Ⅱ このアンダンテの世界は、いわゆる“夢”のアンダンテ(原注1)である。それはモーツァルトの初期の(原注2)いくつかの最も美しい緩徐楽章からなる一群で、このアンダンテが長期わたって連続したこれらの最後のものとなる。しかし、この曲の形式は独特である。
(原注1)(原著)33、36、40ページを参照。
(原注2)ヴァイオリン協奏曲ト長調〔No.3 K.215〕、交響曲ハ長調K.338 〔No.34〕、そして弦楽四重奏曲変ホ長調K.428〔No.16 ハイドン・セット第3番〕のアンダンテである。
それは総奏の前奏に先導されたピアノの抒情歌(カンティレーナ)であり、弦のささやきと木管の多彩な音色の装いによって華麗に支えられ、装飾される。曲は調から調へとうねりながら進み、その流れはスムースで、密に混ざり合い、時には夢見るような、時には苦悩に満ちた、時にはのどかな、さまざまなムードを通り抜けるが、主題が際立つことはほとんどない。それは河の流れであり、ゆったりと、しかし、間断なく流れ続ける。そして、ごくたまに現れる流れの中の小さな渦が新たな主題を告げるのである。
しかし、これは幻想曲ではない。その情緒と形式には方向性および発展がある。流れは進み、戻り、また先に進む。その構造は自由だが、決して散漫ではない。初めに耳にした時には、主題を聞き分けることはできないものの、一度耳にした旋律を取り上げ、すでに通り過ぎた場所を再び通過し、調性と同様にこれらの場所や旋律が連続することで、聴衆の想像力を満足させるが、分析力を発揮すればそのことが正しいとわかるのだ。
楽章は3つの区切りで展開して行き(1~23小節、24~72小節、73~104小節)、それぞれの部分で同一の素材を耳にする。最初の区切りはオーケストラの前奏曲であり、そこでは一見この素材が他と分けがたく結合されているかのようだが、これだけがほとんど転調もされずに提示される。第2の部分は独奏が入って開始され、要素が同じ順序で入ってくる。しかし、その連続した流れは新しい主題の侵入で中断され、もうひとつの主題がそれらに新たに加わるが、その間頻繁に転調する。第3の部分は転調し続けるが、第1の部分の足跡を再び辿り、コーダで終結する。
このアンダンテの調性の進行はさらに独自なものである。わかりやすくするために、この楽章が大きくは2部建ての楽章グループに属するとしよう。その調性進行は次のように単純化できる。
主調―属調;さまざまな調性―主調
実際、調性の迷路を通って第36小節1第36小節はモチーフ5の直前の小節である。ヘ長調から平行調のニ短調に転ずる。でヘ長調から離れるやいなや進むのは属調のハ長調に向かってなのである。確かにそこに到達しても、そこに留まるのは4小節2第40~43小節。に過ぎないのだが、しかし、開始部の結末をつけ、それゆえに安定を連想させるその断片(譜例267)を使って調性を確定し、そしてこの断片に楽章の中で数少ない完全終止で追い打ちをかけることで(第54~55小節)、夢の小舟が聴衆を運びながらその中を通る他の調では味わうことができない安堵感と見せ場をモーツァルトは与えるのである。
第2の部分の後半で転調の進行を再び開始するが、第1主題が変イ長調(主短調の関係調;第73小節)で再帰するとともに、次のステージに到着する。そこから数回の曲折を経た後、この楽章のほぼ半ばまで聴衆から遠ざかっていた3最後のヘ長調は第2の部分の第35小節、ヘ長調が回復されるのは第3の部分の第88小節で53小節の間ヘ長調から離れている。この楽章全体が104小節であり、ほぼ半分にあたる。ヘ長調が回復される。
今述べた事柄を分かりやすくするために、主要な要素の冒頭とともに、この楽章の図式を示すことにしよう4冒頭の番号は、モチーフ(要素)番号である。ガードルストーンは前に「主題」という語も使っているが、これは主題というよりも要素、モチーフというべきものである。アンダンテは全体で104小節であるが、ガードルストーンの挙げている小節数はすべてを合わせると98小節である。表の中から抜けている小節は次の通りである。
