協奏曲第19
(No.23) イ長調(K.488(原注1)

1786年 3月2日 完成

アレグロ:C(4分の4拍子)
アダージョ:8分の6拍子(嬰へ短調)
アレグロ・アッサイ:¢(2分の2拍子)

オーケストラ:弦、フルート、クラリネット2、ホルン2、バスーン2

(原注1)全集版番号で第23番。自筆譜および初期の版はアダージョとアレグロ・アッサイであるが、その後の版はすべてアンダンテとプレストとなっている。1自筆譜による新全集版も当然ではあるが、アダージョとアレグロ・アッサイである。

 

 モーツァルトのイ長調の作品グループは変ホ長調のものに比べてより小さく、さらに選ばれたものである。後者には洗練された個性の持ち主の他に、やや平凡な者もいくらか含まれており、彼らは目立たない奉公人の如く、変ホ長調のお仕着せをまとい、十分に良いのだがそれ以上ではなく、第18番協奏曲〔No.22 K.482〕や交響曲〔No.39 K.543〕、弦楽五重奏曲〔No.6 K.614〕のような傑出した名士のお通りを並んで待つのである。彼らは垢抜けした顔つきできちんと顔を剃っているが、表情に乏しい若い男性で、個人的な感情と知性の欠如を行儀の良さで補っている。彼らとの付き合いが愉快でないとは言えないが、そのひらめきに欠けたおしゃべりを聴くと、彼らを入れ替えても得るものも失うものもないと感じさせるのだ。

 一方で、イ長調の作品群は、数は少ないがすべてが質の高い創造物である。その十分に形成された個性、そのはっきりとした外形、特徴的な所作、そして感情は他で代替することのできないものであり、一人としてその同族の誰とも混同されることが許されない。イ長調の作品は個人主義者の一族を形成し、変ホ長調同様に育ちが良いが、自我を与えられており、自らそれを意識し、また入念にそれを養っているのである。小さな一家に属しているために、彼らはより自由に成長することができ、自由に動くゆとりを享受することができた。それに対し、変ホ長調の一家は、同居人たちが隊をなし、空気と空間が不足するために過密状態になっており、暮らしから十分な利益を得たのは最も逞しい子孫のみであった。

 そこから彼の成熟が始まったと見てよいパリ旅行から戻った後、モーツァルトがイ長調で完成したのは6作品のみであった(原注1)。そのうち2つはピアノ協奏曲〔No.12 K.412、No.23 K.488〕、3つは室内楽作品で、ヴァイオリン・ソナタK.526〔No.42〕、弦楽四重奏曲K.464〔No.18 ハイドン・セット第5番〕、クラリネット五重奏曲K.581、そして最後はクラリネット協奏曲K.622である。すべてが一級の作品である。

(原注1)完成作品と述べたのは、最初のアレグロがほぼ完成されている未完成の四重奏曲、ケッヘル-アインシュタイン番号No.404a(170小節)、また、前奏曲(この部分だけがイ長調)は完成されたが、フーガ(これはイ短調)の半分が欠けているピアノとヴァイオリンのための前奏曲とフーガ(あるいはソナタ)K.402〔No.37〕、それとピアノとオーケストラのためのロンドK.386などがあるからである。

 これらの6曲の中で、クラリネット五重奏曲とともに最も愛されてきたのがこの協奏曲〔No.23 イ長調K.488〕であり、また23曲のピアノ協奏曲の中で最も愛され、ニ短調〔No.20 K.466〕とともに最も演奏されてきたものなのである。とりわけ演奏者の演奏技術を高めるわけではなく、数多くの作品にあって最も技巧的でない作品なのだが、かくも美しく、自分の才能を巨匠と比べてみたいと欲するすべてのピアニストの注目を集めるのである。

 

 この作品に他のイ長調作品で出会う共通したある特徴を認めるのだが、それでもこの作品はそれらとまったく離れて立ち、1785~6年のすべての協奏曲と同じく創作者の最も個人的な創造物のひとつなのである。第1楽章は、構造は単純だが、その処理の仕方にはこだわっている2原文はsimple in structure and engaging in disposition。dispositionは構造に対する感情などの表出ととることも可能であるが、本文で繰り返し述べられるように、第1提示部の短さや梗概型の徹底等、独自の要素の提示の仕方や配列の仕方など、すなわち構造の処理の仕方がこの協奏曲の特徴であるとガードルストーンは見ている。その意味でここは「その処理の仕方」と訳した。。著しく均質で、主題のすべてが類似した性格を有し、最初の小節からそれが感じられる(譜例305)。朗らかな外観から透けて見える作品の心は悲しみであり、そのムードは微笑みと涙の間をさまよう。

