協奏曲第15
(No.19) ヘ長調(K.459(原注1)

1784年 12月11日 完成

アレグロ:C(4分の4拍子)
アレグレット:8分の6拍子(ハ長調)
アレグロ アッサイ: 4分の2拍子

オーケストラ:弦、フルート、オーボエ2、ホルン2、バスーン2

(原注1)全集版番号で第19番

 

 1784年秋の作品群は冬と春の作品の驚異的な作曲速度に比べてより緩やかに続いた。10月から1月にわたり、ひと月に1曲の割合で展開しており、ハ短調のソナタ〔No.14 K.457〕は10月4日、変ロ長調の四重奏曲〔No.17 K.458 「狩」ハイドン・セット第4番〕は11月9日、この協奏曲は12月11日、イ長調の四重奏曲〔No.18 K.464 ハイドン・セット第5番〕が1月10日である。そして続く12か月を通じて、ひとつの例外を除きこの速度で続くのである。

 新しい協奏曲は5つの先行した協奏曲と同類で、ほぼ間違いなくモーツァルト自身のために作曲されたものだが(原注1)、そのインスピレーションは変ロ長調とニ長調、すなわちK.450〔No.15〕およびK.451〔No.16〕に近い。それは同じ自信と幸福を、同じ作曲家兼演奏家としての勝利を、自己の才能と己の聴衆の支配者であることを謳歌するのである。そしてモーツァルトの作品において、それらをこれほど高いレベルで、また心からの喜びがこれほど純粋に作品の中で表現されるのを耳にすることは二度とない。一片の雲さえも、一瞬たりともアレグロとロンドの光輝く空に翳りを与えることなく、アレグレットでの短調の出現がいかに悲痛であっても、それは単に過ぎ去ってしまい、楽章の残りの部分に何ら影響を及ぼすことはないのだ。

(原注1)259ページ(原著)を参照のこと。

 

 この作品の情緒がこの年の他の協奏曲のものに近いものであっても、第1楽章にはこの作品ならではの要素が数多くあり、これらの要素によってこの曲に先立つ、またこれに続く協奏曲からはっきりと見分けることができるのである。

 モーツァルトが意図したものは明確である。

 まず、モーツァルトは、数多くそして際立った主題を持つ楽章を求めている。最初の総奏は、すべてほぼ同じ長さの旋律の幾分カンタービレ風の主題が連続するものである。これはモーツァルトの作品の最初の総奏の中でも、最も多様で、最も緩く織りあげられたものである。それのみならず、第1主題の後では支配的なものが何もなく、他の主題それぞれの重要性は等しく、そのどれも第2主題、また(K.450〔No.15 変ロ長調〕や後年のいくつかの協奏曲のように)偽の第2主題としてさえも立ち現れないのである。この主題の多さから、総奏と独奏提示部の分岐が生じる。前者の半分と後者の3分の1のみが両者に共通する要素なのである(【訳注1】および【訳注3】参照)。

 また一方で、モーツァルトは、この開始部が狂詩曲風に多様すぎることを、残りの楽章全体を通して第1主題を支配的なものにすることで埋め合わせようとしている。第1主題は、独奏のパッセージにおいてさえもほぼ常に現れるそのリズムによって、そして、それを思い出させる部分が頻繁にある旋律によって支配するのである。ピアノ・パートにおけるひとつの同じ伴奏音型の存在もまた一貫性の要素であり、突然の転調がないことも、おそらくは同じ単一性への関心によるものだろう。

 最後に、モーツァルトはK.451〔No.16 ニ長調〕の理想に立ち帰って、オーケストラが独奏と同等の重要性を持つべき楽章を望んでいる。他のどの協奏曲でも、これほどオーケストラが支配的であり、独奏がそのパートの伴奏や装飾のみに自らを止める部分が頻繁なものはない。そして、この年の先行する4つの協奏曲〔No.15 K.450 変ロ長調、No.16 K.451 ニ長調、No.17 K.453 ト長調、No.18 K.456 変ロ長調〕と同様に、木管が弦に匹敵する独自のパートを持っているのである。

 オーケストラまたはピアノ、どちらが前面に立つ場合でも、楽章を通して、2小節あるいは4小節単位の四角張ったフレーズが支配する。リズムの画一性という点で、この協奏曲は独特である。

 すべてはひとつの目的に向かって収束する。すなわち、楽章全体を満たすひとつの情感の表現、それをひとつ前の協奏曲〔No.18 K.456 変ロ長調〕よりもさらに高度に表現すること、である。

