Ⅲ アレグロとアンダンテの間に予期された対照は、アンダンテとロンドの間に見出すことができる。最初の2つの楽章の魅力の多くはそのうなだれたような趣きとそれがもたらす病みつかれたような感覚から来るものであった。一方で、このロンドはモーツァルトからこれまで湧き出た作品の中で最も心を浮き立たせ最も強く心に染みわたるもののひとつであり、生命力と活力が絶え間なくあふれ出るのだ。これは一連の協奏曲の中でも最も成功した、最も強靭なフィナーレであり、唯一これに匹敵しうるのは、ヘ長調K.459〔No.19〕のフィナーレである。真のmoto perpetuo(無窮動)であり、開始部の小節の何ものも抗しがたい勢いを絶えず保ち続け、フレーズの長さが微妙に変化する。旋律に旋律が続き、歌がリズムよりも優位に立っている。モーツァルトは信じられないほどの数のメロディを使い切るが、万華鏡のように連続する主題を通して競い合いが終始続けられるのだ。この鮮やかな色とりどりの装いの下で楽想の流れは、例えば冒頭の炎の激流が結尾のはるか以前に消されてしまうニ短調〔No20 K.466〕のような他のロンドより、さらに力強く均質であり続ける。
シシリアーノが次第に静まった後のリフレインの猛襲は剛健そのもので、すべてのモーツァルトの作品の中でも最も荒々しい目覚めのひとつであり、また最も気が晴れ晴れするものである(原注1)。K.482〔No.22〕におけるこの同じ瞬間にはこれほどの唐突感はないが、それは、そのロンドの開始部はこれほど断固としたものではないからなのだ。主題はピアノによって提示され(譜例3161原著では譜例322となっているが、明白な誤りなので本文を修正した。)、通常のロンドであればそれに長い総奏が続き、リフレインは独奏によって展開されるところである(原注2)2原文はThe theme is given out by the piano and followed by the long tutti usual in those rondos where the refrain is expounded by the solo. このままの英語ではピアノ独奏に通常の形で総奏と独奏によるリフレイン展開が続くことになるが、本K.488のロンドでは最初にピアノによってリフレイン主題が提示された後は第1クプレまでピアノは沈黙する。また原注2にあげられた曲のロンドを見ると、K415、K.450、K.456、K.466では本曲と同様にリフレイン主題の提示を行うだけであり、また、K.459、K.466は木管や弦と交互にリフレイン主題部を提示し終わると、その後ピアノは第1クプレ開始までは沈黙を続ける。したがって、おそらく原文はusualではなくusuallyの意図だったのではないかと思われるが、文脈のため本文を「通常のロンドであれば」と修正して訳した。。リフレインがオーケストラによって反復された後には、少なくとも5つの独立したモチーフ35つの独立したモチーフは、①第16~20小節、②第20~24小節、③第32~36小節、④第40~43小節、⑤52~54小節である。が数えられるが、そのどれもが最後の全体回想の時までは戻って来ない。曲の流れは抗しがたいほど激しく絶え間なく、これらの異なる主題間に割り込んでくるものがないために、ひとつの主題から次の主題へと必然的に繋がっていくのである。
(原注1)モーツァルテウムには、この協奏曲のためのスケッチとして書かれたと思われるイ長調のピアノとオーケストラのための断片が残されている(ケッヘル-アインシュタイン番号488bおよびe)。最初のものはイ長調の四重奏曲K.464〔No.18 ハイドン・セット第5番〕のフィナーレの主題に似ており、冒頭アレグロにムード的に似通った、この楽章の先がけである。もうひとつは、8分の6拍子で変奏曲の主題ではないかと思われるが、ニ短調の四重奏曲K.421〔No.15 ハイドン・セット第2番〕のフィナーレの長調版の感がある。