 彼の輝かしい天才は、あまりにも頻繁に命の美しさを歌い、あまりにも頻繁に日々の試練に愛と希望の歌で答えたため、我々はモーツァルトの愛想の良さの背後に隠された悲しみを直ぐには見出せないのだ。彼の魂と音楽では、影さえも光によって射抜かれ、空の反射光によってそれらは透き通ったものとなるのだ(原注1)

(原注1)アドルフ・ボショ―:『音楽家のために』(Chez les musiciens、第2巻19ページ)

 この喜びと不安の密接な融合については、2音目のフラットが付けられた導音3第2ヴァイオリンの第2音。実際には♮がつけられフラットなG音、即ちイ長調のシ音、つまり導音に♭をつけたものとなっている。これで初音とは短3度となり、長短調的な喜びと不安との融合という効果をあげている。が最初にそのことを物語っている。第8小節と第2主題(譜例306)の控え目な半音階、後者に続くパッセージでの長調と短調との間での躊躇い(46~52小節)がその他の証である。この楽章に差す光はこの曲が作曲された3月のある一日のもので、束の間のにわか雨の間を淡い太陽の光が自信なげに差す時なのである。モーツァルトがドイツとイタリア音楽の特徴を結び付けたとは一種の決まり文句だが、この曲には北方の感受性によって和らげられ湿り気を与えられた地中海的な輝きが認められるかも知れない。この曲は、非常に前ロマン主義的で、疾風怒濤的なものを追っているというよりもルソー風であり4疾風怒涛で表せるロマン主義が、恋愛など人間関係における葛藤などが中心であるのに対し、ルソーは「自然に帰れ」という言葉に見られるように、人間におけるより自然的な要素を重視するものであった。、同時にモーツァルトの最もモーツァルトらしい楽章のひとつなのである。

 前年の作品に比べると、その規模と同様にその記譜法も相対的に控え目である。トランペットとティンパニの姿はない。第1主題、譜例305は弦によってピアノ(p)で提示され、次いで短い形で木管により反復される。そして一転して属和音の結尾へと導くフォルテのパッセージに接続する(原注1)

(原注1)またもピアノ(p)からフォルテへ移る開始部が使われていることに注意されたい。

 第2主題、譜例306は第1主題よりもさらに涙に満ちている。その悲しさはさらに際立ち、その痛ましくしおれたようなかよわさは少し病的でさえある。ここでもまた、弦による提示があり、第1ヴァイオリンが重なる木管による再述となる。既に触れた長調と短調が入れ替わるパッセージ(46~52小節)がそれに続き、木管から3回にわたって投げかけられた呼びかけにヴァイオリンが答える。そしてフォルテで、しかし何らの感情的な高揚もやかましい終止も伴わずに、結尾の主題に先立つ主和音へと到達する。結尾主題はほんの4小節の長さで、ピアノpへと立ち戻り、最後の和音のみがフォルテである。

 前年の3つの偉大な協奏曲〔No.20 ニ短調K.466、No.21 ハ長調K.467、No.22 変ホ長調K.482〕とこの曲に続く1786年の協奏曲〔No.24 ハ短調K.491、No.25 ハ長調K.503〕では、ピアノは自らの前奏を伴って入り、時にそれは後に回想されることもあるほど重要なのである(原注1)。この曲では、慎重に考え抜かれたと言えるほどの簡潔さで、第1主題によって現れ、最初は文字通り再述され、次いで非常に軽めの弦の伴奏によって控え目に装飾され支えられる。この時代の他の協奏曲の大仰で劇的、あるいはわけありげな入り方からどれほど遠いところにいることか! 総奏が第1主題に続いた旋律(18~22小節)で入ってくる。これは昔のやり方で、簡潔かつ型にはまった、アリアであまねく使われていたものであり、この型から部分的ではあるがギャラント協奏曲が派生したのである。数小節の後すぐに、アリアで独唱が行うように、独奏がオーケストラの口から言葉を奪う。ここで、ほとんどの協奏曲ではピアノが新たな道に突き進んで自らの主題を導入し、華麗なパッセージを開始するのだ。しかし、ここでは、ピアノはオーケストラが辿った道筋に従うことに甘んじて、極めて節度ある技巧によって、急ぐことなくホ長調に転じるに十分な数小節の経過パッセージ5第93~98小節でホ長調を確定し、そのまま第2主題に入る。で引き伸ばしつつ、第2主題、譜例306を提示する。諸楽器が時にピアノのパートの協力を得ながらそれを再述すると、ピアノは事態の支配権を再び手に入れ、管および弦と対話しながら、46~52小節の長調―短調のパッセージをほぼ変更することなく繰り返し、ヴァイオリンと戯れ合うことに一瞬時間を取り、そして総奏の終わりとは異なっているが非常に短い独奏の後それ以上には進むことなく、提示部を締めくくるいつものトリルで停止するのである。

