Ⅲ モーツァルトは生粋な歌の書き手であり、その作品は魅惑的で表現豊かな旋律が連続するものとみなすのが常である。彼はベートーヴェンと対比され(この点以外でも他の非常に多くの点で)、ベートーヴェンは旋律の才能の程度では劣ってはいるが構築力でははるかに優れたものを持っていたと考えられている。モーツァルトは己のほとばしる旋律の水門を開くだけで満足しているのに対し、ベートーヴェンは明らかに見込みがない主題を使い巨大な建築的全体効果を作り上げたとされるのだ。
このような判断は、ベートーヴェンに関しても極めて不十分であり、モーツァルトについてはまったく当を得ていない。もちろんモーツァルトの音楽には多くの表現豊かな旋律があるが、それらが主要作品の本質的なものを構成するとは到底言えず、それらが重要なものではない楽章も数多いのである。この協奏曲のフィナーレもこのような例である。分析することによって、その中には3つあるいは4つの主題があるが、旋律的には相互に際立ったものでなく、旋律音型よりもリズムが目立ち、その主題や多かれ少なかれ直接それらから派生したピアニスティックなパッセージによって、楽章全体が構築されているということが判明するのである。旋律が連続している形跡を聴きとることはできない。
このロンドには他の2つの楽章のようには旋律的に関心を引くものがなく、また第1楽章の勝ち誇った力強さも、第2楽章の感覚に訴える魅力もない。しかし、このロンドには、アレグロの大胆な構造と雄大さがあり、アンダンテの推移部でもその何かが再現されていた。主題が取るに足りないにも関わらず、これは、音楽形式の成長に対するモーツァルトの主要な貢献であるソナタ・ロンドのきわめて記念碑的な例のひとつなのである。
ソナタ・ロンドについては以前の章(原注1)で詳しく述べた。もう一度ここで言わせていただきたい。フランスの舞曲「ロンドーで」(en rondeau)から派生し、モーツァルトによって、特に協奏曲において非常な広がりを持って扱われており、彼がその実質的な創造者なのである。しかし、未だに現代の著作の中で、モーツァルトのロンドは、ABACAという形式、すなわち2つのクプレを持つロンドであり、ベートーヴェンがこの形式を拡張し、再現部的なやり方で第1クプレを反復する第3クプレを付加してより有機的なものにし、それによってソナタとロンドをみごとに融合させた、と記しているのを目にすることもあるだろう。モーツァルトのソナタ・ロンドの数は非常に多く、また多くの楽章の内容が実に多彩で、その多くが真に重要な作品の結尾を締めくくるものであって、このような断定は言語道断かつ嘆かわしい。もちろんベートーヴェンは、ワルトシュタイン・ソナタ〔No.21 ハ長調 作品53〕のもののようにスケールの大きなソナタ・ロンドを残したがより規模が大きいという点ではモーツァルトのものよりも異なっていても、より有機的な構造や厳密な統一性を持つかというとそうではない。
(原注1)パートⅠ、2
私は別のところでこのフィナーレの構造的分析を既に行った(原注1)。リフレイン(譜例144)は弦とフルートで提示され、ピアノは総奏が第1クプレを開始した後で初めて入ってくる。このようにクプレが開始された後に入るのはこの曲独自のもので、通常、独奏はその登場をクプレの開始と一致させるのである。新たな主題は、リフレインの場合と同様に、主和音の上に作られているという事実で第1楽章のいくつかの主題と共通している。クプレの第2主題は、イ長調であるが、その音階の4度の幅の中に止められており、最初の音で恥ずかし気なためらいを見せるが、それから全速力でその狭い進路を結尾に向かって突き進む。それはフルート四重奏曲ニ長調〔No.1 K.285 ニ長調〕のロンドのリフレインを思い起こさせ、モーツァルトの同じ調の作品を結びつける様式と素材の密接な類似性をここでも示している(譜例145)。
(原注1)51,52ページ〔原著〕
リフレインは、最初ピアノによって繰り返され、その後半を変奏するのだが、オーケストラは変奏することなくそれに続く1この第2リフレインの冒頭は次の形で開始される。①ピアノがリフレインの前半を変更なしに再現(繰り返す)する。②オーケストラがリフレイン前半を変更なしに繰り返す。③ピアノがリフレインの③ピアノがリフレインの後半を変奏して繰り返す。④オーケストラがリフレインの後半を変更なしに繰り返す。 ガードルストーンは②についての記述を略し、①③④が連続するように述べている。。それに続いて独奏によって提示される短調の主題によって第2クプレが始まる。
ここまでは、第1楽章のアレグロに比べ総奏の占める役割はさほど大きくない。総奏がピアノに先立って第2主題を提示することは事実であるが、それはもっぱら独奏をその軽快な進行で支援し、取るに足りない音型で伴奏することにほぼ甘んじているのだ。しかしソナタの展開部に相当するこの第2クプレでは、総奏の独奏との関係は第1楽章における関係にかなり似ているのである。