(原注2)K.415〔No.13 ハ長調〕、K.450〔No.15 変ロ長調〕、K.456〔No.18 変ロ長調〕、K.459〔No.19 ヘ長調〕、K.466〔No.20 ニ短調〕、K.482〔No.22 変ホ長調〕
この構成は拙いのではないか、こう問いたい気持ちにならないだろうか? これほど長いパッセージで、いかなる要素も楽章本体で何の役割も果たさないのでは、無駄な即興に過ぎないのではないか? この問いに対してはこう答えよう。一旦リフレインの主節が提示された後では、ロンドの最初の総奏はアレグロの提示部とは異なるものであり、劇中の主な登場人物の紹介を目的とはしていない。ロンドでは、唯一無二の登場人物はヒーロー、すなわちすでに見知っているリフレインなのだ。
この長い総奏の役目は異なっている。その正当化の理由はアレグロの最初の総奏のように素材の展開にあるのではなく、展開している楽器にある。曲と言うよりもオーケストラが重要なのである。独奏がリフレインを最初に獲得して己の権利を主張し、オーケストラはその優位性を失い、それに続く言葉の長さによってそれを補おうとする。最初の言葉を言いそびれたために、自分の番が来ると、せめて長々と話そうとするのだ。それゆえに主題の数が増え、それによって対抗者同様に深い印象を聴衆に与えることになる。諸楽器が討論を開始する場合は、独奏と対抗してバランスを取る必要性をさほど感じないため、その前奏はほぼ常に短いのである(原注1)4独奏と総奏が対話型で進行する冒頭のリフレイン、例えばNo,25 K503を見るとその長さは32小節である。それに対し、例外として原注1にあげられたNo.21 K,467の場合は57小節である。。
(原注1)K.467〔No.21 ハ長調〕は例外である。
それ以上に、この協奏曲では、そのリフレインが楽章に満ち溢れるその他数多くの主題に呑み込まれないように、それが些細で短いものであっても多数の従者を必要とするのである。それに付き従うモチーフはいわば廷臣であり、その目的は聴衆の注意をこれに引き付け、それが戻ってきた時に気付かせるためなのだ5この曲の場合、主役に注意を引き付ける役目を持つ5人の従者(モチーフ)は、最後のコーダ以外、リフレイン主題と一緒に出現することはない。。これは重要な点なのだ。というのもリフレイン主題がどれほど特徴的なものに見えようと、他の主要主題もそれに劣らず特徴的だからである。
これら60小節の流れの勢いは、ピアノが第1クプレを開始した主題のやや穏やかに渦巻く水域にあってややゆったりしたものになる(譜例317)。しかしこの主題にぐずぐずと留まりはしない。その最初の小節がホルンとクラリネットで反復されるやいなやピアノがそれを完結させ、モーツァルトのプレストでしばしば繰り返し現れる上昇する音階の主題によって、再び心ゆくまでの飛翔を続けるのである(原注1)。これはホ長調へと軌道修正6ホ長調に転じるのはこの上昇音階の2度目の反復を行う直前である。第1クプレがイ長調で開始されるが、短調に転じたりしていたため、属調であるホ長調へと転じて確立させる役割をこの上昇する音階の主題が担っている。を行うが、次には消えてしまい、二度と耳にすることはない。そして新しい調は、トリルへと向かって高まっていく華麗なパッセージによって確実なものとなる。
(原注1)譜例317自体が一部上昇音階に基づいている。後でもうひとつの例(譜例319)を耳にすることになるだろう。
競い合いは突然停止に至り、4分の3小節の間完全な沈黙が支配する。4分の3小節は大したものではないが、これ程の肉体的気分の止むことない奔流の後では、短すぎる沈黙でさえも劇的なものとなる。フルートとバスーンは弦の伴奏を伴って、その沈黙をロンドの第2主題と呼んでもよい主題で破るが、それはソナタの第2主題のように通常は属調で提示されるものだ。それは確かにホ調だが、ホ短調で行われるのだ(譜例3187譜例318は転調先のホ短調の譜として記されている。)。そのスコアリングは興味深い。モーツァルトが弦を木管に従属させる時、いつもは弦のひとつあるいは2つのパートのみで行うのだが、ここでは弦の四重奏全体8スコア表記上は弦の四重奏であるが、チェロとコントラバスが同一譜なので、実際には五重奏である。で、1オクターブで奏するフルートとバスーンを支えるのだ。ピアノがその主題を再述した後、終止に向かうところで、短い間ハ長調でわき道にそれ、そしてホ短調へと戻り突然長調で終止する(114~129小節)。