(原注1)K.466〔No.20 ニ短調〕およびK.491〔No.24 ハ短調〕

 楽章の主要な要素を後の独奏提示部で拡張され再現する順に提示することを役割とする、梗概型の提示部をこれまでいくつか見てきた(原注1)。しかし、ニ長調協奏曲K.451〔No.16〕においてさえも、総奏によって敷かれた道を独奏がこれほど厳密かつ慎重すぎるほどにたどる提示部を一度たりとも目にしたことがない。独奏が付け加えるものは些細なもので、モーツァルトのほとんどの協奏曲では総奏と最初の独奏の長さの比率が2対3であるのに対し、ここではほぼ同じ長さである(原注2)。ピアノは非常に控え目にオーケストラの演説を装飾することだけに自らを止め、これほどの臆病さはこの作品の対となるハ長調〔No.21 K.467〕や変ホ長調〔No.22 K.482〕などでは全く耳にすることがない。批評家が考えうることの外に何等かの説明があり得るとすれば、これは恐らく、主人公たちの関係をひとつの協奏曲から次の曲へと変えてみたいとのモーツァルトの願望によって説明できるかも知れない。

(原注1)K.451〔No.16 ニ長調〕、K.456〔No.18 変ロ長調〕、K.466〔No.20 ニ長調〕、K.449〔No.14 変ホ長調〕を参照。
(原注2)独奏が4小節だけ長い。この協奏曲のように、この2対3の比率から大きく乖離するものはきわめて非正統的なK.449〔No.14 変ホ長調〕で、総奏は独奏提示部よりも長くさえあり(88小節対80小節)、K.413〔No.11 ヘ長調〕(85小節対108小節)、さらには、K.467〔No.21 ハ長調〕(68小節対125小節)がある。

 オーケストラが第1主題に続いたパッセージの冒頭で入って来るが、すぐに、今にも主調に立ち戻るのではないかと思わせるナチュラルによるニ音を響かせ6直前のピアノ・ソロはホ長調であり、ヘ音、ハ音、ト音、ニ音にシャープがつく嬰音であるが、第137小節で二音にナチュラルがつくことによって、ヘ音、ハ音、ト音のみがシャープ、すなわち主調であるイ長調に踏み込むことを言っている。原文にはthreatenが使われているが、通常提示部は属調で終えるのが一般的であり、ここで主調に戻りそうになることをこの語で示している。次の「3小節で考えを変更」とは、主調に戻ることを止め、属調のホ長調のままで提示部を終えることにしたことを言っている。、これは前例のない提示部の最後での大胆な振る舞いである。しかし、曲は3小節で考えを変更し、数回のヴァイオリンの下降音階の音型が上昇していき7下降音階を一つの音型として、その音型が1度ずつ音階上を上昇することを言っている。、ややテンポを速めたかと思うと、突然終止する。休止、そして弦が新しい主題(譜例307)を静かに提示する。外形は新しいものの、その気質は楽章の他のものと同じである。回想し瞑想に耽っているようで、おそらく今までに起こったことのすべてを夢に見ているようだ。そして、その音階の3番目の音での開始8ここはホ長調でその音階の第3音、ト音で開始される。モーツァルトにあっては主題、特に新たなセクションを開始する主題は主音(第1音)あるいは属音(第5音)で開始されるのが普通である。(原注1)や不規則なリズムや逆進行の対位法は、それはこれ自体が始まりではなく、どこか他のところで始められた会話を続けているような印象を与える。ピアノはまだ模倣的にそれを反復する。今度は自由な変奏の形(原注2)であるが、それでも対位法は維持されている(149~156小節)。この種のピアノ独特な表現効果の書法は協奏曲では新しいものだが、次の作品〔No.24 ハ短調 K.491〕でも再び現れる。この主題によって展開部が構築されるが、これはピアノとオーケストラの交流の賞賛すべき実例であり、諸楽器はお互いを消しあったり重なったりすることもなく、対等な条件で競い合うのである。