クプレはロ短調の主題で始まる。ピアノがそれを2回反復するが、そしてそれ以上何も語られない。さあ、ここでこの楽章の中で最も興味深い瞬間が訪れる。ロ短調のままで、弦が譜例145を回想し、ピアノがすぐさま同じように回想する。この主題はどちらの対抗者のお気に召さない。結局、対抗者たちはリフレインの主題の中に探しているものを見出し、それによってゲームを開始する。しかし最初にピッチを定めなければならない。ロ短調ではあまりにも陰があり暗すぎるので、ト長調に入りフルートがその調でリフレインの最初の4小節を反復する。しかし、第9交響曲のフィナーレの冒頭を一瞬思わせる突然さで、滑稽なほどの調に転調するが、ピアノは同意せず、2小節のアルペジオの小節で、ホ短調へと持っていく仕事を実行する2ロ短調の流れの中でフルートが突然にリフレインのモチーフをニ長調で奏するのを、第9交響曲のフィナーレの各楽章主題順次回想と遮断に喩えているが、ロ短調とニ長調では、長短反転に加え、関係調にもならず、そのあまりの唐突さと転調の極端さにピアノが合意せず、ロ短調から属調であるホ短調に移しなおしていることを言っている。この2つの文は、すべて第9交響曲のフィナーレに擬えて書かれている。「ピアノは同意せず」とは第9交響曲の「この響きではない」のパロディ的解釈、「短く遮断され」は第9フィナーレの各楽章冒頭主題の遮断に喩えているが、ここではフルート、オーボエが提示するリフレイン主題が順次、ピアノの2小節アルペジオで遮断される。また「全員を満足させ」は第9交響曲では「この新しい響き」を見出したことのパロディ的解釈となっている。。今度は、オーボエはピアノによって短く遮断され、バスーンが同じ小節をハ短調で繰り返す。新しい調は全員を満足させ、ゲームが続けられる。最初の4小節に減縮されて、当該の主題はオーボエからフルートへ、フルートからオーボエへと、ボールが弾むように、陽気にからかえば、しなやかにかわし返しつつ、受け渡されていくのだ。演者たちは静止することなく、そのたびに少しずつ高い領域に上っていき、つまり、音階が上がって3最初にオーボエで提示された基本モチーフをフルートはその第2小節で半音上げ、これが同時に奏されるオーボエの第4小節目の音を半音引っ張り上げる。これが順次続けられてオーボエとフルートは半音階的に上昇していく。一方、オーボエ、フルートはそれぞれ全音階的に上昇していくという、技巧的な芸当を行っている。ピアノはオーボエの第2、3小節を主和音のアルペジオで、フルートの第2、3小節を属9和音のアルペジオの伴奏を付ける。、最後に少し前にいたところ、ホ短調で終わるのだ。弦はただの傍観者で、演者たちにその高さの近くで寄り添うが、ピアノは輝かしい、主和音と属9の和音が交互するアルペジオの注釈で伴奏し、非常に雄弁なために、その間彼らを沈黙させてしまう(譜例146)。
今や行くべきところに行くときが来た。全員が全力を尽くし、オーボエ、フルート、ピアノ、ヴァイオリンと、そのたびに少しずつゴールに近づき、最終的にヴァイオリンが何度か試みた後でそこに到り、そこで弦とピアノが一緒にリフレイン全体を完全に繰り返すのである(譜例147)。
このパッセージはすべて、ひとつ前の協奏曲〔No.15 K.450 変ロ長調〕のロンドの展開部に、またその協奏曲の独奏と総奏の協働の最もすばらしい部分と同等の価値を持っている。
第3クプレは、再現部にあたるものだが、第1クプレを重要な変更を加えることなく繰り返す4第3クプレで再現されるのは第1クプレの全体ではなく、第1主題の2回目の提示以降、すなわち、第28小節以降である。。カデンツァは、最初の独奏5第1クプレの短い総奏による導入後の独奏フレーズである。と同様の始まりかたをするが、両手の交差による分解された和音のパッセージと譜例145の模倣的展開からなり、簡潔で均整がとれている。最後のリフレインが現れ、比較的長いコーダは8分の3拍子であり、この拍子は、K.449〔No.14 変ホ長調〕の8分の6拍子に比べ拍は弱いがより躍動的であり、これが最後まで保持されるのである。このコーダは第2主題を再び持ち込み、ロンドは、主和音に基づいてオーケストラ全体がユニゾンで奏する旋律で終結する。
この協奏曲に接することが遅れたことが、却って我々にその偉大さを確信させることになった。最初のアレグロは、協奏曲に限らず、モーツァルト全ての交響的作品の中で最も印象的な楽章のひとつである。それは、モーツァルトの中に、ひとつの高尚なアイデアに霊感を受け、雄大かつ無駄なく整った統一物を建てることができる偉大な創造者が存在すること示している。20世紀の初頭、この近代協奏曲の父の手になる協奏曲のほとんどすべてが知られていなかった。両大戦間の年月に、それらのかなり多くの作品が全集版で刊行されるのを目の当たりにし、オーケストラにおけるその生命を取り戻し、今ではすべてが録音され、数回録音されたものもある。40年前に比べて、今日、モーツァルトはかなりよく知られているが、その復活は不規則なものであり、復活した作品の重要性を鑑みても完全なものとは言えない。数ある第一級の作品の中にあって、この協奏曲は、発見され認められることを待っている。それがあまり遅れないことを期待しようではないか。