The Narrow Road of OKU 改訂の跡をたどる
PART Ⅳ(尾花沢~市振)
27.Obanazawa 尾花沢
【原文】
■尾花沢にて清風と云ふ者を尋ぬ。かれは富めるものなれども、志いやしからず。
【第二訳】
At Obanazawa I called on Seifū, a man of noble aspiration, rich though he is.
【最終訳】
At Obanazawa I called on Seifū, a man of noble aspiration, despite his riches.
GSQ
これはどちらでもいいように感じるのですが。
SUA
第二訳は「富者なのだが」という程度ですが、最終訳はより文語的で、「富者であるにもかかわらず」と反語の意が強くなっています。
【原文】
■都にも折々かよひて、さすがに旅の情けをも知りたれば、日此とゞめて、長途のいたはり、さまゞゝにもてなし侍る。
【第二訳】
Since he often visits Kyoto, he knew how it feels to be a traveler, and detained us for several days, showing every attention on us, out of sympathy for our long journey.
【最終訳】
He often visits Kyoto, and knows what it feels like to be a traveler. He detained us for several days, showering on us every attention out of sympathy for the hardship we had experienced on our long jyourney.
GSQ
第二訳は前の文とsinceでつないでいます。sinceは「理由」と習いました。しかし、この文は前の清風が金持ちだが志がいやしくはないということの理由を述べていません。キーンさんの間違いですか、それともsinceはもっと違った使い方があるのですか。
SUA
このsinceは「都にも折々かよひて」の部分ですから、理由でいのです。金持ちだが、志はいやしくないは前の文章で完結しています。ここでsinceを省いたのは、わざわざ理由であるとしなくても、文章の流れで理解できるためです。キーン氏は最終訳でなるべく日本語の語順に近づけようとしていますね。
GSQ
第二訳のhe knew how it feels like to beと最終訳のknows what it feels like to be、最終訳がいいようには感じるのですが、具体的にはなぜ改訂されたのでしょうか。
SUA
Whatは具体的、howは感覚的と言いますが、旅人であることはどのようなものか、旅人にはに何が必要なのかを具体的に分かっていたとしたのでしょう。
【原文】
■涼しさを我が宿にしてねまる也
【第二訳】
Suzushisa wa Making the coolness
Wa ga yado ni shite My own dwelling, I lie
Nemaru nari Completely at ease.
【最終訳】
Suzushisa wa Making the coolness
Wa ga yado ni shite My abode, here I lie
Nemaru nari Completely at ease.
GSQ
own dwellingとabode、どう違うのですか。
SUA
Dwelling=abodeで、違いはありません。強いて言えば、abodeはやや古い趣があるということでしょうか。
【原文】
■這い出でよかひやが下のひきの声
まゆはきを俤にして紅粉〔べに〕の花
蚕飼する人は古代のすがた哉
【第二訳】
第二訳ではこの3句は省略
【最終訳】
haiide yo Come out, come crawling out――
kaiya ga shita no Underneath the silkworn hut
hiki no koe The voice of a toad
mayu haki wo They make me recall
omokage ni shite A lady’s powder puff――
beni no hana These saffron blossoms.
kogai suru The people who tend
hito wa kodai no The silkworms maintain their
sugata kana Ancient appearance.
Sora
GSQ
翻訳とは関係なくなりますが、第二訳で省略されているのは、すべて叙事的な句ですね。「ねまる」の句だけだけが芭蕉の事なので、これで十分と判断したのでしょうか。最初の挨拶句が大切なのはわかりますが、こちらの方も清風宅の描写として大切なように思えますが。
SUA
単純に曾良の句までは必要ないと判断したのでしょう。
28.Ryūshaku-ji 立石寺
【原文】
■山形領に立石寺と云ふ山寺あり。慈覚大師の開基にして、殊に清閑の地也。
【第二訳】
In the domain of Yamagata is a mountain temple called the Ryūshaku, a place noted for its tranquilit
【最終訳】
There is a mountain temple in the domain of Yamagata called the Ryūshaku-ji. It is founded by the Great Teacher Jikaku, and it is a place noted for its tranquility.