(原注1)そして、特にその第2音の下属9の和音9低弦による嬰イ音がホ長調の下属音、ビオラのロ音がⅣ9和音の第9音にあたる。この第9音を担うのがビオラであることが、この和音の響きを決定づける。
(原注2)K.467〔No.21 ハ長調〕の展開部も同じく、新しい主題で始まり、それにピアノによる変奏が続く。

 変奏がホ長調で終わると、クラリネットとバスーンがホ短調で譜例307の冒頭の2小節を回想する。ピアノはそれを幾分苛立たしげに遮り、ヴァイオリンとビオラに支えられた、のたうつような音型に替える(156~160小節)。木管はフルートに補強されて、譜例307の冒頭に戻るが、今度はハ長調である。再びピアノがそれを不機嫌な調子で遮ると、三たび木管が己の主題に戻るが、その調はイ短調である。ピアノは静められ説き伏せられてそれにヘ長調で答える。質疑は仲睦まじい交わりに道をゆずり、そして、新しい特徴を持つパッセージが続くが、そのパッセージの例はモーツァルトの協奏曲では後の2つの作品(原注1)にもある。クラリネットとフルートが譜例307による4度の自由なカノンで会話し、その間独奏の右手がその2本の旋律線にからまり、分解された音階で装飾して両者をゆるやかに束ねるのである(譜例308)。クラリネットが3回にわたる対位法の歩みを開始し、その都度1度ずつ下がっていくが、イ短調の領域から離れることはない。そして3回ともにフルートがそれに続く。4回目にその歩みは妨げられて、その調の属和音で停止するが、良くないことが起こるほとんど不吉ともいえる感覚を伴っている(原注2)。ここで牧歌はドラマとなる。突然深淵からモーツァルトのデーモンが沸き上がってくる。木管とピアノは恐れて沈黙に戻ってしまい、低弦が脈打つ上で第1ヴァイオリンが主題の断片を歌うが、それは転回されているために10譜例308のカノンの音型を転回させたものである。/mfn]なおいっそう問い詰めるような、脅すような調子で、その間第2ヴァイオリンとビオラは、モーツァルトが特別な時に使う和音のひとつである属9の和音の響き10ここはイ短調に転調、第2ヴァイオリンはV9和音の2つの組合わせで下降する。ビオラの嬰ヘ音が第9音にあたる、を完結させるが、それは強烈なしかし抑制された情緒を表すために取っておかれるものなのである。ピアノと木管はその和音を保ったまま弦に答える。ピアノの分解された半音階は諸楽器の音塊に、追われる嘆願者の存在を付け加え、そして突然その態度は冷淡なものとなる(譜例309)。全く劇的ではない作品の最中にモーツァルトのデーモンが電光のように現れる強烈な瞬間は他に例を見ない。

(原注1)K.503〔No.25 ハ長調〕、K.595〔No.27 変ロ長調〕
(原注2)このパッセージ(169~178小節)すべてを通じて、フルートとクラリネットの傍らでピアノ・パートは単なる装飾であり、それらに従属しているのを聴きとることが大切である。木管はフォルテで演奏すべきであり、独奏者はメゾフォルテ(mp)以上に強く奏してはならない。

 このような瞬間の力強さはその短さのなせる業である。モーツァルトはタルタロス〔地獄の底なし淵〕の口を半ば開き、すぐにそれを閉じてしまい、ピアノのカデンツァ11これは第189~197小節のことで、楽章の最後に演奏者に任されるカデンツァのことではない。に蓄積された情感を撒き散らすのだ。このカデンツァは総奏の保持音に伴奏されて、第1主題の十数小節を回帰させて再現部へと導き入れる。モーツァルトにおいて調性と形式的特徴の関係がいかに密接かは周知のことである。かつて一度彼はカデンツァによって再現部へと我々を導いたことがあったが、それもやはりイ長調の協奏曲である(原注1)