それに遊び心に満ち、意気揚々とした長い独奏が続く。そこでは時にある楽器グループ、時にはまた別のグループが加わるが、あたかもいくつもの独奏が第2主題から現れてくるかのようである。それはトリルで停止するかのごとく見せかけて、再び今まで以上に溌剌と進行を開始する(130~175小節)。その沸騰は結尾の役割を果たすもうひとつの主題としてついにその形を現わすが、それは上昇音階のもうひとつの断片で、ホルンの長い保持音によって支えられる。ピアノの後に木管がそれを繰り返し(楽章を通して弦はリフレインの場合を除いて旋律を提示することがなく、しかもそのほとんどで木管とともに奏するのだ!)、独奏はそれを提示されたばかりのモチーフに由来する機知に富んだ対位法9譜例319の弦部第2小節の上昇音階を転回させた下降音階である。なおホルンの保持音は省略されている。でかき混ぜる(譜例319)。ゲームはひとつの断片(譜例320)によって終了するが、これはピアノがリフレインを回帰させるために使うものなのだ。
いつもの通りリフレインの最初のパートのみが繰り返される。総奏が入ってくるとすぐに、曲は突然そこからそれ、そしてシシリアーノの調である嬰ヘ短調へと転ずる。しかし、そこにはこの楽章のムードを示唆するものが何もない。第2クプレを開く短調のパッセージは決して悲しみに立ち戻るものではない。楽章は束の間の活力と真摯さを増すのみである。独奏の音型は当時モーツァルトが非常に好んで使った没個性的なもので、すでに変ホ長調協奏曲〔No.22 K.482〕のアレグロでも使い、また3ヵ月後に、これほど適切な使い方ではないが変ホ長調のピアノ四重奏曲〔No.2 K.493〕のフィナーレで立ち戻るものだ10No.22 K482第1楽章展開部を開始するピアノ独奏、ピアノ四重奏曲K.493第3楽章のロンド第2クプレで繰り返し出現するピアノのフレーズを指す。。ここでは木管の応答によって締めくくられる(230~245小節)。それが繰り返された後同様に木管が応答するが、それが出発した属調には戻らずに、素早くニ長調に飛び移る。
イ長調の曲でこの調が出現しても何ら不自然ではないが、モーツァルトがある調から他の調へ転調もせずに単にそれを並置するお座なりさには驚かされる(譜例321)。
このように調性のみならずそれが現わすムードが並置されるのは一種の衝撃である。何の準備もなく情熱的で真摯な旋律を道化たもの(譜例32211譜例322は転調先のニ長調の譜として記されている。)で代用するのは軽薄の感があり、また、形式上の検討に限ったとしても、接着すべきところを単に繋ぎ合わせただけの欠陥建築のような構造的欠如を感じさせるのである。このような唐突な変化はモーツァルトでは珍しいことではない。このように唐突なものはもうひとつのイ長調の協奏曲、すなわちクラリネットのための作品〔K.622〕のフィナーレにもあり、さらにもうひとつハ短調〔No.24 K.491〕のフィナーレ(変イ長調の変奏が出現するところ)にもあるのだ。