GSQ
文の前半、there is に書き換えています。ニュアンスはどう変わりますか。
SUA
原文の「山寺あり」、つまり「あり」の部分のニュアンスをきちんと表現しているわけです。
GSQ
後半は省略されてたことを加えただけですね。
SUA
慈覚大師は省略してはいけないでしょう。
【原文】
■一見すべきよし、人々のすゝむるに依りて、尾花沢よりとつて返し、其の間七里ばかり也。
【第二訳】
People had urged us “just to take a look,” and we had turned back at Obanazawa to make the journey, a distance of about fifteen miles.
【最終訳】
People had urged us to go there “even for brief look,” and we had turned back at Obanazawa to make the journey, a distance of about fifteen miles.
GSQ
こう改訂されると、第二訳が「見てみよ」といったくらいの強い語調に感じました。最終訳は意味にも語調にも弾力が出ているように感じます。
SUA
“Just take a look”は「ちょっと見る」という感じで、見てくださいと勧めている感じがないですから、修正は当然です。
【原文】
■麓の坊に宿かり置きて、山上の堂にのぼる。
【第二訳】
After asking a priest at the foot of the mountain for permission to spend the night, we climbed to temple at the summit.
【最終訳】
After first reserving pilgrim’s lodgings at the foot of the mountain for permission to spend the night, we climbed to temple at the summit.
GSQ
「坊」が第二訳では坊様、最終訳で宿所なので、ここは誤訳修正ですね。
SUA
これはなかなかの不注意な誤訳ですな。さっさと訳したのでしょう。
【原文】
■岩に巌を重ねて山とし、松柏年旧り、
【第二訳】
Boulders piled on rocks had made this mountain, and old pines and cedars grew on its slopes.
【最終訳】
Boulders piled on boulders had created this mountain, and pines and cedars on its slopes were old.
GSQ
最終訳がこなれているように感じます。最終訳はなぜbouldersとrocksに訳し分けているのでしょうか。原文に近づけるためですか。
SUA
そうでしょうね。しかし、第二訳では散文的に単に岩が重なっているというだけですが、最終訳は「岩に巌を重ねて山とし」のニュアンスをできるだけ再現しようと努めています。
GSQ
後半、第二訳はgrowという動詞の使い方がちょっと変に感じます。最終訳はすっきりします。
SUA
「年旧り」は単純にoldで良いでしょう。
【原文】
■岩上の院々扉を閉じて、物の音きこえず。
【第二訳】
At the summit the doors of the hall were all shut, and not a sound could be heared
【最終訳】
At the summit the doors of the temple were all shut, and not a sound could be heared.
GSQ
SUさんは立石寺に行かれていますが、確か山上には建物があるのではないでしょうか、院々ですから。となるとthe doors of the hallではなくthe door of hallsの方がいいのではないでしょうか。最終訳も同じです。また、hallとtempleどちらがいいでしょうか。
SUA
「岩上の院々」となっていますが、原文の「岩上」を考えれば慈覚大師の御堂である「開山堂」である可能性もあり、とすれば、単数で、それもtempleが適切だと思ったのでは。しかし、「岩上」は山の上で、「院々」は複数と見るのが妥当でしょう。
【原文】
■岸をめぐり、岩を這ひて、仏閣を拝し、佳景寂莫として心すみ行くのみおぼゆ。
【第二訳】
Circeling around the cliffs and crawlings among the rocks we reached the main temple.
【最終訳】
Circeling around the cliffs and crawlings over the rocks, we reached the main temple building.
