協奏曲第23
(No.27) 変ロ長調(K.595(原注1)

1791年 1月5日 完成

アレグロ:C (4分の4拍子)
ラルゲット:C(変ホ長調)
アレグロ:8分の6拍子

オーケストラ:弦、フルート、オーボエ2、バスーン2、ホルン2

(原注1)全集版番号で第27番。

 

  協奏曲の時代が見事なハ長調〔No.25 K.503〕とともに輝かしい終焉を迎えたように、それに続く1787年と1788年の五重奏曲と交響曲に集約される時期も、モーツァルトがかくも頻繁にそのインスピレーションの“英雄的”かつ“オリンピア的”な側面を表現した同じハ長調の傑作において最高点に達するのである。彼の最後の交響曲〔No.41 ハ長調 K.551 ジュピター〕のフィナーレは4つの楽章のうちジュピターという名が真に相応しい唯一のものであり、ハ長調協奏曲がピアノの作曲家かつピアノの名手としての業績に対してそうであるように、それはモーツァルトの管弦楽曲の最後を見事に飾るものなのである。

 この交響曲は8月10日に完成した。そして、9月にモーツァルトはひとつの弦楽三重奏曲、ディベルティメント変ホ長調K.563を書いたが、そのインスピレーションはこの作品を今閉じたばかりの時代に繋げているのである。そして、モーツァルトの生涯で最も悲しむべき2年間の長い沈黙がやってくる。それは完全な沈黙ではなく、時折それは室内楽曲により、そして一度はオペラによって破られる。しかし、それに先立つモーツァルトがウィーンに出てきた以後の実り豊かな時とこれらの月日を比べれば、やはりこれは沈黙なのだ。

 モーツァルトの奇跡的な作曲能力という伝説に再び反駁するために、ここで、彼の重要な作品の数の少なさについてしばらく考えてみるのも良いだろう。この伝説によれば、この若き作曲家は休むことなくあらゆる種類の作品を送り出し、それもいともたやすく、しばしば嘆かわしいほど自らを真摯に省みることなく行ったというものである。彼の作品と共に過ごしていると、その成熟期においては、彼の最も生産的な時は、ウィーンで暮らした11年間すべてに跨るのではなく、2、3の時期の内に圧縮されることがわかる。確かにこれらの時期の実り豊かさは驚異的だが、その間の時期は大して作曲していないのである。その最も早い時期は、1784年の2月、3月、4月に訪れ、その時には、“大”協奏曲の最初の4曲〔No.14 変ホ長調K.449、No,15 変ロ長調 K.450、No.16 ニ長調 K.451、No.17 ト長調 K.453〕、ヴァイオリン・ソナタ〔No.40 変ロ長調 K.454〕および五重奏曲〔ピアノと管楽器のための五重奏曲 変ホ長調 K.452〕、つまり、2ヶ月半の間に重要な6曲である。2度目の時期は同じ年の終わりと翌年の初めで、その時は6か月を若干下回る間に4曲の重要な協奏曲〔No.18 変ロ長調 K.456、No.19 ヘ長調 K.459、No.20 ニ短調 K.466、No.21 ハ長調 K.467〕、3つの四重奏曲〔No.17 変ロ長調 K.458 ハイドン・セット第4番、No.18 イ長調 K.464 同第5番、No.19 ハ長調 K.465 同第6番〕、そしてモーツァルトの中でも最もすばらしいピアノ・ソナタ〔No.14 ハ短調 K.457〕と、8つの重要な作品である。そして、今我々が離れようとしているその1788年の半ばにあの名高い7週間が到来するのだ。そこでモーツァルトは、偉大な3つの交響曲〔No.39 変ホ長調 K.543、No.40 ト短調 K.550、No.41 ハ長調 K.551〕の間にピアノ・トリオ〔ピアノ三重奏曲No.5 ホ長調 K.542、No.6 ハ長調 K.458〕やソナチネ〔No.15 ヘ長調 K.533/494、No.16 ハ長調 K.545〕などをまるで劇の幕間の軽い間奏曲のように挟み込んでいくのである。最後に、1790年の12月から1791年の3月にかけて、2つの弦楽四重奏曲〔No.22 変ロ長調 K.589 プロシャ王セット第2番、No.23 ヘ長調 K.590 プロシャ王セット第3番〕、1曲のピアノ協奏曲〔No.27 変ロ長調 K.595〕、そして2つの機械仕掛けのオルガンのための幻想曲〔自動オルガンのためのアダージョとアレグロ ヘ短調 K.594、自動オルガンのためのアレグロとアンダンテ(幻想曲)ヘ短調 K.608〕が次から次へと続いていく。その5曲のうち3曲は1か月の間に作曲されている。そしてこのことは、ついでにもうひとつの伝説を打ち砕く。それは、モーツァルトがその死を迎える時に精神的にも肉体的にも消耗しつくしていた、という伝説である。もし彼が常に非常に強い抑圧の中で生きていたのであれば、この豊饒さはまさに称賛すべきことなのである(原注1)

(原注1)ベイン1Alexander Bainは19世紀のイギリス(スコットランド)の哲学者、教育家によれば、人間の情緒特性の本質的な状態は怠惰である。モーツァルトの性質は情緒的であり、ジュリアン・ベンダが自らについて語っているように、それは置かれた状況の刺激、“ニルバーナ的な基盤〔快楽原則〕を刺激するいらだちや衝撃”によってのみ働くのである。