このような変化の仕方は、18世紀後半の音楽の非常のよく知られた特徴を思い起こさせる。すなわち詩聯的構成である。極めて単純に言い換えれば、ギャラントな作品は、非常に対照的で、さほど重要ではない装飾的なパッセージによって連結されているというよりも分節された3つあるいは4つの連続する主題あるいは詩聯で構成されているのである。最初の旋律:パッセージ:第2の旋律:パッセージ:第3の旋律―等々:極度に簡略化しているが歪曲なしの、これが構成の概略なのである。これらのそれぞれの部分の間には詩の節や聯の間のものと同じ休止がある。同じことを少々違った形で述べることができる。バーナード・ショウが言うように、18世紀の音楽は舞曲なのである。それは、その進行の下にはすべての舞踏に共通する4分の2拍子、4分の4拍子、8分の6拍子といった少数の基本的リズムを見ることができ、また、同じく舞踏のように対称的なグループの形にフレーズが集められている音楽なのである。
しかし、舞曲よりもさらに喜劇がこのようなパッセージに光を当ててくれる。実際にオペラ・ブッファがこの世紀(18世紀)後半の管弦楽に深く浸透し、ソロイスト(独奏者、独唱者)という共通の要素がオペラ・ブッファと協奏曲の間に密接な関連を成立させたのである。ギャラント期の器楽曲の形式では、オペラから最も遠いものは疑いなく弦楽四重奏曲であり、最も近いものが協奏曲なのだ。確かに最後の3年、モーツァルトは天高く舞い上がり、同時期の南ドイツの作曲家たちと同じその出発的でもあった演劇的モデルから上へ上へと遠く離れて行った。それでも、独奏楽器に関わらず初期の協奏曲では喜劇的な要素である序曲、アリア、フィナーレ―との近似性をまだ感じ取ることができる。またこれは1784年のいくつかの作品についても言えることで、例えばニ長調〔No.16 K.451〕はオペラ・セリアの序曲のように開始され、ヘ長調〔No.19 K.459〕は喜劇を昇華させたものであり、その2つのアレグロのコデッタや終止はオペラ・ブッファから直に出てきたものだ。しかし同じ年の変ホ長調〔No.14 K.449〕と2番目の変ロ長調〔No.18 K.456〕、ニ短調〔No.20 K.466〕、ハ長調〔No.21 K.466〕の最初の2つの楽章と1785年の変ホ長調〔No.22 K.482〕のアンダンテはほとんど、あるいはまったく演劇的な慣行に負うものがない。そしてこの協奏曲〔No.23〕のアレグロとアンダンテもそうなのだ。3つの楽章で最も保守的なフィナーレにおいては演劇的な源泉への回帰がしばしば行われる。ニ短調〔No.20 K.466〕で耳にする唯一のオペラ的なこだまはロンドにおいてのみである。ハ長調〔No.21 K.467〕の真摯な2つの楽章の後は4分の2拍子のロンドで、その旋律は喜劇に由来するかもしれない。また変ホ長調〔No.22 K.482〕のフィナーレでも、コシ・ファン・トゥッテで再び現れる間奏曲を見出した。そしてこの曲ではオペラ・ブッファとの類似性は僅かにすぎないものの、開始部の総奏における滝のように連続する旋律はより規模が大きい序曲のコーダを思わせるものだし、第1クプレ、特に第2クプレはピアノとオーケストラに置き換えられたオペラのフィナーレである。
このように見ると、第260小節12第260小節は譜例321の第3小節である。におけるような表向きの変化は喜劇の中の突然の新たな役の登場同様に自然なものに思われ、喜劇においてそれは状況に新たな光を当てるものなのである。フィガロの第2幕の一コマはこのパッセージを思い出させる。伯爵夫人、スザンナ、フィガロが、すぐにでも理髪師と侍女の結婚の許しを得ようと伯爵に嘆願する感動的な三重唱(ハ長調である)を歌っているのである。マルチェリーナが到着して彼を苦境から救い出してくれることを当てにしている貴族の口ごもりがアンサンブルの豊かさにも一役買っている。これはこの曲の中でも最も真剣で最も詩的なところである。三重唱が終わるか終らないうちに、庭師が駆け込んで来て、窓から花壇に人間が落ちてきたと文句を言うのだ。一跳びに曲はヘ長調に転じ、ほんの少し前までは瞑想的で重々しかったものが浮かれた滑稽な大騒ぎへと変わってしまう。しかし、それは決して聴衆の機嫌を損なうものではない。怒りのあまりどもる庭師の登場は変化の理由として十分なのである。