GSQ
原文では「岸」になっており、「崖」の間違いではないかと思いましたが、芭蕉の自筆本でも「岸」でした。芭蕉が意味を広く使っているという解説しているものもありますが、芭蕉が書き間違えたと考えた方がいいでしょうね。翻訳とは関係ないですが。キーンさんはちゃんとcliffと訳していますね。
SUA
「岸」には、「岩石または地などのきり立ったところ、がけ、きりぎし、山ぎし、岩壁」の意があるので、芭蕉が間違ったわけではありません。
【原文】
■閑かさや岩にしみ入る蟬の声
【第二訳】
Shizukesa ya Such stillness――
Iwa ni shimiiru The cries of the cicadas
Semi no koe Sink into the rocks.
【最終訳】
Shizukesa ya How still it is here――
Iwa ni shimiiru Stinging into the stones,
Semi no koe The locusts’ trill.
GSQ
さすがにこれだけの名句となると、訳もいろいろこだわらざるを得ないのでしょうね。どちらともいいように感じますが、最終訳の方が詩らしく感じますが。
SUA
最初の訳は「解釈」をそのまま英語にしていますが、最終訳は「ありのまま」です。どちらもあり得ると思いますが、キーンさんの最終的な境地は「ありのまま」なのでしょう。
(29.The Mogami River~31.Sakata は第1稿では省略)
32.Kisakata 象潟
【原文】
■高山水陸の風光数を尽くして、今象潟に方寸を責む。
【第二訳】
After having seen so many splendid views of both land and sea, my heart was stirred by the thought of Kisagata.
【最終訳】
After having seen so many splendid views of both land and sea, I could think of nothing but Kisagata.
GSQ
最終訳で切迫感が強くなったように感じます。
SUA
「行ってみたい」と切に思うのですから、「象潟の思いに心が騒ぐ」よりも適切かもしれません
【原文】
■酒田の湊より東北の方、山を越え、磯を伝ひ、いさごをふみて其の際十里、
【第二訳】
From the port of Sakata we journeyed to the northeast, climbing over hills, following along the shore, and plodding through the sand, a distance of about twenty miles in all.
【最終訳】
We journeyed to the northeast from the port of Sakata, climbing over hills, following along the shore, plodding through the sand, a distance of about twenty miles in all.
GSQ
改定部分は、前半と後半を入れ替えただけです。意味は全く同じだと思いますが、文章的に最終訳が優れているところがあるのですか。
SUA
後ろの文章への繋がりを重んじたのでしょう。Journeyは後ろの文章の内容を含むものなので。
GSQ
ploddingの前のandは、climingと並列になるべきなので、確かに無い方がいいように思います。
SUA
「山を越え、磯を伝ひ、いさごをふみて其の際十里」のリズムをなるべくいかすために、andによって文章を途中で切るのを避けたのでしょう。
【原文】
■日影やゝかたぶく比、汐風真砂を吹き上げ、雨朦朧として鳥海の山かくる。
【第二訳】
As the sun was sinking in the sky, a breeze from the sea stirred up the sand, and a misty rain started to fall, hiding Chōkai Mountain.
【最終訳】
As the sun was sinking in the sky, a breeze from the sea stirred up the sand, and a misty rain started to fall, obscuring Chōkai Mountain.
GSQ
第二訳は直訳的ですが、最終訳の方が朦朧の趣きがあるように思います。misty rainだけでは、雨が霧状というだけで、鳥海山を隠すような朦朧感が弱い感じがします。
SUA
それよりも、obscuringでしょうね。Hidingでは隠れてしまって、おぼろげに見える、朦朧の状態ではありませんから。
【原文】
■先ず能因島に舟をよせて、三年幽居の跡をとぶらひ、
【第二訳】
We put in first at Nōin Island, where we visited the remains of the hut where Nōin lived in seclusion for three years.
【最終訳】
We put in first at Nōin Island, where we visited the remains of the hut in which Nōin lived in seclusion for three years.