 1789年の春モーツァルトは11年前にパリから戻って以来、初めて行う大規模な旅行へと出発した。リヒノフスキー公からベルリン行きに随伴するようにと招かれ、モーツァルトはほとんど何の予告もなく、しかし、友人ホフデメールに必要な金を借りるために一筆書くことは忘れずに、4月8日に出発した。公爵とその一行は途中プラーハ、ドレスデン、ライプチッヒに立ち寄り、そしてその月の終わりにポツダムに到着した。そこでモーツァルトがバッハの弟子でありライプチッヒの聖トーマス寺院の音楽監督継承者の一人であるドーレス老人を訪ねた話はこれまでしばしば語られてきた。モーツァルトが教会のオルガンで行った即興演奏があまりにも美しかったため、ドーレスは“わが師が地上に戻って来た!”と思わず声をあげたのである。この訪問者に報いるため、彼は教会合唱隊にモテット“Singet dem Herr nein neues Lied〔主に向かって新しい歌を歌え〕”を歌わせた。ロヒリッツによると、モーツァルトはそれを聴いて狂喜し、そして“これはお手本になる!”と言い放ち、バッハのその他のモテットのパート譜を持ち出させて、自分のまわりの床の上にずらりと並べ、熱心にそれらを調べ、そして、写しを頼んだのである。

 もしこの北部ドイツへの訪問がモーツァルトの希望を膨らませたとしても、それはすぐに追い散らされた。プロシャ皇帝フレデリック-ウィリアムⅡ世は熱心な音楽家であり、巧みなチェロの演奏家でもあったが、彼の周囲のすべての音楽の職はすでに埋まっていた。その宮廷音楽家の中にフランスのチェリスト、デュポール某がいたが、モーツァルトは彼を嫌い、その国の言葉を学びもせずに“ドイツに居座りドイツの飯を食らっている”と侮蔑的な言葉で非難したそうである。皇帝はモーツァルトにただ一度の演奏会を開くことさえ許さなかったが、彼はモーツァルトに100フレデリックの金貨入りの財布を贈り、そして自分のための6曲の弦楽四重奏曲と、娘フレデリカ皇女のために平易なソナタを6曲注文した。

 モーツァルトは妻に機転の利いた愛情あふれる手紙を書き、自分の落胆を隠そうとした。それは冗談めかしながらもこの旅行の金銭的な収穫のなさを彼女に知らせるものであった。“僕の愛する奥様、あなたは私の戻りを、お金ではなく私への愛情のために喜ばなくてはいけません。”モーツァルトの得たものは皇帝から得た財布とドレスデンでの演奏会がもたらした100デュカットのみだったが、にもかかわらず、彼はその一部を友人に貸してしまったのだ。彼が帰って6週間後、モーツァルトは忠実な友人プフベルグにまた手紙を書くのである。“私は最悪の敵に対してさえもそうあれとは望まない状態なのです! 私のすばらしい友人であり兄弟、あなたが私を見捨てるならば、不幸にも私には何の罪もないのに、哀れな病身の妻と子供とともに露頭に迷ってしまうことでしょう!”プフベルグがすぐに返事をしなかったため、モーツァルトは5日後に懇願を繰り返した。

 五重奏曲および交響曲の時期と、この時から始まりその終わりにモーツァルト最後の協奏曲が現れる時期を、この旅行とその結果である落胆が隔てるのである。彼の財政状態はウィーンを留守にすることでは改善されなかった。1787年の秋、モーツァルトは宮廷作曲家としてグルックの後を継いだが、報酬は僅かで、職務はつまらないものであった。彼の仕事は宮廷の舞踏会に舞曲を提供しさえすればよかった。そして給料の領収書にこう記した。“私がしていることに対しては多過ぎ、私がしたいことにとっては少な過ぎる!” 妻の健康状態は悪く、ウィーン近くのバーデンでの療養が家計出費に上乗せされた。

 翌年の秋の2度目の旅行もベルリンへのものと同じように引き合うものではなかった。1790年の初め、レオポルドⅡ世は兄ヨーゼフの王位を継承し、同年10月に戴冠のためにフランクフルトへ赴いた。彼は15人ほどの音楽家を含む随行員を引き連れ、宮廷音楽監督サリエリもその中にいた。しかし、モーツァルトは置き去りにされてしまったのだ。そこで作曲家は自らの費用でフランクフルトに行くことを決心し、義兄でヴァイオリニストのヨーゼフ・ホーファーと共に出発した。彼らは6週間ウィーンを留守にし、モーツァルトはフランクフルトだけではなく、ミュンヘンそれにマンハイムも訪れたのである。皇帝の首都でモーツァルトはわずかに1回の演奏会を開いたのみだったが、プログラムはすべてモーツァルト自身の作品であり、ヘ長調のピアノ協奏曲K.459〔No.19〕およびニ長調K.537〔No.26〕を自演したと思われる。後者が戴冠式協奏曲と名付けられているのはこの時の演奏によっている。モーツァルトは両都市で旧友と再会し、フランクフルトでウェットリング家の人々、ミュンヘンでラム家およびカンナビッヒ家の人々と、13年前のマンハイムとパリへの大旅行に遡る旧交を新たにした。彼の手紙は過ぎ去った時期を知るこれらの人々との再会の喜びを如実に示している。しかし、このような体験は過ぎ去った時と現在との違いをさらに生々しくまたさらなる悲しみとともに強く思い知らせたに違いない。この34歳の男は、不安にむしばまれ、ここ数年間の窮乏と幻滅から身も心も病みはじめており、今の自分と希望に満ちてザルツブルグをさっそうと出ていく、独立生活の入り口に立った21歳の若者とを苦い思いで比べたに違いない。

 この旅行はプロシャ旅行と同様に不首尾に終わった。しかしながら、ウィーンへの帰路、ババリアの選帝侯よりナポリ王に敬意を表して催される演奏会への出演を依頼され、音楽家は喜び勇んだ。というのもナポリ王は最近ウィーンを通過したが、モーツァルトは王の前で演奏することを依頼されなかったからだ。“ウィーンの宮廷にとって実に名誉なことだ”と妻への手紙に書いている。“王が私の演奏を聴きに外国の土地にまで行かねばならないのだから。”

 

