Ⅱ 概して、いくつかの楽章を持つ作品では、アレグロとアンダンテ間の類似性よりも対照性が際立つものなのだが、この協奏曲においてはそうではない。アンダンテはアレグロと同じムードを保ち続けるが、それをさらに深め、はっきりとしたものにするのだ。アレグロにおいて、微笑みを通して揺らめき、聴衆の関心を微笑と分かち合った憂愁は、今や舞台を己のものとし、楽章のすべてを己に引き寄せるのである。この作品はここまで喜びと悲しみにまたがっており、その性格は幾分不確かなものであった。しかし、もはやいかなる疑いもなく、その生涯においてモーツァルトがここで一度のみ使った嬰ヘ短調のdanse triste(踊る悲しさ)の最初の一節から、上っ面の愛想のよさは消え去り、譜例309の陰鬱なデーモンがゆるぎなく君臨するのである。
抒情的なアンダンテでしばしば見られるように、ピアノがカンティレーナ(歌)を提示し、それによって、ピアノはもはや音楽家の情緒の表出にとどまらず、音楽家自身そのものに化したように思われ、楽器の声はモーツァルトの悲嘆の声そのものとなる。リズムはシシリアーノのもので旋律的な悲しみに溢れており、その悲しみはこの形式において己を十分に表現できるのだ。それを開始する長いフレーズは2つの部分からなり、第1の部分は4小節で、第2の部分は7小節の非対称な形を有する。モーツァルトはしばしばアンダンテのカンタービレの主題をこのように分割するのだが、整然としたリズムの前半部の後で、残りの不規則さは心地よい驚きである。第2小節の嬰へ音(譜例310)は主題旋律のものであり、低音部のものではない。3オクターブと3度の跳躍は、トーヴィの指摘のように、人声の2音域の音色の対比を強調するアリアにおける跳躍を模倣している。同様にそれはヴァイオリンやクラリネット音楽でも見られる声楽的な効果だが、鍵盤楽器では無意味と感じさせる危険を孕むものである。ピアニストはあたかも歌手のように難しい仕事をやってのけているという印象を与えなければならない。そのためには、両手を交差させて嬰へ音を右手で奏することが役に立つかも知れない1左は付点4分音符のオクターブ和音であり左手で奏することは不可能であり、実際には右手の交差で奏することになる。。
オーケストラは美しさに満ちたさらに悲し気な歌を続ける。それは譜例311のヴァイオリン、クラリネット、バスーンおよびフルートによる3声部の模倣24 楽器であるがヴァイオリンとフルートはユニゾンであるため、3声部の模倣となる。で提示される(12~20小節)。曲はピアノ(p)からフォルテへと進み、独奏は主題を装飾して繰り返す左は付点4分音符のオクターブ和音であり左手で奏することは不可能であり、実際には右手の交差で奏することになる。。しかしすぐに新しい主題でそれから離れ、束の間のイ長調へと導く。第30小節3原著では第50小節となっているが、第30小節の間違いであり、本文を修正した。には右手による新たな声楽的跳躍がある。そして4原文はThen。第30小節の声楽的跳躍に続いて、長調、短調の揺れ動きが続くように読めるが、その揺れ動きやヴァイオリンのエコーは第28小節から第30小節の間のことであり、声楽的跳躍よりも前である。本来「第30小節には…」の文は「…エコーを返す」の文に続くべきものである。数小節にわたって長調と短調の間を揺れ動き、ヴァイオリンはその悲痛な調べにエコーを返す(原注1)。最後は長調が勝利をおさめるが、勝利の確信はない(20~34小節)。
(原注1)長調が初めて出現するまさにその時点で弦が伴奏を再開するその効果の何と魔法のようなことか!(第25小節)
フルートとクラリネットによるより晴れやかな主題を耳にするが、それはドン・ジョヴァンニの三重唱“ああ、お黙り、悪い心よ!(Ah taci,ingiusto core!)”を予示するものだが、ここには皮肉を感じさせるものはない(譜例3125譜例312の第2音はハ音ではなく嬰ハ音であり、♯が抜けている。)。それは木管で始まって独奏へ移り、弦、木管とピアノの3つのグループで共有されてコデッタがそれに続く(譜例313)。経過的な2小節は嬰ヘ短調の悲嘆にくれた特徴と第1主題を十分に思い起こさせる(51~52小節)6原著では(bars 50-1)となっているが、51-2の間違いである。明白な間違いなので、本文を修正した。。それはモーツァルトに愛された痛ましく重層的なハーモニーの2小節であり、そこではショパンの霊が近くに漂っているような気がする。
