Ⅱ 我々は再びアンダンテで、同じ構想の雄大さ、同じゆったりとした旋律、さらに、それぞれ別な部分に分裂することなく相互に溶け込む主題の一様な動きにも出会うのである。また、穏やかでかつ高遠なインスピレーションにも出会うのだが、この楽章にふさわしくより優しいもので、ここには頻繁な短調の侵入が第1楽章に落とした影は見当たらない。
その形式は展開部が数小節の推移部に縮減されたソナタ形式1この曲の展開部については後に「余るほど十分な推移部」と述べているように、数小節ではなく15小節である。であり、これはモーツァルトの生涯のすべての時期で使われる形式なのだが、特にこの数ヶ月間モーツァルトはこれに惹かれていたようである。というのも、彼の作品中最も雄大な3つの作品でこれを使っているからで、すなわちそれらはこの協奏曲および翌春の2つの五重奏曲〔No.3 ハ長調 K.515、No.4 ト短調 K.516〕なのである。初期の協奏曲にも数例見出されるが、偉大な協奏曲の時期でこれ以外の作品はK.459〔No.19 ヘ長調〕のみである。
このアンダンテは前後半の2つの部分からなり、後半は表面的な変更を加えたのみで前半を再現するのだが、主要な主題を含む総奏がそれに先行している。それはグループとなった短いフレーズで開始されるが、数小節の間それらの意味は判然としない。それらのグループの中では反復と変奏が大きな役割を果たす。第3と第4小節は第1と第2小節の変奏、第7と第8小節は経過部に変更を加えて第5と第6小節を反復する。第9と第10小節は同じフレーズを異なった音程で提示し、第11小節はそれを反復して結尾のカデンツへと繋げる。全体は2小節単位のフレーズで構成されている。しかし、それらに吹き込まれた感情は同じものであり、昇り下りを繰り返すその形が非常に似通っているために、ただひとつの歌を作り上げているとの印象を与える。その中ではリズムが微妙に変奏されており、結尾の旋律に付け加えられた3番目の小節がその均一性を破る時に至るまで単調さをまったく感じさせない(譜例362)。最初の4小節はヴァイオリンが重なるが、その他の小節ではその仕事が木管諸楽器に任され、モーツァルトは音色に非常な配慮をしながらそのそれぞれに、異なった主題の異なった断片を手渡していくのである。
主題が終わるやいなや、第2ヴァイオリンの32分音符2原文では16分音符(semi-quaver)となっているが、32分音符である。明白な誤りであるので、本文を修正した。のさざめきが、新たなセクションを開く。音を強弱させながら、それは4小節の間続く。その形は聴衆を3台のピアノのための協奏曲〔No.7 ヘ長調 K.242〕へと連れ戻す。そこでは、同じ場所で非常によく似たモチーフが出てくるのだ(原注1)。これを背景に、第1ヴァイオリンのピアノ(p)で始まり全オーケストラのフォルテで終わる断片3譜例363の第2小節第3拍から第3小節目第1拍にかけての断片であるが、譜例には示されていないが、後者が全オーケストラのフォルテで奏される。が立ち上がる。その前の断片と同じように反復され、そして長い下降音階によって引き伸ばされ、それがピアノ(p)で第1ヴァイリンのG弦の最低音へと導かれるが、そこで、フルートとオーボエの吹き口から再びひとつの旋律が上がり、ただちに結尾となる(譜例363)。そこで直ちに最後となる旋律が3回にわたって対話の形で展開され、第1ヴァイオリン、ホルンとバスーンが他の弦に答え、それに続きフルートにバスーンが重なって最後の仕上げを行う(譜例364)。
(原注1)原著90ページ参照。