 モーツァルトの物質的な窮乏は彼の作品の性質そのものにまで影響を与える結果となった。1787年および1788年の作品の豊かさと雄大さを見出すことはもはやなく、そのインスピレーションには彼を圧迫する不安が反映されているのである。そのインスピレーションは以前の時期のものに劣らないものの、喜び、強さ、熱情などが優勢を占めることがなくなったのである。

 純粋な器楽曲と比べて必然的にモーツァルトの気分を露わにする度合いが低いオペラ『コシ・ファン・トゥッテ』〔K.588〕を除けば、この2年間の主要な作品の数は6つである。ベルリンから戻ってすぐに、モーツァルトは受けた注文を果たすことに着手した。ニ長調のソナタK.576〔No.18〕、これはフレデリカ皇女のための一連の作品の内唯一完成されたものだが、“平易”からははるかにかけ離れたものだ。それに父王のための最初のニ長調の弦楽四重奏曲K.575〔No.21 プロシャ王セット第1番〕である。その夏の終わり、シュタッドラーとの友情がクラリネットと弦楽のための五重奏曲〔イ長調 K.581〕を生み出した。そして、翌年の春『コシ・ファン・トゥッテ』に没頭した数ヶ月の後に、さらに2つの、モーツァルトが書く最後のものとなる弦楽四重奏曲変ロ長調とヘ長調、K.589〔No.22 プロシャ王セット第2番〕およびK.590〔No.23 同第3番〕を完成させた。最後に6ヶ月以上の沈黙の後、ハンガリー人の音楽愛好家2ハンガリーのヴァイオリン奏者ヨハン・トスト。からの注文によって弦楽五重奏曲に立ち戻ることになり、ニ長調K.593〔No.5〕を生み出した。この1790年という年は彼の生涯で最も不毛なのだ。

 これら6つの作品を、形はやや多様ではあるが特徴的なひとつのインスピレーションが一貫しており、それは巨匠の才が自己の存在のみじめな状態にかくも徹底的に冒されていたことを示している。その中に3つの要素を識別でき、それらはひとつの作品の中では交互に出てくることもあるが、ひとつの楽章の中では決して一緒になることがない。

 その3つのうち、彼の生活状況に最も近いところにあるものを最初に挙げることにしよう。それは倦怠と疲労の気分であり、愁いに沈む諦念がみなぎり、以前の堂々とした自信を思うと悲しい気持ちになる。それは変ロ長調のソナタK.570〔No.17〕、ニ長調〔No.21 K.575〕および変ロ長調〔No.22 K.589〕の四重奏曲のアレグロ、またニ長調五重奏曲〔 No.5 K.593〕の第1楽章を開始し末尾を閉じるアレグレットで支配的である。“萎れた”という言葉は、変ロ長調の四重奏曲のアレグロ、そして特にそのアレグレットの気分の特徴を述べるために強すぎることはないのだ。アレグレットでは長く曲がりくねる16分音符が、喪章をつけた葬列のように展開されていく。

 ニ長調のソナタ〔No.18 K.576〕、ヘ長調の四重奏曲〔No.23 K.590〕、そしてニ長調五重奏曲〔No5 K.593〕の第1楽章のアレグロはもうひとつのモーツァルトのインスピレーションの特徴を明らかにするが、それは四重奏曲で最もはっきり見てとれる。この作品は気まぐれな性格を有し、そのために触れたがらない論者もいるが、アーベルトはそれをよく把握している。それは一種の知的な遊戯であり、ほとんど警句のようなもので、それはモーツァルトが冗談に使う調で書かれているのである。たとえそれが落胆の感情であっても、そこにいかなる深い情感をみるべきではない(原注1)。モーツァルトは理想と現実との相克が彼に課した問題をそれに背を向けることで解決したのである。その結果この四重奏曲は放棄と離脱の印象を残し、それはメヌエットにおける旋律に対するリズムの優勢でも明白だが、ソナタや五重奏曲の第1楽章における主題のやせ衰えた姿にもみられる。ここで、やはり知性の純粋な遊戯であるベートーヴェンの最後のいくつかの楽章の扱い方のことを思うのだ。

(原注1)もちろんアレグロについて言及しているのであり、瞑想的なアンダンテについてではない。

 この2種類の特徴はお互いに相容れないもので、2番目のものは最初の苦しみ対する防御かもしれない。一方で、3番目の特徴は憂愁と諦念に結びつく。これを言い表すのに美への渇望あるいは憧憬と呼ぶ以上の言葉はないだろう。確かに、憧れは常にモーツァルトの音楽の重要な部分であり続けたが、1789年と1790年の切なる思いはこれまでに耳にしたどれよりもさらに痛切に楽章全体に満ちているのだ。それは肯定的な次元にまで高められた“萎れた”ムードであり、それに満たされた楽章は深い満足感を残すのである。これらの中で、また同時にモーツァルトのすべての作品の中で最も美しいものはクラリネット五重奏曲〔イ長調 K.581〕のアレグロである。ここでは渇望は語ることによって和らげられ、楽章は高揚した晴朗さ3原文はtriumphant serenity。このtriumphantという形容詞がふさわしいかどうか疑問である。に特徴づけられている。それにも関わらず、その深奥には依然として悲しみの情が認められ、そしてそれが、晴朗さにもかかわらず、この曲を翌年の同じように静謐な音楽と異なるものにしているのである。ニ長調の四重奏曲〔No.21 K.575〕のアンダンテも同じ気分のものである。