再現部は決まった道筋を辿るが第1主題を劇的に拡張し、それからピアノが譜例311を変奏して再び入って来る。イ長調の部分を提示せずに、旋律は仄暗い色調でさらに色濃く自らを覆い、緊張は苦悩の域にまで高まっていく。背後ではフルートとクラリネットが譜例311の一種の拡張主題である音型7譜例311での第2ヴァイオリンのアルペジオ伴奏をピアノ左手とバスーンがほぼ同型で受け継いで「対話」し、その上をフルートとクラリネットが旋律を奏するという意味での同想的な「拡張音型」で、フルート、クラリネットの音型が譜例311での形を拡張したという意味ではない。で伴奏する。前面ではピアノの左手とバスーンが対話に専念し、それに乗ってピアノの右手は、“壁のおもて”に刻まれた神秘的な刻印のような、やせ細った主題の外形をなぞっていく(譜例3148譜例314のピアノの右手は、新全集版では最後の4分音符が付点4分音符で、8分休符はない。)(原注1)。冒頭の物憂いシシリアーノの優美さは消え去り、ほとんど肉体的な苦痛を伴う荒涼としたムードが支配する。クライマックス(83小節)(原注2)に到達した後その苦痛は治まり、ひとつ前の協奏曲〔No.22 変ホ長調 K.482〕のアンダンテのようにコーダが穏やかにというよりも、だる気に展開するが、それは、諦念が静かな絶望に変わり、セレナーデを連想させる弦のピチカートの伴奏9新全集版では、ビオラおよびチェロ・コントラバスのみがピチカートで、第1および第2ヴァイオリンは16分休符と16分音符が交互する形になっている。がほとんど不気味でさえある雰囲気の中で繰り広げられる。残念なことに、ピアノの旋律はただのスケッチ過ぎず、装飾することによってそれに生命を与えることは不可欠なのだが、言うまでもなくそのように考える独奏者が一人もおらず、それはそれからすべての意味を奪い去り、この結尾部を鍵盤の高音部から低音部へのもったいぶった一本指進行へと変えてしまう怠慢なのである(原注3)。譜例311の冒頭を3回にわたって回想する中で、悲しみは徐々に弱まっていき、ピアノが加わってその最後の和音へ木管がエコーし終わると、それから先は何も聞こえてこないのである。
(原注1)これだけは装飾してはいけないと私は考える。この動きには低弦がそれに続くが、高音部に生命を与えるのは、それが対位するためだからである。
(原注2)このパッセージとK.482 のアンダンテの193~200小節の類似性が認められる。
(原注3)ブライトコップ版ではライネッケが解決法を提示している。私は別の解決法を示したい(譜例315)。しかし理想的は、独奏者は、この楽章の己の理解によって、それぞれ独自の即興を行うべきである。10この部分での補完・補作が不可欠かどうかは、問題である。現在新たに録音されるこの曲の演奏では、補完するもの、しないものが半々である。補完されないことによる音の間による美しさ、神秘性も貴重である。独奏ピアノ編曲版でこの楽章を演奏する時には、人の注意は低音部の活発さに注意を取られるため、高音部がむき出しの状態であることはあまり目立たない。
その調性のみならず拍子も、モーツァルトの作品の中でこのアンダンテを特異なものにしている。1788年から彼の死まで、十数曲以上の8分の6拍子のアンダンテを目にすることはないが、中でもシシリアーノのリズムを持つものは極めて少ない。実際最もこの曲に似ているのは、1774年18歳の時に作曲されたピアノ・ソナタ ヘ長調K.280のヘ短調のアダージョである。この14年間の隔たりを経て楽想は再び新たに取り上げられ、この協奏曲はソナタを拡張し深化させ、若者の情緒が30歳の男の豊かさを伴って表出されているのである。
これはモーツァルトが協奏曲のために書く最後の短調のアンダンテであり、独立しているものや特殊な形式の他のいくつかの小品(原注1)を除けば、彼の作品の中で最後の短調の緩徐楽章である。おそらくこれは、モーツァルトの作品にかように高い価値を与えている情熱と形式美の統一を最もはっきりと感じ取れるものである。このことに関してヘルマン・アーベルトが彼の最も素晴らしい文章を残している。
(原注1)ピアノのためのロ短調のアダージョK.540、弦楽のためのハ短調のアダージョK.546、オルガンのための第1ファンタジアK.594 〔自動オルガンのためのアダージョとアレグロ ヘ短調〕。
優れたピアニストはモーツァルトの見かけの明快さの背後に非常な多様さと複雑さがあることに常に気付いている。そうでないピアニストは、それはもちろん間違っているのだが、モーツァルトの音楽には均整、美しさ、そして心地よさの美質があることだけは認めながらも、情熱が欠けているとの不満を口にしてきた。彼らは、情熱の自由な表現と情熱そのものが同じものだと考える大きな誤りを犯しており、それ故に、そもそもの出発点からモーツァルトのような芸術に自ら近づく道を塞いでしまっているのだ。というのも、モーツァルトを、悲しみでさえも優美な旋律で歌おうとしたロココの時代の忠実な後継者と見なすことはできないが、その一方で、彼はシュトルム・ウント・ドランクの人間でも決してないのだ。後者にとって最も大事なことである抑制されることのない興奮については、モーツァルトはそれが芸術的に制御される、すなわち形式にふさわしい限りにおいてそれに関わったのである。