この楽章の根本的要素はこのようなものである。前後半のそれぞれで、ピアノが入ることによるスコアリングの変更を加えて、この総奏の大半の部分が再現される。第1主題ではホルンのみが元のパートをほぼ変更なく保ち、他の楽器は独奏に締め出されてしまう。ピアノは独自の主題を譜例362と譜例363の間に挿入するが、そのリズムは他の部分と同じく多様でしなやかだがより旋律的であり、旋律よりも音塊が支配的な総奏とは対照的である。ピアノはこの独奏に飽き足らず、譜例363を引き取り、3台のピアノのための協奏曲での仲間の例に勇気づけられ、弦にあれほどふさわしいものであったさざめく伴奏を盗み取ってしまうのである。さらに、右手がトリルを持つ主題に専念している間に、左手で低弦パートまで奏しようとするが、そのため左手のパートがやや重くなってしまう。最後の断片は1小節引き伸ばされ、譜例364に代わる新しい主題へと直結する。これは確かに旋律家モーツァルトの最も奇妙な所産のひとつである(譜例365)。それは主題というよりも輪郭である。明らかにモーツァルトは普通でない何かを表現したかったに違いなく、聴衆は最初、ベートーヴェンの後期の弦楽四重奏曲のある一節を聴いた時不意に感じるような称賛とも言いたい驚きを経験する。しかしフルートとオーボエ、続いてバスーンがその跳躍を加減して4跳躍幅が10度から6度に縮減されている。、それを反復すると、この不可解さは消え去ってしまい、ピアノはその上に音階とアルペジオの優美な飾りリボンを投げかけるのである(譜例366)。
トリルとハ長調の終止が、この提示部の終わりを告げる。それと再現までの間には、展開部の代わりに、余るほど十分な推移部が繰り広げられ、ハ長調の五重奏曲〔No.3 K.515〕のアンダンテと同じようにヘ長調へと導かれる5推移部でヘ長調に転じるのではなく、推移部が後半部冒頭ヘ長調へと導いて行うのである。。五重奏のものはとりとめのない旋律により水平的な表現の印象を与えるも楽章だが、そのムードはこの曲のアンダンテが音塊の中で垂直的に表現しているものである6五重奏曲K.515とこの協奏曲の表現するムードについては、前者の説明に使われたdiscursive、という言葉に表されているものであろう。辞書的には「明確な目的も持たずに、多くの事柄を論ずること」すなわち訳に使った「とりとめのない」という意味である。この観点から両者を見ると、五重奏曲では第1ヴァイオリンの第1主題から始まり、多くの異なった短い旋律的モチーフが連続する。第1ヴァイオリンを第1ビオラが異なったモチーフで受け、それがまた次のヴァイオリンのモチーフを誘発するという、水平的なベクトルを持った曲調となる。しかしそれはK.361の13管セレナーデのアダージョや、No,18ピアノ協奏曲でガードルストーンが指摘する序破急的な時間の区切りのない(durationles)、非山場型のような「特定の目的に向かって進む」性格のものではない系統のものと思われる。一方この協奏曲のアンダンテ推移部は、ピアノの数小節を除けば旋律らしい旋律はないものの、オクターブの跳躍、4重和音、ホルンの保持音、ピアノの不定型の伴奏、木管の対位法と、じつに多くの要素がちりばめられ、それが響きの音塊として、すなわち垂直的なベクトルを持って続くのである。しかしそれはヘ長調へ推移回帰するということ以外の特別な目的に向かっているわけではない。おそらくはこういうことを言っているものと思われる。。この推移部は協奏曲としては長めで、楽章の7分の1を占めている。
最初は弦で、続いて後半ピアノによって補強されるホルンによるハ音の保持音がその基盤である。それは、演奏会の始まる前にオルガニストがオーケストラの調弦のために出すイ音によって皆が即興で演奏するその様を理想的な形で具現化しているのである7現在のオーケストラではオーボエの奏するイ音で調弦を行うのが普通であるが、瞬時に調律が不可能なピアノでの協奏曲などの場合はコンサート・マスターがピアノで行う場合もある。オルガンの場合もそれと同様にオルガンに合わせた調律が行われるはずである。