 これら3つ特徴のみでこの作品群の感情内容をすべて言い尽くしているわけではない。四重奏曲は、第1楽章が生気のないあるいは情味に乏しいものであっても、フィナーレでは興奮気味のエネルギッシュな生気に満ちて覚醒し、対位法にそのエネルギーの出口を見出そうとする。変ロ長調〔No.22 K.589〕とヘ長調〔No.23 K.590〕のメヌエットと、3曲の四重奏曲すべて〔それにNo21 ニ長調 K.575〕のフィナーレ(原注1)には、聴衆を“大”協奏曲4原文は“great”concerto。この“”付きのgreatは、モーツァルト自らそう呼んだ第14~19番の協奏曲を示している。したがって続く「幸福な日々」は象徴的ではあろうが、1786年のことである。、幸福な日々へと連れ戻す大きさと多様さがある。特にメヌエットは1787年の五重奏曲〔No.3 ハ長調 K.515、No.4 ト短調 K.516〕のものと同様にそれなりに独特である。この対位法的インスピレーションはまた、凝縮の傑作と言うべきピアノのための小さなジーグK.574〔ト長調〕(原注2)でも、またニ長調の四重奏曲〔No.21 K.575〕のフィナーレや最初のオルガンのための幻想曲K.594〔自動オルガンのためのアダージョとアレグロ ヘ短調〕のアレグロでも見られるものだ。

(原注1)K.589とK.590のフィナーレおよびK.614〔弦楽五重奏曲No.6 変ホ長調〕の第1および最終楽章の単一主題的な性格はこの諦念の精神状態のもうひとつの側面である。
(原注2)モーツァルトがドーレス神父を訪ねた後で、バッハの模倣作として書かれたのだろう。

 最後には、1790年の終わりに2度にわたって、憧憬はさらに深まり、より瞑想的なムードへと進化し、驚くほど内省的な2つのアダージョを生み出した。それらがニ長調の五重奏曲〔No.5 K.593〕と最初のオルガン幻想曲〔K.594〕のアダージョである。前者の短調のエピソードは切迫感を持って反復される3連符を伴うが、それはあたかも昔の“声”が立ち戻り、葛藤の中から立ち上がってくるかのようだが、その他の部分の穏やかな荘重さは、それよりもベートーヴェンの第3期の作風のアンダンテやアダージョを思わせ、このモーツァルトの生涯の終わる前の年はベートーヴェンの作風をいろいろな形で思い起こさせるのである。幻想曲K.594〔自動オルガンのためのアダージョとアレグロ ヘ短調〕のアダージョでは、その軋るような半音階とともに、これまで決して耳にすることがなかった苦悩と穏やかさの融合が聴かれるが、それはあたかもモーツァルトが己の苦しみの産物を収穫しているかのようである。時に隔てられた芸術家に似通ったインスピレーションの存在を求めることが奇抜なことでないならば、もうひとつの幻想曲K.608〔自動オルガンのためのアレグロとアンダンテ ヘ短調〕のアンダンテの変奏曲をセザール・フランク、弦楽四重奏曲のラルゲットのフランクの気配が通り過ぎて行くと言いたい。

 疲労、諦念、離脱、切望、活力、内省、すべてがこれらの風変りな作品群のムードに見出されるのだが、通常ならば、それには人を寄せ付けない感があり、非モーツアルト的なものである。この作品群の中では、変ロ長調の協奏曲〔No.27 K.595〕がその最後の代表的なもののひとつである。

 先立つ作品群についてこれほど延々と語ってきたのは、これらの流れのいくつかが最後の協奏曲の中に貫流しているからである。不当かもしれない“萎れた”という言葉を用いたこれらの作品の中でこの協奏曲は最もすばらしく、最も充実したものである。その形式は単純であり、それ以前の偉大な協奏曲にあった複雑さも、興味深いディテールもないのだが、そのインスピレーションはそれらの中でも唯一無二のものなのである。

 その直前のもの〔No.26ニ長調 戴冠式〕は一連の作品の中でも最も派手でかつ表層的だが、反対に、この協奏曲は最も抑制されたものである。その感情の寛いだ性質はこの曲をまるで室内楽のようにし、大コンサート・ホールでの演奏に向かないものにしている。それにふさわしい演奏環境は、音楽愛好家…そしてモーツァルト愛好家の仲間で、その中の誰かの家に集まる、そのような場なのである。この曲がどのような機会に書かれたかはわからない。自分が演奏するためにモーツアルトがこれを作曲したとほぼ意見は一致しているものの、その確たる証拠はなく、カデンツァが存在していること、そして、その内省的な性格から、これが生徒のため作られたのではないかとも思わせるのだ(原注1)。モーツァルトが自らこれを演奏しなければならなかったならば、1784年、1785年、1786年の自分のための作品や戴冠式協奏曲〔No.26 ニ長調 K.537〕などのように、より華々しい作品を書いただろうと思われるのだ(原注2)。しかし、すべては憶測に過ぎない。

(原注1)1784年の最も親しみやすい協奏曲が他人のために書かれたものであることを思い出させるだろう。
(原注2)クラリネット奏者ビーアが開いた演奏家で、モーツァルトが自らこの曲を演奏したのは事実だが、それは2ヶ月も後の3月4日のことである。

 この2年間の作品にみなぎる諦念と懐古の情は、この曲の3つの楽章、8分の6拍子のロンドにさえにも存在する。それは協奏曲全体に悲しみのベールを拡げるだけではなく、しばしば、それがまるで人生の終わりを告げるような夕暮れの光を投げかけるのである。特にラルゲットは告別の情が色濃い。言うまでもなく、この曲をモーツァルト自身の死の予告と見做してはいない。たとえ11ヵ月後に死ぬ運命になかったとしても、1790年暮れのモーツァルトの気分がこれらの旋律に吹き込まれたであろう。さらに言えば、この協奏曲の後に書かれた、すなわち彼の死により近い作品のほとんどにはこの特質がなく、具体的に言えば、変ホ長調の五重奏曲〔No.6 K.614〕以上にこの曲から遠いものはないのだ。この諦念は常に見られるわけはなく、時折モーツァルトの魂は以前の年の反抗心を思い出し、より情熱的な音を響かせるのだが、それは長くは続かず、すぐに再び倦怠が覇を唱え、それがために、この曲のアレグロおよびロンドで見られるように、短調への落ち込みが際立つのである。

