協奏曲第13番(No.17) ト長調(K.453)(原注1)
1784年、4月12日 完成
アレグロ:4分の4拍子(C)
アンダンテ:4分の3拍子(ハ長調)
アレグロ:プレスト 4分の4拍子(C)―4分の2拍子
オーケストラ:弦、フルート、オーボエ2、ホルン2、バスーン2
(原注1)全集版番号で第17番
ウォルフガングのレオポルド宛の手紙に繰り返し出てくる友人やパトロンの中に、ザルツブルグからの移住者でプロイヤーという名の家族がいる。その父親はウィーンにおける大司教の代理人であった。娘はバベット1正式名はBarbara Ployerで、Babetteは愛称と思われる。といい、玄人はだしのピアニストで、若き作曲家の生徒のひとりであった(原注1)。モーツァルトは彼女のために変ホ長調の協奏曲K.449〔No.14〕を作曲したが、協奏曲ト長調〔No.17 K.543〕を作曲したのもまた彼女のためであった。
(原注1)178ページ、注1参照
1784年のこのすばらしい四旬節に、すでにモーツァルトは演奏会のために3曲の傑作を次々と生み出していたが、その収穫はまだまだ終わっていなかった。後年さらに豊かな開花の年もあるのだが、1784年はモーツァルトが最も数多くの第一級作品を作曲した年なのである。この年の2月から5月の間ならびに9月から12月の間に、6曲の協奏曲、2曲のソナタ、四重奏曲と五重奏曲がそれぞれ1曲ずつ、次々と間をおかずに作曲されたが、それらがすべて真正の傑作なのである。
12番目の協奏曲〔No.16 K.451 ニ長調〕は3月22日に完成した。そして、モーツァルトはピアノと管楽器のための五重奏曲〔K.452 変ホ長調〕に着手した。他の多くの変ホ長調の作品に近いインスピレーションを持つこの作品(原注1)は、変ロ長調の協奏曲K.450〔No.15〕と同様に自信に溢れ、優美である。これは“半分は聴衆のために、半分は彼自身のために”書かれた“社交音楽”であり、ピアノ・パートは同時期の協奏曲に、木管の書法に関しては以前のすばらしいセレナーデに対応する複合体である2K.452、ピアノと木管のための五重奏曲についてガードルストーンはcompositeという語を使っているが、compositeというのは、同じ構成要素が対等に相互のネットワークによって構造化されているものである。K452のことをこう呼ぶのは、木管各楽器それぞれとピアノが、独自性を保ちつつ対等の関係を持って一つの複合体を形成していることからだと思われる。実際にK452では、ピアノは専制君主ではなく、曲の半分以上は伴奏を行っている。これは同時期の協奏曲のピアノとオーケストラの関係に対応し、また一方K.452の木管はそれぞれ対等で、すべてが主題に関わり、モチーフの順次受渡しなども行っている。これは少し前の変ホ長調K.375の木管セレナーデで実現されたものであり、両者の対応関係が見られる。ここではcompositeに「複合体」という訳語を宛てた。。全体としてそれはコンチェルタンテな特徴を持っており、主役たちがそれぞれ順番に前面に出て、より厳密な四重奏曲のスタイルというよりも弦楽三重奏曲K.563〔弦楽三重奏のためのディベルティメント 変ホ長調〕を思わせる気前の良さで、主題を次々に受け渡していく。第1楽章にK.450〔No.15 変ロ長調〕からの主題が存在すること3原文はin its first movementがどちらに係るか曖昧であるが、類似の主題は、K,450、K.452ともにその第1楽章の第2主題である。、またロンドで全員が参加するオブリガートのカデンツァが存在すること、これらはこの作品がいかに協奏曲に近いかを示しているが、モーツァルトはこの頃非常に“流行の巨匠”であり、聴衆のことで頭が一杯であったため、室内楽を作る時でさえもお気に入りのジャンルの言語で思考しているのだ。同様の影響が、その秋のハ短調のソナタ〔No.14 K.457〕のアンダンテにも見て取れる。
(原注1)K.452
作曲家はこの五重奏曲に非常に満足している。
私についていえば、これは私が人生の中でこれまでに書いた最良のものだと思っています(と、4月10日に父親へ書いている)。これは異常なほどの成功を収めました。