①第1の部分4 4小節ではなく6小節。後の2小節は譜例267のモチーフを閉じる連続するものと見做すべきである。
②第2の部分4 4小節ではなく6小節。①と同様譜例267に続くものであり、完全終止を行うものである。
③第2部分最初のLink 4小節ではなく、ト短調3小節+ニ短調3小節の計6小節である。
この抜けている6小節を加えると、104小節である。。
しかし、このアンダンテの賞賛に値する特質はこの構造のみではない。少なくとも、最初に耳にする際に聴衆が最も注目するものはこれではないのである。さまざまな楽器の音の色彩および音塊がより聴衆により深い感動を与えるのだ。この1年の間に、モーツァルトの協奏曲において次第に豊かになってきた記譜法がここで高いレベルに到達している。もはやオブリガートの木管を伴う作品ではない。美しさを生みだす仕事の中ですべての楽器(原注1)が協働している。弱音器の使用と、極めて特徴的な伴奏音型(図2)が弓に代わってピチカートでその都度ピアノを支えることによって、音の色彩がさらに類まれなものになっているのだ。全体を通して弦の役割は音塊を供給することであり、そこに反復される3連符が加わり、夢の間ずっと執拗に鼓動し続け、切迫した不安な状態を保ち続けるのである。前奏の後で、弦が歌うのは、ピアノと対になる時(譜例267において)、あるいは、木管と力を合わせる時(譜例266において、また譜例270とも比べられたい)のみである。
(原注1)沈黙しているトランペットとティンパニは除く。5この楽章ではトランペットとティンパニは編成よりはずされている。第3楽章では再び編成に加えられる。
弱音器とピチカートによって強調された弦の色彩に手際よく加減された木管の色彩が加えられる。弦と木管それぞれの入りの間のやや長めの休息がそれぞれに新しさを感じさせるのだ。ある時は、諸楽器が保持音でスフォルツァンド6新全集版ではスフォルツァンド・ピアノsfpであるを補強し(譜例265)、時には弦あるいはピアノに重なり(譜例267)、またピアノを支え、旋律的な対位法によってそれに装飾を加えたりする(75~81小節;変イ長調で第1主題が再帰するところ)。しかし、それどころか、その記譜法から考えれば、楽章全体で最も巧みなパッセージは譜例266によるものである7すなわち譜例266が使用されている譜例270である。。ここでは、弦と木管がそれぞれ密接に入り混じり、対立あるいはそれぞれの異なったパートを交差させつつ(第1ヴァヴィオリンとフルート、第2ヴァイオリンと第1オーボエ8第2ヴァイオリンと第1オーボエの関係は譜例270後半では第2オーボエとの関係に移る。第2ヴァイオリンの上昇2音とオーボエの下降2音の対応関係である。)、それぞれのハーモニーを混ぜ合わせる。また、それとは逆に、ともに奏することに不慣れな、おのおのの楽器群の中のメンバー(オクターブで重奏する第2ヴァイオリンと第1バスーン)を組み合わせる。その間ピアノは公然と第1ヴァイオリンの側に立ち、あたかも第3の楽器グループであるかのように、その旋律線を自由に装飾する(譜例270、82~87小節)。モーツァルトが手にせざるを得なかった9オーケストラが貧弱なものであったことを言っていると思われる。モーツァルトはマンハイムで強力なオーケスト譜例270ラを聴いて感動しているが、当時のウィーンにはまだマンハイム派のような強力なオーケストラはなかったのではないか、と考えられる。パレットから、これ以上に豊かで魅惑的な色彩を引き出すことはできないであろう。
これらのすべてに、それを頂点とすることが協奏曲の存在理由であるとみなされる独奏楽器そのものが片隅に追いやられ、モーツアルトの協奏曲について一度ならず言われてきたように、ピアノが主役の交響曲となってしまう危険があるのではないか?