この曲にあるのはそれに相当するものなのだ。モーツァルトの聴衆である人々にとってはオペラ・ブッファの言語が優れて音楽の言語でもあるため、それがはっきりわかり、この協奏曲を前にしてそれが劇場でなされているかのように振舞ったのだ。それ以降この関係は逆転し、オペラは交響曲に従属するものとなり、18世紀の器楽曲で耳にするような劇音楽へのほのめかしに人びとがもはや反応を示すことはない。
新しい主題の前半である譜例322がクラリネット、それに続く後半がクラリネットとフルートで、ともにピアノの伴奏とともに提示され13原文はEach of the two halves of ex, 322 is given out by the clarinets and flute with piano accompanimentであるが、ここで提示された新しい主題の前半が譜例322であり、これがクラリネットで提示され、それに続く4小節でその主題の後半がクラリネットおよびフルートによって提示される。ここは本文を修正して訳した。(原注1)、簡略化された形で弦が重なる独奏によって繰り返される(262~293小節)。旋律はパッセージへとは進展せずに、登場してきた時と同じようにあっけらかんと消え去っていくが、それは必要とされなくなった途端に姿を消してしまう僚友のようである。ピアノと木管の数小節の対話と独奏の一パッセージでイ長調へと連れ戻されるが、動きがあまりに速いため、その勢いで、まるでその到着点を通りすぎるかのように突き進んでいき、聴衆が再び足場を取り戻した時には譜例317の中にいるのだ。これは再現部クプレの第1主題である。リフレインは丸ごと省略されている(原注2)。
(原注1)K.482 〔No.22 変ホ長調〕のフィナーレの譜例302も同様に扱われている。
(原注2)同様の仕掛けが、もうひとつの“抑えきれない”K,459〔No.19 ヘ長調〕のロンドでも使われている。それは一たびならず現れるが、とりわけ2曲のピアノ四重奏曲〔No.1 ト短調 K.478、No.2 変ホ長調 K,493〕およびK.456〔No.18 変ロ長調〕である。ベートーヴェンもそのト長調協奏曲〔No.4 作品58〕で使っている。
ソナタ・ロンドの通例どおり、第3クプレは再現部である。それは第1楽章の再現部とは異なっており、最初の総奏や独奏部に撒き散らされた素材を寄せ集めなくともよいため、概して提示部よりも短くなるのだが、一方で、アレグロの場合再現部は長くなりがちなのである。再現に続く部分は変形され同時に短縮もされている。譜例317それ自体はピアノで提示されるが、短調でそれを繰り返す木管によって陰鬱な響きとなり、その最後の数音が2ないしは3回木管とピアノの間で交互に奏される。直ちに第2主題譜例31814原文では譜例311となっているが、明らかな間違いであるため、本文を修正した。に入っていくが、先行する主題は短調で結ばれたのに対し、これは木管により長調で展開される。その後にピアノがそれを提示し終わると、元のモードへと立ち戻る15第1クプレではホ長調、ここでは嬰ヘ短調で出現し、平行調のイ長調に転じる。長調に戻ることを「元のモード」と表現している。。そこから前に見たところの優美な対話のパッセージが展開する(原注1)。華麗なパッセージと結尾の主題は、調性以外の変更なく繰り返される。そしてやや長い“ブリッジ”の後、リフレインがこれを最後に回帰する。
(原注1)譜例1〔第Ⅰ部3 モーツァルトのピアノ協奏曲への一般的考察:ピアノとオーケストラの連携 原著58ページ〕16譜例1である。再掲した。