五重奏曲を書き終えると、モーツァルトは直ちにもうひとつの協奏曲に着手した。このシーズンに書かれた4曲の協奏曲のうち2曲が他人のために作曲されたに違いなく、物惜しみしないモーツァルトならではと言えるだろう。それらの曲の個性は彼自身のために書いたものと異なっているものの、断じて劣ったものではない。モーツァルトは、自らの才能を誇示するために書いたものと同様に、若い生徒のために作曲した作品にもたっぷりと己を注ぎ込んだのである。
ト長調の協奏曲〔No.17 K.453〕は、変ロ長調〔No.15 K.450〕やニ長調〔No.16 K.451〕、ヘ長調〔No.19 K.459〕と比肩する傑作であるが、それらの間の違いは大きく、それはモーツァルトの才能の多様性と豊かさの証である。広大さ、喜びと自信に満ちた壮麗さは、もはやここでは支配的ではないが、インスピレーションはより親密かつより繊細である。ニ長調〔No.16 K.451〕やヘ長調〔No.19 K.459〕については何とかできるのだが、この作品を一言で言い表すのは不可能である。それは悲しみと幸福が交ざり合ったものであり、それが生み出す感情はより漠然としたもので、また日常的な生活感情により近いものである。毎日のように、我々は、ニ長調の協奏曲〔No.16 K.451〕の“誇り”を、ヘ長調〔No.19 K.459〕の“祝祭性”を感じるわけではない。しかしト長調の作品〔No.17 K.453〕のより複雑な撚り糸は我々の生活のほぼどの瞬間にも入り込んでくる。これは、モーツァルトの最も霊妙な協奏曲のひとつであり、Delectable Mountain〔バニヤンの『天路歴程』で天国を望む山〕の野原のように牧歌的な旋律を持ち、聴衆をベートーヴェンの、ともにト長調の最も霊妙な協奏曲と同じくト長調の最も愛らしいヴァイオリン・ソナタへの近くまで導く(作品58〔No.4 ト長調〕、96〔No.10 ト長調〕)(原注1)。これを歓迎しよう。ただし、ただひとつの考えが我々を捉え、支配するような時にではなく、それよりもっと頻繁に起こる、気分が常に変化する様々な要素の複合体で、ひとつひとつの要素の力が等しく、現れては強まり消えてしまったりしながら、全体の感情の調子にいかなる変化も生じない、そのような時にこそ相応しい。
(原注1)ベートーヴェンがインスピレーションの表出のためにト長調を選択したのは、この協奏曲の影響ではないのかと思ったりもするが、ここには間違いなく同じインスピレーションが存在しているのである。さらに入り込めば、ベートーヴェンの作品にモーツァルトの精神的所産を見出す。ベートーヴェンのハ短調協奏曲〔No.3 作品37〕とモーツァルトのハ短調〔No.24 K.491〕の血縁関係は音楽評論ではありふれた話である。ただK.453が見過ごされていたために、音楽家がベートーヴェンの作品58との類縁関係に気付くことができなかったのである。シドニー・ニューマン教授が私にモーツァルトの作品の65~8小節と、ベートーヴェンの60~2小節(第1楽章)が似ていることを教えてくれた。両方ともその旋律は総奏開始部の結尾部に属するものである。ベートーヴェンのものはモーツァルトのものの変奏である。
Ⅰ ここでまた、第1楽章は行進曲のリズムで開始されるが、K.451〔No.16 ニ長調〕のがっちりした力強さと何と異なっていることか! それはもはや軍隊そのものではなく、単なるその影であり、第1主題の15小節にその姿が垣間見える。ヴァイオリンによって提示される軍隊の姿は幻に過ぎず、また第2ヴァイオリンとビオラの“ドラム”もまた幻である。再び幻が現れるが、今度はやや実体を備え、フルートとオーボエの軍笛が、モーツァルト的な絶妙なやり方で、主題の各半分を締めくくる(原注1)。主題は、わずかずつだが活気を増し、勢いを強めながら、その最後の音を反復して主和音で終わる4本段落冒頭「主題の15小節」とあるが、主題が主和音で終わるのは第16小節第1拍で、次の推移部(譜例149の最初の音)と重なっている。ガードルストーンが次に「完結するように思われる」と言うのはこの主和音のことである。なお、次の段落最初の一文「神秘的に始まった~完結するように思われる」は最初の15小節の再度の説明である。(譜例148)。
(原注1)木管の羽ばたきはここではおどけの意図のものであるが、同じ羽ばたきがコシ・ファン・ツゥッテ第1幕のグリエルモの同じくト長調のアリア:“Non siate ritrosi(つれなくなさらないで)”の最後のところで出現する。