ここではホルンの分厚い“基盤”の響きをオルガンに喩えて表現したものと思われる。。この基盤の上をピアノは楽し気に堂々と戯れる(原注1)。この楽章の密度の高い楽想は、この軽快な活力の表出に続く和音で最も雄弁に己を表現するのである。ここで、一旦は四散させられた試みが再び集中を見せる。総奏が和音を導き入れることで、ピアノがそれを反復する時にそれがオーケストラのパッセージを変奏しているかのように響くのである。この独奏楽器、それは1780年の歌うことのできるピアノであり、その本来の個性を取り戻し、自在な3連符の旋律にその力を漲らせ、その広げた翼は高音部をすべて覆いつくし、またその勢いは溢れ出て再現部の最初の小節へと流れ込んでいくのである(譜例367)。
(原注1)最初の小節〔60小節〕の大きな跳躍は独奏者によって埋められるべきである。ライネッケが編集した版では、付点4分音符と8分音符の上昇の連続音が指示されているが、しかし、同じようにオクターブの跳躍8ここでの跳躍幅は2オクターブである。をそのままにし、下降の方、すなわち8分音符と付点4分音符の方に入れることも可能である。
再現部は独奏主題を省略し、主調に留まっているが、その他は独奏提示部の前半を忠実に再現する。しかしながら、鍵盤の限界によって、モーツァルトは譜例365の細部を変更せざるを得ないのである9提示部ではハ長調に転じていたが、ここはヘ長調に戻したため最高音が4度高くなり、当時の狭いピアノの鍵盤では元の跳躍幅の音が演奏できず、それを下げざるを得ないことを言っている。。楽章は譜例364で終わるが、木管がそれを提示し、そしてピアノと他の諸楽器が元の楽譜通りに反復する10ピアノの右手が反復する跳躍音を加えるなど、完全には元の楽譜通りではない。。結尾の32分音符の上昇音階はピアノのみで奏される。
このアンダンテがどのような特性によってアレグロと同じインスピレーションに依って立つことを示すのかを見てきた。しかし、ある特徴はこのアンダンテ独自のものであり、それらがこの楽章をモーツァルトの最も独創的な緩徐楽章のひとつとしているのである。大きなうねりにも関わらず、その楽想は集中度の高いものであり、それは第1主題と独奏主題の絶え間ないリズムの変化の中に見て取れ、また、その要素が常に2回あるいは3回繰り返される非常に短い断片の、時にエピグラムのように簡潔なその他の主題の中にも現れる。聴衆はその中に、それ自体を語ることが難しいある種の深い感情が存在することに気付くのだ。そして良い演奏とは、この楽章を理解しやすいものにすべきであることは当然ながら、さらに深い感情それ自体を語ろうと努とめるその気持ちを保ち続けているものがそうなのであろう。
このアンダンテは、モーツァルトの多くの他の楽章に比して、一見してその形式が把握しにくく、リズムが変化し続け、際立った旋律的な主題がないことも手伝って、演奏者の意欲をそぐ恐れがある。急ぎ過ぎないことが最も大切であり、これはアンダンティーノよりもアダージョに近いものなのだ(原注1)。その威厳と雄大さを表現できるかどうかはその速度が均一に保たれるかどうかにかかっている。わずかながらも速度を上げることが許される唯一の箇所は独奏主題だが、譜例363のさざめく主題に戻る時には元の速度に戻らねばならない。第1主題の下降する8分音符を急いでしまうことは特に悲惨な結果を招き、それは何よりも持続的であるべきなのだ。最も難しいのはそれぞれのパート全体のまとまりを維持することであり、これが克服できれば、後はたやすいのである。
(原注1)私は♪=100を推奨したい11第1楽章で取り上げた演奏について、この楽章冒頭の速度を見ると、エドウィン・フィッシャー(クリップス指揮)♩=88 、バレンボイム(クレンペラー指揮)♩=92 、ペライア♩=89 、デレク・ハン♩=96、などであり、大半はガードルストーンの推奨速度よりも遅くなっている。。