(原注1)K.414〔No.12 イ長調〕

 モーツァルトの作品の中でも最も個人性の強い楽想を持ったもののひとつであり、また同時に最もしっかりと組み立てられたもののひとつであるこの展開部の後で、協奏曲はいつもの道筋へと戻る。皮肉にも、最初の独奏の単純さと展開部の細部がともに極めて独創的なこのアレグロは、一連の協奏曲の中で教科書の文言通りに古典的協奏曲の“規則”に従う唯一の作品なのだ! この曲はモーツァルトの作品の中で、19世紀のアリストテレスたちが、それまで法規を持たず、しかも衰退しかかっていたジャンルのために作成した法典に従って定められた、協奏曲を交響曲およびソナタの一種の翻案とする規則を唯一遵守しているのである。

 後代への教えに対して素直に、モーツァルトは、再現部では第2主題を主調で保ち通し、若干のスコアの細部とピアノと総奏の受け持ちパートを変更するだけで、提示部を繰り返すのである。聴衆は至極平穏無事に最後のトリルが見えるところに至る。がその時、数小節後に、独奏は時機を失した解放への願望に取りつかれ、譜例307に先行したヴァイオリンの上昇する音階音型12第259~260小節。音階ではあるが非常に表情的なものであり、「音階音型」と訳した。これが提示部を閉じたもので、その次の譜例307から展開部が開始される。したがってそれは展開部独自の主題であり通常再現部には回帰しないものである。に向けて旅立つのである。その理由は、展開部がそれによって築き上げられている主題が非常に重要なものであり、再現部で省略ができないからである。ピアノは、独断で譜例307をすでに弦で耳にした通り正確に奏する。そしてクラリネットとバスーンがそれを取り上げ、モーツァルトは一日の最も美しい時を追想させてくれるのである。木管は4声部の対位法を開始し、ピアノは再びそれに花飾りのように絡み付く。ゲームは活気づき、すぐに譜例309のような興奮状態に至るが、悪だくみの意図はない。3小節にわたる属音の保持音13ホルンの3小節の保持音。それに低弦の主音の保持音がそれに重なる。とともにピアノの左手が初めて目覚め、それはアルベルティ・バスに過ぎないが、曲全体の密度を高めるために最善を尽くすのである(267~275小節)(原注1)

(原注1)この独創的な再現部については、いくつかの比較をしたくなる。2台のピアノのためのソナタ〔ニ長調 K.448〕も展開部で新たな主題を導入しそれを展開するが、この協奏曲ほどは徹底してはいない。そして再現部の終わりでその主題は再び現れる。(エロイカ交響曲〔No.3 変ホ長調 英雄 作品55〕の曲の半ばで主題的な要素が導入されるという、非常に有名な例がある。)261~275小節は一種の時ならぬコーダであり、ハ長調五重奏曲〔No.4 K.515〕の大きなコーダを仄めかしている。五重奏曲でもコーダの後に提示部の結尾部を繰り返すことによって楽章を閉じるという伝統的な結末の付け方に従っている。強弱記号については、169~178小節を演奏する場合にも同じ強弱付けを推奨したい。ピアニストによっては261小節で若干のラレンタンド(しだいに緩やかに)をかけるが、木管が主題を再述するということを記憶にとどめているかぎりこれは正しい。そして主題の提示が終わってすぐの32分音符もまた決して急いではならない。急いでしまうと32分音符と木管とのバランスが壊れてしまう。この部分(261~174小節)を通してその速度は一定でなければならない。

 過ぎ去りしものへの敬意表明とすべての部隊の閲兵が終わると、独奏は華麗な数小節で結末をつけ、トリルへと到達する。総奏はトリルが終わると、カデンツァを告げ知らせる。それについてはベートーヴェンのト長調協奏曲〔No.4 作品58〕での推奨辞“La cadenza sia corta”(カデンツァは簡潔に)(原注1)を繰り返すだけに止めよう。そしてオーケストラは最初の総奏の結末を繰り返し、短いコデッタを付け加えるのである。

(原注1)この曲へのモーツァルトのカデンツァには長所がひとつある。それは短いということだ。それはしばしば演奏されるが、省略すると良くなるかもしれない。その存在は、おそらく巨匠がこの協奏曲を生徒に教授したことを示している。これは面白いものではない14ガードルストーンは、カデンツァを「楽章の主要要素を要約するもの」と述べており、No,20ニ短調 K.466でのエドウィン・フィッシャーの自作カデンツァを、名人芸的なものとして否定してもいる。本協奏曲のものは簡潔ながらも楽章の主要要素をほとんど取り入れず、技巧的なパッセージに徹している点、やや評価を低くしているのかも知れない。

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