Ⅱ 
想像力に最も訴えかけ、人の絵画的な感性を最もかきたてるモーツァルトの主題のひとつでこのアンダンテは始まる。これは悲嘆に満ちた、ゆっくりと歩むような旋律であり、その深い悲しみは弱音器の使用によりさらに強調される。ベールに覆われ抑えた響きで弦が長い悲歌を展開していくが、それは不規則で苦悩に満ち、その動きは1オクターブの音域内にほぼ限られる(譜例284)。その悲歌は、みずからの旋律の上を行き来しながら、光に向かって手探りで進む盲目の男の姿を思いおこさせる。時折その男は引き寄せられるように光に近づき、それに届いたと思い、それに向かって両手を差し出すが、彼は孤独で、助けに来る者はいない。男は啜り泣き疲れて果て、両手を垂らし、光を追い求めることを諦め、絶望して崩折れるのだ。

 旋律は弦に取っておかれるが、特に低音域に限られた第1ヴァイオリンによるものであり、時折伴奏の第2ヴァイオリンがそれに入り混じる(譜例285)。しばしの変ホ長調での停止がそれに光を射しこむが、すぐに短調に戻ってしまい、ヘ長調、ト長調そしてハ長調へと揺れ動きながら、最後にハ短調で終わる。非常にモーツァルト的な2小節による最後の旋律の引き延ばし1譜例286の第1小節、反復記号が付けられた2小節である。この2小節が無くても前後の旋律はそのまま繋がる。は他の部分よりも哀れを誘い、格別に感動的である(譜例286)

 この楽章の形式をこの30小節から推し量ることはできない。主題と変奏、ロンド、ソナタ、そのどれでもあり得る。ピアノの入りによってこの問題は解決されるように思われる。独奏はその旋律を取り上げ、伴奏なしでそれを変奏する。ピアノの鋭い響きがそれをに光を与える。もはや悲歌のつぶやきを聴くこともなく、手探りしつつ歩む半分影に覆われた男の姿を垣間見ることもない。それはレシタティーヴォのように明瞭に口にされた祈りの言葉となる(譜例287)。突然その活力は増し、譜例286の祈りは新たな装いで脈打つ(譜例288)。明らかに純粋な形式上の変化は実際上情緒の変化も表しているのである。弦が独奏の装飾のもとで主題を強調することにより、それぞれの後半の最後の小節を際立たせる2「それぞれの後半の最後の小節」は、最初は第41~44小節、2回目は62~64小節を指す。

 ここまでドラマは弱音器を付けた弦とピアノの間で演じられてきたが、木管の参加と新たな変ホ長調の主題により、その色彩と雰囲気が変わる。まさしく、この楽章はロンドであり、これは第1エピソードなのだ。この主題は明るく穏やかな外形の優しくなでるような旋律であり、8小節と12小節の旋律で展開し、各々に同じ4小節のフレーズ、あるいはコデッタが続く(譜例289)。前半部で属調へ転調し、後半で主調へ戻る3前半(8+4小節)で属調の変ロ長調に転じ、後半12小節の開始で変ホ長調に戻り、4小節のコデッタまで通す。。これはその当時の数えきれないほど多くのアリアとリフレインの流儀なのである。そのギャラント風な対称性は第1スタンザ4ここでは形式の独自性もあり、ガードルストーンが普通に使うロンド形式の用語ではなく、スタンザ(節)とエピソードの語がつかわれているが、前者はリフレイン、後者はクプレと同じである。のほとんど即興的とも言うべき不規則性と対照的である。スコアリングのみならずハーモニー(3度での伴奏、ホルンの反復音、第1クラリネットと第1バスーンの1オクターブでの重なり、第2クラリネットのアルベルティ・バス、クラリネットからフルートへのエコー)は木管セレナーデ、とくに調性も拍子も同じハ短調〔No.12 K.388〕のアンダンテを思い起こすのは当然のことなのである。

 これは逸脱であるが、楽章の雰囲気に影響を与えることなく、ピアノが再び主題の2回目の変奏で入ると同時に、旋律がほとんど変更されることなく32分音符の極度にせわし気な低音の上で再述される(譜例290)。各変 奏の最初の数小節の後、弦も主題を奏し、そしてピアノは勝手にそれを変奏する。