ピアノを打楽器と見なすならば、この批判は正しい。しかし、かつてピアノは歌うことを知っており、そうすることを誇りとしていたことを思い起こすならば10詳しい説明がされていないが、ピアノの前身であるドイツ‐オーストリアでのチェンバロのことではなさそうである。ガードルストーンはラモーの研究者であり、ラモーの『クラブサン曲集』などが頭にあったのではないか、と想像される。、とやかく言っても、ピアノが舞台の最前列に留まっていることがわかるはずである。前奏の後でピアノが2小節以上沈黙することはなく、それに沈黙自体も少ないのだ。時折、左手を使って弦の3連符と交替する時を除けば、ピアノは歌うことに専念する。和音もなく、音塊効果も使わない。このようにモーツァルトの最も音塊的なアレグロの後に最もカンタービレなアンダンテが続くのである(原注1)。またオーケストラに対しても、ピアノは第1楽章のように対立することがない。確かに一度たりとも独奏者の地位から降りることはないが、ピアノは他の楽器としばしば親密に協働するのである。しかし、そこにインタープレイはない。緊密に織りなされ連続的な楽章の特性がそれを許さないのだ。ピアノは同輩にあって首席を占めるごとく他の楽器と結びつく。それはあたかも独奏歌手と他の歌手のようである。時折ピアノは自らが木管に支えられているのを耳にし、またあの不安定な主題、譜例26711ガードルストーンは譜例267について、「開始部の結末をつけ、それゆえに安定(stability)を連想させる断片」としているが、ここでは「不安感のある(unquiet)主題」と言っている。前者は音楽形式上、完全終止に使うことができる「安定」、後者はそれから受ける心理的な不安感ということではないかと思われる。が戻る時は常に、自らの独立性を失うことなく第1ヴァイオリンの補助の役割を果たすのである。そしてその間中ずっとピアノは歌うことをやめることはない。ここでのピアノの第一の貢献はその音の色彩、すなわち1780年のピアノの淡く繊細な音色にあると感じる。そしてモーツァルトは、このノクターン以上に適切にその美しさをこの世に送り出すことはなかったのである。
(原注1)コントラストはこれほどではないが、ニ長調の協奏曲K.451 〔No.16〕が同様な最初の2つの楽章の対照性を示している。
ノクターンと述べたが、ショパンとの接近はほとんど避け得ないだろう。弱音器による靄のかかった雰囲気、止むことのない3連符の小刻みに震える穏やかさ、ゆったりと持続するピアノの歌、これらにもまして、この曲がこれほど直接的に表現している、ベールに覆われ、悲しみに満ちた情熱的な魂をショパンの作品に、特にこのモーツァルトの“夢”が思い起こさせるノクターンの中に見出さないであろうか。このアンダンテは、初めて耳にした時には非常に穏やかだが、さらに良く知ると、人の心をかき乱すムードを顕わにする。繰り返される転調と新たな場所を探し求めて満たされない探求が示す絶え間ない不安定さ、静けさの面の下に時折隠し切れずに現れる病的な不安感、半音階での悲痛な情熱の迸り、譜例270の控え目だが鋭い色調、これらは疑いなくモーツァルトの特性の基本要素である。しかし、これらはモーツァルトがショパンと共にするものでもあり、確かにこのアンダンテでこのことが明白となったが、モーツァルトにおいてこのように現れることはこのロマン主義の作曲家よりはかなり稀なことなのである(原注1)。
(原注1)このアンダンテのようなショパン的なモーツァルトは、ピアノのためのイ短調ロンドK.511、イ長調協奏曲K.488〔No.23〕の嬰ヘ短調の緩徐楽章で最もよく見ることができる。