アンダンテであって、アダージョではない、モーツァルトはそう言っている(原注1)。以前のほとんどの協奏曲では、最初の2楽章の間には類似性よりむしろ異質性があった。さらに、この冬の3つの協奏曲、K.449〔No.14 変ホ長調〕、K.450〔No.15 変ロ長調〕そしてK.451〔No.16 ニ長調〕では、アンダンテのインスピレーションはさほどのものでなく、それらは感情および重要性においてアレグロとは対照的であった。しかし、この曲では、アンダンテは上記の2つの面でアレグロと対等、おそらくはそれ以上なのである。対照させるのとは大いに異なり、この第2楽章はアレグロの楽想を強調しつつ、またその本質的な要素を引き出しながら進行する。清澄さと悲しみの入り混じりがより著しく、光はより明るく、陰はより濃いのである。微笑みと涙は、実生活と同じく音楽の中でも非常に近く隣り合い、作曲家の魂の深みにあるこれらに共通した源がはっきりと表れている。

(原注1)1784年6月9日、父親宛ての手紙。

 始まりの主題は、モーツァルトの全作品の中でさえ、最も表現力に満ち、最も絵画的なもののひとつである。楽章の冒頭、異なった形の回帰、最後のその変形に至るすべてを通じて、この主題がアンダンテ全体を統べている。しかし、それはロンドにおいてリフレインが持つ意味とは異なり、聴衆がリフレインに連れ戻されるのではなく、主題が自ら時折出現することでその存在を気付かせるのだ(譜例159)。それは嘆きだろうか?それとも瞑想か? 確かにこれは問いなのだが、未完の問いなのである。砂漠で孤独な声が立ち昇るが、続いてそれがフルートに渡された時1第1主題は最初第1ヴァイオリンによって提示され、それに続いてオーボエ、フルートに渡される。これについては次の段落で再び叙述される。には、太陽に照らされた空虚な“午後”の光の中の孤独な牧神である。それは表玄関の上に彫り込まれた碑銘のように楽章を総括し、建物の中でも一定の間隔で繰り返し出現する。これはモーツァルトにあって、完結させるために、文芸の助け、言葉を必要とするように思える数少ない主題のひとつである(原注1)

(原注1)おそらく1787年のすばらしいアリア:K.528 Bella mia fiamma,addio! (私の麗しき恋人よ、さようなら!)の4分の3拍子のパートは、今見ているアンダンテとの類縁性を示している。そして、譜例159の情熱的な結尾は、“Resta, o cara! (恋人よ、留まって!)”に付けられたものだ。

 それに続くものは、その問いに答えるというよりも、問いの範囲を拡げている。それは長い連続した感情の吐露であり、沼地奥深くの孤独な牧笛思わせるオーボエの声で始まり、それにフルートが、最後にバスーンが加わり、三者は対話を行うが、その間弦は締め出されている。2つの上声部はゆるやかに、しなやかに絡み合い、織り交ざる。両者は、上辺では平穏に親しく交わり、バスーンの上昇旋律の研ぎ澄まされた装飾打音とオーボエのみがかすかに震える響きを持ち込むのである。しかし、モーツァルトの平穏はしばしば人を欺き、儚いのだ。彼の心の奥底には情熱が潜んでおり、このように牧歌的な時にでさえ、聴衆はそれをごく身近に感じ取るのである(譜例160)

 ホルンに支えられた2弦の3回の「呼びかけ」の間、ホルンおよび他の木管も保持音で支える。弦の呼びかけがその瞑想を遮るが、木管はそのままの姿勢を保ち、しなやかな、なだめるような旋律でそれに答え返す。ゲームは新たに再開され、木管はあたかも自ら決定的な言葉を発しようとしているかのようだ。突如空が雲で覆われ、牧歌は嘆きに変わり、深みから情熱が立ち昇り、すべてのものを圧倒する。ヴァイオリンがハ短調で嘆きの息を吐き、そこにバスーン、オーボエとフルートが加わるが、それはただの憂鬱のため息ではなく、心の奥底から発せられる悲歌なのだ。第1楽章のように(譜例153)、深淵はすぐに閉じられ、秩序は回復される(譜例161)

 そして今度はピアノが問いを投げかけ、それはテキストの変更なしに行われる。しかし、ピアノが付け加える注釈の何と異なることか!休止の後、それはト短調へと飛び込み、そして怒りで立ち上がる(譜例162)。並外れた感情の激烈さは、分厚い和音の存在によってそれが偽りでないことが証され、演奏者はそれに十分な重みを与えなければならない。しかし、この激烈さは、この楽章のすべての情感同様に、ただ過ぎ去るだけのものであり、すぐにそれはおさまり、すべてを支配する譜例160の静けさの中に姿を消していく。ピアノは単独で譜例160の(a)3これは第45小節以降のピアノのパッセージであるが、その位置と第45小節の3音は確かに譜例160の(a)のものだが、第46小節以降の下降音型は(a)によるものと言うより、独奏の独自の経過パッセージと見るべきである。で探求を続け、ト長調へと到達する。再び雲が幾層にも立ち込め、譜例161が新たな配役とともに風景の中に現れ(譜例163)、独奏は3連符で装飾されたコーダを付け加え、それが悲哀と厳しさを和らげる。ピアノが再び沈黙し、聴衆は新しい主題を期待するのだが、そうではなく、フルートが、オーボエとバスーンのみに助けられ、再度同じ譜例159の問いを投げかける。このようなオーケストレーションを耳にすると、何にもして18世紀の「牧神の午後」Apres-midi d’un faune という表現主題を思い起こす。