GSQ
島ではなく小屋だからwhereではなくin whichとしたのでしょうか。
SUA
whereが重なってはまずいので。英語は繰り返しを嫌います。
【原文】
■江上に御陵あり。神功皇宮の御墓と云ふ。寺を干満珠寺と云ふ。
【第二訳】
Near the water is a tomb they say is the Emperess Jingū’s, and the temple standing near it is called the Ebb-and-Flow-Pearl Temple.
【最終訳】
Near the water is a tomb they say is the Emperess Jingū’s, and the temple standing nearby is called the Ebb-and-Flow-Pearl Temple.
GSQ
どちらでも同じではないでしょうか。
SUA
Nearbyの方はより距離が近い感じですね。
【原文】
■此の処に行幸ありし事いまだ聞かず。
【第二訳】
I had never before heared that the Empress had come to this region.
【最終訳】
I had never before heared that the Empress had come to this way.
GSQ
これもregionのままでいいように感じますが。
SUA
「此の処」のニュアンスを生かすやや曖昧な言葉にしたのです。
【原文】
■いかなる事にや。
【第二訳】
I woner if it can be true.
【最終訳】
I woner if it is true.
GSQ
第二訳の方が神功皇后のことを聞いての驚きが感じられますが、どうでしょうか。
SUA
そんなことがあるだろうか(あるはずがない)とのニュアンスであれば、第二訳ですが、どうしてだろうという単純な疑問であれば、後者です。
【原文】
■此の寺の方丈に座して簾を捲けば、風景一眼の中に尽きて、南に鳥海、天をさえ〔へ〕、
【第二訳】Seated within a little room of the temple, I rolled up the bamboo blinds and took in all at once the whole spectacle of Kisagata.
【最終訳】
Seated within the priests’ quarters of the temple, I rolled up the bamboo blinds and took in all at once the whole spectacle of Kisagata.
GSQ
キーンさん、第二訳の時点では「方丈」を誤解していたようですね。「方丈記」の方丈で確かに狭い居所の意ですが、それが坊さんの居所に意味が転換している、原文はこの意味でなければならないと思います。
SUA
その通りです。この寺は曹洞宗ですね。禅宗では、方丈は住職の居室ですから。
【原文】
■西にはむやゝゝの関、路をかぎり、東に堤を築きて、秋田にかよふ道遙かに、
【第二訳
I could see the road to the west as far as Muyamuya Barrier, and to the east an embankment along the water, over which the road leads to Akita far in the distance.
【最終訳】
To the west, one can see as far as Muyamuya Barrier; to the east, the road over the embankment lead to Akita in the distance.
GSQ
原文は別に「路」を見ているわけではないので、第二訳は意味がずれますね。
SUA
芭蕉が実際に見たというより、展望を語っているので、I could seeではなく、one can seeが適切です。
GSQ
また堤が水に沿って、さらにその上に秋田への路、というのも随分、まどろっこしい訳に感じます。最終訳は実にすっきりとしているように感じます。
SUA
その通りで、最終訳は簡潔にまとめていますし、原文の感じをよく伝えています。
【原文】
■俤松島にかよひて、又異なり。
【第二訳】
In appearance Kitagata is much like Matsushima, but there is a difference.
【最終訳】
Kitagata resembles Matsushima, but there is a difference.
GSQ
最終訳ですっきりした感じです。「似ている」と言えばいいだけですね。
SUA
In appearanceなど余計です。
【原文】
■松島は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。
【第二訳】
Matsushima seems to be smiling, while Kisagata wears a look of sorrow.
【最終訳】
Matsushima seems to be smiling, but Kisagata wears a look of grief.
GSQ
原文のニュアンスから言えば、butよりwhileの方がいいように感じるのですが。
SUA
「一方で」と「しかし」の違いで、後者は対比の意が強く、こちらで良いと思います。
GSQ
いくらキーンさんが若い頃といっても、「うらむ」を「悲しむ」と間違えるとは思えません。わざわざsorrowとしたのには何か意味があったのでしょうか。また最終訳のgriefは原文のニュアンスに近いですか。
SUA
sorrowと griefでは悲しみの度合いが違い、前者は長い悲しみで、後者は「哀しみ」あるいは「寂しさ」でもあり、sorrowに比べれば一時的なものですから、「笑う」との対比ではgriefのほうが適切としたのでしょう。
【原文】
■寂しさに悲しみをくはえて、地勢魂をなやますに似たり。
【第二訳】
There is a sadness mingled with the silent calm of Kisagata as though of a troubled soul.