 これらの点のいくつかについて、さらに詳しく見てみよう。

 開始部の総奏の主題の多様さについては、これ以上詳しく触れる必要はないだろう。第1主題の後に6つのテーマが数えられる1ガードルストーンは6つの副次的なテーマと、それとは他に第1主題提示部の後の第16~22小節を、譜例203の説明で「第1主題の後半」と述べてはいるが、それは常に第1主題とセットで出現するものの明らかに第1主題とは異なる副次的テーマと見做すべきではないかと思われる。また、これは第2提示部および再現部で対位旋律を伴って再現する(第88小節~および第263小節~)ため、ガードルストーンの言う再現することのない第1の副次的テーマ、あるいは単なる推移パッセージなどではない。したがって、これを含めると、第1主題後、第1提示部で出現する副次的テーマは合計7つである。ここでの副次的テーマ(以下ST[subsidiary theme]と略)、ST0は上述の第1主題直後のものである。第1提示部(総奏)で出現状況は、第1主題(第1小節~)、ST0(第16小節~)、ST1(第24小節~)、ST2(第32小節~)、ST3(第37小節~)、ST4(第42小節~)、ST5(第54小節~)、ST6(第63小節~)である。第1楽章各パートで各主題・テーマがどのように出現するかは、次の訳注補図で示した。 訳注補図。それらの最初の1つは飛び去って戻らない渡り鳥のようなものであり、次の2つは独奏提示部と再現部で際立った役割を演じ、その他の3つは再現部で出てくるのみである2】訳注1の表(末尾に掲示)に示したように、4番目の副次的テーマは再現部本体でのみ、また5番目と6番目のものは最後のコーダで出現するだけである。。これらは明確な個性を有するが、独奏提示部で初めて出現するものはすべて第1主題から派生している3第2(独奏)提示部で新しく出現するテーマ(以下NT〔New Theme〕と略)は、
NT1(第88小節~)絃によるST0の対位旋律
NT2(第96小節~) 独奏主題
NT3(第111小節~)
NT4(第130小節~) 第2主題である。
NT5(第150小節~) ST1の変形
NT6(第178小節~)
NT7(第183小節~)
NT8(第195小節~)
と思われる。ガードルストーンは「独奏提示部で初めて出現するものはすべて第1主題から派生している」と述べているが、第2主題であるNT3を第1主題から派生したものと見るには少々無理がある。その他のものは第1主題の部分、特に2小節目を変型させたものである。なお、第1提示部と共有される4つの主題およびテーマと合わせ、計12の主題・テーマからなることになり、その3分の1が共有されていることになる。
。それはあたかもモーツァルトが総奏の終わりに到達した途端、己の浪費癖に恐れをなし、節約しなければと感じたかのようである。

 この第1主題をさらに詳しく知り、楽章を通してこれを追ってみることにしよう。ここでは、開始部で出てきた時のように、ピアノpで、いかにもモーツァルト的なヴァイオリンとフルートの組み合わせで提示される(譜例202)。この前の3つの協奏曲が開始された行進曲のリズムをここでも聴き取ることができる。それは木管にヴァイオリンが重なったフォルテで反復されるが、これは、物静かに開始され、フォルテがそれに続くというギャラント形式の新たな例である。これが有節歌曲的な性格を持ち、4小節単位に区切られていることは明らかである。その第2部も同様である(譜例203)。これには独奏提示部の最初で再び出会うが、最初はピアノのみで、次にピアノによって伴奏されてオーボエとバスーンで提示される(譜例204)(原注1)。短く、さほど重要でなく、この楽章ではそれ以上関心を払われない独奏主題4NT2である。の後、木管は、ピアノにそのまま続けて華麗なパッセージを奏でさせることなく、総奏開始部の音型を模倣しつつ回想する(譜例205)が、今や主題に不可欠なものとなった3連符の伴奏音型を伴ったリズムに乗って、また部分的にはその音型に従って、ピアノが最初の独奏に入っていく(譜例206)5NT3である。。しかし9小節目の終わりで、フルート、続いてバスーンが譜例202の断片(a)6手書き譜が見にくいが、譜例202の第1~3小節第1拍の高音部の[]で示された音型、すなわち第1主題の前半である。によって回帰し、そしてそれが、単に名目だけではなく、実質的な内容となり、さらに楽章を象徴するものに行きつき、そしてピアノはおとなしく3連符の伴奏を再開する7「楽章を象徴するものに行きつき」とは、断片(a)が譜例207で登り詰め最後の緊張感のある音型にたどりつくことを言っていると思われる。なお、その後に「ピアノがおとなしく3連符の伴奏を再開する」と読めるが、ピアノの3連符は、その直前の左手での3連符に続いて、当該箇所が始まると同時に右手で奏されるものである。なお譜例207は第121小節からのものであるが、右手の3連符の伴奏が開始されるのは第199小節からである。(譜例207)