 

 アレグロは1小節の伴奏で開始され、一見些細なことと思われるが、実は、ト短調の交響曲〔No.40 K.550〕とともに、このように始まる、モーツァルトの協奏曲の唯一の楽章なのである。あたかも作曲者は第1主題を導き入れる前に、演奏会場を静めて聴き手の内に静謐な気分を引き起こそうとしているかのようである。

 第1主題は、ほとんどの古典期の協奏曲同様に、楽章全体を支配する感情を表しており、各1小節の2度にわたる中断によって分割された長さの異なる3つの旋律で展開する。ゆったりした自由なリズムによってこの曲はモーツァルトのすべての協奏曲の開始部の中で最も個性的かつ表現に富むものなっている。この3つの旋律は弦によって提示され、上下しつつ、この楽章全体に満ちる倦怠感から産み出された諦めの情を顕わにする。重く、しかし、しなやかな旋律線の下で伴奏が揺れ動き続ける。2度にわたって木管は戦いのようなユニゾンで呼びかけ主題の進行の中へ割って入るが、3度目に、その呼びかけは弦によって取り上げられ、ジュピター交響曲のフィナーレからの音型を再現する経過句へと入っていく(譜例391)

 弦と木管は再び分かれてひとつのモチーフで語り合うが、その魅力は音調の対照性にある(譜例392)。これはお決まりの属音での終止へと導き、3つの穏やかな小節5第25小節からの“羽ばたく2度”の小節であるが、4小節目の第28小節を“羽ばたく2度”による経過部の続きとみれば4小節、第2主題の序奏的なものとみれば3小節である。なお“羽ばたく2度”はこれまではある程度緊張感を高めるモチーフとされてきたが、ここでは「穏やかな」ムードを表現している。が第2主題を導き入れる。これは譜例391とほとんど同じ情感を表現しているが、それが反復される際に長調と短調の間を揺れ動くことで悲しみの情がさらに高まるのだ。それはト短調四重奏曲〔ピアノ四重奏曲No,1 K.478〕のアンダンテの美しい32分音符のパッセージを、この時期に近いものでは変ロ長調の四重奏曲K.589〔No.22〕のラルゲットのいくつかの箇所を思い起こさせるが6転調含みの下降音階の音型であるが、ピアノ四重奏曲K.478 アンダンテでは第1主題提示後のピアノのパッセージで現れる。また弦楽四重奏曲K.589のラルゲットは、第2主題部ですべての楽器で繰り返す転調含みの下降音階が出現する。、ここでの動きは長く引きずられた音階にさらなる活気を与えている(譜例393)(原注1)

(原注1)この音型は、変ロ長調交響曲K.319のアレグロに見られるが、それは4分の3拍子で、その伴奏と文脈は異なっている。

 第2主題に続いて、上昇音階を元にした非常に簡潔で装飾的な音型が、これは変形されることなくピアノで再帰するのだが、ピアニッシモからフォルテへと高まっていく。その16分音符が幾分かの興奮をもたらすが、突然の短調への落ち込みによってすぐに冒頭のムードへと引き戻される。さらにそれが小さな、何気ないカデンツ的な音型、譜例394へと直接繋がっていくのはそれ以上に思いがけないことなのだ。そしてその上で総奏は今にも終結すると思われる。短調へ転じるが、しかしその逸脱は一瞬に過ぎず7原文のThis excursion into the minor is but momentary. は、譜例394ですでに短調に転じていると読めるが、短調に転じるのはその3小節後であり、本文はその趣旨で訳した。、それが終わると弦が長くうねるような旋律を展開し、夕べの斜陽がその上に差し掛かる。それは音型としてもまた情感的にも譜例391に似ている。そしていつもの大音量の終止に至るが、通常の協奏曲ならば間違いなく総奏がこれで終わるはずなのだ。しかし、ここでは、変ホ長調のセレナーデK.375のアンダンテの終結部を思わせる、非常にモーツァルト的で機知に富んだフレーズが付け加えられるのである。

 この曲の冒頭を覆う夕暮の雰囲気は聴衆を1784~1786年の協奏曲からはるか彼方へ連れ去るが、一方その構成はそれらの協奏曲よりも以前のステージへと連れ戻すのだ。この曲のムードは1784~1786年の最もひたむきな協奏曲と同じくらい均一かつ持続的だが、その形式はより詩節的で、より分節され、その進行は終止で中断される。感情はより個人的なものではあるものの、直前の協奏曲と比べるとこの曲は古風に見え、ざっと見ただけでは実際より以前のものだとみなされるかもしれない。

 最初の独奏は総奏がほのめかしたものをはっきりさせる。もはやモーツァルトは、協奏曲が彼の表現の主要な手段であった頃のようには、形式の問題に関心を持ってはいない。独奏提示部は総奏のものを新たに作り変えず、同じ旋律に従い、第1主題と第2主題の間に重要なピアノのパッセージを導入し、さらに最後の部分を変形し短縮して展開部へとそれを繋げることに甘んじる。初期の協奏曲にはこれよりも意欲的でないものも確かに存在したが、1784年から1786年の間ではそうしたものは例外的なのだ。

 ピアノの入りには、これより情熱的な曲にある劇的な特徴が何もなく、いかようにもそのムードを乱すことがない。独奏楽器が第1主題を若干の音階と回音を控え目に付け加えて提示し、“呼びかけ”では木管が弦に取って代わる。主題が終わり、全オーケストラで奏されるジュピターの音型を耳にする。ピアノがそれを反復し、すぐに華麗なパッセージを加えるが、それは非常に簡潔で、長さは数小節のみである。そしてオーケストラが形通りの終止で介入するが、それは総奏の第2主題の前にあったものなのだ。