【最終訳】
There is a sadness mingled with the silent calm, a configuration to trouble the soul.
GSQ
原文は「象潟は」が省略されています。象潟の地勢が魂を悩ますのですが、第二訳はas thoughの前にbeingを補えばいいのだとおもうのですが、Kisagataはthe silent calmなのでその「地勢」ではありません。少々意味が違っているのでは、と思います。
SUA
第二訳は「悩む魂のように」となっていますので、誤訳です。「地勢魂をなやます」のですから、
GSQ
最終訳は、configurationで地勢になったのですが、Kisagataがないので少々わかりにくいように感じます。
SUA
前の文章を受けているのですから、ここにKisagataと入れる必要はなく、簡潔にするのが最終訳の目的でもあります。
【原文】
■象潟や雨に西施がねぶの花
【第二訳】
Kisagata ya KIsataga――
Ame ni Seishi ga Seishi sleeping in the rain,
Nebu no hana Wet mimoza blooms……
【最終訳】
Kisagata ya KIsataga――
Ame ni Seishi ga Seishi sleeping in the rain,
Nebu no hana Wet mimoza blossoms.
GSQ
確かに、濡れたミモザが開く、というのでは少々変に感じます。最終訳のblossomsは名詞ととっていいのでしょうか。これも動詞のようにも思えますが。そうだとこれも変な気がします。
SUA
これは当然名詞で、複数形です。Blossomは開花して間もない花の状態ですから、適訳です。芭蕉は開花した後の花を詠んでいるので、bloomはあり得ません。
【原文】
■汐越や鶴はぎぬれて海涼し
祭礼
象潟や料理何くふ神祭 曾良
蜑の家や戸板を敷きて夕涼み みのゝ国の商人 低耳
岩上に雎鳩〔みさご〕の巣をみる
波こえぬ契りありてやみさごの巣
【第二訳】
第二稿ではこのは4句は省略
【最終訳】
Shiokoshi ya Tide-Crossing――
tsuru hagi nurete The crane’s long legs are wetted
umi suzushi How cool the sea is!
Festival
Ksakata ya Kisakata――
ryōri nani kuu What do they eat at the feast
kami matsuri To honor the god?
Sora
ama no ya ya A fisherman’s hut――
toita wo shikite Laying out their doors, they enjoy
yūsuzumi The cool of evening.
A merchant from Mino Province Teiji
On seeing an osprey’s nest on a rock
nami koenu Did they vow never
chigiri arite ya To part till waves topped their rock?
misago no su The nest of the ospreys.
Sora
GSQ
これは第二訳時点では、大して重要ではないと判断したのでしょうね。
SUA
日本の短詩の外国語訳は難しいですよ。難しいから避けたわけではなく、第二訳の段階では必要がないと思ったのでしょう。
(33. Echigo Provinceは第1稿では省略)
34. Ichiburi 市振
【原文】
■今日は、親しらず子しらず・犬もどり・駒返しなど云ふ北国一の難所を越えて、
【第二訳】
Today we passed through the most dangerous places in the north country, known as “Parents Forget their Children,” “Children Forget their Parents,” “Dogs Go Back,” and “Colts Return.”
【最終訳】
Today we passed through the most dangerous places in the north country, known as “Parents Forget Their Children,” “Children Forget Their Parents,” “Dogs Turn Back,” and “Horses Return.”