 第2エピソードはハ長調で、フルートと第1バスーンの対話からなり、その鋭い音色は依然として弱音器をつけた仄暗い音塊によって際立つ。ハ長調五重奏曲〔No.3 K..515〕のアンダンテでの第1ヴァイオリンとビオラと同じように5原文はafter the fashion ofであるが、ハ長調の五重奏曲はこの曲よりも後のものである。「とおなじように」とした。 諸楽器は語り、また語り返し、問い、そして、それに答える。第1エピソードの均整は失われ、メロディーは、霧にかすむ森の入り口でそよ風に揺れる花飾りのように、ゆったりと大きな幅で上り下りしながら徐々に展開してゆく(譜例291)

 このエピソードには、全ての楽器を動員して奏される主主題の第3変奏が続く。それは主題をさらに自由に語るのだ。滑らかでしなやかな形は崩され、砕かれて短い感嘆の声となるが、そこでは、総奏がフォルテで攻撃し、ピアノがそれに穏やかに答える。弦と木管が重なり、あるいはひとつのグループが旋律を提示し、他のグループは対位主題を提示する。そして、2つのグループは主題を回復し、ピアノがそれを装飾する。このすべては連続して行われるが、どれも長くは続かず、流れは不規則でぎくしゃくとしている。後半では木管の対位主題(譜例292)が前面に出て、譜例286の“懇願するような”モチーフに先立つパートを変更し、引き伸ばす役割を担う。そのモチーフは形を変えて2回繰り返される。うわべの混乱にも関わらず、次第に明快さが勝り、3つのグループ、弦、管そしてピアノは混ざり合い、対立し、重なって、互いに装飾し合うが、それぞれの個性を失うことはない。それぞれの面が宝石全体のきらめきに貢献するのである。このざわめきの中からトリルの音型が、デスカントを歌う木管を伴った弦によって、次は、弦のユニゾンの上のピアノによってアリアドネの糸のように現れ、最後にそれは鎖のように連なって主調に向かって上昇し、その間弦の旋律線はその下で傷ついた蛇のようにもがくのである(譜例293)。そして、すべてが“懇願するような”モチーフの悲しみへ逆戻りするのだ。

 変奏の最後で弦がゆっくりと反復和音を打ち付け始め、聴衆は至上の時が間近にせまっていることを感じる。ここで始まるコーダは、モーツァルトの全作品の中で確かに最も魔法のようなもののひとつである。情熱は悲劇的とも言える強さに高められる。脈打つ弦の上にクラリネットとバスーンの侘し気な主題が敷き詰められる(譜例294)6譜例294はピアノ譜で記されているが、上段がクラリネットとバスーン、下段がヴァイオリンおよびビオラである。クラリネットの実音は1オクターブ上である。。その形にはなじみがあるが(原注1)、ここで耳にすると、それは著しく独創的で、未知の世界から現れる声のように浮かび上がってくるのだ。この楽章の魂そのものがすべての飾りを失い、裸形で聴衆の前に立つのである。それが頂点へと登る時、フルートが現れ、他の楽器の荒々しさをわずかに和らげる。そしてピアノがそれを反復する。主題はバスーンのスタカート7新全集版にはスタカートの指示はない。の上で、そしてヴァイオリンとビオラが交差する曲線の上で羽ばたき、そして着地するが、驚くことにそれはハ長調の和音の上であり、一瞬ここで聴衆は楽観的な結末を期待する。しかし1小節後、再び短調に落ち着くのである。結末のフレーズは疲れ果てたように進む。悲劇の感情はすべて消え去り、ただ悲しみに満ちた諦念だけが残る(譜例295)。それはピアノと木管で分け持たれ、ついに独奏の上昇半音階に休息を見出し、総奏が3度その最後の音を繰り返して結ぶ。