 ピアノは単独で、ヘ短調の心に響く旋律で前進し、それはこれまで過ぎ去ったものより劇的である。ここで、引きずるような音階8譜例395の後半は、「引きずるような音階」譜例393を変奏したものである。が再び現れる(譜例395)。それはピアノが高音部に昇り、2回9総奏提示部での第2主題を閉じる第37~38小節の変奏の再現。原文ではthriceで3回反復になっているが、実際には2回反復である。明らかな間違いなので、本文を修正した。情熱的なパッセージを繰り返す時にほとんど痛切なものとなる。それにフルートが(原注1)、後発でオーボエが抑制された、しかし印象的な対位旋律を描く(譜例396)。モーツァルトにおいて節度と抑制がこれほど悲痛な感情を表すことは皆無であった。

(原注1)確かにこれは、すべてのフルートの音楽の中で最も痛切な旋律のひとつである。フルート奏者はそれをはっきりと奏し切らなければならない。

 総奏がもう一度形式的終止を奏した後、ピアノは一瞬ヘ短調を確認し、特徴的なパッセージにおいて感情は次第に鎮静化していく。他の曲ではこのようなパッセージは技巧的なものになるだろうが、ここで用いられる技巧は非常に単純で、かつ情感も非常に寛いだものなので、技巧という言葉はそぐわないのだ。右手で、次は左手でと、ピアノは片手で金銀のすかし細工のような音型を描き、その下で最初は譜例395の冒頭の形10】第1ヴァイオリンによる音型である。新全集版ではこれにSoloの指示があり、ピアノと第1ヴァイオリン1本で奏される。また続く弦のピチカート部にもその指示があり、各弦楽器は各1本で奏される。モーツァルトはここで室内楽的効果を狙っているものと思われる。それは第122~130小節の間続き、弦各部が休止を経てTuttiを回復するのは第139小節である。を、次いでこの楽章を特徴づける上下する旋律をはっきり認めることができる。ヴァイオリン、そしてビオラとチェロが旋律線を拾い出したピチカートで伴奏をつけ、そこではピアノ・パートは装飾のみである。物思いに沈んだ靄の中のその協働の響きはきわめてモーツァルトらしいものである。

 ヘ長調がヘ短調を追い出し、この前のピアノのすかし細工はピアノと木管の対話の形で提示される譜例392の中へと消え去ってしまう。今聴衆は最初の総奏の道筋をたどるのだが、それはヘ長調なのである。第2主題、譜例393が弦によって拡張され、転調部分11第2主題の転調含みの反復部のことである。ではピアノが分解されたオクターブで第1ヴァイオリンに重なり主題を完結させる。ピアノに個人的な野心は全くなく、他のほとんどすべての協奏曲でするような華麗なパッセージを奏することなく、総奏で弦が提示した控え目な装飾的パッセージを再現することに止める12第1提示部第2主題の説明で述べられた「変形されることなくピアノで再帰する」と述べた上昇音階を元にするパッセージである。この音型はさらに再現部および自作カデンツァでピアノによって再現される。。最初は単独で、そして木管、さらには弦によって伴奏され、最初の総奏を再述するのである。最後の部分は活力を増し、劇的な停止へと導かれるが、それに対してピアニストは生き生きと若干速度を上げて停止の前の数小節を強調しなければならない。1小節の休止131小節とあるが、ひとつの四分休符の後すぐに木管が入る。がそれに続き、木管が全音符の音型を提示し、それは2度繰り返される。そのとげとげしく虚ろな声14第1および第2オーボエによる3小節にわたる不協和音がそれを強調する。にピアノが一連のト音を加え、その終わりはほぼ2小節保持され、それに2オクターブ高いナチュラルのロ音が続く。独奏者はその始まりの音をトリルで、後の音との間を音階で埋めなめればならない(原注1)。譜面のままに演奏すれば、このパッセージはつまらないものとなってしまう(譜例397)。これらの数小節の間楽章は息を殺しているようであり、いつものトリルへと導くきわめて簡潔な数小節の経過句を聴衆はあたかも解放されたかのように温かく迎えるのである。

(原注1)あるいはシュタイングレイバー版のように、両小節を半音階で埋めなければならない。

 展開部が近づくにつれ、モーツァルトは再び協奏曲の形式に関心を取り戻す。総奏の結尾を繰り返し、戴冠式協奏曲〔No.26 ニ長調 K.537〕のように、その最後の音で展開部を開始するのではなく、モーツァルトはオーケストラで新たなパッセージを導入するのである15トリルの後「総奏の結尾」が繰り返されるとあるが、繰り返されるのは譜例394の直前の終止のパッセージである。ガードルストーンが記すオーケストラの新たなパッセージは変ロ短調への転調の前には認められない。(戴冠式協奏曲でもモーツァルトの形式への関心は決してこの曲以上ではないが、その欠如が個性的なインスピレーションで補われていないのである)。最初は定石どおりだが、それは直ちに譜例394へと進む。その音型は総奏では何気ない調子であったが、ここでは変ロ短調への予期せぬ転調を生じさせるのである。譜例394の性格は予期せぬ振る舞いを見せるもので、ここでは最初の数音に切り詰められて、ヘ長調で出発し、すばやく転調し、聴衆をロ短調の入り口へと着地させ、そしてピアノが入口の鍵を外すのである(譜例398)

 展開部はこの楽章で最も注目すべきパートであるだけではなく、モーツァルトのすべての協奏曲の3つ、あるいは4つの最も見事な展開部のうちのひとつである。特にこのように野心的でも名高くもない作品に対してこれは言い過ぎかも知れない。しかし、この言い方が誇張だと非難する前に楽譜をともに一目見てもらいたい。