(原注1)演奏にあたっては、木管が際立つべきであり、ピアノの3連符が主役であるという印象を与えてはならない。

 第2主題の登場によって、付点のリズムと3連符は一瞬押しのけられてしまうが、2小節、4小節のフレージングはそのままである。しかし、総奏とピアノがそれを提示し終わった途端、オーケストラでは行進曲のリズムが、ピアノでは3連符が再開される。数小節の技巧的パッセージの後譜例2028譜例202そのものではなく、それを基にしたNT5、最後の木管による3小節が譜例202である。にまで連れ戻すのだが、その終わりの3小節がハ短調で木管によって繰り返され、一方ピアノは疲れを知らない3連符でそれを支える。独奏の最後では、はじめは最初の総奏の素材を使っているが9使われている最初の総奏のテーマは、ST2→ST3→ST2の変奏である。その後NT6、NT7が奏された後でトリルとなる。、いつものトリルが提示部の終わりを告げ響かせるとすぐに、全管弦楽は断片(a)によってすばらしい展開を始める。それは高音部のフォルテで始まり、堂々と広がりながら低音部まで下がり、2小節の2分音符と全音符10原文はminums and semibrevesであるが、この2小節を第200~201小節とすると、全音符と、休符はほとんどが全休符である。の後、高音部へと昇り返し、そこでイ短調へと転調する。その調でピアノが展開部に向けて再び入ってくる(譜例229)

 中間部は幻想曲風展開部の自由で気ままな方式を持っているが、ここでさえも付点のリズムがまどろむことはなく、木管パートでは、それがピアノの2小節フレーズを強調し、ピアノの右手にまで広がる。もちろん、3連符もじっとしていることはなく、この部分を開始し2回にわたって打ち鳴らされる爆発的な和音(原注1)を除くと、3連符はどちらかの手で一拍たりとも休んでしまうことはない。そして独奏がニ短調の属和音で停止する時でも、それは(a)のリズムに乗っているのである。これはモーツァルトがこのような場所でいつも使うショートカットの一例であるが、これで再現部へと至るのだが、第1主題へ回帰するとは言えない。というのも、第1主題から離れることはなかったからである(譜例208)

(原注1)このパッセージとニ短調協奏曲〔No.20 K.466〕のアンダンテとの類似については、300ページ〔原著〕を参照。

 再現部を通して第1主題が支配的であることはほぼ明白である。第2主題は前と同様にエピソード的なものであり、それは、このころの協奏曲の第2主題と同じく単なる間奏曲に過ぎず、その存在はいかなる形でも楽章の進行に影響を与えることはないと思われる。その後で、同じ付点のリズムが同じ3連符のパッセージを呼び出し、同じく(a)のエコーが継続される。

 オーケストラがカデンツァを告げるのは、ここでもまだ第1主題の旋律に合わせてなのである。このカデンツァはモーツァルトが残した最もすばらしいもののひとつであるが、3連符のアルペジオで鍵盤上を闊歩し、これまで無視されてきた第2主題に道を譲る前に(a)の竹馬に乗って短い冒険を開始し、そして3連符へと戻り、終結する。

 しかし、終結部では、行進曲のリズムでも3連符でもないすべての者たちによる手痛い仕返しによって楽章は行進曲も3連符も完全に捨て去ってしまうのである。オーケストラは独奏が入って以来一度も耳にすることのなかった総奏の最後の20小節11正確には18小節。ST6およびST7である。を変更することなく反復し、楽章は、取りついて離れないような譜例202に再び誘惑されることなく終了するのである。