コーダは楽章の他の部分に匹敵するものである。リフレインの最後の回帰には、最初の総奏以来耳にすることがなかったすべてのモチーフが続く。モーツァルトはそれらを始めに出て来た通りの順でオーケストラとピアノに分け持たせるが、しかし、それをひとたび中断し、結尾をつけた主題譜例319を呼び戻す。モーツァルトはその主題のすべてを引き入れ、セクション同士の対話を展開するが、それはこれほど楽章の終わりに近いところでは予想もしなかったニ長調なのだ。その後、最初の総奏からの素材の一覧を再開する。そして最後の瞬間にピアノは譜例320を思い出すが、それはその前の主題17譜例319に続いたモチーフであるが、コーダでニ長調で回帰した後には回想されていない。に続くものである。そしてこの遅参者の登場とともにその粋を手早くかき混ぜて、避けては通れない大騒ぎへと踏み出す。この飛び跳ねる音型のおかげで、この最終部はモーツァルトのすべての最終部の中でも最も鮮やかに肉体的強靭さを感じさせるもののひとつとなる。作曲家が開始部の総奏の素材を作り変えるその手法ゆえに最後のすべての部分が称賛に値する。モーツァルトはひとつのフレーズすべてをオーケストラからピアノに置き換えて(464~468小節:24~28小節と比較)そのフレーズを新たな楽器のために作り変える。そして、独奏により大きな役割を与えるが、総奏のグループには小さな役割を残す(468~471小節:28~31小節と比較)。オーケストラが主要なパートを保持しピアノがひとつの楽器の旋律線を引き受ける(502~505小節;46~49小節と比較)。そして純粋に管弦楽的なところでも、モーツァルトはわずかなタッチで全体の効果を変化させる(473~476小節:33~36小節と比較、496~499小節:40~43小節と比較)。ここにおけるほどモーツァルトがその楽章の全体を変化させることなく再現させるという非難が不当であることはない。
モーツァルトにおけるイ長調の重要性についてはすでに述べたが、その調は彼の成熟期にはめったに使わないものであり、使う場合は第一級の作品ためのみである。この章の初めに列挙したものはすべて、ひとつないしはそれ以上の楽章がこの協奏曲と関係している。ほとんどすべてがあの喜びと涙の入り交じりを示し、それはこの曲の第1楽章の特色であり、また間違いなくこの調のグループの一員であることの印である。唯一この類似性が明確でないヴァイオリン・ソナタK.526〔No.42 イ長調〕はそのロンドにおいて形式、インスピレーションともにこの曲に近づき、それはこの協奏曲のロンドの一種の第2バージョンで、疑いなくすばらしい作品だが、元となったこの曲ほどやむにやまれぬ精神から生み出されたものではない(原注1)。この入り交じった感情は、優しく撫でるような甘美さで表出され、これは官能的なものがいかに悲嘆に近いかということを気づかされるが、モーツァルトの作品ではそれがクラリネットの仄暗い、情熱的な音調によって掻き立てられるのである。この楽器のための3つの作品のうち2つはイ長調なのである〔クラリネット五重奏曲 K.588、クラリネット協奏曲 K.622〕18ここにあげられたクラリネットの3曲のうち、イ長調でないものがはっきりしないが、クラリネットの加わった室内楽曲など、変ホ長調のものが多い。また、アダージョK.411(ケッヘル第6版では488aで同時期作品)とも考えられるが、これは変ロ長調である。。半音階的な主題、長調と短調の間をさまようこと、これは最も見分けやすいこのムードの表現手段である。この偉大な作品の一群の中で己の好みを見出すのは困難である。そこでは深い情緒が荒々しさや陰気さを決して伴わず、またそのテキスチャーは常に透き通っている。たとえそのどれかに対して他の作品以上の好みを認めたとしても、それは作品の価値とは無関係な個人的な告白に過ぎないだろう。
(原注1)リフレインの主題はC.F.アーベルのソナタ作品Ⅴ,5からとったものである。モーツァルトが子供のころにロンドンで会ったことのあるアーベルは、1787年6月22日に同市で死亡した。モーツァルトのソナタは同年8月24日の日付のものである。サン・フォア(前掲書Ⅴ、319~320ページ)はアーベルの主題の使用はこの老作曲家の思い出へ捧げたものであろうと示唆している。同じようにヨハン・クリスチャン・バッハの思い出に捧げたものが、K.414〔No.12 イ長調〕のアンダンテで認められるだろう(140ページの原注2参照)。