 オーケストラは沈黙し、ピアノが譜例391をロ短調で展開する。この主題はこのように移調されることで、非常に色濃い諦念が悲歌的なものに変わるのだ。弦によって投げかけられたユニゾンの呼びかけはホ短調を示すが、オーボエとバスーンによる転調の1小節がハ長調へと導き、ピアノがその提示部を反復する。呼びかけは今回初めてピアノと同じ調だが、すぐにハ短調へと落ち込み16弦の“呼びかけ”はハ長調だが、それに続く木管の“呼びかけ”の反復によってハ短調に転じる。その木管の後に直接ピアノが変ホ長調で呼びかけを行う。「弦の後に」ではない。、弦の後にピアノがそれを反復する時には変ホ長調で行うのである。それが終わらないうちにオーボエがピアノからその主題を盗み取り、最初の2小節に縮めて変形し(譜例399)、そしてバスーンがそれに答える。これは次に来るものをほのめかしているのだ。

 ピアノが主導権を取り戻し、譜例399を変ホ短調で提示する。様々に探し回った後で、これが実質的な展開部の開始となるのである17ガードルストーンは実質的な展開部の開始を第207小節からと見て、ここまでを展開部のための探索と捉えているようである。しかし、譜例394とそれに続くフレーズを経過部と見て第191小節のロ短調による第1主題の再現からを展開部と見ることも可能であろう。実際にガードルストーンはここの直前の譜例399の音型が展開部で展開される、と述べているのである。このような展開部の開始点の不明確さは、有節性の高い第1楽章にあってもインスピレーションの流れは途切れないことの表れであると見ることができよう。なお、新全集版では譜例399の直後に弦部にSoloの指示があり、再現部で総奏に回帰する指示があるまでソロが続く。実質的には木管は第1のみであり、「挿入された室内楽」が続く。したがって本文のガードルストーンの「実質的な展開部の開始」どおり、この部分を展開部とみなすことが最も妥当な判断であろう。。30小節余にわたって木管と弦は譜例391の主題の断片と呼びかけのユニゾンで会話を維持しながら、ほぼ短調で絶えず転調し続ける。一方で、ピアノは語りに参加することからほぼ常に排除され、オーケストラのパートのまわりを、旋律線に近づき、またそれから遠く離れつつ、途切れることなくアラベスクで装飾する(譜例400)。一瞬の間を除いてピアノ以外の諸楽器が前面に出続けるが、その数は決して多くなく、か細いピアノの金線細工を覆い隠すには至らない。独奏の技巧は他のところと同様に単純かつ素直であり、最後の2つのハ長調協奏曲〔No.21 K.467、No.25 K.503〕のような音塊効果も両手によるパッセージの痕跡もここにはなく、ピアノのスタイルも曲の構造同様に古風なために、情緒と協働の目新しさが一層際立つのである。

 この30小節はすべての協奏曲の中でも最も興味深いものに数えられる。最初は木管の間で、次いでヴァイオリン間で譜例399に基づいて展開される対話は対位法で2声部の模倣の形をとる。ユニゾンの呼びかけがピアノの分解された和音を背景に際立つが、その闘争性を失い、木管と弦に偏ることなく分け持たれる。ヴァイオリンにゲームを主導する番が回ると、両者は譜例391を再び変形させて18譜例391の主題は最初譜例399では第2小節目第2拍の16分音符が初拍よりも1度高く原型の下降ではなく上向音型として再現され、2度目の譜例401では初拍より1度低い下降音型で再現される。また後出の3度目の変形譜例402では全体が単純な下降音階に変形される。いずれも微妙な変形である。その後譜例399の音型に戻る。、5度のカノンで提示する(譜例401)

 この曲は絶えず転調し続けるとすでに述べた。2小節以上同じ調に留まることはなく、変ホ短調、嬰ヘ短調、変イ長調、ヘ短調、ト短調、ハ短調、ヘ短調、変ロ長調、変ホ長調(譜例400)、ヘ短調、ハ短調そしてト短調と移動し続ける。ここでピアノはしばらく息をついだ後、バスーンの保持単音による伴奏によって、第1主題の3度目の変奏を提示する(譜例402)。再び情緒は悲しみに満ち、楽章のクライマックとなる瞬間、それは鋭音にまで高まる。ニ短調と、オーボエとバスーン間の模倣を経て再現部への道が模索され、ピアノが2オクターブ以上の幅でアルペジオを繰り広げる(譜例403)。変ホ長調へとゆるやかに再び落ち込んでいき、常に我々から離れることのなかった第1主題が再び曲の我々の只中へと立ち戻ってくる(原注1)

(原注1)指揮者に対して、この展開部全体を通じてヴァイオリン、フルート、オーボエそしてバスーンに最後まで演じ切らせることを促したい。これは不可欠なことで、単にそれらを耳にすべきということだけでなく、それらが最も肝心なもので、ピアノは従属的な存在に過ぎないと感じ取るべきなのだ。これが欠けると、このパッセージはその大切なものをほとんど失ってしまう。H.M.Vの録音19シュナーベルのピアノ、バルビローリ指揮の演奏の弱点は、オーケストラのパートを聴き取るためにはスコアを手にしなければならない点にある。

 このパッセージの独創性についてあえて強調する必要はない。モーツァルトの協奏曲には他にも主題的な展開部を持つもの(原注1)があり、非常に壮大なものもある。しかし、オーケストラがその語りを止むことなく持続し、その上をピアノが独立したパッセージで事も無げに滑るように動いていくものは皆無なのである。これに最も近い先行例はK.503〔No.25 ハ長調〕だろうが、それが基にしている進行がここにはなく、どのような規則的な形式も許容しない融通性をこの曲は保ち続けるのである。主にカノンによって進行するように見えるのだが、譜例401を除けば規則通りのものはひとつもなく、この語りのほとんどすべての中身を構成する譜例391は、実際には何度も変形されており、それゆえに、反復されてその元の状態に出会った時20譜例391の元の形に戻るのは、再現部の冒頭である。にわずかながらも安堵を覚える。