GSQ
固有名詞なので大文字ですね。馬(駒)はやはりHorseですね。ほとんどが荷馬だったでしょうから。
SUA
前にもcoltが出てきましたが、仔馬を荷馬にすることはないですからね。日本の馬の体格は小ぶりだったが、かなり丈夫だったらしいです。鎧武者の重さは少なく見積もっても90㌔前後で、これを乗せて走るのは大変です。
【原文】
■一間隔てて面〔おもて〕の方に、若き女の声二人計ときこゆ。
【第二訳】
I could hear the voices of young women, probably two of them, talking in a room one removed from ours at the western end of the house.
【最終訳】
I could hear the voices of young women, probably two of them, talking in a room one removed from ours at the front of the house.
GSQ
第二訳はどこからwestern endと判断したのでしょうか。まさか「面」を「西」と読み違えたなんてことがあるでしょうか。
SUA
十分ありますね。第二訳の原本がどうだったか、わかれば面白い。漱石の方丈記訳にも同じようなミスがあったと思いますが。
【原文】
■年老いたるおのこの声も交りて物語するを聞けば、越後の国新潟といふ所の遊女なりし。
【第二訳】
The voice of an old man also joined in the conversation, and I gathered from their words that the women were prostitute from Niigata.
【最終訳】
The voice of an old man also took part in the conversation. I gathered from what they are saying that the women were prostitutes from Niigata in Echigo Province.
GSQ
joinedとtook part、ニュアンスが違いますか。
SUA
「加わる」と「参加する」の違いで、関与の度合いが違いますね。年老いたる男も積極的に語りに関わったのでしょう。
GSQ
Their wordsとwhat they are saying、改訳しなければなりませんか。同じようなものだと思いますが。
SUA
「物語する」はやはりより具体的なwhat they are sayingの方で、その感じが出るでしょう。
【原文】
■伊勢参宮するとて、此の関までおのこの送りて、
【第二訳】
They were on their way to visit the shrine at Ise, and the man had escorted them here, as far as the Barrier of Ichifuri.
【最終訳】
They were on their way to worship at the shrine in Ise, and the man had escorted them here, as far as the Barrier of Ichifuri.
GSQ
この改訂は、当然ですね。
SUA
「参宮」すなわち参拝ですから、worshipが当然です。
【原文】
■あすは古郷にかへす文したゝめて、はかなき言伝などしやる也。
【第二訳】
He was to return the next day, and the women were writing letters and giving him little messages to take back.
【最終訳】
They would be sending him back the next day, and they were giving him letters they had written and trivial messages to take back with him.
GSQ
随分いろいろと改められていますが、全体的により情感あるものになっているように感じます。
SUA
情感はともかく、より丁寧な訳になっています。Littleをtrivialとして「はかなき」の感じを出しています。
【原文】
■「白浪のよする渚に身をはふらかし、
【第二訳】
“We are wandering by the shores that the white waves wash.
【最終訳】
“We have wandered over the shores washed by the white waves.
GSQ
大した変更には感じませんが、by the shores が over the shoresに改訳されているのは、どういうニュアンスの変化が出るのでしょうか。
SUA
この場合のoverは経路を示すものですね。弧を描くような。wandered over the shoreで白波の世する渚を「ぐるりと」彷徨した、という意味になります。byだと、渚の側を通ったという感じ。まあ、ゆったりと歩いて回ったという感じを出したかったのでしょう。
【原文】
■あまのこの世をあさましう下りて、
【第二訳】
Daughters of fishermen, we have fallen to this miserable state.
【最終訳】
Like fisherwomen, we have dived to the depth of this world.