神秘的に始まったお気に入りのギャラント様式に、フォルティッシモ5新全集版ではフォルテである。が続き、そして完結するように思われる。が、全オーケストラが接続句(譜例149)を奏し、音階のコデッタが続き、聴衆は通常の騒々しい属和音での結尾を待つ。しかし、モーツァルトはここでは、最後の協奏曲〔No.16 K.451 ニ長調〕と同じく形式上の一体性に非常に関心を抱いているので、イタリア・オペラのスタイルの堅苦しく没個性的な障壁を設けることにもはや満足できない。結尾を置くかわりに、オーケストラはわずかに変更を加えたコデッタを反復し、そして16音符の音階を省略し、木管がアルペジオの主題を付け加える(譜例150)が、これは後に独奏とオーケストラとの楽しいインタープレイを提供することになる(譜例158)。カデンツで停止するかと見せかけたところで62小節のカデンツをさらにバスーンが続け、フルート、オーボエが加わり、その最後の音が第2主題の第1音に重なる。、この新たな主題はさらに続いて、第2主題へと橋を投げかけるのだ。
第2主題はあえぎ、足をひきずりながら現れる 。短調か、長調にすべきか? 最初はどちらか決めかねているが、結局長調を選ぶ。弦に委ねられ、この楽章の大部分がそうなのだが、この第2主題も笑顔と涙の間で逡巡がちに揺れ動く。木管が新たに役を引き受け、弦がそれにエコーする(譜例151)。それは譜例148の生れ変りであり、ハイドンおよびクレメンティ、さらには後のベートーヴェンと同様に、モーツァルトにおいて、より初歩的かつ非有機的な対照の原則に取って変えようとする、同一作品における様々な主題間の近縁性の最も興味深い例のひとつである。これらの小節は、モーツァルトの才能の真髄を総括するもので、いかなる説明よりも明らかにその魅力を表現し、その秘密が何かを示している。また、次の問いへの最良の答えでもある。モーツァルトは他の誰にもできなかった何を創造したのか?
これに続くものもまた非常にモーツァルト的である。K.449〔No.14 変ホ長調〕に匹敵する唐突さで、ト長調から変ホ長調7遠隔調への転調である。へと飛び込み、この突然の変化と最初の小節の後の爆発的なフォルテが、洗練され優美な見せかけの下からすぐにでも噴き出ようとする隠された力を現わす(譜例152)。騒ぎはすぐにおさまり、そしてすぐに主音の保持低音8ここはト短調に戻っており主音、すなわちト音の保持低音である。が始まり、その上を弦が一瞬だが瞑想的に覆う(譜例153a)。1オクターブ下で低音が再び開始され、ヴァイオリンは瞑想に戻り、ユニゾンの木管の対位旋律が一瞬、果てしないものの姿を顕わにする(譜例153b)。数小節の制約の中で、モーツァルトは大げさな表現方法に頼らず、いとも簡単な和声的な手段によって、聴衆を宇宙の果てへと連れて行き、天国の扉が開くのを見せてくれるのである。そしてその直後に、慣習的な音型に覆われた輝かしく親しみやすい主題が総奏部を結ぶ。
モーツァルトの“大協奏曲”期の作品9モーツァルトはNo.15~19を自ら”大協奏曲“と呼んでいる。が各々画一的ではないことは、いくら強調してもし過ぎるということはない。一列に並ぶことなく、次々と、同じ構成を取りながら、ほぼすべてがそれぞれ別の道を進んでゆく。K.450〔No.15 変ロ長調〕はその開始部の総奏で楽章の素材のほんの一部を提示するのみで、その後の独奏でピアノはほぼ全く新たな主題とパッセージを展開し、その間オーケストラは沈黙する。一方で、K.451〔No.16 ニ長調〕は、アレグロのほぼすべての内容を滔々と語り、独奏は、何も省略することなくまた何も付け加えることなく、与えられたものをただ装飾するだけで、オーケストラと協働し続ける。そして、この協奏曲〔No.17 K.543 ト長調〕は2つの手法を合体させている。K.451のように独奏の提示部は総奏の大部分を反復し、その間諸楽器とピアノは休みなく協働するが、K.450同様に、そこでは重要な新しいパッセージを導入する。