(原注1)K.271〔No.9 変ホ長調〕、K.466〔No.20 ニ短調〕、K.491〔No.24 ハ短調〕、K.503〔No.25 ハ長調〕。

 この楽章はその再現部を変形する意図がないもののひとつである。それが残念だと思うかもしれないが、しかしこの曲ほど大変動の世界から遠くにあるものはないことも認めなければならない。この曲の雰囲気以上に静的なものもない。その情緒の強弱の変化もわずかであり、この点でこの曲に先立つ1784年の変ロ長調K.456〔No.18〕を思い起こさせる。最後のパートを新しくすれば、それが実質どのようなものであっても、いかなる協奏曲のアレグロも富ますことができることを否定はしないが、それを切に必要とするのは劇的な楽章であることも確かなのである。この曲では、その曲調があまりに均一なため、アナリーゼによってのみ2つの提示部の独自性を識別できるのだが、それによる単調さを全く感じさせない。そのうえ、これほど独創的な展開部の後で不平を言うのは不躾というものだ。

 再現部での最初の重要な変更は譜例397の再現(今回は変ロ長調)の後で起こる21再現部は242小節からであるが、譜例397の再現は325小節からである。この間に関してはガードルストーンの記述はない。なお、ハ短調による曲がりくねる主題は342小節からである。。ピアノのトリルの後、オーケストラは譜例394を奏し続け、ピアノがそれを完結させるが、続いて最初の独奏以来姿を消していた曲がりくねる主題22「最初の独奏以来姿を消していた」とあるが、これは総奏提示部第61小節からの主題で独奏提示部では出現せず、「総奏提示部以来」とするのが適切である。がその夕日の光とともにハ短調で再挿入される(原注1)。そして、最初の総奏でこのパッセージに続いたカデンツが現れ、そしてカデンツァとなる。このように最初の総奏以来耳にしなかった素材がカデンツァ直前に回帰することはもうひとつの昔風の手法で、“偉大な”協奏曲ではモーツァルトがほとんど使うことがなかったものなのである(原注2)

(原注1)単音のバスーンがそれの葬列の供のように振舞う。
(原注2)モーツァルトこの協奏曲のためにカデンツァを残したことはすでに述べた。

 この楽章は独奏提示部のカデンツと冒頭の総奏の最後の数小節で幕を閉じるが、最初の時と同じ落胆と諦念の響きのうちに、総奏がピアノpでそれを終えるのである。

 この楽章に用いられた技巧の単純さについてはすでに言及した。さらに言えば、ここにはピアノの名人芸がほぼまったく見られないのである。他の協奏曲でそれがこれほどまで欠けているものは皆無であり、1786年のイ長調〔No.23 K.488〕でさえ、モーツァルトが抱いていたこのジャンルの概念そのものを捨て去って、ピアノをオーケストラの楽器のひとつのレベルにまで引き下げたと見えるこの曲ほどではないのだ。一瞬たりとも対立が主人公たちを隔てることなく、それどころか、両者の間にはこれ以上ないほど緊密な一体性が支配している。他の協奏曲、例えばK.451〔No.16 ニ長調〕 やK.466〔No.21 ニ短調〕では、ピアノとオーケストラが同じ目的のために協働するものの、独奏がそれを中断させることで常に感情の強さが増し、楽章の情緒的トーンに変更が加えられる。この曲ではこのようなことがまったくない。ピアノが入ってもこのアレグロがその表現するところの穏やかな憂愁の度合いを変化させることがない。完全に独奏のものと言えるのは譜例395および譜例396とそれに続くピチカートの伴奏を伴う8小節のみなのだ。最初の提示部の最後と楽章の最後では、他の協奏曲では決して省略されることのない締めの独奏が来るものと思うのだが、ただオーケストラのパッセージを反復するのである。結局ピアノは展開部の中に己の新たな働きを見出すのだが、それはこの協奏曲をさらに“ピアノつきの交響曲”に近いものとし、それはアーベルトが言うこのような展開部を持たないベートーヴェンの協奏曲ではなく、リストやブラームスの作品の到来を待つものなのである。この協奏曲の構想はきわめて単純で、時に古風でもあるが、未来に向けて驚くべき眺望を切り開いているのである。

 しかしながら、この曲で主に心惹かれるのはそのインスピレーションなのだ。何よりもそれは音詩(Tondichtung)であり、奏者の間の関係よりも情緒の質がより重要なのである。その悲しみは、ニ短調〔No.20 K.466〕の不逞な熱情のように迸ることも、ト短調五重奏曲〔No.4 K.516〕あるいはロ短調のアダージョK.540ように絶望とともにくず折れることもない。そのインスピレーションは以前と同様に深いが、より抑制され、より夢想的でもある。諦念の情が非常に支配的なために、これが悲歌に過ぎないものと見なされるかも知れない。しかし、この曲では古典的な慎みがより熱情的な音楽に引けをとらない、うそ偽りのない悲しみを覆っているのである。そしてとりわけ、この情緒は非常に手前勝手なものであったかもしれないが、あまたのモーツァルトの芸術に息づく優しさと愛の精神の香りを放っているのだ。そしてそれを語るために変ロ長調はモーツアルトのお気に入りの調なのである。快活さがほとんど見当たらないこのアレグロに耳を傾け、それでも、心明るく聴き終わった時、モーツァルトと同時代人のある人物が亡命時にモーツァルトの作品を聴き、それについて書いた一節を思い起こすのである。

 

“この音楽は、そのインスピレーションがかくも調和し、かくも高尚で、非常に純粋であり、穏やかでありながら悲しみに満ち……これを聴いたとき、過去の苦悩とおそらく未来が私のために用意しているものを忘れさせてくれたのだ。”(原注1)

(原注1)アベ・マルティナン・デ・プレヌフ、1797年;ボールデンシュペルガー“音楽の感受性とロマンティシズム、44ページ”より引用

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