GSQ
『源氏物語』で夕顔が、「あまのこなれば」と言って自分の名や身分を明かしません。この「あまのこ」の使い方からすれば、これは父親の身分が低い(父が「海人」)、あるいは母が正妻でない身分の低い女(母が「蜑」)であるという意味で、自分が蜑というのではありません。芭蕉は古文の伝統に従った用語法をとっていると思います。これから判断すれば、第二訳のdaughters of fishermenの方が正しいのではないでしょうか。最終訳では自分が蜑に。それとも彼女らの現在の身分のことを「蜑の子のように」と表現したとキーンさんは考えたのでしょうか。
SUA
「あまのこ」は身分が卑しいとするのが妥当ですが、ここは海に近いこともあり、前の文の「白浪のよする渚に身をはふらかし」を受けて、やはり、海の仕事をするものとの関連も考えるべきで、いわばダブルミーニングですが、英語でこれを表現するのは無理で、どちらかを取らなければならない。しかし、第二訳の「daughters of fishermen」では、実際にこの遊女たちが海女の娘だと思えてしまいます。
GSQ
最終訳は蜑に例えたためにdiveという語を使ったのだと思います。自ら飛び込むイメージになりますが、これは訳し過ぎではないでしょうか。第二訳の「落ちる」の方が自然ではないでしょうか
SUA
「あまのこ」は「身分が卑しい者」であるとのみ考えれば、第二訳のfallen to this miserable stateと結ぶ第二訳も間違いではないでしょうが、Like fisherwomenの次に来るのは、dived to the depth of this worldでもおかしくはない。しかし、最
を身分が卑しいものと訳して、fallen to this miserable worldと結ぶのが妥当だと思います。
【原文】
■定めなき契り、日々の業因、いかにつたなし」
【第二訳】
What retribution awaits us for our inconstant vows, the sins we daily commit?
【最終訳】
What terrible karma accounts for our inconstant vows, the sins we have daily committed?
GSQ
第二訳ではretributionは「日々の業」の報いに読めますが、原文はそうでしょうか、よく分からないのですが。第二訳もどうしてkarmaが契りをaccount for するのでしょうか。これはどちらの訳も少々変に感じます。原文がわかりにくいこともありますが。
SUA
第二訳をそのまま訳すと、「定めなき契り、日々の業の報いはどのようなものだろうか」ということになります。これは明らかに間違いですね。最終訳は、「はかない契り、日々業を繰り返す、これは前世のどのような業の報いなのだろうか」ということで、簡単に言えば、「何でこんなことになっているのだろうか」という嘆きです。一般的な解釈に沿っています。
【原文】
■物云うをきくゝゝ寐入りて、
【第二訳】
These were the words I heard as I fell asleep.
【最終訳】
These were the words I heard before falling asleep.
GSQ
最終訳が正しいのはわかりますが、as I fellだとまずいです
SUA
第二訳だと、うつらうつらしながら聞いていたということになります。これだと聞いたことがうろ覚えで、定かではなくなります。
■あした旅立つに、我ゝゝにむかひて、「行衛しらぬ旅路のうさ、あまり覚束なう悲しく侍れば、見えがくれにも御跡をしたひ侍らん。
【第二訳】
The next morning, when we were about to start on our journey, the two women approached us in tears, saying, “The sadness of a journey to an uncertain destination leaves us very uneasy and depressed―may we follow behind you, even if out of sight?
【最終訳】
The next morning, when we were about to start out, the two women approached us, saying, “We feel so uneasy and depressed at the thought of the difficulties that would may await us on the way to an unfamiliar place that we would like to follow behind you, even if out of sight?
GSQ
第二訳のstart on our journeyは、これから旅に出発するように感じます。outだけだったら、朝出発するように読めますか。
SUA
start outのみで「これから旅に出る」の意ですから、短いものがいいです。
GSQ
第二訳のin tearsは本文の最後に「泪を落とす」とあるのを先に持ってきたものですが、次の本文通り最後にあるのが正しいように思います。第二訳の彼女らのセリフが少々他人事っぽく読めるのですが、それを補足しているのでしょうか。最終訳のセリフの方が、訴える力が大きいように感じます。
SUA
そうでしょう。第二訳だと「泣きながらやってきた」になってしまいます。話を始める前から泣いているわけで、これはおかしい。
【原文】
■衣の上の御情けに大慈のめぐみをたれて結縁せさ給へ」と、泪を落とす。
【第二訳】
Grant us this great favor, you who wear priest’s garments, and help us to attain the way of the Buddha.”