(原注1)173ページ〔原著〕譜例71参照〔ホルン協奏曲K.495〕

 この協奏曲の重心は間違いなくこのアンダンテにあり、この楽章ゆえにこの曲は聴衆の心に残るのだ。その美しさは一聴すれば直ちにわかり、初演の時にもアンコールされたのである。これはモーツァルトの変ホ長調作品でハ短調の緩徐楽章を持つ(原注1)最後の継承者であり、その中のいくつかはこの曲と同様に3拍子、8分の3拍子あるいは8分の6拍子である。中でも最も重要なのは、弦楽四重奏曲K.157〔No.4 ハ長調〕、交響曲K.184〔No.26 変ホ長調〕、ピアノ協奏曲K.271〔No.9 変ホ長調 ジュノーム〕、そして協奏交響曲K.364〔変ホ長調 ヴァイオリンとビオラのための〕のものである。他の作品はむしろ憂愁や絶望について歌うのみだが、最後にあげた作品はこの協奏曲のアンダンテのように直ちに悲劇へと高まる非常にすばらしいもので、これはモーツァルトの技の頂点を示すものである。2つのハ短調の声楽作品がこのアンダンテの意図を明らかにする。ひとつはハ短調K.4278原著ではK.426となっているが、K.427の間違いであり、本文を修正した。で、いわゆるミサ・ソレニムス(大ミサ曲)のすばらしいキリエである。それはいくつかの小節における“懇願するような”特性の解釈を裏付けるものだ。もうひとつは1785年の四旬節のために書かれたオラトリオで、『悔悟するダビデ』の中のアリアである。この協奏曲のアンダンテと同じく8分の3拍子で、その開始部はこのアンダンテの開始部を十分に思い起こさせる。そして、その歌詞“Fra le oscure ombre (我らを取り巻く暗い闇の中から)”は、これらのアンダンテの小節が示唆した盲目の男の比喩、それはこのアリアを知る前からわかっていたのだが、それを正当化しているのである。

(原注1)あるいはハ長調作品の中のもの。弦楽四重奏曲K.157〔No.4 ハ長調〕、交響曲K.96〔番号なし ハ長調〕。

 形式の上で、このアンダンテはモーツァルトの作品の中でも他に類を見ない。その構成はハイドンによってよく使われたロンドと変奏曲の混成物(原注1)に似ているとも言えるが、実際は、我々の知るハイドンの多くの例のひとつたりとも、このアンダンテと厳密には類似していない。その形式はその情感と同様に独創的なものなのである。

(原注1)ザロモン交響曲、第2番ニ長調、第6番ニ長調、第11番ニ長調、第12番ト長調、等。9原注のザロモン交響曲の番号づけは、現在の通常のザロモン・セットの番号と異なっているようである。 

部分的にエピソード的な構造にもかかわらず、情緒の流れが途切れることはない。進むにつれその輪郭が明らかになっていく。最初は混とんとし不安定であるが、それはすでに最初の変奏曲で自分が何であるかを知る。変ホ長調のエピソードはそれが何でないかを示すことによって相反するものからそれを定義しているのである。さらなる活力を持った第2変奏はその結論であり、それが何であるかについての更に高められた自意識である。その反対のもののさらなる表明であるハ長調のエピソードに怒りの噴出が続く。そしてコーダの“悲劇的な”歌、譜例294では、自身を手中に収め、そしてその姿を完全に現わすのである。その後、自らを語り尽くし、疲弊して、最後の数小節を徐々にゆっくりとなる足取りで進みながら、その感情は次第に静まっていくのである。

 “モーツァルトの作品は彼の生活の正反対である。彼の生活は苦しみそのものであったが、彼の作品はそのほとんどすべてが幸福以外の何物も語っていない。”このように述べる時、カミーユ・ベレーグ〔フランスの伝記作家〕は半世紀前から一般に言われていたことを繰り返すに過ぎない。真のモーツァルトを知らない一時代のこのような評価を見つけた時に最も驚かされるのは、この楽章の結末においてなのである。“幸福”をここに見ることができるだろうか。また、痛切な苦しみ以外のものを見ることができるだろうか。その苦しみは変奏から変奏へと強まり、そしてコーダでさらに強められる。この曲では、悲しみ、悲劇そして挫折が連続して現われ、確かにふたつの穏やかな間奏曲があるが、それはほんの束の間のものに過ぎないのだ。われわれはさらに学んだのだ。まさしくモーツァルトは己が欲する時には、ベートーヴェンのように心の底からではなかったものの幸福を歌にすることができたのだが、彼は偉大な悲しみの詩人なのだ。このことは、叫ぶことでしか悲しみを表現できない、また、感情が自らを激しく主張することがその深さと強さの物差しであった時代には感じ取れなかった事実なのである。

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