 このようなひとつのリズム、ひとつの主題、ひとつの伴奏音型へのこだわりは、この時期の協奏曲では見られないもので、この楽章の主たる独自性である。しかし、この固有の特性は、直前のニ長調協奏曲〔No.16 K.451〕と共有しているもうひとつの特徴に比して、より魅力的であるとは言えない。すなわちそれはオーケストラと独奏の同等性、ピアノ・パートによるオーケストラのパッセージの反復、その間のそれらに対する伴奏や装飾である。これらのパッセージは、ニ長調ほど連続的ではないが、4回数えられる。最初は第1主題の後半で起こる(譜例203)12ガードルストーンが1回目の事例として挙げているのは譜例203の次のST0と譜例209の間の変更である。ST0を「第1主題の後半」としているが、訳注1で見たように、これは副次的な独立テーマと見做すべきである。。それは左手がビオラと低弦にとって代わり右手は装飾的な対位旋律を加えていく(譜例209)。2回目は最初の総奏の2分音符のパッセージに対してピアノが輝かしいアルペジオの装飾をつけていくところである(譜例210)13ST2の第2提示部での再現である。。その他の2回では、最初の総奏での弦と木管の対話が反復される時14第1提示部で「弦と木管との対話の反復」は特定しがたく、これに関してガードルストーンの述べようとしていることはっきりしない。、また提示部末尾の木管による第1主題の明確な提示を2度進行で伴奏するパッセージが反復される時、ピアノがヴァイオリンにとって代わることに目先の新しさがある(譜例211;最後の独奏の終わりにかけて)15譜例203での木管パートが、その再現である譜例211でピアノに置き換えられていることを指している。

 この協奏曲はひとつ前の協奏曲〔No.18K.456 変ロ長調〕と同じく劇的なものではない。それは語るべき物語も持ってはいないし、何かを再現しようとする動きもない。それは若さにあふれた、抗いがたい心底からの幸福なムードを放射することに満足しきっている。対称的に裁断されたフレーズや伴奏の弾むような足どりは、これを一種の舞踏曲にしており、そのリズムにも関わらず、これを行進曲というには、そのテキスチャーはあまりにも軽く透明に過ぎるのである。これは一種のリラクゼーション、一種のゲームであり、そのひとつひとつの振る舞いはバレーのステップで進んでいくのだ。

 ある人々にとってすべての中国人が同じに見えるように、すべてのモーツァルトの協奏曲がよく似て見える人々もいる、とトーヴィは言っている。しかし、1784年の作品群を表面的にでもともかく知ることで、それらを見分けることが十分可能になる。さらによく見れば、変ホ長調〔No.14 K.449〕の焦燥感、自分が美しいことを知っている女性の如く自信に溢れ、優美な最初の変ロ長調K.450〔No.15〕、ニ長調〔No.16 K.451〕の“勇ましい”誇り高さ、涙と微笑みが共存する“中道を行く”ト長調〔No.17 K.453〕、第2の変ロ長調K.456の物静かさ、そして最後にこの協奏曲〔No.19 K.459 ヘ長調〕のおおらかで確信に満ちた喜び、これらの区別がつかないことなどあり得ない。何と多くの作品、これほど多くのそれぞれ異なるムード、そして、何と多様な世界があることか!

 形式については、第1楽章のみに限っても、各々の違いは同じく非常に大きい。ここで手短に、いくつか主な点についてこの協奏曲と先行する作品との比較をしておこう。

 冒頭の総奏で多くの主題を置き、第2主題が欠けている点は、最初の変ロ長調〔No.15 K.450〕と同じである。オーケストラによって提示されたパッセージを反復し、それにピアノのパートを加え、挿入する点、またオーケストラと独奏を同等のものとして扱う点ではニ長調〔No.16 K.451〕と同じである。開始部の総奏で、また総じて楽章全体を通じて転調がないことで、この両者と、またおそらくは第2の変ロ長調〔No.18 K.456〕と類似している。最後に、変ホ長調〔No.14 K.449〕(ここでは木管パートが随意である)を除き、フルート、オーボエそしてバスーンに付与された重要性という点で、他のすべての作品と同様である。

 また逆に、それは、最初の変ロ長調〔No.15 K.450〕を除き、最初の総奏がそれに続くものの概要提示というよりも序奏的なものであり、独奏提示部ではその足跡を追うのではなく、それから離れてしまうという点で他のすべてと異なっている。転調がないということでは、ト長調〔No.17 K.453〕と、そして特にすべての協奏曲の中で最も転調が多い変ホ長調〔No.14 K.449〕と区別される。

 最後に、最初の総奏において、数多くのモチーフの中で第2主題も、偽の第2主題も持たず、第1主題のリズムと旋律からほとんど離れないこと、そして2小節、4小節区切りが際立つ単一的なフレーズのつくりという点で、この曲は他に類を見ない。

 この比較分析によって我々がすでに抱いた印象が確かなものとなる。この曲は、同じくモーツァルト自身のために書かれた2つの協奏曲、変ホ長調K.450〔No.15〕とニ長調〔No.16 K.451〕に最も近く、他者のために作曲された他の3作品、変ホ長調〔No.14 K.449〕、ト長調〔No.17 K.453〕、そして変ロ長調K.456〔No.18〕からは最も遠くにあるのだ。

 

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