ピアノは第1主題の出だしに上昇音階を付けるが、これは独奏の導入の最も簡潔な形である。ピアノは主題を装飾し、わずかに引き伸ばして提示する。そして木管がたった今行ったように10ガードルストーンのdid just nowは、直前のことも、かなり前の場合もあるが、ここでは総奏提示部開始時のことで、75小節も前のことである。それに答える。弦が譜例149を開始し、独奏が装飾を挿入し、それが華麗なパッセージへと展開していく。ニ長調の独奏独自の主題は、ひとつ前の協奏曲〔No.16 K.451 ニ長調〕よりも重要性が高い。長くうねりながらも、それは全体として5度の範囲内にとどまり、常動曲のように頻繁にその出発音へと戻る。それは反復され、その後半は木管との対話へと広がっていく(譜例154)11譜例154は、上段がピアノ、下段高音部がオーボエ、低音部がファゴットである。最後の小節にはフルートとホルンが加わるが、省略されている。。
この幸福な風景の上を突如一片の雲がよぎる。譜例154の音型(a)が現れ、フルートからオーボエへと受け渡されて12最初はオーボエからフルートに、さらにオーボエ、フルートと交互に受け渡される。さまざまに短調をさまよい、一方バスーンはそれに対位旋律を、またピアノが下方へのアルペジオでそれに伴奏をつける。これは自由で特別な目的のない和声の動き自体が旋律線以上に大きな意味を持つモーツァルト的な魅力的展開である(譜例155)。
その霊妙でおぼろなメランコリー、きわめて“前ロマン主義的”なそれは、この協奏曲のおもてを過ぎていく他のムードと同様にはかないもので、技術的な腕前よりも、メゾチント彫り版画のように繊細な感受性と鋭敏な判断力が求められる。それは第2主題(譜例151)の逡巡の中でしばし生き残り、確信に満ちた結末の中へと消えていく。第2主題自体は2回にわたって提示されるが、最初はピアノのみで、次に木管によって1オクターブ上で提示される。そして弦は最初の総奏の時と同様それらを伴奏し、そしてピアノがエコーを引きつぐのである(譜例3)。
ここで、インスピレーションの流れが断たれ、ヴァーチュオーシティのみが物語る。いかにも大人しめな技巧であり、この作品は生徒のために書かれたものなので、モーツァルトは自分のために“難しい”協奏曲をとって置くのである。それでもなお、ここで技巧が侵入することは注意に値する。提示部の終わりというのは、自由が与えられその音楽の本体から苦労なしに離れることができると認められた場所である。K.451〔No.16 ニ長調〕は、華麗なパッセージがその流れを途切れさせないだけでなく、さらに際立たせながら、それに先立つものを継続させ、展開することができるかを見事に示している。ここでは、これらの短いピアニスティックな小節は、技巧性を必要としないこの協奏曲の精神にとって異質な挿入物なのである。この曲の繊細で陰影に満ちた特性は、優しさと逡巡の中に表現され、譜例15113譜例151(第2主題)は第1提示部であり、その第2提示部での再現、特に後半の譜例3に示された部分のことである。や譜例155の独奏と総奏のインタープレイなどがそれを完璧に表現しているのだ。技量のひけらかしはこれとは相容れないもので、分解された音階の出現14譜例3直後の第153~が分解された音階、さらに両手によるアルペジオ、上昇音階が続く。は、そのためにこの協奏曲が慣習の犠牲となる、取るに足りない装飾であり、楽想の流れを阻害するのである。
譜例149の推移の主題が短縮されて終結の音型と接続し、再び幻想的展開(原注1)のモーツァルトに出会う。予期されたカデンツは下属和音で宙ぶらりとなったまま、弦がおどけた無邪気で小さなモチーフを囁き、そして何の準備もなく(今ニ長調にいるのだが)、変ロ長調の和音が響く。ピアノが再び入り、突然われわれは地上のいかなる物からはるかに隔たった空の中を進むのだ。20小節ほど独奏は3オクターブのアルペジオで上昇し、また下降し、一方フルート、オーボエとバスーンは影のようにそれに順番に付き従う。極めて多様な調を通って、絶えず転調を続けながら、彷徨える魂のように、あちらこちらへと、その美しく休むことを知らない魂が己の道を追い求める。モチーフでも旋律でもなく、これは、純粋な動きそのもの、これ自体が己の目的であり、存在理由なのである15譜例156の上段の第4小節のファゴットⅠと下段2小節目のオーボエⅠは記譜よりも1オクターブ上である。ここでの木管はファゴットⅡ→ファゴットⅠ→オーボエⅡ→オーボエⅠ→フルート(譜例156に続いて)と上昇する4音音型が順次接続的に受け渡されていき、第196小節から繰り返される。これが木管セレナーデ的なムードを醸し出すのだが、面白いことに同じ技巧が若干の変化をつけて、第2楽章の譜例160での上昇受渡し、第3楽章の譜例172などで見出される。