【最終訳】
Grant us this great favor, you who wear the habit of priest, and help us to attain the way of the Buddha.” They were in tears.
GSQ
第二訳のgarmentと最終訳のhabit、どちらがいいでしょうか。
SUA
garmentは単に服ですが、habitは僧籍にあるものの衣ですから、明らかに最終訳の選択が正しい。なにしろ、見てそれとわかるものですからね。
GSQ
「泪を落とす」は、前に述べたように、最終訳では本文通りです。
SUA
そうですね。話しているうちに感極まって涙を落したのでしょう。この遊女の個所は芭蕉の創作と言われていますが、なかなかに手が込んでいる。手が込み過ぎているから創作と目せられるわけですな。
【原文】
■「不憫の事には侍れども、我ゝゝは処々にてとゞまる方おほし。
【第二訳】
I answered, “I am very sorry, but we have a great many places to visit.
【最終訳】
I answered, “I am very sorry for you, but we must stop at a great many places.
GSQ
少々丁寧になった感じですか。
SUA
そうですね。特に、but以下は原文の意をよく伝えています。
【原文】
■只人の行くにまかせて行くべし。
【第二訳】
You would do much better to go along with some ordinary travelers.
【最終訳】
You’d better go along with some ordinary travelers.
GSQ
最終訳で十分ですね。
SUA
「行くべし」ですからね。「行きなさい」という程度で、much betterは余計です。
【原文】
■神明の加護、かならず恙なかるべし」
【第二訳】
You are under the protection of the gods, and I am sure that no harm will come up to you.”
【最終訳】
You will be under the protection of the gods. I am sure no harm will come to you.”
GSQ
確かに両訳を比べると、第二訳のようにandでつないだりthat節があったりすると、語り言葉という感じがあまりしません。最終訳がいいですね。
SUA
第二訳は、andを使って文を緩く繋げる場合が多いですが、だらだら感があります。原文の趣を伝えたいなら、短くすべきでしょう。
【原文】
■と、云い捨てて出でつゝ、哀れさしばらくやまざりけらし。
【第二訳】
With these words we left, but I could not help feeling sorry for them.
【最終訳】
These were my parting words, but for a time I could not shake off my pity for them.
GSQ
「云い捨てて」は第二訳でもいいように感じますが。
SUA
Parting wordsの方がいいですよ。まさに別れの言葉で、「言い捨てて」の感じです。
GSQ
後半は、最終訳が哀れがより切に感じます。第二訳はちょっと雑ですね。
SUA
「哀れに思う気持ちがしばらくやまなかったことだ」という意であれば、もちろん、最終訳が適切です。第二訳は単に「哀れに思えてならない」という程度です。
【原文】
■一つ家に遊女もねたり萩と月
【第二訳】
Hitotus ya ni Undet the same roof
Yūjyo to netari Prostitutes too were sleeping――
Hagi to tsuki The moon and clover.
【最終訳】
Hitotus ya ni Undet the same roof
Yūjyo to netari Prostitutes were sleeping――
Hagi to tsuki The moon and clover.
GSQ
これは単なる抜けを補足しただけですね。
第二訳がこれだけだったのか、あるいは抜粋なのかわかりませんが、アンソロジーはここで終わりです。しかし、以上見て来たように、最終訳とくらべるとまだまだ訳が甘いところが多いように感じました。最終訳の前書きで、キーンさんが、「徐々に原作に近づく」ことを目標にしていると言っていますが、最終訳ではかなりそれが実現できているのだろうと感じました。どうでしょうか
SUA
そうですね。いくつか指摘しましたが、例えば、語順も原作に近いようにアレンジして、簡潔に説明的になりすぎないように注意を払っています。また、第二訳ではおざなりだった感情表現についても入念な訳を心がけています。