彼の関心は自然そのものではなく、文化にあったのだ。しかしながらそれは、モーツァルトが曖昧で精彩のない美の理想を選ぶことで、いかなる形式においても情熱の芸術的表出を放棄したことを意味するものではまったくない。たとえモーツァルトがそうしたいと欲しても、それはまったく不可能だったであろう。我々はデーモニッシュな、いや爆発的と言えるほど激しい彼の性質の側面を十分に知っており、モーツァルトが自身の芸術においてその表出を否定できるほどに己の本質的な側面に不誠実であり得たと考えるならば、それは彼の芸術家としての独創性を我々が過小評価していることに他ならないのだ。もちろん、その一方で、モーツァルトの血の中で沸き立ち騒ぎたてる嵐と緊張は、それ自体では彼を完全に満足させることはできなかった。それよりも彼は、それに形式を与え、ときに何ものかを加えると同時に後代が最も高い価値を置くことになる多くのものを切り捨てることによって、この彼の精神の生の素材を自由に使いこなしたいとの衝動を常に抱いており、さらに高い清明さと透明度のレベルに達することを望んでいたのである。この衝動が生み出した最も高貴な成果はこれらのアダージョの主題である。その重要性は、これら第二義的なものがどれだけ素晴らしくとも形式上の仕上げの完璧さおよび感覚に訴える美しさにあるのではない。そこからこれらのものが湧き出る深い感情にあるのだ。内的生活の広い領域を覆う感情、内面の情熱の炎を包み隠すどころか、不自然な騒ぎ立てや見せかけだけの主観性を微塵にも示すことなく表現に委ねることができる、その感情にあるのだ。このことを十分に理解するためには、モーツァルトの作品を後代のロマン主義者たち、例えば若きシューマンの作品と比較するだけでよい。ロマン主義者たちにとっては、すべては動き、興奮、抑制されることのない情熱であり、若い人々にとって芸術の最も高い理想のように見えるかもしれない類のものである。一方で、モーツァルトにあっては、活動のための活動ではなく、活動の凝縮した結果としての形式11ヘルマン・アーベルト(1871~1927)は、リッケルト(1863~1936)やマックス・ウェーバー(1864~1920)と同時代人である。当時のドイツの認識論で支配的であった、リッケルトやウェーバーなどの理念型的な考え方が大きく影響していると思われる。原文はform, the completed activityであるが、理念型的に「凝集した結果としての形式」と訳した。が主要な関心事なのである(原注1)。
(原注1)前掲書 Ⅱ 277~8ページ
弦、木管それにピアノの3つのグループのインタープレイはとりわけ繊細かつ見事なものである。木管は、この前の協奏曲〔No.22 変ホ長調 K.482〕に比べて、それ自体で使われることがより少なく、他のグループとの協働がより多い。例えば、第2主題、譜例311が2回にわたってオーケストラで提示されたとき、クラリネットとフルートは第1ヴァイオリンに次々に重なること以上のことはせず、一方で、バスーンは旋律の欠くことができない一部を提示する。また、第3主題、譜例312に続く小さなフレーズ12譜例312は第35~36小節、当該箇所の「小さなフレーズ」は第43~44小節」、譜例313でのその反復部分が第46~47小節である。正しくは「譜例312とその展開的経過部に続く」である。は最初クラリネットとバスーンによって提示され、ピアノのエコーを伴うが、いつものやり方どおりそれが反復される時(譜例313)には、ピアノと弦で共有され、弦は主題を、ピアノはそれを変奏する。エコーは最初に主題を提示した楽器によって行われる。この2小節(46~47小節)は、それぞれの楽器に独奏者に匹敵するほどの独立性を残しながらそれらを束ね、かつ、徹頭徹尾協奏的な彼のスタイルに仕立てあげる、モーツァルトの技の賞賛すべき例である。作曲家の中には、ピアノについては協奏曲作家として、オーケストラについては交響曲作家として作曲することに甘んじる者もいるが、モーツァルトは協奏曲の原則をオーケストラにも間違いなく及ぼすことができるとはっきり理解しているのだ。シュポールはモーツァルトの協奏曲をピアノが主役の交響曲と称したが、むしろそれはピアノに加えて第1ヴァイオリンと第1木管を独奏者とする協奏交響曲なのだ。そして、それがピアノのオブリガートを持った木管楽器のための協奏曲との評は半ば誤ったものに過ぎない。
弦が単独で長大なリフレインを展開するK.482〔No.22 変ホ長調〕 のアンダンテに比べると、弦もまた自己中心的に振舞うことが少なく、それは譜例311 で中心的に振舞い、また第3主題では独創的にピアノにエコーを返しもする(29~31小節)が、その最も独自な貢献は最後のピチカートであり、そこで弦は、悩める魂の如くさ迷い歩く独奏に寄り添うのである。