また同様の効果が譜例158のコデッタのカノン処理の中などに、また第2楽章第86から89小節では第1ヴィイオリンのみで同様の受渡しの模倣まで行っている。モーツァルトの他の協奏曲には見られない特徴であるが、譜例156の記譜の仕方や最後のフルートの省略などから見ると、ガードルストーンはさほど注目はしていないように思われる。。それはこう言っているかのようである。“私は天国へ昇ろう、私は地獄へ落ちよう、朝の翼をつけて、ものすごく深い海の中にとどまっていよう”16詩篇139:9。ピアノと木管の上昇音階、下降音階が入交り、かつ統合されていることを、この詩で喩えているが、詩は対で上へ下へと矛盾した表現を行っているのである。
(原注1)原著P.200参照
最も形式にこだわる音楽家であるモーツァルトが、ここでは最高に自由である。彼の音楽には通過する定点が確かに存在するが、その間では、いかなるロマン主義音楽家もそれを超えることがない空想とともに高く舞い上がるのだ(譜例156)。
曲の進行の中で、ロ長調で立ち止まり、オーケストラの大部分がその力をホルンとオーボエに委ねて休息し、一方ピアノは2声部の走句を奏で、その中からひとつの旋律がかすかな光を放つ。それはK.451〔No.16 ニ長調〕の同じ位置でのパッセージを想起させるが17K.451での譜例125のシンコペーション主題が展開部で出現することを言っているが、「同じ位地」は展開部ということであり、展開部内での位置は大きく異なっている。、この協奏曲の展開部はその協奏曲〔K.451〕のものに極めて近いのである。モーツァルトの作品すべての中で最も印象的なもののひとつである天才的な転調によって(譜例157)、ピアノが再びハ短調で導き入れられる。そこでピアノが小さな5つの音のモチーフでゲームを開始し、弦が控えめな役割を演じる。
他のところ(原注1)で述べたことだが、モーツァルトは、協奏曲の再現部の変奏を常に追求していた。この協奏曲では、最初の総奏と最初の独奏18第1(総奏)提示部と第2(独奏)提示部のことである。の要素を融合させ、また新たな素材を持ち込んでいる。第2主題を導く役割を果たした推移の音型、譜例150は、今やあたかも主要主題であるかのように振舞い、再現部を通してそれぞれ異なった形で3回現れる。それは当然の権利であるかの如く第2主題を導き入れるが、その推移音型は独奏主題のために不可欠に思われて来、第2主題と同様に独奏主題の登場も告げ19本文では出現順序が第2主題が先で独奏主題が後と読めるが、第2提示部同様、独奏主題が先、第2主題が後である。譜例150は第1、第2提示部ともに第2主題を導き入れるものであったが、その扱いはともに6小節におよび重きが置かれている。再現部はその重要性が増してきたために独奏主題にさえも譜例150による導入が必要に思えてくる、ということである。、そしてついに、最後の数小節において主和音で停止した時に、それはまた戻って来て、決定的な言葉を発することを強く求め、その言葉によってこの楽章が我々の記憶にとどめられるのである。それらは単なる反復ではない。2回目の出現は新たな展開であり、フルートとバスーン、それにピアノの間で行われるカノンの対話なのである(譜例158)。
(原注1)原書P.23
その他の面では、この第3の独奏20再現部のことである。は、主にその管弦楽的なパッセージの長大さで第1の独奏と異なっている。しかし、ピアノがトリルを終えた途端に驚きが待ち構えている。主和音で閉じず、変ホ長調の和音で停止するのだ。そして、オーケストラは最初の総奏の“飛び込み”21ト長調から変ホ長調への“飛び込み”である。、すなわち譜例152を繰り返し、64の和音22和音の第2転回形、日本では慣例的に六四ではなく四六の和音と呼ばれる。とカデンツァへと導く(原注1)。この楽章はその最も個性的な2つの主題、新たな結尾の主題が付け加えられた譜例153の謎めいた保持低音、そして、譜例150が主要主題に格上げされ、この楽章の最終的な印象を与えるべきものと定められたのである。
(原注1)この楽章のためにモーツァルトが書いたカデンツァはどれも面白くない。独奏者が、モーツァルトのものの幅の中で、何よりもピアノ(p)で終わってオーケストラの柔らかい入りに連結するということを守って即興を行うことを推奨したい。