 さて、今度は、ピアノがどのような答えを出すのだろうか? ピアノはその答えを、はるか以前、6年前に遡る作品、“パリ”ソナタK.330に見出すのだ。それはアンダンテの中間部の間奏曲の始まりの主題(ソナタではヘ短調、ここではニ短調)なのである(譜例164)。それは勢いを込めて自らを主張するが、この活力のほとばしりに明日はなく、うねり、崩れたフレーズの中に砕け散ってしまう。これは、木管の短い問いと、それに対するピアノの自由なリズムのフレーズの回答によって継続されていく。木管の問いは何も装飾がないが、ピアノの回答は半音階によって分厚く装飾されている。遠隔調への転調4譜例164の直前のト長調から遠隔調の二短調に転じ、続くコデッタで再度ニ短調から遠隔調の嬰ハ短調に転ずる。したがって実質的に短い展開部をなすこのパッセージは前後を遠隔調で挟まれて挿入句的性格が強調される。それによりガードルストーンの言う「このパッセージ全体がひとつの主題」となるのである。が苦悩の感覚を強める。実は、このパッセージ全体がひとつの主題であり、ピアノとオーケストラに分割され(譜例8)、楽想は勝手気ままにさまよい歩く。動きが緩慢になりそうな時にはそのたびにフルートとオーボエが駆り立てる。ついに嬰ハ短調に至って停止し、このパッセージの間出番がほとんどなかった弦が忙しく働き、大急ぎで主調へ連れ戻す。

 これで4回目の問いの投げかけに対し、ピアノは譜例162の変形で答える。そして開始部の総奏が反復され、それにピアノは譜例160を付け加え5ここのガードルストーンの記述がやや曖昧である。4回目の問いの主題(第1主題)はピアノによって提示され、ピアノ自身が譜例162の変形されたもので「答える」。反復される開始部の総奏は、譜例160のみであり、ピアノが付け加える譜例160とは、単独ではなく総奏とともにその後半、音型(a)に基づくパッセージである。、いつものトリルの後、カデンツァに向けて64の和音で立ち止まり、木管により静かに導かれる。これはモーツァルトがアンダンテにカデンツァを挿入した最後の例である。2つ残されているが、出来が良いのは、譜例163の開始部に基づいた6新全集版に付録されているK.624 No25が譜例163の開始部に基づく部分があるが、これは偽作の疑いがあるとされている。、簡潔さゆえに刺激的な、短い瞑想である。

 終幕の数小節は、この楽章の中でも最もすばらしいものである。開始部の旋律を耳にするのは5回目で、それはフルートとオーボエによって歌われるが、それはもはや問いではない(譜例165)。そして、ついに答えを見つけるのだが、それは他でもなく(分かっているべきだったが、今となってはそれがきわめて当然に思える)譜例161の結論の暗鬱な旋律なのである。問いは打ち解けてかつ安らかにその中に姿を消していく(譜例166)

 このアンダンテは、分析ではほとんど把握できないのだが、今まで出会った中で最も綿密に編まれたものなのである。問いかけの主題の回帰によって区別された4つの部分において楽想は連続し、曲の実体が密接に結びつけられている7この楽章はガードルストーンも「構造」の章で述べているように、3部構成のソナタ形式であるが、提示部の最後に第1主題が挿入されることによって、変則的なものとなり、ここでは第1主題を区切りとした4部分のものとして分析されている。その変則性により全体は自由形式のファンタジア、あるいはソナタ・ロンド風なものとなり、第3楽章でソナタ・ロンド形式が放棄される要因のひとつになった可能性もある。各部分の冒頭(譜例162譜例164)はそれぞれ特徴的だが、その鋭い外形はそれが生み出すものの中でぼやけ、そしてその他の独立した主題は譜例161のみである。インスピレーションの流れは河のように途切れることなく、晴れたかと思えば雲に覆われる移ろいやすい大空の下でも常に色彩に満ちているのだ。木管が優勢であることが、楽章全体に明るく物憂い色彩を与え、リードの味わいとその奔流はピアノのアレンジメントの中で消えていく。冒頭の数小節、譜例160の数小節、譜例161でのいくつかの協働、展開部の最後を除けば、弦は伴奏にとどめられ、木管の揺れ動く音型(6~11小節、42~46小節、102~104小節)を支えるか、ピアノの怒りの旋律を強調する(譜例162)のみである。再び、我々は木管パートのオブリガート付き協奏曲を耳にしているのだ!

 これまでのモーツァルトの協奏曲のアンダンテで、これほど完璧な域に到ったものはない。哀感に満ちたもの、悲劇的なもの(原注1)さえもあったが、どれひとつとして、これほどの大きさと深さで魂の中へ入り込んだものはなかった。インスピレーションの質のみならず、その多様さも称賛に値するものなのである。

(原注1)ヴァイオリンとビオラのための協奏交響曲、K364〔変ホ長調〕。

 ここにおいて(とアーベルトはそのすばらしい協奏曲の研究の中で述べている)、モーツァルトの天才の炎が流行と時代の滓から完璧に伝統的な形式を解放したのだ。ヨハン・クリスティアン、それよりかなり少ないがフィリップ・エマヌエルに見られるギャラントの足跡がこれらの楽章では完全に取り除かれている。確かに、モーツァルトはここで牧歌や悲歌として表現されている古い概念にまだ固執しているのだが、音楽づくりは個人的で、ありとあらゆる慣例的なものは取り除かれている。一方、これらの楽章のすべてが、それと関連のあるモーツァルトのピアノ音楽のアンダンテにおけるように、瞑想と夢に満ちた旋律に貫かれており、抗しがたい音響と旋律の魅力と一体となって、モーツァルトの作品における非常に特徴的な様式に直接繋っていくのである(原注2)

(原注2)アーベルト:『モーツァルト』、Ⅱ、209ページ。

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