha because I am so honest in everything I do, so even if you are staying just for the night, please make yourself completely at home.”
【最終訳】
People call me Buddha because I am so honest in everything I do, so even if you are staying just one night, please relax and make yourselves at home. ”
GSQ
第二訳のfor the nightと最終のone nightと、どう違ってきますか。
SUA
For the nightは「夜の間(は)」で、無論これでもいいのですが、Justが前につく場合、どう考えてもjust one nightとよりストレートに言った方がいいでしょう。
GSQ
please以下ですが、第二訳はちょと固い感じがしますが、最終訳もrelaxとmake~at homeと同じことが重複されているように感じますが。
SUA
「打ち解けて休み給え」の丁寧な感じを伝えたかったのでしょう。
【原文】
■いかなる仏の濁世塵土に示現して、かゝる桑門の乞食順礼ごときの人をたすけ給ふにやと
【第二訳】
Wondering what kind of Buddha had appeared in the world of sin and dust to protect such poor pilgrim as ourselves.
【最終訳】
Curious as to what kind of Buddha had appeared in this world of foulness and corruption to protect such begger-pilgrim as ourselves.
GSQ
第二訳ではwondering、最終訳はcurious as toとですが、意味はかなり変わってくるのでしょうか。
SUA
「疑問に思う」と「知りたいと思う」の違いで、キーン氏はより積極的な後者であるとしたのでしょう。
GSQ
第二訳のsin and dustは濁世塵土の直訳に近いですが、これでは欧米人に意味がわからないのですか。最終訳はfoulness and corruptionですので、意味を解釈した上での訳になっているのか、と思いますが。
SUA
Sin and dustは欧米人にわかりますが、欧米的すぎて、特にsinがねえ。「濁世塵土」をより一般的な「厭離穢土(欣求浄土)」としたら、foulness and corruptionがぴったりきますね。
【原文】
■あるじのなす事に心をとゞめてみるに、唯無智無分別にして正直偏固の者也。
【第二訳】
I watched our host’s actions, and saw that he was ignorant and crude, but of an open and resolute disposition.
【最終訳】
I observed our host’s behavior, and saw that although he was ignorant and clumsy, he was honesty itself, …
GSQ
第二訳のactionをbehaviorに変えています。actionとbehavior、どう変わってくるでしょうか。
SUA
Behaviorは「態度、振る舞い」で、Actionにも当然そのような意味がありますが「動き」の感じが強く、あるじのなす事は何気ないしぐさも含まれるでしょうから、behaviorが適切です。
GSQ
第二訳ではbutでつなぎ、正直偏固だが無智無分別だ、としています。最終訳でalthough節にしたことで、正直偏固だが正直そのものだと、ひっくり返ります。原文は並置に近いので、どちらでもいいのかも知れませんが、キーンさんは正直を主に見たのでしょうね。
SUA
第二訳はむしろ「無智無分別だが正直偏固だ」です。最終訳では、正直であることを強調したかったのでしょう。Honesty itself「正直そのものだ」とさえ言っています。
【原文】
■剛毅木訥の仁に近きたぐひ、気稟の清質、尤も尊ぶべし。
【第二訳】
He was one of those Confucius describes as, “Strong, resolute, simple, and slow to speak―such a one is near Goodness.”
【最終訳】
…one of those described by Confucius as being “strong, simple, and slow to speak―such a one is near Goodness.”
GSQ
最終訳では微妙に表現を変えています。beingつないでます。また、resoluteを省いていますが、どういう趣旨で改訂したのでしょうか。
SUA
Strongで十分表現できていると思ったのでしょう。適切だと思います。
GSQ
この「仏五左衛門」の節は、ほぼ全面的に書き直されていると言っていいほどだと思います。原文は、挿話程度のものではないかと思うのですが、キーンさんは随分ここに力を入れているのですね。
SUA
芭蕉には珍しい人物評なので、きっちりと訳したかったのでしょう。
(5. Nikkō, or Sunlight~18.Takekuma は第1稿では省略)